とても正しくて生きづらい世界

皆さんこんにちは。カウンセラーの佐原です。

GW明けの本日。皆様お元気にされていますか?

今日は、今巷を騒がせているTOKIOの山口くんの問題について、心理療法家の目線で語ってみたいと思います。

【気付けば厳しい社会になったものだ】

 

昨日のニュースではもう既に退社届けがて提出され、ジャニーズ事務所側もそれを受け取り、事実上も山口くんの芸能界復帰は無くなったようです。

これ、いかがなものでしょうかね。

このニュースが報じられてからワイドショーやネット上ではいくつかの論点で扱われました。

それを、まとめると、

・謝罪会見で自身の復帰の話をするなんて甘すぎる。

・それに加え、酒をやめると断言しなかったこと、この2点において、この謝罪会見は失敗だったのではないか。

・TOKIOの他のメンバーの心のダメージも計り知れない。

・ジャニーズの社長ではなくTOKIOのメンバーが謝罪会見するのは組織としておかしいのではないか。

・夜に男の家に行くことを許した親の監督責任は問われないのか。

・いやいや、普通は仕事上の先輩の誘いだと断れないですよ。

・そんなあなたの発言がセカンドレイプだということを自覚するべきですよ。

と、だいたい以上のようになります。

でも、正直私はそのどれにも上手く共感することができませんでした。

爽やかな好青年という社会的なイメージから一転、女子高生に強制わいせつを犯した男としてマスコミの前に立つ。

その恐怖と失うものの大きさに怯える謝罪会見で、涙を流し手を震わせながら必死に言葉をつないでいた先で、

「もし自分の居場所があるなら」

と結んでしまったあの言葉の至らなさに、追い詰められて混乱している生身の人間の心情ではなく、

「甘え」や「自覚の無さ」だけを受け取って批判が噴出することの違和感。

私たちはとても厳しい社会に生きているのだなと。

ここまで正しくなければ許せない義憤というものは、いったいどこから来るのか、そちらの方が気になりました。

そもそも私たちは本当に完璧な謝罪というものを聞いて、納得したかったのでしょうか?

【謝罪は誰に向かってなされたのか】

 

残りのメンバーの涙を流したの謝罪会見を見ても思いました。

なぜ当人ではないメンバーがここまで憔悴して、涙を流しているのだろう。

いったい彼らは誰に謝っているのだろう。

ここでは本当には何が問題になっているのだろうか。

ワイドショーで皆はいったい何の話をしているのか。

ここで語る人たちは皆、何かを恐れているようでした。

本当に被害者の少女のことを1番に考えなければいけないのであれば、この問題での山口氏へのペナルティと社会的影響を大きくするべきではありませんでした。

山口氏がもし解雇となれば、少女の社会的ダメージはより大きくなり、まだ若い一個人の上に心理的にも重くのしかかることとなります。

そのことは誰もが分かっていながらも、ここでは少女個人の気持は簡単に蔑ろにされました。

では、被害少女を無視してまで、メンバーたちは誰に向かって憔悴した表情と涙を見せて謝っていたのでしょう。

それは、もう誰も刃向かえなくなっている荒ぶる「世間様」ですよね。

この事件に本当の意味で燃料与えていたのは、山口氏の行為の卑劣さではなくてむしろ、

普段の営利活動の中で報われない思いをしていたり、コンプライアンス遵守のために緊張を強いられ、正しさを求められ、代償を払い、したためてきた集合無意識の中の怨念のようなものです。

世間様は日々ストレスと内圧を高め、その発散場所として生贄を欲しています。

それを鎮めるために誰もがその「世間様」に寄り添い、代わりに被害少女を蔑ろにします。

テレビのコメンテーターが世間様の正しさを代弁することで、暗に伝えていたのは、

「私は生贄になるのはゴメンですよ。」

「私は世間様の怨念を刺激しないよ。私は世間様の味方ですよ。」

ということでした。

それがダメだと言うことではなくて、誰も表立ってはそれしかできなくなっているということです。

【クリーンな社会のストレスと女性の性的な痛み】

 

この問題で噴出していたのは、企業のコンプライアンスが象徴するような過剰な正しさのために強い緊張を強いられながら我慢してきた人たちの「俺達はこんなに日々正しくやってきているのに!甘すぎる!」という集合無意識と、

Me too運動に現れているような女性たちの歴史的な痛みの集合無意識であって、

誰も46歳の男が酒に酔って女の子にキスをしてしまったと言う問題そのものを扱っていたわけではありません。

その証拠にこのニュースは徐々に、謝罪の仕方や、どこまでの罰を受けることが妥当かといった企業社会的な正しさ、組織の責任の所在、企業の謝罪学といった側面にどんどん形を変えて行くこととなり、

一方、ネット上ではセカンドレイプと言う言葉が頻繁に使われるようになりました。

この2つの集合意識に高まった圧力をガス抜きするために、このニュースは利用されていきました。

【山口氏のダメージは被害者が背負う】

 

心理療法的に見ると最も心配なのは被害者の彼女で、それは性的被害を受けた心の傷が…と言う事のみならず、

彼女の受けた傷の罰とするには、「山口氏が払った代償が大きくなり過ぎる可能性がある」ということです。

これがかなり危険なことなのです。

心理療法の中で現れてくる絶対的な法則として、人は関係性の中で必ず「収支の帳尻を合わせるように働く」というものがあります。

人間関係の中では長期的に見れば、そしてエネルギー的に見れば、必ずギブ&テイクはバランスするようにできているのです。

もしその帳尻が個人同士の間で合わせられない場合は、驚くべきことですが、家系を通じて子孫たちによって支払われることとなります。

心理療法の臨床現場で、個人の貧困の問題や原因不明の自殺衝動、不思議なほどに不幸に引き寄せられていくクライアントさんの無意識を紐解いていくと、

ご先祖の代に得た不当な利益(土地にまつわるものが多い)や、先祖のために誰かが払った犠牲がエネルギー的に明らかになってくることがあります。

本人は全く無自覚でその事実さえも知らないままに、ご先祖の代で得すぎた利益の支払いを自身が不幸になることを通じて行っていたり、

過去に誰かが支払った大きな犠牲を、子孫である自分も被害者のように生きることで贖っていたりする。

そういった状況を頻繁に目にするのです。

こういったエネルギー的な法則から見ていくと、今回の彼女のこの先に背負うダメージが心配になります。

国民的なアイドルとして世間から愛され、応援される番組をいくつも持つ有名タレントが社会に与えていた良き影響が、今回のことで損なわれるとすれば、

更に、被害女性の同世代の仲間たちが仕事で活躍できる場所も奪ってしまうとすれば、

それは、1人の個人の性的被害によってバランスさせるにはどうしても大きすぎるのです。

その日本中に与える心理的、経済的インパクトを、彼女の無意識がバランスを取るように背負い込まれるとすれば、その負債は大きすぎます。

ここまで彼が罰せられることを、被害者の彼女自身が望んだわけではないはずなのに…、です。

【誰も被害者に優しくは無い】

 

心理的な法則を持ち出すまでもなく、もし自分が被害者の立場だったら…と想像するとなんとなく分かるものです。

「この問題を大きくしてほしくない。」

「山口さんがあまりに大きな罰を受けると負担になる。」

「トキオがそんなに深刻に謝ると、国民的に愛されている番組がダメになると、私が苦しくなる。責任を感じる。」

恐らく彼女は今、自身が受けた性的な傷に向き合うどころでは無いと思います。

世間を騒がせた事の発端が自分にあることの重さに、そしてこの騒ぎがどこまで広がって行くのかという恐怖に今もまさに怯え傷付き続け、震えていることと思います。

自分の個人的な傷など、もう感じる余裕すら無いことでしょう。

誰も本当には、少女個人の気持ちは見ないことにしたのです。

 

「私は生贄になるのはごめんだ。」

誰もがその主張に一生懸命に見えました。

今回の契約解除で世論が今後「そこまでする必要があったのか?」という方向に傾いていくとすれば、次に生贄に差し出されるのは(決して言葉にして明言されないにしろエネルギー的には)被害者の彼女サイドです。

本当に私たちは被害者に厳しい。

「もう終わりにしないか」

と言いたくなるのです。

【どこまでも帳尻は合わされていく】

 

今回のことで、山口氏が20数年積み上げたキャリアを失うとすれば、それがまた新たに私たちの社会の正しさの基準となり、

私達自身の首を絞める事となります。

誰かが代表して大きく払った代償は、それを無意識に望んだ全員によって、帳尻が合わされていきます。

私たちはまた無意識に支払うこととなり、ミスに厳しく正しくある「べき」に支配されたストレスの多い社会を生きることとなります。

誰も得しなし、勝者のいないゲーム。

「もう終わりにしないか。」

本当に心よりそう思います。

「彼の中にあった未熟さ、甘さ、いやらしさ、ズルさは私の中にもあります。私はそれを認め、私の心の中にそんな自分の居場所を与えます。」

そんな自己受容だけが、荒ぶる世間様を鎮めます。

本当の意味での癒やしの可能性を開きます。

確かに私の中にも彼と同じ未熟さや、甘さ、いやらしさ、ズルさがあって、社会人としてそれをできるだけ見せないようにして生きていはいるのだけど、

それでもその影も自分の一部であることには変わりがなく。

心のどこかではそれを無かったことにせずに、せめて個人的で私的な関係においては、誰かにその影の部分を受け止めて許してもらいたいと思っていたりします。

そして、そのような甘い体験によって、私達の中の影は癒され無意識はご機嫌になり、そうやって私達も一部を担っている「世間様」のガス抜きはなされていきます。

それは確かに「甘い」体験なのです。

物語の外に出る

オリンピックが盛り上がっていますね。

羽生くんの演技は仕事中だったのでVTRでしか見れなかったのですが、昨日のスピードスケート500mの小平さんの走りはリアルタイムで見ることができました。

15連勝中で金メダルを当然のように期待されるってキツイものですよね。

何かの偉業を成そうとすると無意識は物語を作りますから、平坦さを嫌うものです。

ジャンプの高梨沙羅ちゃんの前回のオリンピックがちょうどそれで、世界一の実力があり順調に来ていながら、本番では力が発揮できませんでした。

オリンピックには魔物が住んでいると言われる所以です。

だから今回のオリンピック前の彼女の不調だという重い表情を見た時、これは行けるのではないかと期待していました。

羽生くんもそうですね。

オリンピック前に出場を危ぶまれるような怪我をしたと聞いて、この人はさすがだな、もしかしたら大きな物語が動き出しているのではないか、と見ていました。

直前にちゃんと不運を呼び込み厄を落として、最後に大成するような物語を作る。

羽生くんの無意識は劇画的なので、負傷して一発目の本番がオリンピックという状況は一番力が乗ってくるはずです。

この怪我も彼の無意識の創造に含まれるものではないかと、そんなことを考えていました。

大きなことを成そうと設定した時に、無意識はジャンプの前にしゃがむように事前に大きな苦しみや停止に入ることが多いものです。

だから、停止に入ったり生みの苦しみが出てくると「お、創造のプロセスが動き出しているぞ」と正解感を感じたりします。

だからこそ、15連勝中の小平選手が心配でした。

そして、その勝利にはとてもつもなく感動しました。

勝って当たり前と言われる選手がオリンピックで勝つというのは、とてつもない偉業です。

彼女は常に物語の外に出ようとしていました。

それは、これまでの努力やオリンピックで金を取るという目標に意識を合せることはせずに、瞬間瞬間の自分の身体と自分との関係性にのみ集中することで可能でした。

「メダルは何色でも良い。」

緻密に緻密に自分の身体の使い方に意識を向けることで、外側の物語を消し去る。

今この瞬間の強度を増すことで、時間軸を無効にする。

それをやってのけての金です。

そしてこの求道者の表情。本当にお見事でした。

さあ、もう少し続きます。オリンピック。今日も楽しみましょう。

恋の終わり破壊の時 小室哲哉の引退に思うこと

小室哲哉さんが引退を表明しましたね。

小中学生の頃にTM NETWORKを聞いていた世代としては寂しい限りです。

90年代に1つの時代の雰囲気を創り出した恩人の引退がこんな不本意な形というのが残念でなりません。

でも会見の全文を読むと、本人の少しほっとした様子も伝わってきますね。

 

もう今の生活にも創作活動にも限界を感じていて、降りたい、壊したい、という思いが心の奥底で育って行っていたのかもしれません。

人の不倫を裁く権利は当事者にしか無いはずだ。それでも無邪気に週刊文春を攻撃する気になれないのは、この流れが彼の無意識との共同創造でもあるように思えるからです。

恐らく以前のように音楽が降りてこないのでしょう。

彼は妻KEIKOさんを伴侶として介護したり時には家族に任せたりしているそうですが、

それは人として1人の妻に寄り添う素晴らしい体験であり、彼はこれまでとは違った魂の体験をしているわけですが、

残念だけれど、その道には以前のような音楽は降りてこないのでしょう。

ある種の音楽は、男女が激しく憧れ求め合うその情動の中に生まれるものです。

西洋の神智学体系のカバラの中では女性への狂おしい憧れ、そこに手を伸ばしたいが触れられない、その力動にこそ「永遠」があり、「創造」の力があるとし、それに『ヴィーナス』と女神の名を与えました。

ヴィーナスへと向かう恋愛的な力。永遠に持続する力。

ある種の創造やインスピレーションの源はそこにあります。

彼の扱っていた音楽は決して安定や誠実さの中に生まれるものではないのです。

残念なことだけれど貞操を貫く人間の美しさを生きることと、恋愛的な引力と熱と魔法を宿した音楽を作り続けることは、別のジャンルの仕事なのです。

ヴィーナスを良妻のように飼い慣らすことなど誰にもできないし、もしそれができたとしたらそれはもうヴィーナスではなく、代わりに別のヴィーナスの存在がその秩序と安定の外側に現れてきます。

今回も小室さんの人生にもそれが起こっていたのでしょう。

私は以前から、ミュージシャンというのは歳を重ねることが難しい職業だなと、彼らの歳の取り方を興味深く見ていました。

常に新しい異性のうちにヴィーナスを見出し、恋焦がれながらも手に入らない不安定さの中に身を置き続けることは誰にもできないし、

歳を取るということは、The Lover(求愛者)やトリックスターという不安定なアーキタイプを宿し続けるには、賢くなりすぎるものです。

私たちは誰もが平等に歳を取り、いつか恋するだけの存在ではなくなります。

その代わりにまた違ったアーキタイプが自分に宿るようになります。

老賢者かグレートマザーか援助者か。

それらが自分の内側から立ち現れようとする時、その時、古くなった自分を破壊して次に行かなければなりません。

古い自分にしがみつくとやがて必ず、泉は枯れます。

今の小室さんは見ていて切ないほど枯れていて、自分のエネルギーの源泉につながれていないことが明白でした。

創り出したものが大きい人は、壊して捨てなければならないものも大きいのでしょう。

小室哲哉という存在はある時代の象徴として固定され世間の共通言語として流通し、もはや自分1人の手では壊しきれないものだったのかもしれません。

だから今回、文春のスクープによって破壊が後押しされた時、彼が望んで会見を開いて引退を表明したこと。

そしてその時に見せたとても人間的で個人的な安堵に触れて私たちは、

一抹の寂しさとともに、彼を擁護して応援したくなるような衝動を禁じ得ないのでした。

彼は今また圧倒的な破壊をやってのけようとしています。

彼を突き動かすその力に私は、最大限の敬意を払いたいと思います。

 

そして、そんなことを思っていた時、この記事を読みました。

『大江千里、47歳で始めた僕の「ライフ・シフト」』

TM NETWORK時代の小室さんと同時期に活躍したシンガーソングライター、大江千里さんのインタビューです。

彼は日本でのポップシンガーとしての地位を捨て、47歳で渡米しジャズの名門校で学び、現在はニューヨークで毎週ライブをする生活なのだそうです。

インタビューの最後の部分がとても良くて、未だみずみずしく少年のような感性で世界に参加して触れて感じ取って生きている様子が伝わってきます。

素直に今の自分にチューニングして、

不要なものを手放し、内側に立ち現れてくるものに従って外側の人生を調節する。

そうやって破壊と再創造を繰り返していくと、人は枯れないのですね。

今も瑞々しいままです。

記事からは、彼が日々の人生に感じ取っている正解感が伝わってきます。

とても上手に歳を取っておられる。

私たちもこうありたいものですね。

今大切に握りしめている「私」の上にはもう次に行くためのリソースは乗せられない。

完成してしまっていて、人生に倦怠が入り込んできた。

それは破壊の時が来ているサインなのかもしれません。

死者への貢献

今日は良い天気だ。

最近は深いテーマを扱う仕事(心理療法)が増えてきた。

先祖の代で起こっていた誤解やもつれを解いて、止まって流れなくなっていた愛情の流れを回復するということをやってる。

変化は本人のみならず、この場にいないクライアントの母親が劇的に変わったりするから不思議だ。

私自身も家系の癒しを扱う時が一番天職な感じがしている。

クライアントのご先祖の代の痛みを癒やし、ほどき、そう振る舞わざるえなかったところにある隠された愛を発見する。

セッションが終わった後、なんだか部屋の空気がキラキラしているように感じる。感謝と祝福が舞い降りてきているような気がして、幸せな気持ちになる。

 

『私の名誉を回復してくれてありがとう』

 

そう言われているような気がする。

私が救いたい人、貢献したい人というのは、どうやら生きている人たちだけではないようだ。

亡くなった人の声なき声を拾い上げ、代理人を通じて激しく溢れ出す感情の激しさを目の当たりにする時、これが自分の仕事だなと思う。

その度に寡黙に生きた死者達への敬意と絆が深まって行く。

 

さあ、今日はあと2本。

良い仕事をしよう。

山頂にて誰を思うか

元日の今日、ひととき家族を離れて1人で山に登った。

山頂付近から見える海。

太陽の光を照り返して、瀬戸内の海は光っていた。

高校生の頃、友人と山に登って同じような景色を一緒に眺めていると、

「こういう時って、自然にあいつのこと考えてしまうな。」と当時彼が恋していた相手のことを言っていた。

そうかもしれないと思った。

恋とはこういう景色を見た時に、自然に心の中で相手を想うことを言うのかもしれない。

そんなことを思い出しながら、では42歳の自分は今この景色を見ながら誰を想っていたか?と振り返ると。

自然に心が求めたのは誰かというと。

僕の心が求めたのは…。

 

鑑真である…(笑)

 

大丈夫か…。なんかだいぶ急ぎすぎてる気がするぞ…。

今から1300年近く前、鑑真はなぜ5度も渡航を失敗するほどのリスクを犯しながら、両目を失明するほど疲労困憊しながら、海を渡り異国の日本に戒律を伝える決意をしたのか。

日本からの要請があったにせよ。自国の反対を押し切り、命をかける程の行動を支えたものは何だったのか?

その心の有り様を理解したかった。

そこに何か大きなヒントがある気がする。

 

光る海を見ながら岩場で瞑想し、鑑真のその大きな心に自分を重ねてみる。

1300年の時を超えての愛慕。

もはや出家してしまいそうである…(笑)

 

ということで(どういうことで?)皆様、明けましておめでとうございます。

今年もこんな感じでいろんな時空を生きつつも、2018年的な現実をしっかり見据えて地に足をつけて歩んで行きたいと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

 

ペルソナの外で人と出会うということ

 

東京にてカウンセリングの仕事を終えてホテルへと向かう道のり。

キャリーケースを引きながら1人でとぼとぼと歩いて、

小さな道を赤信号のまま横切った。

疲れた頭の片隅でそれが赤信号なのはなんとなく気付いていたけれど、人通りも車の通りも無い深夜の小さな道。

足は無意識にそのまま進んだ。

そしてふと顔を上げると、目の前に自転車に跨って赤信号を待っている若い警察官がいて、「あ…。」とお互いに目が合った。

ドキッとしたのは僕の方だけではないらしく、警官も不意を突かれたようで、お互いに戸惑い、気まずい緊張が走った。

その若い警官の表情は、しまった…と狼狽えているようだった。

しまった…油断した。警官として注意するには気を緩めすぎていた…、とでも言うように、

その若い警官は青年本来の優しい人柄が溢れ出てしまっていた。


もう一度気持ちを立て直して信号無視を注意するには、柔らかい心を無防備に表しすぎていた。

無理だ。立て直せない。でも注意しないと…。

一瞬の緊迫した空気の中、そんな若い警官の心の動きが見えてしまって、僕は「ははは…」と申し訳なく苦笑した。

すると、若い警官の表情もほぐれ、「はははは…」と苦笑を返した。

青年らしいあどけなさがこぼれた。

「お互い油断してしまいましたね。」と、言葉にせずともそんな気持ちが伝わってきた。

「いやほんと、どうもすみません」と僕は言葉にはせずに頭を下げ、警官も頭を下げて「はははは」と笑った。

そうするとこちらの緊張もほぐれて、なんだか可笑しさが込み上げてきた。

 

「やっちまいましたね。お互い立場は違えど不完全さは一緒ですね。」とでも言うような温かい共感が芽生えてしまって、それが可笑しくて温かくて、嬉しかった。

そして、お互い通り過ぎた後も更に振り返って、名残り惜しそうに「どうも」と頭を下げて気持ちを送り合った。

2人の中に一瞬の友情のようなものが芽生えてしまっていた。

彼が警察官であり僕が一市民であるという役割を離れたところで、人と人が生身で出会ってしまったことの衝撃と、

それを言葉もなく察知し許し共感し合えたことの感動があった。

人はお互いの心の生身の温かさに触れてしまうと、ほんの一瞬だけでも既に名残り惜しいと感じるものなんだな。

凄いな。

深くつながることはパワフルな喜びなんだな。

と、そんなことを思いつつ時折振り返ってはお互いにペコペコと頭を下げながらお別れをした。

僕らの心の深いところが求めて止まない、人生の柔らかい手触り。

本当に思いもよらない瞬間に、ご褒美みたいにそれに出会う。

 

今日も良い日だ。

 

答えに力は無い

みなさん。こんにちは。

お元気にされていますか?

今日は久しぶりに一日休みを取って家でゆっくりしています。

長らく降り続いた雨も上がり、台風も通り過ぎ、良い天気ですね。

温かい部屋でゆっくりしていると自然に心が緩んで、

普段の仕事モードの時よりも深く広いところにまで心が広がります。

「あ、そういえばあの子最近どうしてるかな、元気かな?」とか、

「そうだあれをやりたかったんだった…」とか、


そんなことがポツポツと心に浮かんできます。

普段届かなかったところにまで意識が届いて、心の周辺に隠れていたひかえめなニーズがポツポツと顔を出して、今日はそれに丁寧に応えています。

そうすると良いものですね。

心の内側が息を吹き返したようにフワッと広がって、自分の中に一致感が出てきます。

自分のニーズを無視するために無意識に固くしていた心も、その必要がなくなり緩みます。

ここでもう少しゆっくりして更に緩むともう一層深い心のフタが開いて、

しょーもないこととか、ろくでもない考えが出てきて、深夜にどうしようもないダメな映画を観たりするのでしょうが(笑)

今日はそれは止めておこうと思います。

今日は良い天気だし、あくまで爽やかに行きたい。

静かに瞑想したり、丁寧に部屋を片付けたり、書類を処分したり計画を見直したり、

身の回りを今の自分の内面に合うように整え直したり、

余分なものは捨て、今の自分にとっての真実を表しているものだけを残していく。

過去の自分の思いつきの夢から選んだ本やアイテムを処分して、

誰かの声に刺激されて選んだもの、自分の声ではないものは手放していく。

そうすると更に自分の内と外に一致感が出てきて、自分のエネルギーの源につながり直すことができます。

心に力が取り戻されていきます。

そんな風に過ごしていると、いつからか心に大きな問いが浮かんでいることに気づきます。

『本当のところ、自分は誰に貢献をしたいのだろうか?

  誰に、どんな感性に、奉仕したいのだろうか?』

その問いと向き合い、更に瞑想を深めると明らかになってきます。

自分の中にしっかりと根ざした方向感が生まれて、情熱が流れ出てくるのが分かります。

こういう体験をする度に思います。

答えが正しいかどうかが重要なのではなく、

正しい答えを知っているかどうかが重要なのでもなく、

その問いにどれだけ真っ直ぐに向き合えたか。

そして答えをどの深さから引き出したかが重要なのだな、と。

大人は「これが答えだから、これを選んで進みなさい」と教えてくれます。

でも子供はそれには納得が行かず、受け取らずにしばらく引きこもって自分で考えます。

あるいは思いのままに動いてみては失敗を重ねます。

そうやって、1人で考え抜いた挙句にたどり着いた答えは、

失敗を繰り返した先にたどり着いた答は、

最初から大人が教えてくれていたものと同じものだったりします。

「ほら、だから言ったでしょ。素直に言うことを聞いてれば良かったのに」と大人たちは言います。

でも違うんです。

正しい答えが未来を作るわけではないんです。

その答えに自分はどれだけのコストを払ったのか。

その答えを自分のどの深さから掘り出したのか、

それがその人の未来を創る力なのです。

黙想や行動の末に導きだした答えは、成長への力動を含んでいます。

それは単なる情報ではなく、力なのです。

「問うこと」とは「考えること」ではなく、「自分の力の源泉を探り当てること」なのです。

大量の正しい答えに晒され続けた結果、自分の力の源泉につながることができなくなっているとしたら。

深さから出てくる力を感じられなくなっているとしたら。

それはとても不幸なことですね。

まずは捨てること。

静かに休み、自分とつながり、心に問いを置いておくことですね。決して考える事は無しに。

年齢を無効にする

先日、とあるセミナーに参加して、そこで仲良くなったおばさん(と言ったら怒られるか…、淑女?マダム?レディ?)と、夕食を共にしたのだけど、

その方の意識がとても自由で、放つエネルギーが気持ち良いんです。

 

年齢を聞くと60才。

還暦です。

 

でも落ち着くこともなく、余生に入っていくわけでもなく、

今でも創作系の講座に参加して講師の資格を取って教えようとしていて、

「そのためのツールが30万円もするよ~。困っちゃう。」とか、まるで学生みたいなマインドで明るく言うんです。

で、それ以外にも僕と同じような心理やスピリチュアリティについての学びも深めていて、人を救える技術を身に着けていたり、

還暦の今もまだまだ人生を攻め込んでいる。

 

これまでも、家でケーキ屋をやったり、オーラソーマをやったり、洋服の展示販売をしたり、宝石の展示販売をやったり、

全部自分でやってるんですね。

その時々に自分が興味があることをやって、興味が無くなったら次に行く。

そうやって雑多に生きてきた結果、今では何でも屋のようになり、

人生のその時々に出会う人に対して何かしらの手助けをして、価値を与え続けている。

 

そこにはビジネスというはっきりした形も無くて、生きながらにして価値を与え、時にはお金に変えたり、変えなかったり、だけど気にしないという感じで生きている。

お金が必要になったら、展示会をしてお金を生み出せば良い。

どの引き出しからでも自由に好きなように価値を生み出せる。

 

良いですね。

形がなくアイデンティティにもこだわらず、変幻自在。

 

かなり不便な地方にお住いなのですが、東京で息子がカメラマンをやっているので、洋服の展示販売や自分の学びのために頻繁に東京に来ては息子と食事を共にしたり泊めてもらったりするそうです。

まだまだ面白そうなこと学びたいことがいっぱいあるようで、「今度の講座高いのよ~。稼がないとね!」とか明るく言っている。

その好奇心と無方向に広がっていく感じが、20若いはずの僕よりもずっと若々しい。

面白いなと思う。

僕が知っている「還暦」のイメージとは随分違う。

 

で、そんな彼女が言うんです。

「こないだ温泉に行ったらおばあさんに話しかけられて、『私何歳に見える?』って言うのよ。

で、聞いたら『84歳よ』って。でも全然見えないの。

その人、水泳選手で今も現役で、トレーニングしていて地元の水泳大会の記録を保持してるんですって。

元気なのよー。」

 

いやほんと、年齢って何なのでしょう。

この年齢ではこうあるべきみたいな社会的な合意。

この年齢になったらもう新しいことにチャレンジしている場合ではないというような感覚。

それはもう僕らの意識を制限するメンタルブロックでしかないのですね。

 

そんなものはどんどん取っ払って、意識をどんどん自由にして、知識を増やし技術を磨き、

身体も生活も在り方もどんどん軽やかに自由になって行きたいですね。

 

現実の年齢は忘れましょう。

時間というのは相対的なもので、生き方と主観によって伸びたり縮んだりするものです。

興奮の中で過ごす1時間は一瞬。

であれば、一瞬しか時間を経験していない。

歳を取らないのです。

 

今の僕の年齢も、実感としては27歳くらいです。

社会人経験が身に付いて修行期間の第一段階が終わって、ようやく社会に対して本当の貢献ができるぞ!責任を大きく担うぞ!とわくわくしている段階です。

 

でも振り返ってみると20歳の頃には60歳みたいな心境で生きてたから(笑)歳を重ねるごとに心は若返って行ってるんですね。

家系から来る被害者意識や無意識のブロックを外していく度に、どんどん制限は無くなり心が自由になっていく。若返っていく。

そしてこれまで生きてきた経験や知識は豊かに積み上がり、好きなように扱えるようになっている。

その方もおっしゃっていました。

「この年齢になると大体のことが分かるから、めったなことでは失敗しないのよ。いいよ〜。何でもできるよ。」って。

なんとなくわかりますよね。40代になっただけで、随分と人を見る力、世の中のこと、自分のことが分かってきて、そうそう失敗しなくなってきています。

それがこの調子で60歳になったらどうなるんだろうと思うと、

ほんと歳を取るって面白い。

 

心を制限するメンタルブロックをバシバシ外し、所属する意識世界を選び、影響を受ける情報を選び、接する人を選び、業界を選び、それらをコラージュのように自分好みに編集することで、時間や年齢の社会的合意を無効にしていく。

パラレルに存在する異なる世界を自由に行き来しながら価値を生み出していく。

そういうことが簡単にできる時代になりました。

 

僕らは本当に刺激的な時代を生きていますね。

ワクワクします。

27歳の青年のようにそう思います。

意識の旅

束の間の盆休み。

田舎での3日間。

仕事に忙殺され、気力を使い果たした心身に短時間で英気を養うには、精神が望む方向に的確にマインドをトリップさせないと…と、

そのために飛んで行くべき心象世界をできるだけ明確にイメージして、そのために必要な行動やアイテムを選定する。

1つは、ソローのこの本。

 

 

人里を離れ、森の中の湖のほとりで暮らした哲人の思考。

ソローの意識に共鳴すると、良い感じで俗世を離れて自然の中に飛んで行けるので助かる。

 

夏真っ盛りのこの時期のリアルな自然は蒸し暑いし蚊がいるし、いろいろと大変だけど、

エアコンの効いた部屋で自然を横目に読む「森の生活」は、ストレスゼロで意識を大自然の中へと連れて行ってくれる。

意識を的確に望むところにトリップさせること。

そう。

 

僕が田舎に帰ることで期待しているのは、都会では絶対に得られないある種のフィーリングを得ることだ。

そして、今回の帰省でそれが一番成されたと感じたのは、

実家周辺の路地を1人で深夜徘徊することによってだった。

深夜1時。

何も目指さずに、何者にも成ろうとせずに、ただ日々暮らしを営む人達だけが住むこの路地の夜の静けさは独特だ。

 

自分の中に最近足りてなかった何かがたっぷりと満たされていく。

上を見上げると山の稜線と、その上には星空が広がっている。

 

深夜1時の廃墟。

時間が流れることなく堆積していってるような、この感覚がたまらない。

 

しばらく歩くと意識は勝手にスイッチして、普段とは全く違う精神状態になる。

移動距離は問題ではない。

フィーリングを研ぎ澄ませば、時間と意識だけを使って普段では絶対に行けない世界を旅することができる。

 

癒される…。

浮かんできた言葉をスマホにメモする。

『夜を恐れることなく、背景に押しやることもなく、

夜の美質を引き出して一緒に遊べる人間は魅力的だ。』

誰がということではなく、きっとそうなのだろう。

恐れることなく変な人で行きましょう。

どこまでも歩いていけそうな気がした。

 

靖國の心

8月のこの時期、

東京滞在の最終日に靖国神社に参拝してきました。

強い日差しに蝉の鳴き声。

鳥居をくぐると青々と茂る桜の木の葉。

終戦記念日の近いこの時期になると毎年私たちの心は、昭和のあの頃に引き戻されます。

私にとっては実際に生きて経験したわけではないにも関わらず、懐かしいあの時代です。

 

自分で経験せずとも日本の先人たちが、祖父母たちが、強烈な思いを刻んだ特別な時代でした。

その時、民族として私達の祖先がどんな思いを生きたのか、何を見たのか、その精神史を紐解いて自分の歴史につなぐという作業を数年前から続けています。

その一環として、ここ靖國神社にはできる限り足を運ぶようにしています。

 

戦死者を英霊として祀るこの神社に参拝することは、思想的にも感情的にも政治的にもいろいろと複雑なものがあるものです。

私もなんとなくそんなイメージに引っ張られて、40歳手前になるまで参拝することなく避けてきました。

でも、ある時ふと思い立って靖國の鳥居をくぐってその先の氣に触れた時に何が起こったか。その時の衝撃を未だに覚えています。

 

涙が溢れて溢れて止まらなかったのです。

未だ神社の氣に触れて涙を流したのは、ここ靖國神社のみです。

 

思想や感情など抜きにして、ただ鳥居をくぐり拝殿に立ってその氣に触れてみると、

ここで祀られているものが何なのか。

それがどれほど尊いものなのか。

頭ではなく肌で感じ取れます。

 

大切な何かのために自分を明け渡す意識。

 

英雄の氣質。

 

それがここに祀られている氣です。

 

それは個人主義のこの時代には長らく忘れられていたにも関わらず、確実に私達の中にもある懐かしく誇らしい感覚です。

 

人間というものが大義のためにどこまで私心を排することができるのか。

どれほどまでに心を澄みきらせ志に整えられるのか。

私達の先人が示したその清廉潔白な在り方を、

人間の可能性を、

ここの氣は教えてくれています。

 

それに触れてしまうと、私達の心は喜びに震えます。

 

神社の中には戦死者の遺書が毎月掲示されています。

今月は次のようなものでした。

24歳の青年が実際に残した遺書です。

目を通して、その心の有り様に触れてみてください。

肚(ハラ)に迷いのない青年の澄み切った心と、どっしりとした中心軸が伝わって来ますね。

 

戦争が起こったあの時代ほど日本人の祖国を思う心が、家族を思う心が尊く輝いた時代はありませんでした。

戦争を美化するつもりはありませんが、戦争を反省するのと同じくらいにはこの先人の残した偉大さと人間の可能性を受け取りたいと私は思います。

 

祖国が失われることを恐れ、祖国の存続を夢見て命を差し出した先人達の希望の中を生きているのが今の自分であるということを、知っておきたいと思います。

 

靖國で祈り手を合せて、そこに祀られた氣に触れると私達の心は共鳴し、先人の示した心の在り方を受け取ることができます。

それと同じものが私たちの中にもあることを思い出させてくれます。

私は靖国神社に参る度に、私心無く志に意図を結ぶような在り方に自分を調整してもらっています。

それができる貴重な場所。先人の薫陶を受けられる場所。

それがここ。靖國神社です。

 

実際にここを訪れたら、拝殿に立って手を合わせて次のように祈ってみて下さい。

祖国のために命を捧げた人達の大義に心を合わせて、

 

『あなたたちが命をかけて守ったこの大地を私は生きています。

 

あなたたちが命をかけて守ったこの国は今も存続し、栄え続けています。

 

あなたたちの誇りが、潔い心が、私の中にもあります。

 

私は日本人です。

 

あなたたちが命をかけて守ったもの。

 

未来へと残した希望。

 

それがこの私の命です。

 

ありがとうございます。ありがとうございます。

 

私は今、自分の命の重さを知ります。

 

そしてこの命を良きことに使っていきます。

 

この国が、この世界が、大切な人達の心が、

 

安らけく平らけく続きますように。

 

そう祈る時、自分の心の奥底に何が起こるのか、

是非ご自分の肌と境地で体験してみてくださいね。

先人が命をかけて守り、夢に見た未来の日本を私たちは今、生きています。

怒りが僕らを連れて行く

ここ最近自分の中にモヤモヤとした怒りのような不満のような塊があることに気付いていた。

2週間休み無しで仕事しまくっていたので、「もっと遊ばせろ!」と潜在意識が怒り出したか…と思ってたのだけど、

昨晩モヤモヤと向き合ってみたら違っていた。

怒りの理由は意外なものだった。

 

「お前の仕事は小さい!」

「いつまで私的な自分を生きてるねん!」

「もっと公的に国のスタンダードを作り変えるような仕事をしろよ!」と言って怒っている。

 

「全然リアルじゃない!」と。

「余裕を持ちすぎてる!」と。

 

これまでの人生、ずっと公的よりは私的に、体制側よりは反体制側を好んで生きてきた自分が、ここへ来て公的になることを求めて怒っていたのかと、それが意外でならなかった。

でも、「俺はもっと公的に社会貢献したい!」と言ってみると、確かに胸のあたりがしっくり来てモヤモヤが治まる。

と同時に自分のエネルギーがひと回り大きくなる。

もうエネルギーが来ているんだな。

 

自分を次のステージに引き上げようとする怒り。

それがもう無視できないくらいに激しくなってきている。

これを無かったことにすると、日常の様々なものがリアルに感じられなくなって、無気力になり無感覚になり、味気ない人生になっていくんだろうな。

今来ているこの流れをごまかさないように生きなければならない。

 

この怒りに従って意識と環境を次のステージに上げることが、今必要なチャレンジのようだ。

とは言え、個と個で限界まで深く向き合って変化を促すカウンセリングの仕事は、自分にとってライフワークと言えるほど大切なもので、

この実践の中で「人間とは」ということと「人生とは」ということを学ばせてもらっている。

だから日々のカウンセリングを辞めることはないだろうけど、

まずは自分のセルフイメージを公的なものに修正することからやっていこうと思う。

 

それにしても本当にただ取りこぼし無く、今リアルだと感じて楽しめることに真っ直ぐに取り組んできただけなのだが、

それだけやっているとちゃんと終わりが来て、次が来るのだな。

 

小学生が6年経つと中学生になるように、時が来ると意識のステージは勝手に次へ移行しようとする。

それに気づかずに、あるいは逆らって、中学生なのに小学生のように生きる時、人はどうやらイライラと無気力が合わさったような独特の感情を抱くようだ。

そして「人生は壮大な暇つぶし」などという偽りの悟りを得て、その達観によって人生から大人の距離を取り、あたかも自分が大人を生きているような錯覚をする。

でもそれは違う。

本人だって薄々気付いている。

大人になることは飽きて無感覚になっていくことではない。

それは自分の境界線を超えずに回避したことの症状だ。

 

本来、大人になることはとてもスリリングなことだ。

対峙する相手がどんどん大きくなり、影響できる範囲がどんどん拡大していく。

ただ自分の内側の衝動に忠実であれば良い。

内側が今リアルと感じるものに、外側を変えていけば良い。

無視しようにも、ちゃんと教えてくれる。

内側の無気力が、

イライラが、

次へ行けと言ってくる。

命を燃やすような場所へ行けと言ってくる。

それを無視しない勇気だけが問われている。

 

宇佐巡礼2 大元神社編

前回の記事の続きです。

前回記事『宇佐巡礼1 宇佐神宮編』

 

宇佐神宮を思う存分に堪能して満足したので、ここで終わりにして帰っても良いんじゃないかと、

そう自分に言い聞かせていたのだけど、

でも、知ってるんですよね。

宇佐神宮には奥宮があるんです。

 

御許山と呼ばれる山の山頂にある大元神社というのがそれで、

とんでもない悪路の先にあり、めったなことでは行けない秘境中の秘境だと言われている。

先日もネットで調べたら、車が動かなくなってJAFを呼んで大変な迷惑をかけたというブログの記事に出会った。

そして、タクシーなら連れて行ってくれるとも書いてあった。

でも、タクシーでそんな悪路を進んでもらうなんてなんだか申し訳無いですよね。

 

まあ、今日は十分に満足したし、タクシー乗り場がどこにあるかもよく分からないし…と帰りのバス停に向かって歩きながら、

ふと顔を上げると、目の前にタクシー乗り場が…。

運転手さんと目が合う…あっ(笑)

 

でもまあそこまでして行くのもなあ…とそれでもスルーしてバス停に行って時刻表を見ると、バスは先程出発したばかりで、次のバスまでは1時間待ち…。

うん。分かります。

「来い!」って流れですよね、これ…。

 

気を取り直して、タクシー乗り場に行って運転手に「御許山に登れますか?」と聞くと、

お、おぬし!今何と言った!?みたいな表情になり、

「行けるけど…。時間ある?」と来た。

 

「ありますけど、どれくらいかかります?」

「…1時間半くらい。」

「じゃあ、大丈夫です。お願いします。」と話がまとまる。

 

車の中では「よく登ろうという気になりましたね。普通は一生縁のない場所です。」と、いろいろとお話をしてくれる。

「とにかくひどい道ですからね。びっくりしないでくださいね。」と。

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確かに、え?そっち?道ある?みたいなところを車で分け入って行く。

アスファルトも途中で無くなり、デコボコ道を縦揺れしながら進んで行く。

途中、運転手のおじさんの卑弥呼がここに眠ってるのでは説や、日本発祥説が興味深い。

 

悪路を超えてくれたタクシーと運転手さん。

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車が行けるところまで行ったら、あとは15分ほど歩いて山頂を目指す。

運転手さんと一緒に山道を歩く。

既に肌寒さと共に、濃厚で原始的な神気で身体がビリビリする。

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誰もいない境内に着き、「どうぞこちらへ」と運転手さんがまるで神主さんのようにお社の上へと案内してくれる。

運転手さんと一緒に拝殿の前に正座し、横並びで一緒に手を合せる。

 

太古の氣。

原始的なエネルギー。

最近は仕事の心理療法で、ファミリー・コンステレーションというワークに魅せられているのだが、

人は親やご先祖や祖国といった自分のルーツとつながって、家系に所属しなければ本来の力が発揮できないということを、そのワークを通じて見せてもらっている。

家系とのつながりが縺れたり途切れたりしていると、先祖代々が経験して養った豊かなリソース(才能、エネルギー、知恵、自信)が流れてこなくなり、弱々しくやせ細った存在感の人間となっている。

だから、それとつながり直すことで、脈々と引き継がれて来た家系のリソースを取り戻し、根を張るような逞しい自信を取り戻すことができる。

それがファミリー・コンステレーションの力。

 

そして、神社参拝も意図すれば同じことが起こる。

深く頭を下げ、この国の先人達の意識、神々の意識を敬い、そこで綿々と受け継がれてきた歴史の先端に私の命があります、と。

私はそれを受け取り、神々のリソースとつながり、それを良きことに使っていきますと、そう言う時、

ビリビリと震えるようなご神気が身体を満たし、何かが確実に受け渡される。

太古から続く神聖な意図を紡ぐ者の一員として、迎え入れられる。

 

それは一般的な神社参拝とは違って、イニシエーションのようなもの。

個人として扱ってきた力に、神々の公式のものとしての印が与えられ更なる力が付与される。

天のサポートが大きくなる。

私のような意識の仕事をしている人間にとっては特にそれが重要で、

個人の我の力ではなく、正統な天の印の与えられたエネルギーを扱うことで、

人の無意識への影響の深さが変わってくる。

 

どの神域のどの意図にどれだけ自分がコミットして所属しているか、その質と量がその人の活躍の範囲と「自信」や「才能」を決定づけているとも言えるのです。

これが人生のある側面での真実であり、精神の進化というものの大いなる秘密です。

 

神社や神々のみならず人はあらゆるものと「結び」を作り、それを束ねることで「私」というものを織りなしていくのです。

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失礼の無いよう、写真は少し離れたところから。

 

そして帰り道。

「珍しいですね。お客さんは運が良いですよ。」と運転手さん。

「ここから海が見えることなんてめったに無いんですけどね。ほんとめったに無いんですよ。」と言って車を止めてくれださった。

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更に続けて、「私も神様なんて全く信じて無かったんですけどね。あることがあって導かれましたね。本当に信じるしか無いことが起こって。

導かれますね。ほんとびっくりするくらい導かれます。」とおっしゃる。

 

「それで今は、神様の元に人を連れていく使者のようなお仕事をしてるんですね。」と言うと、

「僕はそう思ってます。」とはっきりと断言された。

 

運転手さんの過去に何があったのかは分からないけれど、人それぞれの運命があり導きがあり、

それに抗ったり従ったりした先で、天命の中にすっぽりと収まって生きる人間の謙虚さ。清潔さ。

敬意を持たずにはいられなかった。

 

帰り道は日本の古代史や神々についてのお話を聞きながら駅まで送ってもらって、しっかりとお礼を言って固い握手をしてお別れをした。

 

次は来るのは何年後になるか。

10年後か20年後か、それは分からないけれど。

必ずまた来ようと、そう思える場所になった。

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帰りの車窓からの景色。

 

良い旅だった。

神社を参拝するも、人と深く交感するも、その土地に触れるも食すも、全てが巡礼なんだな。

自分には無かった響きを自分の中に取り込み持ち帰り、また新しく出会う誰かを響かせていく。

あれもこれもそれも、人生すべて巡礼なり。

宇佐巡礼1 宇佐神宮編

福岡にて2日間のセミナーを終え、今日は大分の宇佐神宮へ。

もう10年以上前から行かねばと思っていながら、なかなかその機会を作れずにきた場所。

全国に4万4千社あるといわれている八幡神社の総本社です。

みなさんのお近くにもきっとお有りですよね。

無かったとしても、大きな神社の中には必ずと言ってよいほど摂社・末社として小さな八幡宮が祀られています。

日本一の広がりを見せている神社の元締め、総本宮です。

 

僕が生まれた時にお宮参りしたのも地元の八幡さんで、その意味では個人的にも最も縁の古い神社です。

ようやくその総本宮にお参りができる日が来ました。

博多から大分の宇佐まではソニックに乗って1時間38分。

ソニックの中が近代的でちょっとテンション上がりました。

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九州の家はデカくて庭付きでいいな〜とか思いながらボケーっと車窓からの景色を眺めたり、

ペットボトルのフタが開けられず苦労してる隣のおばあさんを助けたりしていると、

宇佐に到着。

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想像以上に何も無い…。

 

なんだかアメリカを感じる(笑)

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遠くの山に見える『USA』に至ってはアメリカ感…、狙ってないか?(笑)

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駅前はこんな感じ。

 

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駅を降りたら宇佐神宮行きの人達でごった返してるだろうから、何も考えずにその流れに乗って行こうと思ってたら、違った。

バスを探さないと。

 

待つこと10分。

小さいバスが来た。

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運転手に聞いてみるとこのバスは宇佐神宮には行かないそうな。

次のバスとのこと。

 

バスの後ろには『運転手募集』の看板を発見。

このゆったりとした土地で1時間に1本のバスの運転手として生きるとは、どういうことなのかと想像をふくらませる。

例えば、愛する人と駆け落ちして誰も知る人がいないこの土地で、バスの運転手としての人生を再出発させるとか…。

愛する人がいるだけで十分じゃないかと、うらびれたこの土地で最小限の生活を営む…。

うん。好きだな。この昭和の日本映画的な湿気た感じ。

 

でももう時代は平成を終えようとしていて、そんな湿度はノスタルジーの中にしかない。

 

あ。カニおった。

このカニ懐かしいな。

おばあちゃんの住んでいた海辺の町にはいたるところにこのカニがいて、一日中カニ取りをしていた。

こっちにも。

 

なかなかバスは来ない…。

 

あ、こっちにも。


って、もういいですよね(笑)

 

バスに乗り込むと乗客は3人。

いいですね、この感じ。懐かしいな。

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窓の外では6月なのにスイカが売られている。

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1玉2000円…。うん。普通やな(笑)

 

10分ほどして宇佐神宮、到着。

想像以上に人がいない。

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全国4万4千社の総本社なんですけど…。

 

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このスケールの空間を1人で満喫できる贅沢。

 

道の脇には綺麗な水が流れている溝があった。

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こういう溝にザリガニいたりするんだよなー。

と、のぞき込みながら歩いていると。

 

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グワーグワー…って。お前さんは想定外や…。

 

餌をやっている人と一緒に鯉を眺めたり。

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神が降り立ちそうな場所。柵がしてあるのが残念。

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まだまだ奥へと進んでいく。IMG_8030

 

そして本殿。
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凄い濃厚なエネルギーで脳の中をバシャバシャと洗われてる感覚。

しばらくそれに浸りつつ、椅子があったので座ってしばし瞑想。

 

目を閉じてご神気に意識をチューニングしていると、心が静まってくる。

すると、

ターン!

という音がして、目を開けると御神木の楠の木からでっかい毛虫が落ちてきたようだ。

シャウエッセンの一番立派なやつくらいある…。

まじか…。

しっかり毛も生えてる。

 

でもここは屋根があるから大丈夫。

もう一度心を落ち着けて目を閉じる。

太古より守られてきた日本のルーツのエネルギーに意識を合せる。

心が静まる…。

 

ターン!

 

って、また毛虫落ちてくる(笑)

 

落ちても死ぬわけではなく、落ちてからうねうねと動き出す。

もしかすると移動するためにわざと自分から落ちているのか。

どうも人を攻撃する意図は無さそうだ。

まあ良い。

 

日本庭園によくある、竹にちょろちょろと水が溜まって、カコン!と音がするあれ。

ししおどし?

あれだと思えば良い。

もう一度静かに目を閉じて、心を整える。

全国4万4千の八幡宮の大元であるこの土地の意識に心を合せる。

 

 

ターン!

 

 

ターン!

 

 

ターン!

 

風情あるわー(笑)

 

裏を見ると急な階段があって、その先の景色が気になる。

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下りてみるとこんな世界が広がっている。

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ぼんやりと立っているだけで充電される。

やっぱり大阪に住んでると圧倒的に土の氣が足りないんだな。

 

そしてまた神社に戻って参拝してご祈祷を受けて、引いたおみくじは大吉。

 

『すること成すこと全てが幸いの種となる』

って、うれしいですね。

昨日の住吉神社の大吉といい、九州の優しい土地柄そのままに祝福してもらっている感じがする。

大阪の住吉大社なんてびっくりするくらい凶が出るのに…(ボソっ)

 

満足したところで近くの食堂で遅い昼食。

広い食堂なのにお客さんは僕だけ。IMG_8049

旅をしてるとこういう雰囲気がたまらないですね。

家族で営んでいるようで、

僕が食べていると、側のテーブルで家族5人が出てきて静かに昼食を取り始めた。

テレビでは最近生まれたパンダの赤ちゃんの話題。

 

毎日こんな風に家族で昼食を囲みながら歳を重ねていくのか…と、そのゆったりとした時間感覚に思いを馳せる。

 

とり天とだんご汁と、なんとかご飯。名物セット。

家の食事のような手作り感が良い。IMG_8050

食べ終えたら、心も胃袋も満足して、そろそろ帰ろうかとバス停に向かう。

 

もう今日は十分に堪能したし、このまま終わりにして帰っても良いんじゃないかと、

そう思ったのだけど、でも終わりじゃないんですね。

続きがあるんです。

本当の巡礼はここからなんですね。

長くなったので、続きは次回に。

偉大さに触れる

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東京での仕事を全て終えて、品川駅でお土産を買おうとパウンドケーキを見ていたら、

「オレンジのケーキが人気ですよ」と店員のお姉さんが微笑みかけてきた。

その笑顔が自然な思いやりに溢れていて気持ちが良くて、思わずこちらの表情も緩む。

すると「食べてみられますか?」と奥からラップにくるんだ試食用のケーキを出してきてくれた。

その行動を支える意図の透明なこと。清々しいこと。

手にケーキを乗せてもらって、それを食べながらうんうんと適当な返事していたら、

「今でしたら、なんたら…(忘れた)ティーと一緒に食べて頂いたりしたら良いかと思います。」って。

正直オレンジのケーキの味はあまり好みじゃなかったけど、もうそんなことはどうでもええわ!

俺はお姉さんの勧めるものを、お姉さんの仕事の尊さを称えるために買うよ!

俺はお姉さんの在り方の偉大さをこのパウンドケーキとともに食うよ!

という熱い気持ちになって今、特に好きでもないオレンジのパウンドケーキを持って大阪に帰っている…。

人の「偉大さ」とは何なんだろう…とか考えながら帰っている。

どうやらそれは年齢や職種や収入には全く関係が無いらしく、

ほどけた心から自然に溢れてくるその人の存在のエッセンスのようなもので。

それに触れてしまうともう僕らは抵抗のしようがない。

ただ祝福するだけの存在となる。

春と意識

3月も残すところ数日となり、今日は骨休めに1人で実家の相生市に帰省して、1日山に篭っておりました。

たまに人間の意識世界を離れて、山に1人になってリセットしたくなるんですね。

そんな時に実家が程良い田舎にあって程良い高さの山があるのは本当に助かるなと、最近になってそのありがたさを噛み締めております。

子供の頃から慣れ親しんだお気に入りの山があります。

久しぶりに行ってみると、いつもの登山口に新しく看板が立てられてました…。

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天空のパワースポットって…。この色使い…。パワースポットブームに寄せて来たな~と笑ったけど、確かにここはパワースポットなんです。そこらの裏山とは氣が全く違います。

充電される。

でも一番ありがたいのは、平日に行くと自分以外の人がほとんどいないこと。

都市に住んでいると、周りに誰もいないという感覚がとても貴重に感じます。

山に入って1人で歩きだすと、人間の意識世界を離れて自分が野生に帰っていくような、呼吸がしやすくなるようなホッとする感覚。

心が静まってきます。

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立派に生い茂るシダ。

普段意識しなくとも人は周りの人間とエネルギー的に作用し合いながら生きているんですね。

山に入ってしばらく歩いて半径1キロ以内に人が誰もいないような環境に身を置くと、そのことが体感で分かります。

身体から何かがほどけるような感じがあり、自分でも驚くほど心が静かになります。

自分は普段からこの状態に戻りたいがために瞑想を取り入れてるんですね。

でも都会での瞑想ではここまではなかなか難しいですね。

どんなに頑張っても半径20m以内には誰かいますもんね。

でもここでは誰もいない。人の意識が無く自然の木々や鳥たちしかいない。

その子たちと同調することの心地良さ。

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僕は小学生の頃から、学校から帰ると1人で山に入っていく子供だったのですが(危ない子ですね)今思うとそうやって意識のリセットをしていたんですね。

そしてその必要性は大人になった今でも大いにあるようです。

誰もいない休憩所でゴロンと横になって空をながめつつ、ホトトギスやキツツキの声を聞いている。

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ゴロン…。写真が逆になってますけど空見てるので、こんな感じです。

自分の周り半径1キロ(もしかすると5キロ以上?)の範囲内に人間が1人もいないと、自分がどのような意識状態になるのか、

もしかすると生涯に一度もそれを体験したことの無い人も多いのかもしれませんね。

一説には人間のオーラ場は半径15メートル、魂の身体に至っては150メートルにまで広がっていると言われています(僕が見たわけではありませんが…)

だからそこに人がいると意識はしていなくても、都会に住んでいるだけで無意識に多くの人と混ざり合ってるんですね。

ではその混ざり合いが無くなるとどうなるのか?

半径数キロに人間がおらず自然だけがあるような環境では自分の心に何が起こってくるのか。

自分の心がどれほど静まるものなのか。

自分の内側からどのようなフィーリングが現れてくるのか?

この感覚を普通の暮らしの中で何気なく味わえていたのは、もしかすると田舎育ちの人間の特権なのかもしれません。

そんなことを考えつつ登ること数10分。

途中に小さな洞穴があって、その奥に地蔵様が祀られていてます。いつもそこで瞑想するのですが、今回行くとその入口付近にも新しく看板が立っていました。

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なるほど修験者の修行の場だったんですね…(知らなかった(笑))

詳しい説明もありました。

岩の奥の龍脈の近くで修行できるように、修験道の行者によって人間の手で掘られた洞窟なのだとか。

掘られたのが江戸時代以前で、昭和30年ころまでは修験者が常駐していたのだとか。

馴染みある場所に意外に深い歴史があるのは興味深いですね。

神聖な場所なので洞窟の写真はやめておきました。

それは、あなたがご自分で来た時のお楽しみということで(誘ってるのか…!)

だいぶ高くまで登ってきました。

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この感じ。

ホー…ホケキョ!言うてます。

途中、春を見つけたり。

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そして頂上に近づいてくると、天に登った感がすごいです。

この感じ。

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ものすごく登った感がある景色ですけど、実は20分ほどです(笑)標高わずか300m程度でこの達成感を演出してくれる景色は助かってます。

岩場で景色を眺めつつ1人でしばし瞑想。

神よ…!出でよ…!と念じてみる大人の遊び…。

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ぱかーっと空が割れ。ええ雰囲気出してくれます。

しばらく1人でぼーっとしていると縮こまっていた気持ちも大きくなって、リフレッシュしてきます。

都会生活だとこんなに広い空間にまで意識を広げること無いですもんね。

できれば毎月来たいくらいですが、なかなかね。

頂上にはこんなボックスが。

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登山ノートを開いてみるとこんな強者が。

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毎朝登り続けて今朝で3970回目の登頂だったよう。

本当に行者がいるんだな。10年か…。毎朝か…(ちょっとうらやましい)

こんな意識状態から一日を始められるなんて気持ちが良いだろうな。

でも、こういうのは老後の楽しみに取っておこう。

まだまだ仕事で貢献したいし俗世にまみれたいぞ。

さあ下界へ。

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日も傾き、1人帰路についたのでした。

そこに戻れば自分をチューニングし直せる場所があるというのは、ありがたいものですね。