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アナとエルサと『力』をめぐる冒険

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最近話題の映画『アナと雪の女王』をようやく観に行くことができました。

随分前に先に観ていた娘二人が、家で寸劇付きで歌いまくっていたので、そのシーンが来ると「これをやってたのか!!」と吹き出しそうになりました(笑)

それにしても、世間にアナ雪現象に巻き起こすだけあって、力強い映画でしたね。

音楽も映像もシナリオも強く惹きつられる。

そして、とりわけ僕らの心を揺さぶるのは、このアナとエルサの物語が僕らが生きている内的人生の旅そのものだからです。

天から与えらた『力』や『才能』は当の本人にとって多くの場合、恐れや不調和をもたらすものとして経験されます。

例えば綺麗な容姿と女性的魅力を賦与された女の子は、自分の容姿が男性の心を乱していることに気づきます。

そして同時に周りの女性達の嫉妬心を刺激していることにも気づきます。

多くの男性の性的な欲望に満ちた視線にさらされている危険を察知します。

その結果、一定数の女性は意識的か無意識的かは別として女性性を抑圧します。天より与えられた女性的魅力という力を封じる選択をするのです。

同じように、キレすぎる頭脳を与えられた青年は、それによって周囲に馴染めない自分として人生をスタートさせます。

周りの幼さに戸惑い、退屈し、心の奥底で周囲を軽蔑するようになります。

そして心の中でキレすぎる言葉を使って人を切りつけ、やがてその刃は自分自身をも切り刻むようになります。

そして、ここでも同じようにその『力』を封印してバカになる選択をするか、それができなければ、人を避け自分の思考と観念だけの象牙の塔にこもり、偽りの全能感の中で生きることを選択します。

エルサがひきこもった氷のお城はまさに、彼女の力の「ありのまま」の全能感の表れでした。

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それはそれで眼を見張るほど美しく完璧ではあるのだけど、人が住めない世界です。人里離れた世界です。衝突する他者がいないことによる偽りの全能感なのです。

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天より与えられた「力」との関わりにおいて、多くの人はこのひきこもりのプロセスを通ります。(実際的なひきこもりか精神的なひきこもりかは別として)あるいは力の持つダークサイド(人を傷つける力)に惹き寄せられて翻弄され堕ちていきます。

かくいう僕も二十歳の時に1年ほど部屋に引きこもり、本や映画ばかりに触れ、自分の観念と言葉だけの世界に生きるという偽りの全能感の中に身を置いていました。

しかし、この人生の旅が素敵なのはこの先です。

ここに必ず恩恵が訪れるのです。

このひきこもりのプロセスには必ずと言っていいほど、魅力的な「アナ」が現れるのです。

そんなに難しい顔してないで外で遊ぼうよと。「雪だるまつくろう~♪」とアナは屈託の無い笑顔で誘うのです。「あなたの力を私に見せて。私を喜ばせて。」と言うのです。

僕の人生も振り返ると、何人もの魅力的な「アナ」の存在があります。

人生の節々に魅力的な「アナ」が現れ、僕を誘い出してくれました。観念にひきこもろうとする度に僕を社会に連れだそうとするのです。

「あなたの文章が読みたい。」「あなたの作る世界を見たい。」「外で遊ぼうよ。」そう言って、僕自身よりも僕の力に欲望してくれて、すぐに引きこもりそうになる意識を外に向けるように歌い続けてくれるのですね。

そこへ来て、改心が起こります。

人を傷つけたり惑わしたり、自分を切り刻むような無自覚な使い方しかできなかった「力」も、「アナ」の献身に触れることで自覚を取り戻していきます。

意識的にそれを扱おうと、そしてもう一度社会という外側の世界に接続しようと意図するのです。

その『力』を自覚的に扱うための極意は、この映画にあったように『愛』です。

『力』を使う意図を『愛』という一点に保ち続けることです。

(「人を愛する」ような情動的な愛よりももう少し大きくニュートラルな愛なのですが)

先の綺麗な容姿を持った女の子は、無自覚に性的魅力を振りまくのではなく、世の中の男性を祝福し喜ばせるために使おうと、そしてこの世の中を光り輝かせる一輪の花であろうと決意し、その貢献に自分の意図を結び、そのために女性としての容姿を磨き美を表現することを覚悟します。

天から賦与された力を止めずに社会に還元する決意です。

するとこれまでとは打って変わって、周りの男性の自分に対する態度が違っていることに気づきます。

奪い取ろうとするようなセクシャルな欲望ではなく、まごころをもって祝福するように自分を見ていることに気づきます。

同性たちの嫉妬がそれほど起こらないことに気づきます。

ここへ来て、これまでに自分に向けられていた欲望や嫉妬は、性的魅力を振りまく自分の無意識の中にあった小さな競争心や男性への軽蔑心が招いたことなのだと悟り、過去を許します。

それによってより一層、彼女は『愛』という意図に研ぎ澄まされていきます。

真の意味で『力』を扱えるようになるのです。

先に見た、頭のキレすぎる青年もまた身近なアナの献身に触れて改心します。

自分の中にある知識や思考やアイデアを世の中を創造するために使うというチャレンジを始めます。

そして、それでも軋轢はあり、時に心無い人の攻撃を受けるのですが、それでも『貢献』や『愛』という所に意図を結んでいる割合に応じて、自分が痛みを感じないことに気づきます。

意図を純粋に『愛』に整えてある分だけ守られていて、そしてそこからズレた分だけ傷つき痛みを負うことに気が付きます。

そして、痛みは意図を確かめるためのシグナルだと気付き、ますます意図は『愛』に純化されていきます。

『力』に翻弄されるのではなく、『力』を扱えるようになっていくのです。

これが僕らが力を扱い、才能を開いていく中で進む人生の内的な旅です。

誰もが多かれ少なかれ人とは違う力や才能を与えられており、その意味において「エルサ」としての人生を生きています。

そして、一方でその時々に出会った素敵な誰かの「アナ」になることも人生の至極の喜びですね。

より多くエルサとしての生を生きるのか、アナとして生を生きるのか。あるいはその両方なのか。

どちらにせよ、それは進むに値する旅です。

******

そして、ここで話を現実に戻して、主催のプレゼン練習会というワークショップを見た時。

表現力を磨くことで自分の中にある『力』の扱い方を習得していくという意味において、この会はエルサとしての旅をサポートする場であるのだけど、

あの場所が真に豊かなのは、個性的でチャーミングなたくさんの「アナ」の存在があるからなのですね。

アナとエルサの物語がこれまでにいくつも起こってきましたし、これからもそれは起こるのでしょう。

映画を観終えて、そんなことを思いました。

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