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宇多田ヒカル 土着なるものと異国の風

ここ最近はずっと宇多田ヒカルの新譜「Fantôme」を聴いているのだけど、天才すぎて恐ろしいくらいだ。

出産を経て母となり命の流れの中に入ったことで、存在に重さが増したような感がある。

こんなものを聞いてしまうと、他の歌モノはなかなか聞けなくなる。

それは音楽的な技術の違いではなく、歌い手の響きが何処に結ばれているのか。

その結びの違いが際立ってしまうという意味でだ。

歌とは結局のところ、歌い手の魂の響きであり、それがどこに結ばれているのか、その「結び」の違いなのだと改めて思う。

彼女の声の聴いていると、その深い声の出どころはどこにあるのだろうかと、そんなことを思う。

彼女の声の響きの奥を辿っていくと、その声の主体は誰なのだろうかと。

そうやって辿っていくと、その響きの源は宇多田光という30数年生きた女性のパーソナリティではなく、もっと普遍的な「母的なるもの」や「女性性」の元型に行き着く。

本物の歌い手とはシャーマンなんだということがよく分かる。

宇多田ヒカルの母、藤圭子の歌を聴いた作家の五木寛之は、それを「演歌」ではなく「怨歌」と評したと言うが、その母にしてこの子である。

以前雑誌の対談で、当時20代だった宇多田ヒカルが、好きな作家として中上健次を挙げているのを読んで驚いたことがある。

日本的な文脈でしか共鳴できないような和歌山の路地と血縁を書く中上健次の筆致が、この明るく屈託の無い少女に共鳴するのかと。

「演歌」を「怨歌」としてしまう母の血が確かにこの子にも流れているのだなと。

日本の路地にあるような湿度、血の重さ、土着で演歌的なものへの縁が深い血筋なのだろう。

日本人の無意識に潜むそういった重く湿度を持った土着の思いを慰めるには、日本的な技術では不可能で、

むしろ外の異国の乾いた氣や技術が必要なのかもしれないと、最近私はセラピーを通じてそんなことを考えるようになってきていた。

ニューヨークに生まれ、イタリア人と結婚し子供を生み、地中海の風を受けている彼女の、それでいて中上健次的な土着の重さと縁を持つ彼女の血筋の特殊な立ち位置が、彼女の天才性を支えている。

そして今回のアルバムにはそれが良く表れていると思う。

311の震災を意識して書いたという「桜流し」という曲を聴いていると、直近の震災というものを超えて、

私達日本人の集合的無意識の奥底にある記憶、「靖国の桜の樹の下で会おう」と遺して散っていった私達の祖先の英雄的な意識と、そこに遺されて平穏のなまま命をつなぎ歴史を紡いでいった母たちへの鎮魂のようにも響いてくる。

土着のものとの深い縁を持ち、それを慰めるだけの力。

彼女の母親にもあった力。

その日本的な湿度との縁とは、歌に力強い情念を与える力であると同時に、時に恐ろしいものでもある。

彼女の母を自殺にまで引き込んで行った深い闇のようなもであり、

帰国子女らしい明るさを持つ彼女の一瞬の表情に漂う哀しさのようなものの源泉でもある。

そして私達を癒やす、彼女の声の響きにある重さと哀しさの源泉でもある。

その重い力。

彼女の母が自殺によってワイドショーを賑わしていた時。

遺体を送還する霊柩車の進路を塞ぐ形で写真を取った週刊誌の記者に対して、彼女はTwitterを通じて憤った。

死者の道を塞ぐなんて「それは死者への冒涜だ」と。

それは本当にその通りだと思う。

何の言い訳もできない。

それはやってはいけないことだった。

でもその写真に写っている彼女の姿を見た時、

涙を浮かべてうつむいている彼女の青ざめた表情があまりに美しくて、そこにすら芸術性を見てしまった時、なんとも言えない気持ちになった。

才能とはそういうものなのだ。

本人の望みなどお構いなしに、血が彼女を連れて行く。

長い休息を取り普通の人に戻り、日本を離れてイタリアで母となり、イタリア人の血を混ぜることで、彼女の中を流れている土着のものの力は鎮まっただろうか。

子供を産むことであの重いものは中和され母子の愛へと少しは昇華されただろうか。

そうであれば良いなと思う。

彼女の才能がもう彼女から何も奪わなければ良いと思う。

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