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宇佐巡礼2 大元神社編

前回の記事の続きです。

前回記事『宇佐巡礼1 宇佐神宮編』

 

宇佐神宮を思う存分に堪能して満足したので、ここで終わりにして帰っても良いんじゃないかと、

そう自分に言い聞かせていたのだけど、

でも、知ってるんですよね。

宇佐神宮には奥宮があるんです。

 

御許山と呼ばれる山の山頂にある大元神社というのがそれで、

とんでもない悪路の先にあり、めったなことでは行けない秘境中の秘境だと言われている。

先日もネットで調べたら、車が動かなくなってJAFを呼んで大変な迷惑をかけたというブログの記事に出会った。

そして、タクシーなら連れて行ってくれるとも書いてあった。

でも、タクシーでそんな悪路を進んでもらうなんてなんだか申し訳無いですよね。

 

まあ、今日は十分に満足したし、タクシー乗り場がどこにあるかもよく分からないし…と帰りのバス停に向かって歩きながら、

ふと顔を上げると、目の前にタクシー乗り場が…。

運転手さんと目が合う…あっ(笑)

 

でもまあそこまでして行くのもなあ…とそれでもスルーしてバス停に行って時刻表を見ると、バスは先程出発したばかりで、次のバスまでは1時間待ち…。

うん。分かります。

「来い!」って流れですよね、これ…。

 

気を取り直して、タクシー乗り場に行って運転手に「御許山に登れますか?」と聞くと、

お、おぬし!今何と言った!?みたいな表情になり、

「行けるけど…。時間ある?」と来た。

 

「ありますけど、どれくらいかかります?」

「…1時間半くらい。」

「じゃあ、大丈夫です。お願いします。」と話がまとまる。

 

車の中では「よく登ろうという気になりましたね。普通は一生縁のない場所です。」と、いろいろとお話をしてくれる。

「とにかくひどい道ですからね。びっくりしないでくださいね。」と。

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確かに、え?そっち?道ある?みたいなところを車で分け入って行く。

アスファルトも途中で無くなり、デコボコ道を縦揺れしながら進んで行く。

途中、運転手のおじさんの卑弥呼がここに眠ってるのでは説や、日本発祥説が興味深い。

 

悪路を超えてくれたタクシーと運転手さん。

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車が行けるところまで行ったら、あとは15分ほど歩いて山頂を目指す。

運転手さんと一緒に山道を歩く。

既に肌寒さと共に、濃厚で原始的な神気で身体がビリビリする。

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誰もいない境内に着き、「どうぞこちらへ」と運転手さんがまるで神主さんのようにお社の上へと案内してくれる。

運転手さんと一緒に拝殿の前に正座し、横並びで一緒に手を合せる。

 

太古の氣。

原始的なエネルギー。

最近は仕事の心理療法で、ファミリー・コンステレーションというワークに魅せられているのだが、

人は親やご先祖や祖国といった自分のルーツとつながって、家系に所属しなければ本来の力が発揮できないということを、そのワークを通じて見せてもらっている。

家系とのつながりが縺れたり途切れたりしていると、先祖代々が経験して養った豊かなリソース(才能、エネルギー、知恵、自信)が流れてこなくなり、弱々しくやせ細った存在感の人間となっている。

だから、それとつながり直すことで、脈々と引き継がれて来た家系のリソースを取り戻し、根を張るような逞しい自信を取り戻すことができる。

それがファミリー・コンステレーションの力。

 

そして、神社参拝も意図すれば同じことが起こる。

深く頭を下げ、この国の先人達の意識、神々の意識を敬い、そこで綿々と受け継がれてきた歴史の先端に私の命があります、と。

私はそれを受け取り、神々のリソースとつながり、それを良きことに使っていきますと、そう言う時、

ビリビリと震えるようなご神気が身体を満たし、何かが確実に受け渡される。

太古から続く神聖な意図を紡ぐ者の一員として、迎え入れられる。

 

それは一般的な神社参拝とは違って、イニシエーションのようなもの。

個人として扱ってきた力に、神々の公式のものとしての印が与えられ更なる力が付与される。

天のサポートが大きくなる。

私のような意識の仕事をしている人間にとっては特にそれが重要で、

個人の我の力ではなく、正統な天の印の与えられたエネルギーを扱うことで、

人の無意識への影響の深さが変わってくる。

 

どの神域のどの意図にどれだけ自分がコミットして所属しているか、その質と量がその人の活躍の範囲と「自信」や「才能」を決定づけているとも言えるのです。

これが人生のある側面での真実であり、精神の進化というものの大いなる秘密です。

 

神社や神々のみならず人はあらゆるものと「結び」を作り、それを束ねることで「私」というものを織りなしていくのです。

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失礼の無いよう、写真は少し離れたところから。

 

そして帰り道。

「珍しいですね。お客さんは運が良いですよ。」と運転手さん。

「ここから海が見えることなんてめったに無いんですけどね。ほんとめったに無いんですよ。」と言って車を止めてくれださった。

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更に続けて、「私も神様なんて全く信じて無かったんですけどね。あることがあって導かれましたね。本当に信じるしか無いことが起こって。

導かれますね。ほんとびっくりするくらい導かれます。」とおっしゃる。

 

「それで今は、神様の元に人を連れていく使者のようなお仕事をしてるんですね。」と言うと、

「僕はそう思ってます。」とはっきりと断言された。

 

運転手さんの過去に何があったのかは分からないけれど、人それぞれの運命があり導きがあり、

それに抗ったり従ったりした先で、天命の中にすっぽりと収まって生きる人間の謙虚さ。清潔さ。

敬意を持たずにはいられなかった。

 

帰り道は日本の古代史や神々についてのお話を聞きながら駅まで送ってもらって、しっかりとお礼を言って固い握手をしてお別れをした。

 

次は来るのは何年後になるか。

10年後か20年後か、それは分からないけれど。

必ずまた来ようと、そう思える場所になった。

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帰りの車窓からの景色。

 

良い旅だった。

神社を参拝するも、人と深く交感するも、その土地に触れるも食すも、全てが巡礼なんだな。

自分には無かった響きを自分の中に取り込み持ち帰り、また新しく出会う誰かを響かせていく。

あれもこれもそれも、人生すべて巡礼なり。

宇佐巡礼1 宇佐神宮編

福岡にて2日間のセミナーを終え、今日は大分の宇佐神宮へ。

もう10年以上前から行かねばと思っていながら、なかなかその機会を作れずにきた場所。

全国に4万4千社あるといわれている八幡神社の総本社です。

みなさんのお近くにもきっとお有りですよね。

無かったとしても、大きな神社の中には必ずと言ってよいほど摂社・末社として小さな八幡宮が祀られています。

日本一の広がりを見せている神社の元締め、総本宮です。

 

僕が生まれた時にお宮参りしたのも地元の八幡さんで、その意味では個人的にも最も縁の古い神社です。

ようやくその総本宮にお参りができる日が来ました。

博多から大分の宇佐まではソニックに乗って1時間38分。

ソニックの中が近代的でちょっとテンション上がりました。

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九州の家はデカくて庭付きでいいな〜とか思いながらボケーっと車窓からの景色を眺めたり、

ペットボトルのフタが開けられず苦労してる隣のおばあさんを助けたりしていると、

宇佐に到着。

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想像以上に何も無い…。

 

なんだかアメリカを感じる(笑)

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遠くの山に見える『USA』に至ってはアメリカ感…、狙ってないか?(笑)

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駅前はこんな感じ。

 

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駅を降りたら宇佐神宮行きの人達でごった返してるだろうから、何も考えずにその流れに乗って行こうと思ってたら、違った。

バスを探さないと。

 

待つこと10分。

小さいバスが来た。

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運転手に聞いてみるとこのバスは宇佐神宮には行かないそうな。

次のバスとのこと。

 

バスの後ろには『運転手募集』の看板を発見。

このゆったりとした土地で1時間に1本のバスの運転手として生きるとは、どういうことなのかと想像をふくらませる。

例えば、愛する人と駆け落ちして誰も知る人がいないこの土地で、バスの運転手としての人生を再出発させるとか…。

愛する人がいるだけで十分じゃないかと、うらびれたこの土地で最小限の生活を営む…。

うん。好きだな。この昭和の日本映画的な湿気た感じ。

 

でももう時代は平成を終えようとしていて、そんな湿度はノスタルジーの中にしかない。

 

あ。カニおった。

このカニ懐かしいな。

おばあちゃんの住んでいた海辺の町にはいたるところにこのカニがいて、一日中カニ取りをしていた。

こっちにも。

 

なかなかバスは来ない…。

 

あ、こっちにも。


って、もういいですよね(笑)

 

バスに乗り込むと乗客は3人。

いいですね、この感じ。懐かしいな。

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窓の外では6月なのにスイカが売られている。

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1玉2000円…。うん。普通やな(笑)

 

10分ほどして宇佐神宮、到着。

想像以上に人がいない。

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全国4万4千社の総本社なんですけど…。

 

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このスケールの空間を1人で満喫できる贅沢。

 

道の脇には綺麗な水が流れている溝があった。

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こういう溝にザリガニいたりするんだよなー。

と、のぞき込みながら歩いていると。

 

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グワーグワー…って。お前さんは想定外や…。

 

餌をやっている人と一緒に鯉を眺めたり。

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神が降り立ちそうな場所。柵がしてあるのが残念。

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まだまだ奥へと進んでいく。IMG_8030

 

そして本殿。
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凄い濃厚なエネルギーで脳の中をバシャバシャと洗われてる感覚。

しばらくそれに浸りつつ、椅子があったので座ってしばし瞑想。

 

目を閉じてご神気に意識をチューニングしていると、心が静まってくる。

すると、

ターン!

という音がして、目を開けると御神木の楠の木からでっかい毛虫が落ちてきたようだ。

シャウエッセンの一番立派なやつくらいある…。

まじか…。

しっかり毛も生えてる。

 

でもここは屋根があるから大丈夫。

もう一度心を落ち着けて目を閉じる。

太古より守られてきた日本のルーツのエネルギーに意識を合せる。

心が静まる…。

 

ターン!

 

って、また毛虫落ちてくる(笑)

 

落ちても死ぬわけではなく、落ちてからうねうねと動き出す。

もしかすると移動するためにわざと自分から落ちているのか。

どうも人を攻撃する意図は無さそうだ。

まあ良い。

 

日本庭園によくある、竹にちょろちょろと水が溜まって、カコン!と音がするあれ。

ししおどし?

あれだと思えば良い。

もう一度静かに目を閉じて、心を整える。

全国4万4千の八幡宮の大元であるこの土地の意識に心を合せる。

 

 

ターン!

 

 

ターン!

 

 

ターン!

 

風情あるわー(笑)

 

裏を見ると急な階段があって、その先の景色が気になる。

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下りてみるとこんな世界が広がっている。

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ぼんやりと立っているだけで充電される。

やっぱり大阪に住んでると圧倒的に土の氣が足りないんだな。

 

そしてまた神社に戻って参拝してご祈祷を受けて、引いたおみくじは大吉。

 

『すること成すこと全てが幸いの種となる』

って、うれしいですね。

昨日の住吉神社の大吉といい、九州の優しい土地柄そのままに祝福してもらっている感じがする。

大阪の住吉大社なんてびっくりするくらい凶が出るのに…(ボソっ)

 

満足したところで近くの食堂で遅い昼食。

広い食堂なのにお客さんは僕だけ。IMG_8049

旅をしてるとこういう雰囲気がたまらないですね。

家族で営んでいるようで、

僕が食べていると、側のテーブルで家族5人が出てきて静かに昼食を取り始めた。

テレビでは最近生まれたパンダの赤ちゃんの話題。

 

毎日こんな風に家族で昼食を囲みながら歳を重ねていくのか…と、そのゆったりとした時間感覚に思いを馳せる。

 

とり天とだんご汁と、なんとかご飯。名物セット。

家の食事のような手作り感が良い。IMG_8050

食べ終えたら、心も胃袋も満足して、そろそろ帰ろうかとバス停に向かう。

 

もう今日は十分に堪能したし、このまま終わりにして帰っても良いんじゃないかと、

そう思ったのだけど、でも終わりじゃないんですね。

続きがあるんです。

本当の巡礼はここからなんですね。

長くなったので、続きは次回に。

偉大さに触れる

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東京での仕事を全て終えて、品川駅でお土産を買おうとパウンドケーキを見ていたら、

「オレンジのケーキが人気ですよ」と店員のお姉さんが微笑みかけてきた。

その笑顔が自然な思いやりに溢れていて気持ちが良くて、思わずこちらの表情も緩む。

すると「食べてみられますか?」と奥からラップにくるんだ試食用のケーキを出してきてくれた。

その行動を支える意図の透明なこと。清々しいこと。

手にケーキを乗せてもらって、それを食べながらうんうんと適当な返事していたら、

「今でしたら、なんたら…(忘れた)ティーと一緒に食べて頂いたりしたら良いかと思います。」って。

正直オレンジのケーキの味はあまり好みじゃなかったけど、もうそんなことはどうでもええわ!

俺はお姉さんの勧めるものを、お姉さんの仕事の尊さを称えるために買うよ!

俺はお姉さんの在り方の偉大さをこのパウンドケーキとともに食うよ!

という熱い気持ちになって今、特に好きでもないオレンジのパウンドケーキを持って大阪に帰っている…。

人の「偉大さ」とは何なんだろう…とか考えながら帰っている。

どうやらそれは年齢や職種や収入には全く関係が無いらしく、

ほどけた心から自然に溢れてくるその人の存在のエッセンスのようなもので。

それに触れてしまうともう僕らは抵抗のしようがない。

ただ祝福するだけの存在となる。

春と意識

3月も残すところ数日となり、今日は骨休めに1人で実家の相生市に帰省して、1日山に篭っておりました。

たまに人間の意識世界を離れて、山に1人になってリセットしたくなるんですね。

そんな時に実家が程良い田舎にあって程良い高さの山があるのは本当に助かるなと、最近になってそのありがたさを噛み締めております。

子供の頃から慣れ親しんだお気に入りの山があります。

久しぶりに行ってみると、いつもの登山口に新しく看板が立てられてました…。

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天空のパワースポットって…。この色使い…。パワースポットブームに寄せて来たな~と笑ったけど、確かにここはパワースポットなんです。そこらの裏山とは氣が全く違います。

充電される。

でも一番ありがたいのは、平日に行くと自分以外の人がほとんどいないこと。

都市に住んでいると、周りに誰もいないという感覚がとても貴重に感じます。

山に入って1人で歩きだすと、人間の意識世界を離れて自分が野生に帰っていくような、呼吸がしやすくなるようなホッとする感覚。

心が静まってきます。

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立派に生い茂るシダ。

普段意識しなくとも人は周りの人間とエネルギー的に作用し合いながら生きているんですね。

山に入ってしばらく歩いて半径1キロ以内に人が誰もいないような環境に身を置くと、そのことが体感で分かります。

身体から何かがほどけるような感じがあり、自分でも驚くほど心が静かになります。

自分は普段からこの状態に戻りたいがために瞑想を取り入れてるんですね。

でも都会での瞑想ではここまではなかなか難しいですね。

どんなに頑張っても半径20m以内には誰かいますもんね。

でもここでは誰もいない。人の意識が無く自然の木々や鳥たちしかいない。

その子たちと同調することの心地良さ。

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僕は小学生の頃から、学校から帰ると1人で山に入っていく子供だったのですが(危ない子ですね)今思うとそうやって意識のリセットをしていたんですね。

そしてその必要性は大人になった今でも大いにあるようです。

誰もいない休憩所でゴロンと横になって空をながめつつ、ホトトギスやキツツキの声を聞いている。

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ゴロン…。写真が逆になってますけど空見てるので、こんな感じです。

自分の周り半径1キロ(もしかすると5キロ以上?)の範囲内に人間が1人もいないと、自分がどのような意識状態になるのか、

もしかすると生涯に一度もそれを体験したことの無い人も多いのかもしれませんね。

一説には人間のオーラ場は半径15メートル、魂の身体に至っては150メートルにまで広がっていると言われています(僕が見たわけではありませんが…)

だからそこに人がいると意識はしていなくても、都会に住んでいるだけで無意識に多くの人と混ざり合ってるんですね。

ではその混ざり合いが無くなるとどうなるのか?

半径数キロに人間がおらず自然だけがあるような環境では自分の心に何が起こってくるのか。

自分の心がどれほど静まるものなのか。

自分の内側からどのようなフィーリングが現れてくるのか?

この感覚を普通の暮らしの中で何気なく味わえていたのは、もしかすると田舎育ちの人間の特権なのかもしれません。

そんなことを考えつつ登ること数10分。

途中に小さな洞穴があって、その奥に地蔵様が祀られていてます。いつもそこで瞑想するのですが、今回行くとその入口付近にも新しく看板が立っていました。

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なるほど修験者の修行の場だったんですね…(知らなかった(笑))

詳しい説明もありました。

岩の奥の龍脈の近くで修行できるように、修験道の行者によって人間の手で掘られた洞窟なのだとか。

掘られたのが江戸時代以前で、昭和30年ころまでは修験者が常駐していたのだとか。

馴染みある場所に意外に深い歴史があるのは興味深いですね。

神聖な場所なので洞窟の写真はやめておきました。

それは、あなたがご自分で来た時のお楽しみということで(誘ってるのか…!)

だいぶ高くまで登ってきました。

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この感じ。

ホー…ホケキョ!言うてます。

途中、春を見つけたり。

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そして頂上に近づいてくると、天に登った感がすごいです。

この感じ。

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ものすごく登った感がある景色ですけど、実は20分ほどです(笑)標高わずか300m程度でこの達成感を演出してくれる景色は助かってます。

岩場で景色を眺めつつ1人でしばし瞑想。

神よ…!出でよ…!と念じてみる大人の遊び…。

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ぱかーっと空が割れ。ええ雰囲気出してくれます。

しばらく1人でぼーっとしていると縮こまっていた気持ちも大きくなって、リフレッシュしてきます。

都会生活だとこんなに広い空間にまで意識を広げること無いですもんね。

できれば毎月来たいくらいですが、なかなかね。

頂上にはこんなボックスが。

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登山ノートを開いてみるとこんな強者が。

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毎朝登り続けて今朝で3970回目の登頂だったよう。

本当に行者がいるんだな。10年か…。毎朝か…(ちょっとうらやましい)

こんな意識状態から一日を始められるなんて気持ちが良いだろうな。

でも、こういうのは老後の楽しみに取っておこう。

まだまだ仕事で貢献したいし俗世にまみれたいぞ。

さあ下界へ。

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日も傾き、1人帰路についたのでした。

そこに戻れば自分をチューニングし直せる場所があるというのは、ありがたいものですね。

嫌われる勇気

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最近、個人的に茂木さんが面白いんですよ。

あの脳科学者の茂木健一郎さん。もじゃもじゃ頭の。

以前何冊か著書を読んだことがあるしテレビでも見たことがあるんだけど、テレビの茂木さんってテレビ用に大人しくしてるんですね。

YouTubeとかで見ると熱い上に、時には多動かと思うようなスイッチが入る時がある。

もう創造性がとまらない!って感じで、本当に楽しそうに脳を使っている。

社会学者の古市憲寿さんが一緒にパネリストとして出てて最後のコメントで、「僕も落ち着きないですけど、茂木さんがほんと落ち着き無くてびっくりしちゃいました」って(笑)

人が喋ってるのに横で変な運動をしたり。

本人曰く、人の話を聞くだけだと脳の負荷が足りなくて他のことやりたくなっちゃうって、分かるけどやな…(笑)

でも見てると気持ちが自由になるんですよね。

楽しそうだし情熱が凄いし、知の高揚感みたいなものが伝染してくるんです。

で、面白いのが、

古市さんの前で日本の社会学は学問として終わってるって言ったり、

運営元の社長である藤田さんの前でabemaTVをディスったりする人なんだけど。

そして、最近では「日本のお笑いはオワコン」 「国際水準のコメディアンとはかけ離れている」とか言って、炎上して批判を浴びたりしていたわけですけど、

別の所(藤田さんの前でAbamaTVをディスった席)でこういうことを言ってるんです。

「僕、高校の時ニーチェを読んで二十歳の時ミルトン・フリードルマン読んだのがものすごく影響を与えていて、

僕の人生の一貫したミッションはより自由になりたいってことなんですよ。僕はリバータリアンなんです、簡単に言うと。

で、30代、40代、50代と常にその命題との格闘だったと思うんですよ。

意外とこれは難しくて、例えばさっき(藤田さんの前で)abemaTVをディスってましたけど、

「藤田さん、abemaTV素晴らしいですね~!」って言うのも自由じゃないんですよ。でもここで藤田さんと決別してしまうのも自由じゃないんですよ。

僕さっき地上波テレビをディスったけど、付き合ってるんですよね。出演の依頼があれが出るんですよ。

大学もディスってたけど大学で教えたり博士課程の学生の指導をしたりしてるんで。

これは特に日本ようなピア・プレッシャー(仲間からの圧力)の高い社会で生きているみなさんによく考えてもらいたいんだけど、

例えばマーケットに合わせたものを出すって儲かるだろうけど、レッドオーシャンでブルーオーシャンに行けないですよね。

だからと言ってマーケットとあまりに違うものを出しても空振りになって、会社傾きますよね。

そこの微妙な間合いの中に自由ってあると思うんですよ。

僕はずーっとそれを探ってきているような気がします。

最近モハメド・アリさんが無くなって動画が色々出ていて見てたんですけど、1分位こうやって相手の打ってきたパンチを全部かわすみたいな動画がありましたよね。

モハメド・アリさんて結局ヘビーウエイトで物凄いパンチもあったけど、相手のパンチを受けないということで、試合を(コントロールしてきたんですね) そうするとものすごく相手のパンチを見ないといけないわけじゃないですか。

なんか自由ってそういうところに似ていて。

中略

俺はいまだにそこを探ってる気がするですよ、50になりますけど。

こうして不規則発言をしますよね。田中さん(司会者)とかすげー焦ってると思うんですよ。

不規則発言しちゃうんだけど、やっぱりその時の皆さんのリアクションとか世間のいろんなこととかを見ながらパンチを受けないように必死になってかわしているところがあって、そこの間合いの中で…以下略」

なるほどなぁと思うんです。

僕は日本的な礼儀作法とか文法を重んじる中での自由というものを見てるわけだけど、そして確かに礼儀作法が無意識に自動的に扱えるようになると変な攻撃は受けずにストレスなく、気遣いからは自由でいられるわけだけど、

それによって損なわれているものって大きいのかもしれないなと。

変な音を出して他者と不協和音を作る中にある自由は、刺激と創造性が高そうだなと、新しい可能性を感じたのでした。

少なくとも僕が意識したことのない種類の自由だなと。

その後、お笑いをディスった問題でワイドショーにまで取り上げられるようになったわけですが、

茂木さんはその後AbemaTVに出演してウーマンラッシュアワーの村本さんと2時間に渡って、日本と海外のお笑いについて語ってるんですね。

その後、松本人志のワイドナショーにも出演して、パンチを受けたりキャラを使ってかわしたりしている。

批判した対象から逃げずにむしろ近づいていくんですよね。

これが彼の言う間合いであり、その中に現れてくる自由と刺激(ヒヤッとするような緊張感も含めて)の価値は、彼にしか分からない質のものだろうなと思うんです。

だから、今回の茂木さんの言動を見て「やっぱりああいう発言はダメだよね…」というのは違うんですね。

それだと逆なんです。より強いピア・プレッシューの中に自分を絡め取ってしまう。

批判しておいて決別もせず屈託なく近づき対話を深めたり、パンチをよけるつもりがめった打ちに合ったり、謝って反省したりしながらもまた節操もなく自分の意見をツイートし続ける茂木さんの在り方に、自由と希望を見ないといけない気がするんですね。

僕は100万部を超えるベストセラーとなった「嫌われる勇気」にはあまり感銘を受けなかったのだけど、茂木さんの行動の中に立ち現れている嫌われる勇気と自由にはとても励まされるんですよね。

心を開放してくれる感じがするんです。

ここ最近の僕は人生が安定し過ぎて、飽きてしまったような妙な感覚に包まれていたのだけど、

今後進むべき僕の未開の地は相手のパンチの間合いや、パンチを打った時に生じる懐のスペースあたりにあるんじゃないかと考えたら、なんだか元気が湧いてきたんです。

もっと打たれないとね。

あるべき場所にあるように

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気持ちの良い天気ですね。

寒かった『大寒』が終わり今日から『立春』

トイレに置いてたまに読んでる二十四節気の本も、今日から最初のページに戻ります。

七十二候では『東風氷を解く』

東から吹く風が湖の氷を溶かして行く。

素敵なイメージですね。

ここからは春の気配が少しずつ見えてきます。

まだしばらくは寒いでしょうけど、お日様の陽気にも春の気配が感じられますね。

嬉しいものです。

僕の断捨離プロジェクトも3分の2ほどが終わって、気持ちがどんどん軽くなってきています。

この清々しさが何ものにも代えがたく良いです。

物が無くなって部屋が整理されたりスペースが生まれるのも気持ちが良いけど、それだけではないこの心地良さの源を探っていくと、

ずっと滞って使われなかった物がまたお金になって血液のように流れ出すことや、

物達がまたそれを求めている人の元に行き、本来の能力を発揮して物自身の天分を全うできるように促すことがそもそも、徳の高い行為なんだということが分かります。

自分の滞っていたエネルギーも流れだして清々しい上に、徳のエネルギーも流れ込んでくる。心地よい。

逆に言うと、目的もなく使わないままに置いておくことは、本来物たちが発揮でたであろう才能と貢献を自分のもとで捨てているようなもので、もしかすると小さな不徳なのかもしれません。

力を無駄に捨てないために、それが求められている場所へと流す。

そうすることが自然の摂理なのでしょう。従うととても気持ちが良いのです。

仕事においてもそうですね。

自分や周りの人たちが持てる才能を滞らせずに、それぞれの能力を最大限に発揮して輝かすには、どういう配置がベストだろうか?と、そのバランス点を見出すように采配していくと、一番上手くいきますね。

自分の人生の方向性を決めるときも同じで、自分の能力や才能が今最も求められている場所はどこで、

「どこに時間や労力を注ぐことが世の中の価値を最大化させるだろうか?」

という問いをもって、その場所に自分を差し出していく。

そうするとスルスルと自分も周りも発展へと運ばれていきます。

自分と周りの人や物の能力や才能を無駄にせず、流れを止めず、出し惜しみもせずに、あるべき場所に流すだけで物事は随分上手くいくようです。

そんな風に感じているので、最近の僕はもう自分自身の個人的な夢や目標など、どうでも良くなってきました。

「なんでもするから、資質に合った場所で思いっきり使ってください。そこに運んでください。ガンガン貢献しますから。」

そんな祈りが心の中に響いていれば、それで良いですよね。

あとは、力を抜いて天の采配に委ねる。

力まない。握りしめない。

もっと物も夢も手放し、身軽になって進んで行こうと思います。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

折り重なった時間を旅する


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先日、友人の結婚式に京都に来て。

その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、

夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。

少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。

歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。

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風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。

思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。

その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。

その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。

うつしよ=写し世

この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。

京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。

あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、

ここが古都であることの凄さを思い知る。

現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。

そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。

さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。

そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。

それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。

なんという雅な世界だろうか。

不意に遠くで花火が上がる。

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僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。

気高さに向かわせる力

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名探偵コナンが遭遇した殺人事件が600件を超えたそうだ。(なんという高校生だ!)

でも毎週毎週、謎は解かれなければならないし、そのためには誰かが死なないといけない、という大人の事情があるのだろう。

そして登場人物の中でおおよそ最も平凡そうな人間こそが真犯人で、

その犯人だって本当は悪い人ではなく、誰か愛する人の無念を晴らすためにやむなく人を殺めるに至ったのだろう。

面白いもので、僕らはそういった物語、復讐劇に一定のリアリティーを持って受け入れている。

騙されて会社を乗っ取られて自殺した父のための復讐とか。

大学の研究成果を教授に奪われて、失意の中で自殺した恋人のための復讐とか。

フィクションの世界では必ずと言っていいほど出てくる、こういった王道な復讐劇だが、考えてみると現実のニュースではまず聞くことが無い。

あるのは痴情のもつれか、金銭のもつれか、動機なき殺人ばかりだ。

心無い若者の無免許運転によって愛する我が子を轢き殺された父親も、いじめによって子供を失った母親も、憤りの先に復讐に手を染めることはまず無い。

なぜだろうか?

愛する我が子を失ったという現実を、痛みを、どのように解釈して、どのような意味を与えてその不条理を自分の運命として飲み下したのだろうか。

その痛みを受け入れるプロセスで人はどこに連れて行かれるのだろうか?

私は心理療法家として、多くの人のその受け入れのプロセスに立ち会う。

クライアント自身が現実に直面し、苦痛と悲しみにあえぎ、涙を流すのをただ横に寄り添いながら、見守っている。

その瞬間の激しい感情の震えと凝縮されたエネルギー場に立ち現れるのは、非常に神聖で気高い感覚だ。

人生のエッセンスに触れているような確かな手応えのようなもの。

不謹慎ではあるが、心が洗われるようにさえ感じることがある。

そんな場面に一緒に立ち会っていて思うのは、不条理な現実に直面すると、人は自然に偉大さに向かって引き上げられるようにできているということ。

出来事を自分事として直視し、痛みや悲しみを味わい、自分の運命として受け入れる中に、神々しいと言って良いほどの癒やしが立ち現われ、

人間はそこで気高さに向かって引き上げられる。

そうなると、もう事件の前と同じ自分ではいられない。

私的な自分から公的な自分となり、社会に何かを与えることで事件に気高い意味を賦与しようとする。

そこには、フィクションとは全く違う力が働いている。

(どうやら人間にはそんな力があるようだよ、コナンくん。)

どれだけ人が亡くなろうと、どんな凄惨な事件が起ころうと、社会はますますきれいになっていく。

それは間違いないようだ。

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7つの習慣メルマガにてご案内していた、以下の記事のURLが間違っていました。すみません。

こちらに正しいリンクを貼っておきます。

生きられなかった『柔らかい優しさ』の物語

氷室京介 LAST GIGS 後編 忠実であるということ

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以前書いた記事『氷室京介 LAST GIGS 前編 天の采配』の続きです。

氷室京介の引退ライブ『LAST GiGS』に行ってきました。

京セラドーム(旧大阪ドーム)に来るのは何年ぶりでしょうか(たぶん学生の頃にエアロスミスのライブに来て以来20年ぶりくらい)

会場に入り、右往左往しながら自分の座席を見つける。周りは同年代の男性が多い。

開演の時間が近づくに従って徐々に期待が高まって、会場のボルテージが上がっていく感覚がたまらない。

氷室京介を求める数万人がドームの中で巨大な集合意識を形成していて、そのエネルギーに自分を同化させると高揚感がふわっと広がる。気持ちが良い。

なるほどなと思う。

ライブとはこういうことなんだな。

ステージのアーティストが豆粒ほどしか見えなくてもそれは大した問題ではなくて、それよりもそこにいるファンたちの集合意識と溶け合わさり一緒に高揚してアーティストのリズムに合わせて大きな1つになっていくような意識の拡張体験。

それがとても独特なんだな。

そんなことを考えつつ会場で待つ。隣の同年代のお兄さんもそわそわしている。

会場のボルテージが徐々に高まり、皆の手拍子が始まる。

そして高まりきったところで、氷室京介登場。

何事も無いかのように普通に歩いて出てきて、

「おら!行くぞ!大阪ぁー!」とシャウトし、数万人がそれに応え、会場が一気に熱狂し、イントロが成り響く。

こうして20年来のカリスマとようやく場を共有することができたわけだ。

大きなモニターに映し出される彼を見ていると、

どの角度から見ても完璧にカッコ良すぎて、笑いが込み上げてくる。(完璧なものを見ると笑いが出ると言ったのは太宰治か)

なんなのだろう。この人は。

衰えどころか、逆に極まっているのではないか。

数万人をまとめ上げて煽っている姿を見ていると、これは人なのか?という気さえしてくる。

20年以上前の、もはや懐メロと言っても良いはずのBOOWY時代の楽曲が、

『ONLY YOU』や『マリオネット』が、普通に今、現在形でかっこ良い。

なんなのだろう、この人は。

完璧にロックの化身のようになった姿を見て、彼が周りの期待に晒されながらも頑なにBOOWYの再結成を拒んだ(というよりも意にも介さなかった)理由が少し分かったような気がした。

ここまで研ぎ澄ますことが彼の仕事の基準であるならば、それは無理だなと感じた。

自分の心に、過去を懐かしみ友情を尊重するような思いに居場所を与えるならば、

それはもはや「人間の仕事」となり、このような神々しい研ぎ澄まされた存在感は纏えないだろう。

彼が忠誠を誓っているのは、そこでは無かった。

氷室京介というイデア(ロックの表す美学のようなもの)に忠実であろうとするならば、自分と同じ過去を過ごした同郷のギタリストと共にステージに立つことは不可能だ。

その途端に人に戻る。

なるほどなぁと思う。

ある種の意識の在り方を選ぶということは、他の何かを選ばないということでもある。

そして明確に意志を持って選択し、忠誠を誓う者は神に愛される。

そんな忠実な人間にイデアは(神の形象と言っても良いし、アーキタイプと言っても良い)は立ち現われる。

彼はずっと忠実だったのだろう。

「引退する」と言うはずが、思わず「氷室京介を卒業する」と言ってしまったことを彼は、「脳が酸欠でおかしなことを言ってしまった」と言い訳していたが、

それは意外に正確な表現なのではないかと思う。

氷室京介という存在がつながっていたイデアに忠誠を誓ってきたが、もう肉体的限界によってそれを維持できなくなったということなのだろう。

それにしても30年だ。

普通はそんな風には生きられない。

10代後半くらいに、彼と同じイデアに魅せられて忠誠を誓う人はたくさんいる。

生涯それ(ロック的なるもの)を生きてやると、決意の固さを自分に示すように身体に消せないタトゥーを刻んだりする。

でも数年もすれば、そこから脱落してタトゥーを隠して(あるいは消して)生きていく。

社会に迎合せねば食えない現実に直面するし、青年期を過ぎるとまた違ったアーキタイプが自分の中から出現する。

なのに彼は50歳過ぎでも、氷室京介という特別際立ったイデアを生き続けている。

普通はこんな風にはいられない。

50を過ぎると皆「この歳だけどロックをやっています」というエクスキューズが見え隠れする。

ステージングが過去の自分のパロディであるかのような自意識が入り込む。

昔の曲は懐メロとなり、その時代を一緒に経験したオーディエンスとの共感と慰労の温かさが入り込む。(それはそれで素敵だが)

でも、氷室京介は30年前の曲ですら現在形で体現し、そこにノスタルジーの入り込む隙が全く与えない。

まったく、お見事としか言いようが無い。

帰り際、胸の辺りが温かくなっていることに気づいた。

それは不思議な感覚だけど、よく知っている感覚だった。

イデアに忠誠を誓い、それを30年以上体現したカリスマの薫陶を確かに受け取った気がした。

映画『裸の島』が凄い

いやはや、凄い映画を観た。

これだから映画鑑賞は止められない。

新藤兼人監督の「裸の島」という作品。1960年のモノクロ映画でセリフも無い。


瀬戸内海の小さな島に住む家族の日々の仕事をただ追いかけながら、家族の四季とそこに起こる出来事をカメラに収めているような作風。

でもそれが凄い迫力で、あっという間に引きこまれて90分が終わってしまう。

何が凄いって、この人達の仕事。

朝から船を漕いで水をくみに行き、天秤棒を肩に担いで水を船に乗せる。

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そこから船を漕いで自分の住む島にたどり着くと、山の斜面を登り、

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その水を柄杓で汲んで畑に与える。

するとものすごい勢いで土は水を吸い込んでいく。

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そしてまた船を漕ぎ、水を汲みに行く。

黙々とその作業が続けられていく。

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そのマインドと身体性を目の当たりにして、軽いショックを受けた。

世界がグローバル化した21世紀の日本の都市で過ごし、「日本のホワイトカラーの生産性はまだまだ低いからもっと生産性を高めないと…」などという風潮に漠然と駆り立てられながら暮らしてる自分の日常のほんの50年前に、こんな生き方があったのかと。

ただ農作物に水をやるために、船を漕ぎ、水を担ぎ山を登る。

蛇口を捻ったら水が出る都市部に引っ越したら? とも思う。

せめて水路が整った農村部ならもっと生産性が高いだろうにと。

意識の浅い部分ではそう思う。

でも、一方でなぜか目が離せないほどに、この人達に魅了される。

いったい自分は何にこれほど感動しているのだろう?

心理療法でクライアントの無意識に潜む信念や家系の力学を見ていくと、僕らの親の世代やその先の世代に、

「人生を楽しむ」という考えに対しての怒りや、怨念のようなものを感じることがある。

「人生はそんな簡単なものじゃないよ! 楽しむって? なに馬鹿なこと言ってるの! 真面目に苦労しなさい!」

そういう声を無意識の中に持っている人たちがいる。

そして、豊かになった今の時代。

豊かさを味わう時間が足りないほどに物も情報も溢れ返ったこの時代に生きていながらも、

その人達は一生懸命に、苦労できる場所を探している。

そして、つらい目にあっては「生きることは大変だ」ということを証明しようとしている。

彼ら(彼女ら)はその苦労によって、一体誰の想いを慰めているのか。

一体誰への絆を表明しているのか。

自分が豊かに楽しく生きてしまうことで、誰と離れてしまうことに淋しさを刺激されているのか。

その答えは心理療法の中で知っていたが、その現場を時代の風景とともに肉感と表情を伴って目の当たりにすると、心を打たれる。

水の重さに曲がった天秤棒が肩に食い込む痛みと、足腰にかかる身体の重さを感じながら、自分の脚で一歩一歩踏み込むことで景色を変えていく。

その繰り返しによって生きるということの重さを身体に刻んでいく。

その重さを通じて収穫した芋には、自分自身の身体性と時間が宿っている。

それを自分で食し、消化し、エネルギーに変えていく。

あるいはお金に変えていく。

それが生きることの営み。

そこに流れているものの凄み。

最近、私の仕事である心理業界では「お金のメンタルブロックを外す」みたいなテーマが人気だ。

お金を稼ぐことに対する心理的抵抗や、楽に豊かになることに対する罪悪感を外す。

それによって、楽にパーッと幸せになりましょう!という訳だ。

それはそうなのだけど、私はどうもそういう手法にある軽薄さに違和感を感じていた。

外して捨てるべきと言うその心理的抵抗に、何かとても大切な自分のコアがあるような気がしてならない。

それは、この映画で見たような、物言わず静かに生きてきた先人達への畏敬。

肉体を使って生活を回していくことの迫力に心打たれるような感性から来ている。

私はこの人たちを尊敬しているのだ。

自分中に流れている彼らのように生きた祖先の想いや、彼らの払った犠牲、それを見て、それに敬意を払えることがどれほど自分の深い心を喜ばせるか。

どれほど心に栄養を与えるか。

そういったことがこの映画を観ているとよくわかる。

私達の祖父母の代がどのように生きたのか、自分に流れている血がどのようなものなのか。

自分の無意識から出てくる思いにどのようなルーツがあるのか。

どうやら私達の心はそれを知りたがっており、そして本当は頭を下げてそこに敬意を払いたいと思っているようだ。

過去を切り離して捨てるのではなく、

過去を見て知って敬意を持って頭を下げることで自由になる道がある。

そしてそちらの道こそが王道で、人に自然で永続的な変化と成長をもたらす。

それが心理療法家として人の変化を見てきて私が確信したことの1つだ。

根無し草のように軽薄にならなくてもいい。

私達の心はむしろ深く根を張ることで自由になれる。

映画「裸の島」は無意識の奥底が喜ぶ映画だった。

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>Amazonの評価も高い

レンタルでは置いてないと思いますが、私はTSUTAYA DISCASで借りました。

真心を発見する

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ベッキーがやらかしちゃいましたね。

初のスキャンダルが不倫だとか。

相手に妻がいることを知っていながらの恋愛。

そしてどこから流出したのか、LINEのやり取りまで明かされている。

その中には「卒論」という表現で「離婚届」を提出するために話し合っている2人のやり取りがありました。

好感度タレントのベッキーのスキャンダルということで大騒ぎになっていますが、みなさんはどう感じていらっしゃいますか?

いろんな声が上がっていますね。

「売れない時代を支えた奥さんを売れた途端に捨てるなんて、奥さんの悲しみははかり知れない。」

「ベッキーも結局はそういう人間だったんだ!」

「離婚届を卒論と言って嘲り笑うなんて、最低!」

などなど、

いろいろありますが、誰もがこの出来事を通じて自分自身の恐れを見ているのですね。

相手の奥さんがどんな人で、二人の間にどんな歴史があってこの決断に至っているのか、それは当人にしかわからないことです。

でもそこに「捨てられる女の物語」を投影する。

それは自分自身の無意識に潜む恐れであって、バンドの男性もその奥さんもベッキーも本当には関係のない話です。

同じように、あのLINEのやり取りを見て、奥さんのことを馬鹿にしていると感じる人がいる。

離婚届を『卒論』と表現していることを蔑みだと感じる人もいる。

でも、逆に『卒論』という表現に、できるだけ誰も傷つけたくないベッキーの優しさを見る人もいる。

LINEのやり取りに、自分の出来る限り奥さんへの配慮や思いやりを持ちながらも、それでも自分の愛に忠実に生きようとする女の強さを見る人もいる。

見え方は人それぞれ。

皆そこに『自分自身の内面』を見ているのですね。

自分の中にあるものを通じてしか、人は外の現象を理解できないということです。

話は変わりますが、私は世界最高峰であるサッカーのスペインリーグを見るのが好きなのですが、

今シーズンからスペインリーグに移籍した日本人に、乾貴士という選手がいるのです。

なかなかチャンスを活かせずに苦戦していたのですが、先日ようやく初ゴールを上げたのです。

それも見事なカーブを描いてゴールポストの右隅に吸い込まれた美しいゴールです。

それを見て「良かったなぁー」って。

「ほんと良かったな~、乾!! 良かった良かった!」って、自分の息子を想う父親のような喜びと祝福が自分の腹の底から沸き起こってくるんですね。

嬉しくて嬉しくて。

その何の混じりっけもない祝福のエネルギーに自分が包まれて、

相手を思う以外に何の打算もなく純粋に喜べる自分の心を体験して初めて、

無意識は知るわけです。

もしかしたら、私の周りの人達も同じように私を打算無く祝福してくれていたのかもしれないと。

もしかしたら人間はそれほど醜い生き物ではないのかもしれないと。

この世の中は本当は自分が思っている以上に愛が溢れているのかもしれないと。

そうやって、自分の中に沸き起こるものを通じて世界観は更新されていくのです。

ベッキーが問題なのではないのですね。あのバンドの男が問題なのでもない。

世の中が汚れているわけでもなく、

人は自分の中に真心を発見するまでは、

そしてそれが何があっても揺るぎないのだと確信できるまでは、

悪意のある世界に恐れとともに居続けるということです。