最近思うのだけど、僕は憂鬱が好きなのだな。
人生が機能的に回りすぎると、無意識に憂鬱を取り入れようとしている自分に気づく。
人生のスパイスみたいなもので、ちょっと憂鬱が入ると人生に味わいを感じられるのだろう。
ちょうどスイカに塩をかけると甘さが引き立つとか、それに近い感じなのかもしれない。
というわけで、今日も憂鬱が欲しくなった。
ただ憂鬱にも当然、上質な憂鬱と、粗悪な憂鬱がある。
芸術がくれるのは上質な憂鬱で、
日曜日に目覚めたら「うわっ、もう夕方やん!」というのが粗悪な憂鬱(笑)
最近お気に入りは『バベル』や『21グラム』を撮ったイニャリトゥ監督の作品。
ほんと、胸糞悪くなるくらい憂鬱で、とんでもなくすばらしい映画を撮る。
文学というものも上質な憂鬱を取り入れるためにあるのではないか。
村上春樹の小説は、染み渡るような憂鬱を与えてくれる。
最近、思想家の吉本隆明が、文学を読むと「毒が回る」と表現していた。
本人も学生の頃、文学作品を読むようになって毒が回って覇気がなくなって青白い顔になっていったのだとか。
ほんとそう思う。
教養のために文学作品を読めなんていう人がいるけど、とんでもない。
文学なんて人生にとって毒でしかない。
人生に役立つより、人生を滞らせる事のほうがはるかに多い。
でも毒を飲んできた人間には、それとはっきりわかる魅力が備わるというのも事実で、
明るく朗らかなだけな人間を見ていると、もっと毒飲みなさい、と言いたくなる。
人生というものが、一直線に成功に向かっていくような退屈なものであってたまるものか!と。
なんかもうどうしようもないなこの人…と思うようなグダグダな女のだらしなさが卑猥で魅力的に見えたりするのも人生の一興。
だから人生を綺麗に整頓し過ぎて、退屈にしてしまわないように。
そう言いたくなる。
う~ん。
歳か…。
毒が回りすぎたか…。
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