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死は生の対極にあるのではなく…。

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最近よく「自分はいつか死ぬんだな」と、死ぬ時のことを想像します。

別に死にたいわけではなく、むしろ逆で、今が楽しくて人生を愛していて、そして自分が死んだら悲しむ人達が増えてきた気がするから(それはとても豊かなことだ)

だから、自分が死にゆく時、自分の死にどのような肯定的な意味を与えてあげられるか、前もって考えようとしてるのだと思います。

最近、身内を亡くした方のお話を伺う機会が何度かありました。

そして、そのどれにも「美しいなぁ」という感想を持ちました。

死というものが見せる生の美しさと神聖さに心打たれたのです。

それは身内の方も同じだったようで、もちろんこれまで当たり前に存在していた肉親に会えなくなる淋しさや悲しさは大きいけれど、

家族が死によって苦しみから開放されたこと、生身の存在ではなく象徴的な存在へと姿を変えたこと、

そして、長い人生を死によってあっけなくピリオドを打つ生の潔さ、それに触れて敬虔な感動を覚えている様子でした。

そして私も、死ぬ時は周りの人にそのように思って欲しいと思いました。

周りの人が泣き笑いするような、「見事に逝ったなぁ」と、死を祝福してもらえるような、そして生き残った人が、自分の生かされている人生の美しさと愛おしさに思いを馳せるような、そんな肯定的なものとして死を迎えたい。

そして、そうなるように今を生きたい。

ここへ来て、ジョブズの言葉を思い出します。

「だれも死を望む人はいません ~中略~ それでも死は生における最高の発明品なのです。」

あるいは村上春樹の言葉。

「死は生の対極ではなく、その一部として存在している。」

私が思うのは、ジョブズが使った文脈ではなく、村上春樹が書いた意味でもないのだけど、それでもこれらの言葉が今の私にとても印象深く示唆を与えてくれています。

死というものを生の対極ではなく、生の一部として含めることではじめて、生は作品としての美学を全うできるのではないか。

映画や小説が作品として意味を固定するために『終わり』を必要とするように、死こそが生の意味と輝きを支えている。

生きることの終わりとして死があるのではなく、やがて来る死を終幕として意識した上に今を生き、死によって生の意味を総括できるように日々選択すること。

人生を作品とするために、死を忌避するのではなく必要とすること。

これが成熟した人間としての美学ではないかと思いました。

逆に死というものを恐れ、死を回避しようとする努力の多くが問題を創りだしているようにも思えます。

上手く死にきれず生をこじらせたことが、その人の尊厳と偉大さと物語を希薄にして、生き残された人達の中に残っていたその人の記憶や物語を汚してしまう。

また、長期化する介護によって、今を色濃く生きて多くの経験をするべき家族の人生の時間をも侵食してしまう。

もちろん侵食される側もそれはそれで、介護という現実に意味を見出し、作品に昇華することは可能だけれど。

これは死にゆく者の美学の問題なのです。

私は死から逃れるように生きるのではなく、迎え入れるように生きて行きたいと思います。

「やあ、こんにちは。いよいよその時が来たんだね。待っていたよ。」って(笑)

友達を迎え入れるように死を受け入れたい。

それは今を納得しながら、一つ一つ丁寧に生きるということですね。

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