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村上春樹とエリクソン催眠

 

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」を読了。

前々から思っていたのだけど、村上春樹の文学的手法は催眠療法家エリクソンの魔術的とも言われる言葉使いと同じものだ。

エリクソンが対話の中で比喩を多用して、クライアントの意識が気づかない間に無意識の病を癒してしまう力と、

村上春樹の小説が、「正直よく意味がわからなかったけど、なんか良かった」と、ぼんやりとした印象しか与えないにも関わらず、中毒性があって次作も買わせてしまう力とは全く同じものだ。

時間を行き来したり、脱線したり、比喩を多用したり、無駄に薀蓄を披露したり、言葉で再定義したりと、過剰な言葉に煙に巻かれる体験によって読者はトランスに入る。(場合によっては眠くなる)

そして、ストーリーのもつ感情体験よりも、言葉遣いや比喩そのものに反応して内面に奇妙なイメージ世界が広がり、それに読者の無意識にある記憶や感情が反応する。

これが村上春樹=エリクソンの方法である。

だから、村上春樹の言葉によって響かせられるような内面の傷や記憶や感情を持っている人は、それが揺り動かされ、そこはかとない迫力と癒しを体験することとなる。

一方、そういった傷や記憶を持っていない人にとって村上春樹作品は、たんなる思わせぶりな言葉遣いを多用した退屈で鬱陶しい小説だというような評価になる(この評価はまったくもって正しいし健全だ)

そしてこの方法である以上は当然、読者それぞれが持っている病理や記憶の質によって合う合わないがある。

だから村上春樹の作品のどれが優れているか、どれが代表作であるかを客観的に判断するというのは、風邪薬と胃薬と痛み止めのどれが一番優れた薬かを決めるくらい不毛なことなのかもしれない。

ということで、今回読んだ「女のいない男たち」を退屈に感じたのは、僕がそれに対応する病をもっていなかっただけであって、僕はそれを批判する正当な権利を有していないような気がする。

ただ言えるのは、表題作「女のいない男たち」のロートレアモン伯爵みたいな比喩を多用しまくった独白。

「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会い」的な文章は読んでいて正直つらくて、もう催眠を超えて睡眠に落ちてしまいそうだった。というか実際に2回落ちた。(ある意味で凄い力ということか…)

それにしても、今回は「女のいない男たち」というタイトルの短篇集だから、まさか女性がまったく登場しない男ばかりの物語なのだろうか? そんなこと無いよな? そんな春樹作品不可能やんな? と、にわかに不安になっていたのだけど。

蓋を開けてみたら全編女の話しかしてなかった(笑)

なんか安心した! それでこそ春樹!

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