太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

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