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熱狂が私達が何者であるかを教える

この夏の高校野球は素晴らしかったですね。

普段は野球を見ない僕も、周りから伝わってくるいつもとは違う熱気に感化され、気づけば「熱闘甲子園」で流れを追うようになり、

決勝に至っては、試合を録画して細部まで見ていました。

中学の軟式野球の友人を誘って同じ高校に入学して甲子園を目指した地元培養の公立の農業高校が、吉田輝星という絵に描いたような魅力的なエースを擁して、

野球エリートの王者に挑むという漫画のような王道の物語が、記念すべき100回目に実現する。

そりゃあ、多くの人を熱狂させますよね。

そして、決勝の熱戦を終えた後、閉会式の空には虹がかかっていました。

出来過ぎです。

天が祝福しているような特別な時間でした。

 

敵チームの負傷にもコールドスプレーを持って走る桐蔭の選手。

試合に負けた敵チームを演奏によって送り出す日大三高の吹奏楽部は、金足農業の選手を送り出した後に号泣。

こうした細部が、どれだけ私達の精神が気高く美しくあれるのか、どれほどに命を凝縮して輝かせることができるのか、

人間の最上の輝きの可能性を示してくれていました。

そしてそれに応えるように天は爽やかに晴れ渡り、青空に虹をかけました。

そういうのを見ていると、野球を単なるスポーツとせず、それ以上の精神性や人間性を涵養せしめるものであるとする高野連の理念はちゃんと天の意図に根ざしていて、

高校野球とは、神に奉納される御神事のようなものなのかもしれないと、そんなことを思いました。

それにしても、なんというものを見てしまったのでしょう。

おそらく私達は「仕事」という営みにこのような軸を取り戻さなければ、どうにもならない状態に来ているのではないでしょうか。

仕事というものを単なる経済活動としてだけではなく、

自分を奉仕の心にどこまで純化させ表すことができるかを試す場として、

そして人とのつながりや信頼を体験する場所として、自分の最も気高い精神のあり方を表現する場として、そして最高の遊び場でもあるものとして取り戻すこと。

そうすると、そこではどんな現実が繰り広げられ、どんな偶然に導かれ、その先に何を見て、その時自分の心は何を思うのか。

私達の心を何が満たすのか。

100回目を迎えた甲子園の名試合や名シーンの数々は、私達にその可能性を見せてくれました。

生活の必要や効率や収入の過多を超えた先で、私達の魂の奥底が本当には求め欲しているのか、それを明らかにしてくれました。

あんなに圧倒的な純度のものを見せられてしまうと、もう無かったことにはできなくなりますね。

熱病に冒されたように皆が熱狂し、終わった後もあれが何だったのか、なぜ今も自分の内側が震えるのか、何度も余韻に浸ってはあの体験をなぞっている人もいるようです。

でも観客としての体験に留めるよりも、こう問うてみるとあの体験はとてもスリリングなものとなります。

それはつまり、

『私達はどうすればあれほど美しく在れるでしょうか』と。

『今、心の奥底で震えているものに従って生きるとはどうすることでしょうか』と。

日常の雑事などお構い無しに、心の奥底は私達を揺さぶるんですね。

私ももっと気高くありたい。

私も本当はもっと大きい。

私も本当はもっと美しい、と。

ほんと。その声に従うまではずっと、続いて行くようです。

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