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名も無い女の慎ましい偉大さについて

 

おはようございます。

今日はとにかく寝ました。寒いといくらでも寝られるものですね。

3度寝して10時間くらい寝てました。これは今の世の中的にはとても贅沢なことなのかもしれません。

そして3本立てで夢を見て、そこからそれなりの教訓を得ました(笑)

台湾に留学するときは最低限の中国語は習得してないと大変なことになるよ…とか(これはいらん!)

旅先で一度会っただけの身寄りのない男の死に立ち会って、その男の葬儀を取り仕切ろうとする40代の女性の深い愛情…。というか責任感…? 勇姿…? とか。

これは教訓ということではないけど、3本立ての夢の中で特に目立つわけでもなかった脇役の彼女のことが、目覚めた後になってもずっと心に残っている。

あの在り方をなんと表現したら良いのだろうか。

それが当たり前のことであるかのように、あまり知らない男を弔おうとする女性の姿を見て、自分には無いものだなと思ったけど、それを言葉で表すのはとても難しい。

そこにはその男に対する深い愛情があったのだろうか? あるいは人間に対する愛のようなもの。

そんなウエットなものは何も感じられなかった。

では、あの男の死の衝撃(なぜ死んだかは覚えてない)を自分の心の中で処理するには、葬儀を取り仕切るという自分なりの手続きが必要だったのだろうか?

そんな風でも無かった。

身寄りが無い男があっけなく亡くなって誰にも弔われずに処理されていくという味気ない現実に対する彼女なりの抵抗であろうか。

人間の命とは尊いものなのだという彼女なりの宣言なのだろうか。

そんなはっきりした正義感も信念も感じられなかった。

何の気負いもなく、思いもなく、例えば食事を楽しんだ後にテーブルから食器を片付けるように、長年そうやって身にしみついた癖であるかのように、

彼女は見知らぬ男の葬儀を取り仕切った。

彼女の行動が心を打つのは、その意図の希薄さによってだった。

表現欲求を持たない無名の人間が持つ、静かで慎ましい偉大さ。

目には見えにくいけど、この国には(おそらく他所の国にも)そんな慎ましい偉大さがたくさんあって、世の中を支えているのだろう。

どう伝えるかとかマーケティングとかマネタイズとか効率を最大化することばかり考えて仕事していると、たまにこのような慎ましい偉大さを目の当たりにして、狡猾に洗練してしまった自分を恥じ入る。

今はそれができないけど、晩年はこういった静かで慎ましい偉大さ(慎ましいがゆえに表には出てこない無名の人たちの捉えにくい偉大さ)を記録するために自分の言葉を使いたいな。

決してわかりやすいヒーロー物語を記録するのではなく、静かな人たちのために言葉を使いたい。そう思いました。

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