矢口真里という人を僕はあまり知らないし特にファンでもなかったのだけど、あのニュースが流れてからというもの、俄然応援しております。
だって、あんな有名人に、あんなに圧倒的な下半身のスキャンダルって、そうそう無いから。
逆にもう、なんか気持ちが良いなと思って、「頑張れ~」と言いたくなります。
そうやって「頑張れー」と言うことを通じて僕は、自分の無意識に住む矢口真里的に奔放でエロい自分を救ってもいるのです。
イエス・キリストのあの有名なエピソードも確か、姦通の罪を犯した女に対するものでした。
罪深い女を咎める者達にイエスは
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言いました。
この時、イエスが救ったのは、この女であると同時に、石を投げる者達の中に住むこの女と同質の弱さだったのでしょう。
そう石を投げなさんな、と僕も思います。
これは何も道徳の話をしているのではないのです。
投げた石は全部自分に戻ってきて、きっちりと自分を縛るのだから。そんな自虐的なことはしなさんな。と言ってるのです。自分を大切にしたらいいのにと言っているのです。
投げた石は必ず自分に戻ってきます。現実的にも無意識的にも。例外はありません。
例えば、ステージに立っている人に対して、「面白くないな。」「下手くそだな。」と批判しまくっていた学生時代の威勢の良い僕は、それから数年して、自分が人前に立った時、怒涛のごとく押し寄せる激しい緊張で身体の震えが収まりませんでした。
これまでに自分が放った石の全てが自分に返ってきたのですね。
無意識はそうなることを知っているから、自分はステージには立たないぞ!と脚光を浴びる場面から逃げようとします。
「自分は人前に立つタイプの人間ではないから…」と、そう言って謙虚を装ってはいますが、無意識は知っているのです。
これまでの人生で自分が放った石の全てが、自分に狙いをさだめて待っていることを。
そうやって人生の中から、ステージに立つという選択肢が消え、生きる世界が限定されていきます。
僕らはテレビやニュースや他人への反応を通じて、自分の無意識が今後住める世界を限定していくのです。
さて、矢口真里の話に戻りましょう。
彼女のニュースにどう反応するかを通じて僕らは、
一時の奔放な過ちが許されて、もう一度カムバックを許される世界か。
1つの過ちによって全てを失い、転げ落ちていく世界か。
自分の無意識が住むべき世界を選択しているのです。
だから僕は全力で前者の世界に賭けたいと思います。
火傷しても構うものか!戻って来い!と思います。あの子のどうしようもない性欲も奔放な好奇心も、全部まるっと愛してやりましょう。
これはなにも矢口真里を擁護しているのではないのです。
こうやって僕は自分の心が住む、安心と許しに満ちた世界を創造しているのです。
自分の心に自由を与えているのです。
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