嫌われる勇気

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最近、個人的に茂木さんが面白いんですよ。

あの脳科学者の茂木健一郎さん。もじゃもじゃ頭の。

以前何冊か著書を読んだことがあるしテレビでも見たことがあるんだけど、テレビの茂木さんってテレビ用に大人しくしてるんですね。

YouTubeとかで見ると熱い上に、時には多動かと思うようなスイッチが入る時がある。

もう創造性がとまらない!って感じで、本当に楽しそうに脳を使っている。

社会学者の古市憲寿さんが一緒にパネリストとして出てて最後のコメントで、「僕も落ち着きないですけど、茂木さんがほんと落ち着き無くてびっくりしちゃいました」って(笑)

人が喋ってるのに横で変な運動をしたり。

本人曰く、人の話を聞くだけだと脳の負荷が足りなくて他のことやりたくなっちゃうって、分かるけどやな…(笑)

でも見てると気持ちが自由になるんですよね。

楽しそうだし情熱が凄いし、知の高揚感みたいなものが伝染してくるんです。

で、面白いのが、

古市さんの前で日本の社会学は学問として終わってるって言ったり、

運営元の社長である藤田さんの前でabemaTVをディスったりする人なんだけど。

そして、最近では「日本のお笑いはオワコン」 「国際水準のコメディアンとはかけ離れている」とか言って、炎上して批判を浴びたりしていたわけですけど、

別の所(藤田さんの前でAbamaTVをディスった席)でこういうことを言ってるんです。

「僕、高校の時ニーチェを読んで二十歳の時ミルトン・フリードルマン読んだのがものすごく影響を与えていて、

僕の人生の一貫したミッションはより自由になりたいってことなんですよ。僕はリバータリアンなんです、簡単に言うと。

で、30代、40代、50代と常にその命題との格闘だったと思うんですよ。

意外とこれは難しくて、例えばさっき(藤田さんの前で)abemaTVをディスってましたけど、

「藤田さん、abemaTV素晴らしいですね~!」って言うのも自由じゃないんですよ。でもここで藤田さんと決別してしまうのも自由じゃないんですよ。

僕さっき地上波テレビをディスったけど、付き合ってるんですよね。出演の依頼があれが出るんですよ。

大学もディスってたけど大学で教えたり博士課程の学生の指導をしたりしてるんで。

これは特に日本ようなピア・プレッシャー(仲間からの圧力)の高い社会で生きているみなさんによく考えてもらいたいんだけど、

例えばマーケットに合わせたものを出すって儲かるだろうけど、レッドオーシャンでブルーオーシャンに行けないですよね。

だからと言ってマーケットとあまりに違うものを出しても空振りになって、会社傾きますよね。

そこの微妙な間合いの中に自由ってあると思うんですよ。

僕はずーっとそれを探ってきているような気がします。

最近モハメド・アリさんが無くなって動画が色々出ていて見てたんですけど、1分位こうやって相手の打ってきたパンチを全部かわすみたいな動画がありましたよね。

モハメド・アリさんて結局ヘビーウエイトで物凄いパンチもあったけど、相手のパンチを受けないということで、試合を(コントロールしてきたんですね) そうするとものすごく相手のパンチを見ないといけないわけじゃないですか。

なんか自由ってそういうところに似ていて。

中略

俺はいまだにそこを探ってる気がするですよ、50になりますけど。

こうして不規則発言をしますよね。田中さん(司会者)とかすげー焦ってると思うんですよ。

不規則発言しちゃうんだけど、やっぱりその時の皆さんのリアクションとか世間のいろんなこととかを見ながらパンチを受けないように必死になってかわしているところがあって、そこの間合いの中で…以下略」

なるほどなぁと思うんです。

僕は日本的な礼儀作法とか文法を重んじる中での自由というものを見てるわけだけど、そして確かに礼儀作法が無意識に自動的に扱えるようになると変な攻撃は受けずにストレスなく、気遣いからは自由でいられるわけだけど、

それによって損なわれているものって大きいのかもしれないなと。

変な音を出して他者と不協和音を作る中にある自由は、刺激と創造性が高そうだなと、新しい可能性を感じたのでした。

少なくとも僕が意識したことのない種類の自由だなと。

その後、お笑いをディスった問題でワイドショーにまで取り上げられるようになったわけですが、

茂木さんはその後AbemaTVに出演してウーマンラッシュアワーの村本さんと2時間に渡って、日本と海外のお笑いについて語ってるんですね。

その後、松本人志のワイドナショーにも出演して、パンチを受けたりキャラを使ってかわしたりしている。

批判した対象から逃げずにむしろ近づいていくんですよね。

これが彼の言う間合いであり、その中に現れてくる自由と刺激(ヒヤッとするような緊張感も含めて)の価値は、彼にしか分からない質のものだろうなと思うんです。

だから、今回の茂木さんの言動を見て「やっぱりああいう発言はダメだよね…」というのは違うんですね。

それだと逆なんです。より強いピア・プレッシューの中に自分を絡め取ってしまう。

批判しておいて決別もせず屈託なく近づき対話を深めたり、パンチをよけるつもりがめった打ちに合ったり、謝って反省したりしながらもまた節操もなく自分の意見をツイートし続ける茂木さんの在り方に、自由と希望を見ないといけない気がするんですね。

僕は100万部を超えるベストセラーとなった「嫌われる勇気」にはあまり感銘を受けなかったのだけど、茂木さんの行動の中に立ち現れている嫌われる勇気と自由にはとても励まされるんですよね。

心を開放してくれる感じがするんです。

ここ最近の僕は人生が安定し過ぎて、飽きてしまったような妙な感覚に包まれていたのだけど、

今後進むべき僕の未開の地は相手のパンチの間合いや、パンチを打った時に生じる懐のスペースあたりにあるんじゃないかと考えたら、なんだか元気が湧いてきたんです。

もっと打たれないとね。

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

あるべき場所にあるように

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気持ちの良い天気ですね。

寒かった『大寒』が終わり今日から『立春』

トイレに置いてたまに読んでる二十四節気の本も、今日から最初のページに戻ります。

七十二候では『東風氷を解く』

東から吹く風が湖の氷を溶かして行く。

素敵なイメージですね。

ここからは春の気配が少しずつ見えてきます。

まだしばらくは寒いでしょうけど、お日様の陽気にも春の気配が感じられますね。

嬉しいものです。

僕の断捨離プロジェクトも3分の2ほどが終わって、気持ちがどんどん軽くなってきています。

この清々しさが何ものにも代えがたく良いです。

物が無くなって部屋が整理されたりスペースが生まれるのも気持ちが良いけど、それだけではないこの心地良さの源を探っていくと、

ずっと滞って使われなかった物がまたお金になって血液のように流れ出すことや、

物達がまたそれを求めている人の元に行き、本来の能力を発揮して物自身の天分を全うできるように促すことがそもそも、徳の高い行為なんだということが分かります。

自分の滞っていたエネルギーも流れだして清々しい上に、徳のエネルギーも流れ込んでくる。心地よい。

逆に言うと、目的もなく使わないままに置いておくことは、本来物たちが発揮でたであろう才能と貢献を自分のもとで捨てているようなもので、もしかすると小さな不徳なのかもしれません。

力を無駄に捨てないために、それが求められている場所へと流す。

そうすることが自然の摂理なのでしょう。従うととても気持ちが良いのです。

仕事においてもそうですね。

自分や周りの人たちが持てる才能を滞らせずに、それぞれの能力を最大限に発揮して輝かすには、どういう配置がベストだろうか?と、そのバランス点を見出すように采配していくと、一番上手くいきますね。

自分の人生の方向性を決めるときも同じで、自分の能力や才能が今最も求められている場所はどこで、

「どこに時間や労力を注ぐことが世の中の価値を最大化させるだろうか?」

という問いをもって、その場所に自分を差し出していく。

そうするとスルスルと自分も周りも発展へと運ばれていきます。

自分と周りの人や物の能力や才能を無駄にせず、流れを止めず、出し惜しみもせずに、あるべき場所に流すだけで物事は随分上手くいくようです。

そんな風に感じているので、最近の僕はもう自分自身の個人的な夢や目標など、どうでも良くなってきました。

「なんでもするから、資質に合った場所で思いっきり使ってください。そこに運んでください。ガンガン貢献しますから。」

そんな祈りが心の中に響いていれば、それで良いですよね。

あとは、力を抜いて天の采配に委ねる。

力まない。握りしめない。

もっと物も夢も手放し、身軽になって進んで行こうと思います。

断捨離宣言

さあ、今日は仕事がキャンセルになり、予定は夜のみ!

長い間、やるやると言いながらやってなかった断捨離を決行しよう。

なぜこんなに断捨離が進んでいないのかというと、理由はもうそれはそれは明白で、

捨てればよいものを、売ろうとするからである(笑)

原因はそのセコイ気持ちである。

いや。日本人の素晴らしき精神、世界が賞賛してやまないMOTTAINAI精神ゆえである。

まだ使える物や本たちを捨てるのはもったいない。

物たちだって本たちだって、まだ役立てる能力を持っていながら命を絶たれるのは辛いだろう。可哀想ではないか。こっちだって忍びない。

じゃあ、箱ごとブックオフに持っていったらええやん?

え?

いやぁ…それは…。

1冊10円とか嫌やもん…(笑)

だから値段がつくものは1冊1冊amazonで売って、値段が500円以下のものだけ、ブックオフに持っていこうとルールを決めて、いざ決行!

となるはずが、なかなか身体が動かない…。

そう、これが世界中の誰の心にもあるMENDOKUSAI精神である。

MOTTAINAI精神とMENDOKUSAI精神が絶妙な均衡を保つことで、1ミリも動きが生まれない。

これがここ数ヶ月、僕の内面に起こっていたことである。

でも、先日面白いことを思いついた。

それは、

最悪捨てようと思っていたこの子たちを全部コツコツと売り払って、そのお金を全てミニ株に変えよう!というものだ。

ミニ株とは、1単元ごとに買える株のこと。

例えばソフトバンクなら今1株8980円で買える(通常であれば89万8千円)

サイバーエージェントなら2850円。

小僧寿しなら94円

キムラタンなら7円(!)である。

1株ずつであれば、物を売った数万円でもたくさんの好きな会社の株を買える。

だから、少年がトレーディングカードを集めるみたいに好きな会社の株を買い集めて、収集癖を満たしてニヤニヤしつつ、ひたすら放置!である。

最初から捨てるかもしれなかった物たちなので、気兼ねなく放置である。

それがどうなるのかはもう、庭に植えた柿の木が育つのを待つような気持ちで、気長に見守っていこうと思う。

ということで、このプロジェクト。

断舎離したそのお金でミニ株買って柿の木のように見守ろうプロジェクト。

(D)断舎離したその(O)お金で(M)ミニ株買って(K)柿の木のように見守ろう(P)プロジェクト。

略してDOMKP

ドムカプ…。

いや語感悪いしそこはどうでもええわ(笑)

今日から始動である。

どうぞ見守っててください。

目標は20万円。

あ、それであえてこれから成長する新興株ばかり買うのも面白いな。

あ、今後は全てにおいて、何かを買っていらなくなったものは売る→ミニ株という流れを作るのも面白いな。

いらないものを小さくても資産に変える。

いいね。

そして一株だけしか持ってないくせに株主風吹かせて、セブンイレブンに行って、「おー。商品開発頑張ってるなぁ。」とか上から目線で語る。

これだ!(笑)

これこそが、個人でも物を売ることができるようになった現代の、そして個人でもネット証券やミニ株によって簡単に資本家になれるようになったこの時代ならではの豊かさではないか。

商品たちは押し入れにストックされるのではなく、再度個人市場を流通し、そしてお金に変わり資本となりストックされていく。

これこれ。新しい豊かさだ。

やる気が出てきた。頑張ろう!

美女と愛嬌と世界の収支

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東京での仕事を全て終えて新幹線の中で食べる弁当を選びに選んで、大阪へと帰る新幹線に乗り込む。

切符を確認しながら、自分の座席を見るとなぜか既に座っている人がいる。

ここ僕な気がするんだけど…?って表情で訴えると、中国語で何かを言っている。

「そうなんですよ。ごめんね~。本当はそっちの席なんだけど…」的なジェスチャーとともに切符を見せてくる。

ああ、なるほど、友達3人で並んで座りたいから、こっちと変わって欲しいってことか。

OK!  良い旅を!って気持ちになったのは、この中国人の心地よい人柄と徳がにじみ出ていたから。

不思議とこちらも悪い気がしない。

なるほどなぁ。人柄と愛嬌こそが世界共通のパスポートだよな。

可愛くお願いすると、結構いろんな所まで行ける。

とか考えているうちに新横浜に着き、

僕の横に美女が座る。

おおー。

世の中の収支は合うようにできている。

うん。

今日は良い日だ(笑)

AIに仕事を奪われた未来

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最近AIが仕事を奪うというテーマだったり、AIが人間の知能を超える『シンギュラリティ』なる言葉が話題ですね。

でも、その人間を超えることの論拠って、人間の頭脳の総体をAIの知能が超えるということだけど、

そもそも、それって人間というものの本質を「知性」や「脳」だと捉えているってことですよね。

だとすればその人間観がそもそも貧しいのではないか、と思うんです。

人間の本質は脳ではない。

人間は、脳や手足を持った「肉体」という道具に宿った「霊魂」です。

その霊と魂から「良心」や「意図」や、「芸術」の「真善美」という感覚であったり「反省」する力が現れてくると言われています。

脳はそれを外に出力する際に使う道具なんですね。

書家の書いた「書」には、その手の動きに宿った「氣の流れ」が保存されています。だからそれを見ると、ピシッと心が整うような迫力と正解感がある。

その形はAIにもコピーできるけど、新しく「氣」を扱って書を書くことはできるだろうか? AIが作り出したアートに、見る者の姿勢を正すような「氣」や迫力は宿るだろうか。

そういうところに人間を人間たらしめる本質があるように思うんですね。

だからAIが人間の道具としての機能を超えたからといって「人間そのもの」を超えたことにはならないし、そもそも機能を超えるということであえれば、それは既に十分に成されていますよね。

人間の走るスピードなんてはるか昔に自動車に負けているし、腕力だって機械に負けてるし、脳の情報処理能力も計算スピードも記憶力もコンピュータにはかなわない。

などと、そんな話を友人としていたら、

「違うよ。私がAIを怖いと言ってるのは、AIを持ったロボットに霊魂が宿るようになるのが怖いってこと。」

と言い出した。

え!? どういうこと?

「例えば神様がいるとして、人間の霊魂を地上に下ろす時に、人間の脳や肉体よりもAIやロボットの方が優れてたら、そっちに下ろすでしょ?」

え? そうなん!? 神様そうなん? その発想斬新やな…(笑)

「だから、怖いんよ~。」

怖いのか…?

人間とは何にでも恐れを見出すものなんだなと、逆に感心したのでした。

***

以前、主催している勉強会でAIが仕事を奪う未来について、皆の未来イメージを語り合うみたいな時間を持ったのだけど、その時気づいたのは、

今現在、他者や社会に対して不安や怖れを持っている人は、AIの活躍する未来にも不安を持つようで、

逆に今が幸せで他者を信頼している人は、AIに対してもポジティブで明るい未来を想像しているということ。

当たり前の話だけど、今の心の不安と安心の配分をAIのある未来に投影しているだけで、

であれば本当の問題はAIが作る未来にあるのではなく、今この瞬間にも自分の心に居座っている「不安」の方なのですね。

AIは関係無い。

解決すべきは、今現在の脳や神経の中をデフォルトモードで走っている「不安」なのです。

****

未来は確かにAIによって今ある多くの知的労働が失われるでしょう。

そしてAIという資本を持っている一部の資本家に富が集中して、一時的に格差が極限まで拡大してバランスを崩すでしょう。

でも、そうやって普通の人の仕事が無くなって食べていけないような社会。大多数が不幸な社会というものは、一部の富める資本家にとっても不幸なものだと気付き、やがては富を再分配する仕組みができていきますよね。

更に言うと、仕事を失うことの怖れとは、実は周りの皆には仕事があるのに自分にだけそれが無いことの、アイデンティティや自尊心の痛みにすぎず、

6割方が失業している社会で失業することは、それほど怖いことではないですよね。

みんな仕事無しで昼間から遊んでるんだったら、私も仕事やめよかな…くらいのものです。

あとは、できれば周りのみんなよりちょっとだけ後に失業したいという、セコい考えがあるくらいです(笑)

でも、それは大した問題じゃない。

そういう意味で、AIに仕事を奪われるという問題があるとして、

その問題の本質は、自尊心を仕事に結びつけていることの問題であったり、集中する富を得た人が、苦労して得た富を再分配する時に感じる喪失の痛みという問題であったり、

他社と競争して勝者がその報酬として富を得るという社会構造の根底にある、「競争心」が癒えていないことの問題であったりするわけです。

つまり、問題は人間の心の癒やしにあるのです。

そこさえ解消できていれば、AIが仕事を肩代わりしてくれる未来を、恐怖ではなく恩恵として受け取ることもできるはずです。

ようやく人類が労働から解放されるわけですからね。人類の長年夢です。

仕事はもはや労働でなく、自己実現の活動の1つであり、クリエイティブな遊びとなるかもしれません。

問題はそれを可能にするテクノロジーの進化に、人間の精神の進化が追いつけるかどうかですね。

人類の歴史とともにあり今も集合的無意識の領域に残っている貧困や侵略や奪い合いの痛み、執着の歴史を浄化して、今ある豊かさを信じられるかどうか。

そういう問題なんですね。(良かった。僕の仕事はちょっとだけ後まで残りそうだ…(笑))

そして、そこに向かう途中で、「AIに仕事を奪われるから備えておかないと大変ですよ!」などと恐怖を煽って、学習教材や投資商品を売る人たちが必ず出てきますからね(笑)そこは上手にスルーしましょう。

恐怖を煽られる時には、それによって何かを売って得する人たちがいるってことを良く知っておいてくださいね。

ということで、早くAI進化して、仕事して欲しいですよね。

労働から開放してくれないかな。僕はいつでもウェルカムなんだけどな。

その時はみなさん、魚釣りでもしながら、和歌を詠むっていう遊びをしましょうね(笑)

あと、皆それぞれが書いたシロウト小説をお互いに読んで感想を言い合うっていう、恥ずかしい遊びもしましょう(笑)

その時はよろしく!

サイバーエージェントの株主総会に参加してきました


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先日、サイバーエージェントから株主総会の案内が届いていて(実は株はもう売却してしまっていたのだけど…)

その日程が奇跡的に東京滞在の1日目で、しかも仕事が始まる前の空き時間だということで、行って参りました。

ちょうど先日、アメブロ(サイバーエージェントが運営)で書いている子育てブログにログインできなくなり、

管理者と何度もやり取りする中で1ユーザーに丁寧に対応してくれる姿勢に感動して、それ以来CA社には気持ち的にかなり肩入れしていました。

総会は渋谷の道玄坂にあるホテルで開催されるとあり、行ってみると、でっかくてすごくお金の匂いのする(笑)ホテルがそびえ立っておりました。

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気分良いですね(笑)

200株しか持ってなかったくせに、(そして下げトレンドに入った瞬間に売却してしまったくせに、)しっかり株主風を吹かせてきましたよ。

受付を済ませ(これが噂に聞くキラキラ女子社員か!とか思いつつ)、おみやげを受け取り、控室ではコーヒーでおもてなしされ、そこで業績の概況の資料に目を通す…よりも、株主ってこんな感じの人達なんだ…という人間観察をしている方が面白かったです。

平日の昼間に開催されるということもあるのだろうけど、お年を召された方が多くて、現役で働いている方や、やり手なトレーダーのような理知的な雰囲気を持つ人はあまりいませんでした。

一言で言って、「農家」という感じ。

なるほど、株主総会に時間を使って、経営陣や業績と対話しながら気長に株の上昇を待つという投資スタンスは確かに農業に似ているのかもしれない。

いわゆるトレーダーとは違う人種なのでしょう。

それにしてもいちいちおしゃれ。


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キャラクターを形どったペットボトル。

そして大きな会場で待つこと数分。

経営陣が現れました。藤田社長も。

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藤田社長は、僕と同世代で見るからに内向型なんですね。そこにすごく親近感を感じていて、応援したくなります。

どっしりと迫力のある経営者というわけでもなく、パワーあふれる感じでもない。

でも『明日会議』などの仕組みを作って社員のアイデアをしっかりと拾い上げる。可能性のある企画には子会社を作って、若い世代を社長に就任させて人材を育成する。

きれいに右肩上がりの業績を作りながら、そこで満足せずに次の柱となるメディア事業にもしっかりと投資していく。

人材への投資、事業への投資、そして緻密にデータを取って修正を加えながら、着々と事業計画を形にしていく。

そのバランス感覚や先見性、堅実さが素晴らしいんですね。

せっかく藤田社長と生で向き合えるチャンスなので、ここは質問しておこうと、僕も手を上げて質問をぶつけてきました。

「abemaTVの使い勝手のスムーズさには驚きましたが、そのスムーズさによってコマーシャツを飛ばすということもやりやすく感じた。

UIの秀逸さが逆に広告枠の価値を毀損する恐れはないか?」

みたいなことを問うと

「私も最初それを懸念しておりしたが…。」という前置きをした上で、

「蓋を開けてみると、abemaTVのCMの視聴完了率は80%と非常に高い。どうやらザッピングで番組を変えるという仕組みは逆に…(省略!)」というような答えが帰ってきました。

こうして一度やり取りをしてしまうとダメですね。

CA社への肩入れ度合いが一気に増し増しで、よし!俺、株買うわ!(・∀・)となります。一旦落ち着こう。

こういった上場企業に対して自分はどのようなスタンスで関わるのか? というのは考えてみる価値のあるテーマだなと思っています。

ドラッカーの言うように、会社とは「社会の公器」であるので、いろんな関わり方が可能です。

いち消費者として会社のサービスの恩恵を受けるというスタンス。

しっかり受験勉強して一流大学を出て就職活動してCA社に入社することで、一緒にビジョンを形にする。つまり人的資本として会社に参加するというスタンス。

あるいは、こういう経営者にあこがれるなぁと、自分も起業して経営者として、参考材料にするというスタンス。

でも僕はどれにもあまり興味がないんですね。

やっぱり経営計画や業績のフィードバックをもらいながら、時に質問や意見をしながら株主として関わるというスタンスがすごくしっくり来る。(農家のように)

人的資本ではなく金融資本として会社に参加するということですね。

誰もが身体は1つしか持っていないので、人的資本には限界がある。私の場合、心理療法家であるという人生以外に無い。

でも金融資本は増やせるので、CA社だけではなくいろんな会社に投資して、自分の分身をその会社の中に生きさせることはできる。

投資をすることで痛みも負うこともある分だけ、喜びもリアルに味わうことができる。

そのように自分の感覚を社会に拡張していく。

そして自分には生きられなかった「大企業に参加して運命を捧げる」という人生を、金融資本として体験する。

それが自分にとっては最もしっくり来る企業との距離感だなと思いました。

どこまでもフリーの個人として活動しながら、「会社」というものには金融資本として参加する。

そんな自分には株主総会は、ご褒美的な楽しいイベントだなと思いました。

またタイミングがあったら参加したいです。

今後もCA社応援しつつ藤田社長のビジョンがどこまで形にできるのか、楽しみに見守って行こうと思います。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

『ドキュメント72時間』が面白い

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NHKでやっている『ドキュメント72時間』が面白い。

最近のテレビ番組で一番好きかもしれない。

特定の場所の72時間(つまり3日間)を取材し、そこを訪れる人にインタビューをしているだけの30分番組で、

その場所は、ゲームセンターだったり、肉屋さんだったり、ショッピングモールのフードコートだったり、無人駅だったりする。

そこに訪れている市井の人々にカメラを向けて話を聞くだけなのだけど、それが異様に面白い。

先日放送の番組のタイトルは『黄昏のゴルフ打ちっぱなし』

東京の足立区にある開業40年の老舗の「打ちっぱなし」が舞台。

24時間営業の打ちっぱなしに訪れる人達にカメラを向ける。

そこには一見すると普通の人達の、様々な物語が垣間見える。

夜中に熱心に一人で打ち続ける女性に声をかけると、子育て中の主婦で、家族が寝静まってから夜中に一人でストレス解消のために打ちに来るのだとか。

朝の4時まで一人で黙々と打って帰っていった。

そして早朝から打ちに来た80歳の福々しいおじいさん。

「いやー。ありがたいね。」と上機嫌。

自分は小学生の頃には母の元を離れて丁稚に出て、夜にお母さんが恋しくて寂しくて毎晩泣いていた。今でもそのことを思い出すと涙が出ると、実際に涙を溢れさせながら語る。

でも、それが今では自分の車でゴルフを打ちに来れるまでになった。豊かになった。ありがたい。ありがたい。

80歳になっても、まだ飛距離が伸びるんだよと語る。

またカメラは違った人にフォーカスする。

夕暮れ時の場内で、打つこともなく椅子に座って遠くを見ている男性がいる。

声をかけると、「高校生の息子が最近ぼくと一緒にいてくれなくて」と寂しそうに笑う。

男性は韓国人だと言う。

日本人の妻と韓国人の自分との間に生まれた息子。

高校生になって、日本と韓国の間で引き裂かれているという。

日韓の仲が悪くなったことで余計になのか、最近自分と一緒にいたがらない。

この打ちっぱなしにはそういう人がいっぱいいるんじゃないかな、と語る。

玉を打ちにくるんじゃなくて、家に居場所が無いからここに来ている人もいっぱいいると思いますよ。

たった30分の番組でさらりと見せてくれる、市井の人々の人生の奥行きと広がりに、思わず唸る。

それ以外にも、離婚した元妻と離れて暮らす娘と、「元家族」としてコースを回るのが夢だという男性。

バブルの頃から1000万は使ってきただろうと言う団塊の世代の男性。

クラブセットをプレゼントしてからゴルフにハマってしまったという50代のカップル。

市井の人が普通に生きている日常の手触り。

でもどこにも普通なんてありはしない。

突出した人のドキュメンタリーも面白いけど、普通に暮らしている人たちの決して普通では収まりきらない日常のリアリティにはまた違った感慨がある。

パラレルに展開している人それぞれの人生と現在。

それにいつも心を打たれる。

意図的な演出や意味付けを排して、素材のままの切り抜こうとしているドキュメンタリー精神も素晴らしい。

みなさんも是非、見てみてください。

物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

映画『シンゴジラ』 父的なるものの肯定

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※注意 ネタバレ全開!

この夏、話題になった映画『シン・ゴジラ』について書きたいと思いつつ、なかなか筆が進まないでいた。

あの映画を観て、映画館で嗚咽が出るくらいに号泣して、さらに帰りの電車でも涙が止まらず、自分でも驚いた。

まさか、ゴジラを観て41歳の大人が号泣することになるとは。

そしてその涙は一般的な心理療法で扱うような個人的な感情から来る涙ではなく、

ファミリー・コンステレーションなどの個を超えた深い領域を扱うセラピーで体験する種類の涙だった。

自分自身がなぜ泣いているかもわからないまま、身体の奥底から発作のようなエネルギーを伴って外に溢れ出ようとする涙。

それは僕の個人的な感情から来るものではなく、日本人の集合的無意識から流れ出る涙だった。

だから、自分を通じて流れている涙の源にどんな思いがあるのか。その意味を言葉にしなければと、半ば使命感のようなものにかられながらも、ずっと書けずに来た。

そんな折、ローランド・エメリッヒ監督の『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た。

エメリッヒ監督と言えば、宇宙人が地球侵略に来る『インデペンデンス・デイ』やハリウッド版の『ゴジラ』など、パニック映画の巨匠で、僕はそんなバカで大味な彼の作品が好きだった。

でも、異常気象による地球の危機を描いた『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た時、もうこういった物語にも演出にも乗れなくなっている自分に気付かざるを得なかった。

どうやら僕(ら)の感性は311以降、不可逆的に変化してしまったようだ。

主人公のヒロイズムや家族愛やロマンスを際立たせるためだけに壊れていく地球や都市を、もう以前のようには観ていられなかった。

それはもう背景ではなかった。

ニューヨークの街が為す術もなく壊れ、無名の人があっけなく亡くなって行く中、主人公とヒロインの恋愛が成就していく描写に、心の底から思った。

「お前の恋愛などどうでも良い!」と。

主人公のヒロイズムを際だたせるための背景として、街や人が壊されていく、そんなハリウッド的な遠近法を、もう全く受け付けられなくなっていた。

そして『シン・ゴジラ』とはまさに、そういったハリウッド的な遠近法を反転させた、いわばアンチ・ハリウッド映画として捉えられるべき作品だった。

その反転によって、戦後、そして311以降の日本人の集合的無意識にあるトラウマを癒やし、励ますだけの力を持った作品だった。

ハリウッド映画が、事態の凄惨さを描写するために脇役をバタバタと死なせ、そのコントラストとしてヒーローの活躍を際立たせるのに対し、

シン・ゴジラはたった2名の脇役の命を守るために、ミッションの遂行を躊躇し、タイミングを逃し、結果、ゴジラを完全体に成長させてしまうことになる。

まさに、ハリウッド映画の真逆のことが行われている。

脇役の命を消費することでヒーローの活躍を際立たせるのではなく、

脇役を重んじることでヒーローの不在というテーマがあぶり出される。

それが「シンゴジラ」の選んだ方法だった。

庵野監督はなぜ200人近い有名人をキャストに使いながら、その多くがファンですらどこに登場しているのか分からないような没個性な使い方をしたのか。

なぜ主人公の家族やバックグランドといった物語の感情移入を助けるはずの要素を排除したのか。

そこには、1人の突出したヒーローの物語としてゴジラと対峙することを拒む、アンチ・ハリウッド的な意思が明確に表れている。

ではヒーロー不在の物語の中で、ゴジラを倒したのはいったい誰だったのか? 何だったのか?

それは日本経済の象徴である新幹線であり、高層ビルであり、山手線であり、企業が決死の覚悟で生産した薬品だった。

新幹線がゴジラに突っ込む時。

高層ビルがゴジラに直撃する時。

僕の体は震えて涙が溢れた。

嬉しかった。

あれは戦後71年。

リーダー不在。アメリカの属国。意思決定が遅い。エコノミックアニマルと揶揄されてきた、日本の「父なるもの」への大いなる肯定だった。

決してカッコ良くはない。突出したヒーローもいない。エコノミックアニマルとして馬鹿にされてきた。

でもそうやって父達がコツコツと71年積み上げてきたものの大きさを見よと。

軍事力ではなく新幹線や高層ビルや生産力で戦う、ヒーロー無き対決に込められた肯定。

やっとそれを父なるもの(大切なものを守るもの)として肯定してもらえたことに、涙が止まらなかった。

戦後、日本人の集合的無意識に植え込まれ、僕らの個人的な心のずっと奥で、長い間維持され続けてきた父的なるものへの失望と軽蔑。

それを日本映画の象徴であるゴジラによって再定義し、癒やし、つながり直すことに成功した。少なくとも僕にはそう思えた。

なぜ「シン・ゴジラ」にあれほど多くの人が足を運んだのか。

彼らは何度も同じ映画を観に行くことで、一体自分の中の何を満たしていたのか。それがよく分かる気がした。

あの涙は、長らく喪失したままになっていた父的なるものと、再接続することの感涙であった。

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。

 

人生を再定義して統合する

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先週の土曜は友人の結婚式でした。

(僕の周りはなぜか今、結婚ラッシュ)

新郎新婦のそれぞれが、自分がどのような個人的な歴史を生きて、どのような家系の流れを引き継いできたのか、それを改めて見つめ直し、

親との関係を出来る限り肯定的なものと捉え直し、そして、その2つの流れを皆の前でつなごうとしていました。

参加した結婚式の全てがそうでしたが、誰にとっても、決して手放しに肯定できる人生でも無いし、親でもなかったのでしょう。(人生とはそういうものです)

でも列席される皆に貴重な時間を取って集まってもらって、祝福された時間とするには、可能な限りそれを肯定できるものとして見つめ直し、捉え直すことを迫られる。

おそらく結婚式までは苦悩の日々だったのでしょう。

それを乗り越えて、2人が肩を並べて歩くとき、やっぱり感動しますね。

夫婦として立つとき。

覚悟が備わって良い顔になっている。

結婚式というのは、心理療法的な力を持った儀式なんだと、今では良くわかります。

儀式によって家系の流れを新たに意味を付与し祝福し、改めてつながりを強くする。

そして参列者の全員が2つの家系の結びつきを承認し、新しい家族の誕生を祝い、それが存在できる場所を社会の中に認める。

そうやって、個人的な恋愛による個人的な結びつきでしかなかった2人の関係が社会性を帯び、初めて人は社会的な生き物となるのでしょう。

祝福と覚悟に満ちた良い時間でした。どうぞお幸せに。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。