質問1つで生きていく決意

ここ最近、スマホをiPhoneからAndroidに変えてみて、感心することしきりです。

その詳細は改めて別記事に譲るとして、まずなにより、Google音声入力が本当に優秀ですね。

スマホに話しかけると瞬時に文字にしてくれます。

認識精度も高く反応も早いためストレスが無く、自分が話した言葉が瞬時に文字になってモニターに現れるのを見るのは、感動的ですらあります。

最近は簡単なメールやLINEは、ほぼ声で入力するようになりました。

そして、スマホで使えるAIの『Googleアシスタント』もこれがまた優秀で。

さすが検索エンジン会社の提供するAIだけあって、iPhoneのAIアシスタントの「Siri」よりも遥かに細かで行き届いた情報提供をしてくれます。

何気なくテレビを見をていて、クリスティアーノ・ロナウドが出ているシックスパックのCMを見て、

なんでこの企業はこんなCMを打てるだけの資本力があるんだろう?と気になった瞬間にスマホを持って、

「シックスパックの会社について調べて」話しかけると、

「こちらです」と、0.2秒後には会社のホームページを出してくれます。

見てみると、多角的な収益源があることがわかります。

この感じ。

自分の中の疑問を声に出した途端に謎が解け、解消されていく感覚。これが脳にとっても気持ち良いのです。

物知りのアシスタントが僕のためにいつも側にいてくれるような感覚です。

Siriを使ってみた時は「AI元年」とは言えまだまだ実用は先の話だなと思っていたのだけど、どうやらAIの時代は既に始まっていたようです。

最近は何かにつけてGoogle先生に頼るようになりました。

「P 10 LITE のテーマの変更方法を教えて」

「スマホで使う質の高いマイクある?」

「 Google 音声入力をMacで使う方法ある?」

瞬時に良くできた解説ページを5つ紹介してくれます。

慣れないAndroidだけど、いじっていて使い方がわからない度にGoogle 先生に聞けば解決してくれます。

そして、すでにGoogle様の提案に従ってネットでいくつかの買い物もしています。

凄いですね。

こうなると、質の良いクリエイティブな「問い」を思い付けるかどうか、

が大切になってきます。

こちらが何に疑問を感じているのか、適切に定義された質問を正確な用語を使って作り出すことは、なかなか高度で創造的なスキルなのだけど、

それさえできれば素晴らしい恩恵を返してくれます。

そして、これは自分自身の脳にも言えることですね。

僕らの脳の中には自分が生きた年数だけの(そして実は先祖代々や、人類が生きた歴史の)様々な知恵や経験がストックされていて、

しっかりと定義されたクリエイティブな質問を投げかけると、瞬時とはいかないまでもじっくりと深めて、適切な解をもって応えてくれます。

あるいは その後の人生そのものが問いの答えであるかのように展開していきます。

 

更に言うと、私たちは自分には無い膨大な経験を積んだ他者にも、質問をすることができます。

つまり問いには三つの方向があります。

・AI をはじめ、電子ネットワーク上に蓄積された膨大なデジタルデータへ。

・自分自身の脳の中にストックされた知識や経験や暗黙知へ。

・世界に7億を超えると言われている他者へ。

それぞれに適切で有用な問いを投げかけられるかどうか、それが膨大なリソースにアクセスできるかどうかの鍵となるわけです。

コンピューターが理解しやすい正確な語彙とシンプルな文法を使った問い。

自分の無意識を活性化して再構築し、パラダイムを作り変えてしまうような深くオープンな問い。

相手の無意識の奥底に眠っているフィーリングを刺激し答えるだけの意欲を与えて言葉を引き出すような問い。

それぞれにポイントは少し違うけれど、いずれにせよ、

良い質問さえ見つかれば、カチッと音がして扉が開き、新しい世界が目の前に出現するわけです。

その場で作ったちょっとした質問が鍵となり扉が開き、目の前に新しい世界が広がる。

それによって自分の中のイメージ空間も拡張されていくわけです。

面白いですね。

こんな時代が退屈だということはもうありえません。

もし退屈なのだとすれば、それは問いを作るための勉強ではなく、単に知識を頭に保存するためだけのインプットを勉強だと勘違いしてきたからかもしれません。

自分のものだとこだわりさえしなければ、知識も経験も既にコンピューターや他者の脳の中に膨大にストックされています。

ただ、それを使う鍵となる質問を持たなければ、それらは無いに等しいものですね。

自分の知識量の多寡など大胆に棚に上げて、良い質問を作る力1つだけ持って、世界中のリソースを引き出し活性化させクリエイトしていく。

質問の技術1つだけで生きていく。

そういう決意は、私たちの心を軽くしてくれますね。

長らく僕らを縛ってきた、「まずは自分が優秀でなければならない」という呪縛から開放してくれるようです。

とても正しくて生きづらい世界

皆さんこんにちは。カウンセラーの佐原です。

GW明けの本日。皆様お元気にされていますか?

今日は、今巷を騒がせているTOKIOの山口くんの問題について、心理療法家の目線で語ってみたいと思います。

【気付けば厳しい社会になったものだ】

 

昨日のニュースではもう既に退社届けがて提出され、ジャニーズ事務所側もそれを受け取り、事実上も山口くんの芸能界復帰は無くなったようです。

これ、いかがなものでしょうかね。

このニュースが報じられてからワイドショーやネット上ではいくつかの論点で扱われました。

それを、まとめると、

・謝罪会見で自身の復帰の話をするなんて甘すぎる。

・それに加え、酒をやめると断言しなかったこと、この2点において、この謝罪会見は失敗だったのではないか。

・TOKIOの他のメンバーの心のダメージも計り知れない。

・ジャニーズの社長ではなくTOKIOのメンバーが謝罪会見するのは組織としておかしいのではないか。

・夜に男の家に行くことを許した親の監督責任は問われないのか。

・いやいや、普通は仕事上の先輩の誘いだと断れないですよ。

・そんなあなたの発言がセカンドレイプだということを自覚するべきですよ。

と、だいたい以上のようになります。

でも、正直私はそのどれにも上手く共感することができませんでした。

爽やかな好青年という社会的なイメージから一転、女子高生に強制わいせつを犯した男としてマスコミの前に立つ。

その恐怖と失うものの大きさに怯える謝罪会見で、涙を流し手を震わせながら必死に言葉をつないでいた先で、

「もし自分の居場所があるなら」

と結んでしまったあの言葉の至らなさに、追い詰められて混乱している生身の人間の心情ではなく、

「甘え」や「自覚の無さ」だけを受け取って批判が噴出することの違和感。

私たちはとても厳しい社会に生きているのだなと。

ここまで正しくなければ許せない義憤というものは、いったいどこから来るのか、そちらの方が気になりました。

そもそも私たちは本当に完璧な謝罪というものを聞いて、納得したかったのでしょうか?

【謝罪は誰に向かってなされたのか】

 

残りのメンバーの涙を流したの謝罪会見を見ても思いました。

なぜ当人ではないメンバーがここまで憔悴して、涙を流しているのだろう。

いったい彼らは誰に謝っているのだろう。

ここでは本当には何が問題になっているのだろうか。

ワイドショーで皆はいったい何の話をしているのか。

ここで語る人たちは皆、何かを恐れているようでした。

本当に被害者の少女のことを1番に考えなければいけないのであれば、この問題での山口氏へのペナルティと社会的影響を大きくするべきではありませんでした。

山口氏がもし解雇となれば、少女の社会的ダメージはより大きくなり、まだ若い一個人の上に心理的にも重くのしかかることとなります。

そのことは誰もが分かっていながらも、ここでは少女個人の気持は簡単に蔑ろにされました。

では、被害少女を無視してまで、メンバーたちは誰に向かって憔悴した表情と涙を見せて謝っていたのでしょう。

それは、もう誰も刃向かえなくなっている荒ぶる「世間様」ですよね。

この事件に本当の意味で燃料与えていたのは、山口氏の行為の卑劣さではなくてむしろ、

普段の営利活動の中で報われない思いをしていたり、コンプライアンス遵守のために緊張を強いられ、正しさを求められ、代償を払い、したためてきた集合無意識の中の怨念のようなものです。

世間様は日々ストレスと内圧を高め、その発散場所として生贄を欲しています。

それを鎮めるために誰もがその「世間様」に寄り添い、代わりに被害少女を蔑ろにします。

テレビのコメンテーターが世間様の正しさを代弁することで、暗に伝えていたのは、

「私は生贄になるのはゴメンですよ。」

「私は世間様の怨念を刺激しないよ。私は世間様の味方ですよ。」

ということでした。

それがダメだと言うことではなくて、誰も表立ってはそれしかできなくなっているということです。

【クリーンな社会のストレスと女性の性的な痛み】

 

この問題で噴出していたのは、企業のコンプライアンスが象徴するような過剰な正しさのために強い緊張を強いられながら我慢してきた人たちの「俺達はこんなに日々正しくやってきているのに!甘すぎる!」という集合無意識と、

Me too運動に現れているような女性たちの歴史的な痛みの集合無意識であって、

誰も46歳の男が酒に酔って女の子にキスをしてしまったと言う問題そのものを扱っていたわけではありません。

その証拠にこのニュースは徐々に、謝罪の仕方や、どこまでの罰を受けることが妥当かといった企業社会的な正しさ、組織の責任の所在、企業の謝罪学といった側面にどんどん形を変えて行くこととなり、

一方、ネット上ではセカンドレイプと言う言葉が頻繁に使われるようになりました。

この2つの集合意識に高まった圧力をガス抜きするために、このニュースは利用されていきました。

【山口氏のダメージは被害者が背負う】

 

心理療法的に見ると最も心配なのは被害者の彼女で、それは性的被害を受けた心の傷が…と言う事のみならず、

彼女の受けた傷の罰とするには、「山口氏が払った代償が大きくなり過ぎる可能性がある」ということです。

これがかなり危険なことなのです。

心理療法の中で現れてくる絶対的な法則として、人は関係性の中で必ず「収支の帳尻を合わせるように働く」というものがあります。

人間関係の中では長期的に見れば、そしてエネルギー的に見れば、必ずギブ&テイクはバランスするようにできているのです。

もしその帳尻が個人同士の間で合わせられない場合は、驚くべきことですが、家系を通じて子孫たちによって支払われることとなります。

心理療法の臨床現場で、個人の貧困の問題や原因不明の自殺衝動、不思議なほどに不幸に引き寄せられていくクライアントさんの無意識を紐解いていくと、

ご先祖の代に得た不当な利益(土地にまつわるものが多い)や、先祖のために誰かが払った犠牲がエネルギー的に明らかになってくることがあります。

本人は全く無自覚でその事実さえも知らないままに、ご先祖の代で得すぎた利益の支払いを自身が不幸になることを通じて行っていたり、

過去に誰かが支払った大きな犠牲を、子孫である自分も被害者のように生きることで贖っていたりする。

そういった状況を頻繁に目にするのです。

こういったエネルギー的な法則から見ていくと、今回の彼女のこの先に背負うダメージが心配になります。

国民的なアイドルとして世間から愛され、応援される番組をいくつも持つ有名タレントが社会に与えていた良き影響が、今回のことで損なわれるとすれば、

更に、被害女性の同世代の仲間たちが仕事で活躍できる場所も奪ってしまうとすれば、

それは、1人の個人の性的被害によってバランスさせるにはどうしても大きすぎるのです。

その日本中に与える心理的、経済的インパクトを、彼女の無意識がバランスを取るように背負い込まれるとすれば、その負債は大きすぎます。

ここまで彼が罰せられることを、被害者の彼女自身が望んだわけではないはずなのに…、です。

【誰も被害者に優しくは無い】

 

心理的な法則を持ち出すまでもなく、もし自分が被害者の立場だったら…と想像するとなんとなく分かるものです。

「この問題を大きくしてほしくない。」

「山口さんがあまりに大きな罰を受けると負担になる。」

「トキオがそんなに深刻に謝ると、国民的に愛されている番組がダメになると、私が苦しくなる。責任を感じる。」

恐らく彼女は今、自身が受けた性的な傷に向き合うどころでは無いと思います。

世間を騒がせた事の発端が自分にあることの重さに、そしてこの騒ぎがどこまで広がって行くのかという恐怖に今もまさに怯え傷付き続け、震えていることと思います。

自分の個人的な傷など、もう感じる余裕すら無いことでしょう。

誰も本当には、少女個人の気持ちは見ないことにしたのです。

 

「私は生贄になるのはごめんだ。」

誰もがその主張に一生懸命に見えました。

今回の契約解除で世論が今後「そこまでする必要があったのか?」という方向に傾いていくとすれば、次に生贄に差し出されるのは(決して言葉にして明言されないにしろエネルギー的には)被害者の彼女サイドです。

本当に私たちは被害者に厳しい。

「もう終わりにしないか」

と言いたくなるのです。

【どこまでも帳尻は合わされていく】

 

今回のことで、山口氏が20数年積み上げたキャリアを失うとすれば、それがまた新たに私たちの社会の正しさの基準となり、

私達自身の首を絞める事となります。

誰かが代表して大きく払った代償は、それを無意識に望んだ全員によって、帳尻が合わされていきます。

私たちはまた無意識に支払うこととなり、ミスに厳しく正しくある「べき」に支配されたストレスの多い社会を生きることとなります。

誰も得しなし、勝者のいないゲーム。

「もう終わりにしないか。」

本当に心よりそう思います。

「彼の中にあった未熟さ、甘さ、いやらしさ、ズルさは私の中にもあります。私はそれを認め、私の心の中にそんな自分の居場所を与えます。」

そんな自己受容だけが、荒ぶる世間様を鎮めます。

本当の意味での癒やしの可能性を開きます。

確かに私の中にも彼と同じ未熟さや、甘さ、いやらしさ、ズルさがあって、社会人としてそれをできるだけ見せないようにして生きていはいるのだけど、

それでもその影も自分の一部であることには変わりがなく。

心のどこかではそれを無かったことにせずに、せめて個人的で私的な関係においては、誰かにその影の部分を受け止めて許してもらいたいと思っていたりします。

そして、そのような甘い体験によって、私達の中の影は癒され無意識はご機嫌になり、そうやって私達も一部を担っている「世間様」のガス抜きはなされていきます。

それは確かに「甘い」体験なのです。

格安simの導入を本気で検討する

先日、主催しているプレゼン練習会にて、「格安simにしたら携帯代めっちゃ安いでー。」ていう声を聞いて、

自分もいよいよ携帯の通信費を見直そうと思えた。

格安simの流れに、これまであまり真剣に向き合ってこなかったけど、ようやくちゃんと調べてみようという気になれた。

 

で、その結果。

やっぱり相当安くなる。

これまで通りの大手キャリアを使う理由が全く見当たらないくらいに。

今は妻と僕の2人共がiPhone6をソフトバンクで使っていて、月々の支払いがだいたい月18000~20000円くらい。

iPhone6は3年越えてるんだけど、電池を交換したのでまだまだ充分現役で行けそうだ。

でもソフトバンクのiPhone6はsimロック解除ができないということ。

なので、格安simを導入するには新しくsimフリーのスマホを用意する必要がある。

ということで、選択肢は3つある。


選択肢1)simフリーのiPhoneを新品で買う。

僕が欲しいと思っているiPhone7plusは9万くらいなので、格安simの通信料が1700円として、

スマホ本体代を大手キャリアに倣って2年で償却するとしたら、月3750

つまり月の支払いは

通信費1700+本体代3750円=5450円

今は月9000円くらい払ってるから、毎月3500円お得。

2年では84000円お得。

 

2年目以降は端末代は無しの計算だから、毎月7300円お得。今のiPhoneは電池さえ変えればスペック的には長持ちするから、4年とか使えると考えるとかなり大きい。


選択肢2)中古のiPhoneを買う。

これは少し前には世界的なトレンドだったようですね。

2万円くらいの中古のアイフォンを買って格安シムを挿す。

同じく本体代を2年で償却するとすれば、

通信費1700円+本体代833円=2533円

ひと月2533円でiPhoneを使えるというわけだ。驚異的。

でもAmazonで今売れ筋のスマホについて調べていると、今はアンドロイドで性能の良いスマホが安価で出ているようで、

以前のように、中古にしてでもiPhoneにこだわる必然性は無くなってきた感じ。

ということで、次の選択肢は


選択肢3)安価で性能の良いアンドロイドスマホを買う。

Amazonで人気1位のHuawei のスマホは21980円で、かなり評価が高く。iPhone7と比較しても遜色無いのだとか。

3年以上前から使っている僕のiPhone6なら、むしろ超えてくれるかもしれないという期待さえ抱かせてくれる。

>>Huawei 5.2型 P10 lite SIMフリースマートフォン

で、この機種を2年で償却するとしたら

1700円+915円=2615円

月々6400円位お得となる。

*****

以上3つの選択肢があるわけだけど、ひとまず実験的に妻の携帯を3)で試してみることにして、Amazonで早速Huawei のスマホを買ってみました。

今日到着予定です。

で、僕の携帯に関しては、仕事のカウンセリングで2時間くらい話たりすることが月に何回かあるので、時間無制限の話し放題が必須なんですよね。

 

それが僕が格安simを無視してきた理由でもあります。

さすがに格安simで長時間話し放題はないですからね…。

って、本当か?

本当に本当か?

 

試しに調べてみたら…。

まじか。

あったよ…。

イオンモバイルの「050かけ放題」というサービス。

月額1500円の追加料金がかかり発信者番号は050になるけど、IP電話の回線を使って長時間のかけ放題を可能にしているのだとか。

となると通信費が1700+かけ放題1500円+端末代915円=4115円

これでも普段の半額以下だ。

あとは、その050のIP電話の音質が電話セッションに耐えうるかどうか。

セッションでは相手の息遣いまで感じ取る必要があるので、どの程度の音質かを試してみないことには判断できない。

先の妻用に買ったアンドロイドのスマホにイオンモバイルのシムを買って、050かけ放題というサービスに加入してみて、ひとまず試してみようか。

と、思ったけど閃いた。

 

こういうのってYouTubeで「050かけ放題」とかって調べたら、検証した動画が出てきそう。

で、試しに検索したら、

やっぱり出てきた(笑)

>>【検証】格安SIMにおけるIP電話の通話品質ってどうなの??

聞いた感じ。

普通に使えそうですね。

これで良いかな。

仮にこれを導入すると夫婦で15000円程度のコストダウンが可能になるが、もう少し検討してみよう。

機種はiPhoneに不満は無いしジョブズの美意識の流れに触れていたいと思ったけど、さすがにもう馴れてしまっていて、

新しいiPhoneを買うことのワクワク感は今はもう持てないな。

だったらAndroidってどんなだろう?とか、自分はiOSとAndroidのどっちか合ってるのかな?とか、そっちを体験できる楽しさの方が勝りますね。

ということで、また会社やプランが定まったら報告します。

しかし節約は楽しいですね(笑)

みなさんはスマホはどうしてるのかな? 格安シムは導入済みですか? また聞かせてくださいね。

トウキョウシティヒエラルキー

東京に向かう新幹線が品川に着き、山手線に乗り換えて仕事場の代々木に向かう。

電車が動き出すとともに仕事モードに立ち上がっていく自分の内的感覚にも、車窓から見える街の景色にもいつも少し気分が高揚する。

ここは東京。僕らの都だ。

その電車の中でいつも聞きたくなるのがこの曲。

>>トウキョウシティヒエラルキー Bank Band

本当にこの街はヒエラルキーを形成していて、これほど残酷に魅惑的に格差にさらされる場所はそうはないだろう。

頂上にあるものも最底辺も振り幅広く全てここにある。

でもそのヒエラルキーは、どの階層にも等しく居場所が残されているということでもあり、

置き場に困った自分の特異さにも居場所を与えてくれているという意味では、とても優しい街でもあるようだ。

自分がどれだけ変わっていようともどんな感覚を忍ばせていようとも、誰も白い目で見ないし排除もしない。ただ背景の1つであるかのように通り過ぎてくれる。

その感覚が最初とても冷たく独特の孤独を刺激したが、今はそれがとても優しく居心地良く感じる。

1日に驚くほどの人数の人達と空間を共にし、時にはギュウギュウ詰めで肌を合わせながらも、私たちは圧倒的に誰とも出会わない。この素晴らしき無関心。

私が誰であろうとどこから来てどんな姿をしていようと誰も関心払わずに、そっと優しく通り過ぎてくれる。

関心が払われないことで得られる独特の自由がある。

それによって初めて居場所を得るような曖昧な自分がいる。

本当に面白い場所だなと思う。

ある時に気が付いた。

東京には華やかで面白い場所がたくさんあるのに、なぜ自分は畳の安ホテルに泊まり代々木で仕事をして安い富士そばを食べるような、慎ましやかな生活を送っているのか。

どうやら僕は、60~70年代の空気感。野心を持って田舎から上京し、貧乏に耐えながら成功を夢見た無名のアーティストたちの意識をなぞろうとしているようだった。

四畳半に象徴される彼らの見た夢と中心への距離とそこで破れて行った者たちの思いに寄り添おうとしていたのだ。

そんな内的な活動もやがては終わり、今度は漱石の「三四朗」にあるような学問と東京へのあこがれと失望のような少し高尚な意識をなぞるようになり、

それが終わるとまた次に行こうとしている。

階層化して保存されているこの街の密度の高い集合無意識を1枚1枚、

ページをめくるように体験しようとしている。

 

ヒエラルキー。階層性。

それは残酷でもあるが優しく、そして面白いものだなと思う。

物語の外に出る

オリンピックが盛り上がっていますね。

羽生くんの演技は仕事中だったのでVTRでしか見れなかったのですが、昨日のスピードスケート500mの小平さんの走りはリアルタイムで見ることができました。

15連勝中で金メダルを当然のように期待されるってキツイものですよね。

何かの偉業を成そうとすると無意識は物語を作りますから、平坦さを嫌うものです。

ジャンプの高梨沙羅ちゃんの前回のオリンピックがちょうどそれで、世界一の実力があり順調に来ていながら、本番では力が発揮できませんでした。

オリンピックには魔物が住んでいると言われる所以です。

だから今回のオリンピック前の彼女の不調だという重い表情を見た時、これは行けるのではないかと期待していました。

羽生くんもそうですね。

オリンピック前に出場を危ぶまれるような怪我をしたと聞いて、この人はさすがだな、もしかしたら大きな物語が動き出しているのではないか、と見ていました。

直前にちゃんと不運を呼び込み厄を落として、最後に大成するような物語を作る。

羽生くんの無意識は劇画的なので、負傷して一発目の本番がオリンピックという状況は一番力が乗ってくるはずです。

この怪我も彼の無意識の創造に含まれるものではないかと、そんなことを考えていました。

大きなことを成そうと設定した時に、無意識はジャンプの前にしゃがむように事前に大きな苦しみや停止に入ることが多いものです。

だから、停止に入ったり生みの苦しみが出てくると「お、創造のプロセスが動き出しているぞ」と正解感を感じたりします。

だからこそ、15連勝中の小平選手が心配でした。

そして、その勝利にはとてもつもなく感動しました。

勝って当たり前と言われる選手がオリンピックで勝つというのは、とてつもない偉業です。

彼女は常に物語の外に出ようとしていました。

それは、これまでの努力やオリンピックで金を取るという目標に意識を合せることはせずに、瞬間瞬間の自分の身体と自分との関係性にのみ集中することで可能でした。

「メダルは何色でも良い。」

緻密に緻密に自分の身体の使い方に意識を向けることで、外側の物語を消し去る。

今この瞬間の強度を増すことで、時間軸を無効にする。

それをやってのけての金です。

そしてこの求道者の表情。本当にお見事でした。

さあ、もう少し続きます。オリンピック。今日も楽しみましょう。

恋の終わり破壊の時 小室哲哉の引退に思うこと

小室哲哉さんが引退を表明しましたね。

小中学生の頃にTM NETWORKを聞いていた世代としては寂しい限りです。

90年代に1つの時代の雰囲気を創り出した恩人の引退がこんな不本意な形というのが残念でなりません。

でも会見の全文を読むと、本人の少しほっとした様子も伝わってきますね。

 

もう今の生活にも創作活動にも限界を感じていて、降りたい、壊したい、という思いが心の奥底で育って行っていたのかもしれません。

人の不倫を裁く権利は当事者にしか無いはずだ。それでも無邪気に週刊文春を攻撃する気になれないのは、この流れが彼の無意識との共同創造でもあるように思えるからです。

恐らく以前のように音楽が降りてこないのでしょう。

彼は妻KEIKOさんを伴侶として介護したり時には家族に任せたりしているそうですが、

それは人として1人の妻に寄り添う素晴らしい体験であり、彼はこれまでとは違った魂の体験をしているわけですが、

残念だけれど、その道には以前のような音楽は降りてこないのでしょう。

ある種の音楽は、男女が激しく憧れ求め合うその情動の中に生まれるものです。

西洋の神智学体系のカバラの中では女性への狂おしい憧れ、そこに手を伸ばしたいが触れられない、その力動にこそ「永遠」があり、「創造」の力があるとし、それに『ヴィーナス』と女神の名を与えました。

ヴィーナスへと向かう恋愛的な力。永遠に持続する力。

ある種の創造やインスピレーションの源はそこにあります。

彼の扱っていた音楽は決して安定や誠実さの中に生まれるものではないのです。

残念なことだけれど貞操を貫く人間の美しさを生きることと、恋愛的な引力と熱と魔法を宿した音楽を作り続けることは、別のジャンルの仕事なのです。

ヴィーナスを良妻のように飼い慣らすことなど誰にもできないし、もしそれができたとしたらそれはもうヴィーナスではなく、代わりに別のヴィーナスの存在がその秩序と安定の外側に現れてきます。

今回も小室さんの人生にもそれが起こっていたのでしょう。

私は以前から、ミュージシャンというのは歳を重ねることが難しい職業だなと、彼らの歳の取り方を興味深く見ていました。

常に新しい異性のうちにヴィーナスを見出し、恋焦がれながらも手に入らない不安定さの中に身を置き続けることは誰にもできないし、

歳を取るということは、The Lover(求愛者)やトリックスターという不安定なアーキタイプを宿し続けるには、賢くなりすぎるものです。

私たちは誰もが平等に歳を取り、いつか恋するだけの存在ではなくなります。

その代わりにまた違ったアーキタイプが自分に宿るようになります。

老賢者かグレートマザーか援助者か。

それらが自分の内側から立ち現れようとする時、その時、古くなった自分を破壊して次に行かなければなりません。

古い自分にしがみつくとやがて必ず、泉は枯れます。

今の小室さんは見ていて切ないほど枯れていて、自分のエネルギーの源泉につながれていないことが明白でした。

創り出したものが大きい人は、壊して捨てなければならないものも大きいのでしょう。

小室哲哉という存在はある時代の象徴として固定され世間の共通言語として流通し、もはや自分1人の手では壊しきれないものだったのかもしれません。

だから今回、文春のスクープによって破壊が後押しされた時、彼が望んで会見を開いて引退を表明したこと。

そしてその時に見せたとても人間的で個人的な安堵に触れて私たちは、

一抹の寂しさとともに、彼を擁護して応援したくなるような衝動を禁じ得ないのでした。

彼は今また圧倒的な破壊をやってのけようとしています。

彼を突き動かすその力に私は、最大限の敬意を払いたいと思います。

 

そして、そんなことを思っていた時、この記事を読みました。

『大江千里、47歳で始めた僕の「ライフ・シフト」』

TM NETWORK時代の小室さんと同時期に活躍したシンガーソングライター、大江千里さんのインタビューです。

彼は日本でのポップシンガーとしての地位を捨て、47歳で渡米しジャズの名門校で学び、現在はニューヨークで毎週ライブをする生活なのだそうです。

インタビューの最後の部分がとても良くて、未だみずみずしく少年のような感性で世界に参加して触れて感じ取って生きている様子が伝わってきます。

素直に今の自分にチューニングして、

不要なものを手放し、内側に立ち現れてくるものに従って外側の人生を調節する。

そうやって破壊と再創造を繰り返していくと、人は枯れないのですね。

今も瑞々しいままです。

記事からは、彼が日々の人生に感じ取っている正解感が伝わってきます。

とても上手に歳を取っておられる。

私たちもこうありたいものですね。

今大切に握りしめている「私」の上にはもう次に行くためのリソースは乗せられない。

完成してしまっていて、人生に倦怠が入り込んできた。

それは破壊の時が来ているサインなのかもしれません。

死者への貢献

今日は良い天気だ。

最近は深いテーマを扱う仕事(心理療法)が増えてきた。

先祖の代で起こっていた誤解やもつれを解いて、止まって流れなくなっていた愛情の流れを回復するということをやってる。

変化は本人のみならず、この場にいないクライアントの母親が劇的に変わったりするから不思議だ。

私自身も家系の癒しを扱う時が一番天職な感じがしている。

クライアントのご先祖の代の痛みを癒やし、ほどき、そう振る舞わざるえなかったところにある隠された愛を発見する。

セッションが終わった後、なんだか部屋の空気がキラキラしているように感じる。感謝と祝福が舞い降りてきているような気がして、幸せな気持ちになる。

 

『私の名誉を回復してくれてありがとう』

 

そう言われているような気がする。

私が救いたい人、貢献したい人というのは、どうやら生きている人たちだけではないようだ。

亡くなった人の声なき声を拾い上げ、代理人を通じて激しく溢れ出す感情の激しさを目の当たりにする時、これが自分の仕事だなと思う。

その度に寡黙に生きた死者達への敬意と絆が深まって行く。

 

さあ、今日はあと2本。

良い仕事をしよう。

山頂にて誰を思うか

元日の今日、ひととき家族を離れて1人で山に登った。

山頂付近から見える海。

太陽の光を照り返して、瀬戸内の海は光っていた。

高校生の頃、友人と山に登って同じような景色を一緒に眺めていると、

「こういう時って、自然にあいつのこと考えてしまうな。」と当時彼が恋していた相手のことを言っていた。

そうかもしれないと思った。

恋とはこういう景色を見た時に、自然に心の中で相手を想うことを言うのかもしれない。

そんなことを思い出しながら、では42歳の自分は今この景色を見ながら誰を想っていたか?と振り返ると。

自然に心が求めたのは誰かというと。

僕の心が求めたのは…。

 

鑑真である…(笑)

 

大丈夫か…。なんかだいぶ急ぎすぎてる気がするぞ…。

今から1300年近く前、鑑真はなぜ5度も渡航を失敗するほどのリスクを犯しながら、両目を失明するほど疲労困憊しながら、海を渡り異国の日本に戒律を伝える決意をしたのか。

日本からの要請があったにせよ。自国の反対を押し切り、命をかける程の行動を支えたものは何だったのか?

その心の有り様を理解したかった。

そこに何か大きなヒントがある気がする。

 

光る海を見ながら岩場で瞑想し、鑑真のその大きな心に自分を重ねてみる。

1300年の時を超えての愛慕。

もはや出家してしまいそうである…(笑)

 

ということで(どういうことで?)皆様、明けましておめでとうございます。

今年もこんな感じでいろんな時空を生きつつも、2018年的な現実をしっかり見据えて地に足をつけて歩んで行きたいと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

 

ペルソナの外で人と出会うということ

 

東京にてカウンセリングの仕事を終えてホテルへと向かう道のり。

キャリーケースを引きながら1人でとぼとぼと歩いて、

小さな道を赤信号のまま横切った。

疲れた頭の片隅でそれが赤信号なのはなんとなく気付いていたけれど、人通りも車の通りも無い深夜の小さな道。

足は無意識にそのまま進んだ。

そしてふと顔を上げると、目の前に自転車に跨って赤信号を待っている若い警察官がいて、「あ…。」とお互いに目が合った。

ドキッとしたのは僕の方だけではないらしく、警官も不意を突かれたようで、お互いに戸惑い、気まずい緊張が走った。

その若い警官の表情は、しまった…と狼狽えているようだった。

しまった…油断した。警官として注意するには気を緩めすぎていた…、とでも言うように、

その若い警官は青年本来の優しい人柄が溢れ出てしまっていた。


もう一度気持ちを立て直して信号無視を注意するには、柔らかい心を無防備に表しすぎていた。

無理だ。立て直せない。でも注意しないと…。

一瞬の緊迫した空気の中、そんな若い警官の心の動きが見えてしまって、僕は「ははは…」と申し訳なく苦笑した。

すると、若い警官の表情もほぐれ、「はははは…」と苦笑を返した。

青年らしいあどけなさがこぼれた。

「お互い油断してしまいましたね。」と、言葉にせずともそんな気持ちが伝わってきた。

「いやほんと、どうもすみません」と僕は言葉にはせずに頭を下げ、警官も頭を下げて「はははは」と笑った。

そうするとこちらの緊張もほぐれて、なんだか可笑しさが込み上げてきた。

 

「やっちまいましたね。お互い立場は違えど不完全さは一緒ですね。」とでも言うような温かい共感が芽生えてしまって、それが可笑しくて温かくて、嬉しかった。

そして、お互い通り過ぎた後も更に振り返って、名残り惜しそうに「どうも」と頭を下げて気持ちを送り合った。

2人の中に一瞬の友情のようなものが芽生えてしまっていた。

彼が警察官であり僕が一市民であるという役割を離れたところで、人と人が生身で出会ってしまったことの衝撃と、

それを言葉もなく察知し許し共感し合えたことの感動があった。

人はお互いの心の生身の温かさに触れてしまうと、ほんの一瞬だけでも既に名残り惜しいと感じるものなんだな。

凄いな。

深くつながることはパワフルな喜びなんだな。

と、そんなことを思いつつ時折振り返ってはお互いにペコペコと頭を下げながらお別れをした。

僕らの心の深いところが求めて止まない、人生の柔らかい手触り。

本当に思いもよらない瞬間に、ご褒美みたいにそれに出会う。

 

今日も良い日だ。

 

意識の錬金術

東京の仕事を全て終えて、自分へのご褒美にと一番高いお寿司の弁当を買って、

新幹線に乗り込む。

自分の中に新横浜を超えるまでは弁当は開けないぞ!という良くわからないルールがあって、

今回もそれに従って、新横浜を越えてからお弁当を開ける。

贅沢なお寿司。

でも、スマホを見ながら食べていると、気付いたら中トロを食べ終えている。

あれ? 今の美味しかった?

慌てて思い出してみたが、曖昧。

 

これはだめだと反省してスマホを置き、目の前の寿司と正面から向き合う決意をした。

そして、丁寧に寿司ネタを見て愛でて、そして口に放り込み、食レポする芸人のようにリアクションしてみた。

う~~~~ん!!旨いっっっ!!(≧∇≦)と、1人新幹線の中で悶絶してみた。

そしたら本当に驚くほど美味しく感じられる。

 

感覚的には普通に食べるのに比べて、200%くらい美味しい。

これは良いぞと思って、今度はウニを食べる。

うぉ~~~~!んんんんんん~うっまぁ~(゚∀゚)と大げさに反応する。

すると味覚が活性化して、味の奥行きまで感じ取れる。

脳は案外単純で、騙されやすいものなんだな。

今度は一緒に買った焼き鳥を一口。

うっっほ~~~~(ノ´∀`*)たまらん!!

恍惚の表情で1人焼き鳥を噛みしめる42歳(笑)

旨い。

これはすごい。

じゃあ今度は、設定を変えようと思いつく。

一週間ヨーロッパを旅して長らく米にありつけなかったところ、帰国して最初の米がこの寿司だとしよう。

うん。そうしよう。

そこで、ハマチだ。

バクっと行くと。

ふっぅうう~。ふっぅうう~、うんまーーーー!!(TдT)

美味すぎて震える(笑)

じゃあ次は戦後だ。今が戦後間もない時代だとして、闇市で米を買ってきて白い飯が食えるよ‥と。そう。戦後…戦後…闇市…闇市…イメージ。イメージ。

そしてエビ。

うほほ~。うんんんんんんんんま~( ;∀;)

って、だんだん疲れてきた(笑)

これ、すごく良いけど消耗も激しい。

 

でもそういうことなんだな。

人は内的には、差し出した分しか受け取れないということ。

 

1万円支払ったら、一万円分を受け取ろうと感覚が開く。

高価な料理だから食材が良くて手間暇がかかっていて美味しいというのはもちろんだけど、

高価な金額を支払った分のバランスと取ろうと、無意識は味覚を全開にする。冴える。

であれば1万円という金銭的コストではなくても、注目やリアクションや意識のエネルギーや想像力というコストを払っても良いわけで。

それは疲れるけれど、意識で価値を生み出す錬金術なわけだ。

そしてその分、しっかり消耗もするわけだ。

ここでも意識の運用。

僕は外側に高価な何かを用意するよりも、内側の感性によって世界を変えるようなやり方が好きなんだな。

外側は変えずに、意識の運用によって体験を自由に開放する。

そういうやり方が好きなんだな。

何も持たずに増やさずに、身軽であることは何ものにも変え難く気持ちが良いから。

答えに力は無い

みなさん。こんにちは。

お元気にされていますか?

今日は久しぶりに一日休みを取って家でゆっくりしています。

長らく降り続いた雨も上がり、台風も通り過ぎ、良い天気ですね。

温かい部屋でゆっくりしていると自然に心が緩んで、

普段の仕事モードの時よりも深く広いところにまで心が広がります。

「あ、そういえばあの子最近どうしてるかな、元気かな?」とか、

「そうだあれをやりたかったんだった…」とか、


そんなことがポツポツと心に浮かんできます。

普段届かなかったところにまで意識が届いて、心の周辺に隠れていたひかえめなニーズがポツポツと顔を出して、今日はそれに丁寧に応えています。

そうすると良いものですね。

心の内側が息を吹き返したようにフワッと広がって、自分の中に一致感が出てきます。

自分のニーズを無視するために無意識に固くしていた心も、その必要がなくなり緩みます。

ここでもう少しゆっくりして更に緩むともう一層深い心のフタが開いて、

しょーもないこととか、ろくでもない考えが出てきて、深夜にどうしようもないダメな映画を観たりするのでしょうが(笑)

今日はそれは止めておこうと思います。

今日は良い天気だし、あくまで爽やかに行きたい。

静かに瞑想したり、丁寧に部屋を片付けたり、書類を処分したり計画を見直したり、

身の回りを今の自分の内面に合うように整え直したり、

余分なものは捨て、今の自分にとっての真実を表しているものだけを残していく。

過去の自分の思いつきの夢から選んだ本やアイテムを処分して、

誰かの声に刺激されて選んだもの、自分の声ではないものは手放していく。

そうすると更に自分の内と外に一致感が出てきて、自分のエネルギーの源につながり直すことができます。

心に力が取り戻されていきます。

そんな風に過ごしていると、いつからか心に大きな問いが浮かんでいることに気づきます。

『本当のところ、自分は誰に貢献をしたいのだろうか?

  誰に、どんな感性に、奉仕したいのだろうか?』

その問いと向き合い、更に瞑想を深めると明らかになってきます。

自分の中にしっかりと根ざした方向感が生まれて、情熱が流れ出てくるのが分かります。

こういう体験をする度に思います。

答えが正しいかどうかが重要なのではなく、

正しい答えを知っているかどうかが重要なのでもなく、

その問いにどれだけ真っ直ぐに向き合えたか。

そして答えをどの深さから引き出したかが重要なのだな、と。

大人は「これが答えだから、これを選んで進みなさい」と教えてくれます。

でも子供はそれには納得が行かず、受け取らずにしばらく引きこもって自分で考えます。

あるいは思いのままに動いてみては失敗を重ねます。

そうやって、1人で考え抜いた挙句にたどり着いた答えは、

失敗を繰り返した先にたどり着いた答は、

最初から大人が教えてくれていたものと同じものだったりします。

「ほら、だから言ったでしょ。素直に言うことを聞いてれば良かったのに」と大人たちは言います。

でも違うんです。

正しい答えが未来を作るわけではないんです。

その答えに自分はどれだけのコストを払ったのか。

その答えを自分のどの深さから掘り出したのか、

それがその人の未来を創る力なのです。

黙想や行動の末に導きだした答えは、成長への力動を含んでいます。

それは単なる情報ではなく、力なのです。

「問うこと」とは「考えること」ではなく、「自分の力の源泉を探り当てること」なのです。

大量の正しい答えに晒され続けた結果、自分の力の源泉につながることができなくなっているとしたら。

深さから出てくる力を感じられなくなっているとしたら。

それはとても不幸なことですね。

まずは捨てること。

静かに休み、自分とつながり、心に問いを置いておくことですね。決して考える事は無しに。

年齢を無効にする

先日、とあるセミナーに参加して、そこで仲良くなったおばさん(と言ったら怒られるか…、淑女?マダム?レディ?)と、夕食を共にしたのだけど、

その方の意識がとても自由で、放つエネルギーが気持ち良いんです。

 

年齢を聞くと60才。

還暦です。

 

でも落ち着くこともなく、余生に入っていくわけでもなく、

今でも創作系の講座に参加して講師の資格を取って教えようとしていて、

「そのためのツールが30万円もするよ~。困っちゃう。」とか、まるで学生みたいなマインドで明るく言うんです。

で、それ以外にも僕と同じような心理やスピリチュアリティについての学びも深めていて、人を救える技術を身に着けていたり、

還暦の今もまだまだ人生を攻め込んでいる。

 

これまでも、家でケーキ屋をやったり、オーラソーマをやったり、洋服の展示販売をしたり、宝石の展示販売をやったり、

全部自分でやってるんですね。

その時々に自分が興味があることをやって、興味が無くなったら次に行く。

そうやって雑多に生きてきた結果、今では何でも屋のようになり、

人生のその時々に出会う人に対して何かしらの手助けをして、価値を与え続けている。

 

そこにはビジネスというはっきりした形も無くて、生きながらにして価値を与え、時にはお金に変えたり、変えなかったり、だけど気にしないという感じで生きている。

お金が必要になったら、展示会をしてお金を生み出せば良い。

どの引き出しからでも自由に好きなように価値を生み出せる。

 

良いですね。

形がなくアイデンティティにもこだわらず、変幻自在。

 

かなり不便な地方にお住いなのですが、東京で息子がカメラマンをやっているので、洋服の展示販売や自分の学びのために頻繁に東京に来ては息子と食事を共にしたり泊めてもらったりするそうです。

まだまだ面白そうなこと学びたいことがいっぱいあるようで、「今度の講座高いのよ~。稼がないとね!」とか明るく言っている。

その好奇心と無方向に広がっていく感じが、20若いはずの僕よりもずっと若々しい。

面白いなと思う。

僕が知っている「還暦」のイメージとは随分違う。

 

で、そんな彼女が言うんです。

「こないだ温泉に行ったらおばあさんに話しかけられて、『私何歳に見える?』って言うのよ。

で、聞いたら『84歳よ』って。でも全然見えないの。

その人、水泳選手で今も現役で、トレーニングしていて地元の水泳大会の記録を保持してるんですって。

元気なのよー。」

 

いやほんと、年齢って何なのでしょう。

この年齢ではこうあるべきみたいな社会的な合意。

この年齢になったらもう新しいことにチャレンジしている場合ではないというような感覚。

それはもう僕らの意識を制限するメンタルブロックでしかないのですね。

 

そんなものはどんどん取っ払って、意識をどんどん自由にして、知識を増やし技術を磨き、

身体も生活も在り方もどんどん軽やかに自由になって行きたいですね。

 

現実の年齢は忘れましょう。

時間というのは相対的なもので、生き方と主観によって伸びたり縮んだりするものです。

興奮の中で過ごす1時間は一瞬。

であれば、一瞬しか時間を経験していない。

歳を取らないのです。

 

今の僕の年齢も、実感としては27歳くらいです。

社会人経験が身に付いて修行期間の第一段階が終わって、ようやく社会に対して本当の貢献ができるぞ!責任を大きく担うぞ!とわくわくしている段階です。

 

でも振り返ってみると20歳の頃には60歳みたいな心境で生きてたから(笑)歳を重ねるごとに心は若返って行ってるんですね。

家系から来る被害者意識や無意識のブロックを外していく度に、どんどん制限は無くなり心が自由になっていく。若返っていく。

そしてこれまで生きてきた経験や知識は豊かに積み上がり、好きなように扱えるようになっている。

その方もおっしゃっていました。

「この年齢になると大体のことが分かるから、めったなことでは失敗しないのよ。いいよ〜。何でもできるよ。」って。

なんとなくわかりますよね。40代になっただけで、随分と人を見る力、世の中のこと、自分のことが分かってきて、そうそう失敗しなくなってきています。

それがこの調子で60歳になったらどうなるんだろうと思うと、

ほんと歳を取るって面白い。

 

心を制限するメンタルブロックをバシバシ外し、所属する意識世界を選び、影響を受ける情報を選び、接する人を選び、業界を選び、それらをコラージュのように自分好みに編集することで、時間や年齢の社会的合意を無効にしていく。

パラレルに存在する異なる世界を自由に行き来しながら価値を生み出していく。

そういうことが簡単にできる時代になりました。

 

僕らは本当に刺激的な時代を生きていますね。

ワクワクします。

27歳の青年のようにそう思います。

蚊とインド人とわらしべと

今マクドで仕事してるのだけど、

隣の女の人の手元を蚊が飛んでいて、

いよいよ手にとまりそうなんだけど、その女性は全く気がついてない様子でスマホをいじっていて、めっちゃ気になる…。

例えば、手に止まった瞬間にバシっ!っと女性の手を叩いて僕が見事に蚊を仕留めたとして、

その時、僕は無防備な彼女を救ったヒーローと言えるのだろうか。

蚊から守られたことより、見知らぬオッサンに唐突に手を叩かれたショックのほうが大きくはないだろうか?

更に言うと、もし蚊に逃げられたら?

僕はただおもむろに見知らぬ女性の手を叩いた男ではないか。

「いや…。違うんです。蚊がね…。止まってたんですよ…。ほらあそこ!」って。

でも彼女はでっかいヘッドホンをして音楽聞いてるし、言い訳は届きそうにない。

どちらにせよ、手を叩いた瞬間、彼女が握ってる食べかけのチキンナゲットが勢い良くどっかに飛んで行くことだけは間違いなさそうだ。

そんなことを思ったり書いたりしている間に蚊もどこかに行ってしまった。

僕も書き仕事の集中に戻るとする。

 

******

 

仕事を終えてマクドを出たら外は結構な雨が降っていて、

ホテルも遠いしこれはまずいなと思ったら、店の前でインド人ぽい店員さんが、客が捨てて行ったであろうボロボロの傘の処分に四苦八苦していた。

「あ。それ、もらっていい?」と咄嗟に口をついて言葉が出る。

「あ。いいですよ。どうぞー(^^)」とインド人っぽい店員さんも満面の笑みで応えてくれる。

 

「おおー。ありがとう!助かるよー。」と、お互い笑い合ってお別れする。

今日は良い日だ。気分がいい。

 

そしてボロボロの傘を差して機嫌良くホテルまで歩いてると、向こうから

「にいちゃん。その傘とこの馬と交換してくれんかね?」

みたいな人が現れそうな予感がヒシヒシしてくる。

「でもこの傘はインド人っぽい店員さんと僕との友情のあかしの大切な傘なんです。」って感じで。

一度目はもったいつけて断ってみようと心に決めている…。

ヒヒーン。

意識の旅

束の間の盆休み。

田舎での3日間。

仕事に忙殺され、気力を使い果たした心身に短時間で英気を養うには、精神が望む方向に的確にマインドをトリップさせないと…と、

そのために飛んで行くべき心象世界をできるだけ明確にイメージして、そのために必要な行動やアイテムを選定する。

1つは、ソローのこの本。

 

 

人里を離れ、森の中の湖のほとりで暮らした哲人の思考。

ソローの意識に共鳴すると、良い感じで俗世を離れて自然の中に飛んで行けるので助かる。

 

夏真っ盛りのこの時期のリアルな自然は蒸し暑いし蚊がいるし、いろいろと大変だけど、

エアコンの効いた部屋で自然を横目に読む「森の生活」は、ストレスゼロで意識を大自然の中へと連れて行ってくれる。

意識を的確に望むところにトリップさせること。

そう。

 

僕が田舎に帰ることで期待しているのは、都会では絶対に得られないある種のフィーリングを得ることだ。

そして、今回の帰省でそれが一番成されたと感じたのは、

実家周辺の路地を1人で深夜徘徊することによってだった。

深夜1時。

何も目指さずに、何者にも成ろうとせずに、ただ日々暮らしを営む人達だけが住むこの路地の夜の静けさは独特だ。

 

自分の中に最近足りてなかった何かがたっぷりと満たされていく。

上を見上げると山の稜線と、その上には星空が広がっている。

 

深夜1時の廃墟。

時間が流れることなく堆積していってるような、この感覚がたまらない。

 

しばらく歩くと意識は勝手にスイッチして、普段とは全く違う精神状態になる。

移動距離は問題ではない。

フィーリングを研ぎ澄ませば、時間と意識だけを使って普段では絶対に行けない世界を旅することができる。

 

癒される…。

浮かんできた言葉をスマホにメモする。

『夜を恐れることなく、背景に押しやることもなく、

夜の美質を引き出して一緒に遊べる人間は魅力的だ。』

誰がということではなく、きっとそうなのだろう。

恐れることなく変な人で行きましょう。

どこまでも歩いていけそうな気がした。

 

命の扱い

 

実家に帰って、ご先祖の話を聞くのが面白い。

4年前にお祖母ちゃんが92歳で亡くなって、その葬儀の席で初めてお祖母ちゃんが双子だったと知った。(早く教えてくれよ…)


で、そのお祖母ちゃんの名前が「米」と書いて「こめ」と読むのだけど、双子のもう1人の方は同じく「米」と書いて「よね」と読むそうな。

米(こめ)ばあちゃんと、米(よね)ばあちゃん。

双子の上に漢字で書いたら同じ名前って、ややこしすぎるやろ…(笑)もう少し考えようよ…。

理由を聞くと、

「昔やからな。どうせ双子は育たないしどっちかは死ぬやろ…。って算段やったらしいわ。」って、命の扱い雑やな…(笑)

でも、こういう昔の人の感覚を学ぶのが仕事柄とても大事なんですよね。面白いなあ。

ちなみに米(こめ)ばあちゃんは92歳まで生きたわけだけど、もうひとりの米(よね)ばあちゃんも78歳まで生きたそうな。

「昔、あんたがよく駄菓子を買いに行ってた◯◯商店あるやろ。その店番してたおばあちゃんいたやろ。あれが米(よね)ばあちゃんや。」って、それ今言うか…。

何気に会えてたんやね米(よね)ばあちゃん…。

早く教えてくれよ。

なんかみんな色々テキトーやな(笑)