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教養について

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現代において教養とは何か? というのは難しいテーマだけど、岡田斗司夫さんがある本の中で、「情報を摂取し過ぎると逆に教養というものは失われる」みたいなことを言っていて、とても良くわかると思った。

「何を観て、何を読んで、何に触れて考えてきたか」というのも大切だけど、「何に触れなかったか」というのも同じくらいか、あるいはそれ以上に大切なのだと最近は思う。

子どもの頃から両親の躾として、格調高い意識によって作られた芸術にだけ触れることを許されて、サブカルチャーに触れることを一切許されて来なかったような人が現実に存在している。

そういった方と話してみると、ちょっと真似しがたい品性のようなものが漂っている。

いくら大量の情報や言葉をこねくり回しても超えられないような説得力がそこにはある。いわば、清潔さを守りぬいた強さのようなもの。

でもまあ、今更僕はそこには戻れないわけです。泥んこな感性によって作られたサブカルチャーをシャワーのように浴びて来た一時代を、今更無かったことにはできないわけです。

見ていなかったものは見れば良い。

でも、見たものを見なかったことにはできない。

だからそっちの方向は諦めて、僕は泥んこなりの教養というものを深めて行きたいなと最近は考えています。

それは作品や哲学を「知性」というレベルにストックするのではなく、肉体の体験に落とし込むことによって生まれる迫力のようなものだと思うんですね。

例えばプラトンの言うような恋愛を本気で体験してみる。その哲学を生々しく生きてみる。

それによって知を体験した者だけが放つ境地と凄みのようなものをまとっていく。

それが泥んこな僕(ら)にとっての「教養を深める」ということではないかと思うんです。

「何をもってすれば、この人生をしっかりと生きたと言えるか?」ということを考えた時に、(僕に限って言えば)やっぱり仕事で稼いで家族を養うだけではダメだとなるんです。勉強するだけでもダメなんです。それだけでは生きたとは言えないぞ!となる。

自分の持って生まれた精神と肉体の体験を深めないと。深く練りこまないと。

そのためにはやっぱり勉強が大事なんですよね。出来事を解釈するバリエーションを学ばないと、いくら体験を重ねても深まらない。

でも一方で勉強に逃げててもダメなんです。

これは自戒を込めて、そう思いますね。

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