カテゴリー別アーカイブ: スピリチュアリティ

あるべき場所にあるように

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気持ちの良い天気ですね。

寒かった『大寒』が終わり今日から『立春』

トイレに置いてたまに読んでる二十四節気の本も、今日から最初のページに戻ります。

七十二候では『東風氷を解く』

東から吹く風が湖の氷を溶かして行く。

素敵なイメージですね。

ここからは春の気配が少しずつ見えてきます。

まだしばらくは寒いでしょうけど、お日様の陽気にも春の気配が感じられますね。

嬉しいものです。

僕の断捨離プロジェクトも3分の2ほどが終わって、気持ちがどんどん軽くなってきています。

この清々しさが何ものにも代えがたく良いです。

物が無くなって部屋が整理されたりスペースが生まれるのも気持ちが良いけど、それだけではないこの心地良さの源を探っていくと、

ずっと滞って使われなかった物がまたお金になって血液のように流れ出すことや、

物達がまた求められている人の元に行き、本来の能力を発揮して物自身の天分を全うできるように促すことがそもそも、徳の高い行為なんだということが分かります。

自分の滞っていたエネルギーも流れだして清々しい上に、徳のエネルギーも流れ込んでくる。心地よい。

逆に言うと、目的もなく使わないままに置いておくことは、本来物たちが発揮でたであろう才能と貢献を自分のもとで捨てているようなもので、もしかすると小さな不徳なのかもしれません。

力を無駄に捨てないために、それが求められている場所へと流す。

そうなることが自然の摂理なのでしょう。従うととても気持ちが良いのです。

仕事においてもそうですね。

自分や周りの人たちが持てる才能を滞らせずに、それぞれの能力を最大限に発揮して輝かすには、どういう配置がベストだろうか?と、そのバランス点を見出すように采配していくと、一番上手くいきますね。

自分の人生の方向性を決めるときも同じで、自分の能力や才能が今最も求められている場所はどこで、

「どこに時間や労力を注ぐことが世の中の価値を最大化させるだろうか?」

という問いをもって、その場所に自分を差し出していく。

そうするとスルスルと自分も周りも発展へと運ばれていきます。

自分と周りの人や物の能力や才能を無駄にせず、流れを止めず、出し惜しみもせずに、あるべき場所に流すだけで物事は随分上手くいくようです。

そんな風に感じているので、最近の僕はもう自分自身の個人的な夢や目標など、どうでも良くなってきました。

「なんでもするから、資質に合った場所で思いっきり使ってください。そこに運んでください。ガンガン貢献しますから。」

そんな祈りが心の中に響いていれば、それで良いですよね。

あとは、力を抜いて天の采配に委ねる。

力まない。握りしめない。

もっと物も夢も手放し、身軽になって進んで行こうと思います。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

折り重なった時間を旅する


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先日、友人の結婚式に京都に来て。

その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、

夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。

少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。

歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。

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風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。

思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。

その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。

その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。

うつしよ=写し世

この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。

京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。

あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、

ここが古都であることの凄さを思い知る。

現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。

そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。

さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。

そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。

それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。

なんという雅な世界だろうか。

不意に遠くで花火が上がる。

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僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。

気高さに向かわせる力

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名探偵コナンが遭遇した殺人事件が600件を超えたそうだ。(なんという高校生だ!)

でも毎週毎週、謎は解かれなければならないし、そのためには誰かが死なないといけない、という大人の事情があるのだろう。

そして登場人物の中でおおよそ最も平凡そうな人間こそが真犯人で、

その犯人だって本当は悪い人ではなく、誰か愛する人の無念を晴らすためにやむなく人を殺めるに至ったのだろう。

面白いもので、僕らはそういった物語、復讐劇に一定のリアリティーを持って受け入れている。

騙されて会社を乗っ取られて自殺した父のための復讐とか。

大学の研究成果を教授に奪われて、失意の中で自殺した恋人のための復讐とか。

フィクションの世界では必ずと言っていいほど出てくる、こういった王道な復讐劇だが、考えてみると現実のニュースではまず聞くことが無い。

あるのは痴情のもつれか、金銭のもつれか、動機なき殺人ばかりだ。

心無い若者の無免許運転によって愛する我が子を轢き殺された父親も、いじめによって子供を失った母親も、憤りの先に復讐に手を染めることはまず無い。

なぜだろうか?

愛する我が子を失ったという現実を、痛みを、どのように解釈して、どのような意味を与えてその不条理を自分の運命として飲み下したのだろうか。

その痛みを受け入れるプロセスで人はどこに連れて行かれるのだろうか?

私は心理療法家として、多くの人のその受け入れのプロセスに立ち会う。

クライアント自身が現実に直面し、苦痛と悲しみにあえぎ、涙を流すのをただ横に寄り添いながら、見守っている。

その瞬間の激しい感情の震えと凝縮されたエネルギー場に立ち現れるのは、非常に神聖で気高い感覚だ。

人生のエッセンスに触れているような確かな手応えのようなもの。

不謹慎ではあるが、心が洗われるようにさえ感じることがある。

そんな場面に一緒に立ち会っていて思うのは、不条理な現実に直面すると、人は自然に偉大さに向かって引き上げられるようにできているということ。

出来事を自分事として直視し、痛みや悲しみを味わい、自分の運命として受け入れる中に、神々しいと言って良いほどの癒やしが立ち現われ、

人間はそこで気高さに向かって引き上げられる。

そうなると、もう事件の前と同じ自分ではいられない。

私的な自分から公的な自分となり、社会に何かを与えることで事件に気高い意味を賦与しようとする。

そこには、フィクションとは全く違う力が働いている。

(どうやら人間にはそんな力があるようだよ、コナンくん。)

どれだけ人が亡くなろうと、どんな凄惨な事件が起ころうと、社会はますますきれいになっていく。

それは間違いないようだ。

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7つの習慣メルマガにてご案内していた、以下の記事のURLが間違っていました。すみません。

こちらに正しいリンクを貼っておきます。

生きられなかった『柔らかい優しさ』の物語

氷室京介 LAST GIGS 後編 忠実であるということ

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以前書いた記事『氷室京介 LAST GIGS 前編 天の采配』の続きです。

氷室京介の引退ライブ『LAST GiGS』に行ってきました。

京セラドーム(旧大阪ドーム)に来るのは何年ぶりでしょうか(たぶん学生の頃にエアロスミスのライブに来て以来20年ぶりくらい)

会場に入り、右往左往しながら自分の座席を見つける。周りは同年代の男性が多い。

開演の時間が近づくに従って徐々に期待が高まって、会場のボルテージが上がっていく感覚がたまらない。

氷室京介を求める数万人がドームの中で巨大な集合意識を形成していて、そのエネルギーに自分を同化させると高揚感がふわっと広がる。気持ちが良い。

なるほどなと思う。

ライブとはこういうことなんだな。

ステージのアーティストが豆粒ほどしか見えなくてもそれは大した問題ではなくて、それよりもそこにいるファンたちの集合意識と溶け合わさり一緒に高揚してアーティストのリズムに合わせて大きな1つになっていくような意識の拡張体験。

それがとても独特なんだな。

そんなことを考えつつ会場で待つ。隣の同年代のお兄さんもそわそわしている。

会場のボルテージが徐々に高まり、皆の手拍子が始まる。

そして高まりきったところで、氷室京介登場。

何事も無いかのように普通に歩いて出てきて、

「おら!行くぞ!大阪ぁー!」とシャウトし、数万人がそれに応え、会場が一気に熱狂し、イントロが成り響く。

こうして20年来のカリスマとようやく場を共有することができたわけだ。

大きなモニターに映し出される彼を見ていると、

どの角度から見ても完璧にカッコ良すぎて、笑いが込み上げてくる。(完璧なものを見ると笑いが出ると言ったのは太宰治か)

なんなのだろう。この人は。

衰えどころか、逆に極まっているのではないか。

数万人をまとめ上げて煽っている姿を見ていると、これは人なのか?という気さえしてくる。

20年以上前の、もはや懐メロと言っても良いはずのBOOWY時代の楽曲が、

『ONLY YOU』や『マリオネット』が、普通に今、現在形でかっこ良い。

なんなのだろう、この人は。

完璧にロックの化身のようになった姿を見て、彼が周りの期待に晒されながらも頑なにBOOWYの再結成を拒んだ(というよりも意にも介さなかった)理由が少し分かったような気がした。

ここまで研ぎ澄ますことが彼の仕事の基準であるならば、それは無理だなと感じた。

自分の心に、過去を懐かしみ友情を尊重するような思いに居場所を与えるならば、

それはもはや「人間の仕事」となり、このような神々しい研ぎ澄まされた存在感は纏えないだろう。

彼が忠誠を誓っているのは、そこでは無かった。

氷室京介というイデア(ロックの表す美学のようなもの)に忠実であろうとするならば、自分と同じ過去を過ごした同郷のギタリストと共にステージに立つことは不可能だ。

その途端に人に戻る。

なるほどなぁと思う。

ある種の意識の在り方を選ぶということは、他の何かを選ばないということでもある。

そして明確に意志を持って選択し、忠誠を誓う者は神に愛される。

そんな忠実な人間にイデアは(神の形象と言っても良いし、アーキタイプと言っても良い)は立ち現われる。

彼はずっと忠実だったのだろう。

「引退する」と言うはずが、思わず「氷室京介を卒業する」と言ってしまったことを彼は、「脳が酸欠でおかしなことを言ってしまった」と言い訳していたが、

それは意外に正確な表現なのではないかと思う。

氷室京介という存在がつながっていたイデアに忠誠を誓ってきたが、もう肉体的限界によってそれを維持できなくなったということなのだろう。

それにしても30年だ。

普通はそんな風には生きられない。

10代後半くらいに、彼と同じイデアに魅せられて忠誠を誓う人はたくさんいる。

生涯それ(ロック的なるもの)を生きてやると、決意の固さを自分に示すように身体に消せないタトゥーを刻んだりする。

でも数年もすれば、そこから脱落してタトゥーを隠して(あるいは消して)生きていく。

社会に迎合せねば食えない現実に直面するし、青年期を過ぎるとまた違ったアーキタイプが自分の中から出現する。

なのに彼は50歳過ぎでも、氷室京介という特別際立ったイデアを生き続けている。

普通はこんな風にはいられない。

50を過ぎると皆「この歳だけどロックをやっています」というエクスキューズが見え隠れする。

ステージングが過去の自分のパロディであるかのような自意識が入り込む。

昔の曲は懐メロとなり、その時代を一緒に経験したオーディエンスとの共感と慰労の温かさが入り込む。(それはそれで素敵だが)

でも、氷室京介は30年前の曲ですら現在形で体現し、そこにノスタルジーの入り込む隙が全く与えない。

まったく、お見事としか言いようが無い。

帰り際、胸の辺りが温かくなっていることに気づいた。

それは不思議な感覚だけど、よく知っている感覚だった。

イデアに忠誠を誓い、それを30年以上体現したカリスマの薫陶を確かに受け取った気がした。

映画『裸の島』が凄い

いやはや、凄い映画を観た。

これだから映画鑑賞は止められない。

新藤兼人監督の「裸の島」という作品。1960年のモノクロ映画でセリフも無い。


瀬戸内海の小さな島に住む家族の日々の仕事をただ追いかけながら、家族の四季とそこに起こる出来事をカメラに収めているような作風。

でもそれが凄い迫力で、あっという間に引きこまれて90分が終わってしまう。

何が凄いって、この人達の仕事。

朝から船を漕いで水をくみに行き、天秤棒を肩に担いで水を船に乗せる。

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そこから船を漕いで自分の住む島にたどり着くと、山の斜面を登り、

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その水を柄杓で汲んで畑に与える。

するとものすごい勢いで土は水を吸い込んでいく。

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そしてまた船を漕ぎ、水を汲みに行く。

黙々とその作業が続けられていく。

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そのマインドと身体性を目の当たりにして、軽いショックを受けた。

世界がグローバル化した21世紀の日本の都市で過ごし、「日本のホワイトカラーの生産性はまだまだ低いからもっと生産性を高めないと…」などという風潮に漠然と駆り立てられながら暮らしてる自分の日常のほんの50年前に、こんな生き方があったのかと。

ただ農作物に水をやるために、船を漕ぎ、水を担ぎ山を登る。

蛇口を捻ったら水が出る都市部に引っ越したら? とも思う。

せめて水路が整った農村部ならもっと生産性が高いだろうにと。

意識の浅い部分ではそう思う。

でも、一方でなぜか目が離せないほどに、この人達に魅了される。

いったい自分は何にこれほど感動しているのだろう?

心理療法でクライアントの無意識に潜む信念や家系の力学を見ていくと、僕らの親の世代やその先の世代に、

「人生を楽しむ」という考えに対しての怒りや、怨念のようなものを感じることがある。

「人生はそんな簡単なものじゃないよ! 楽しむって? なに馬鹿なこと言ってるの! 真面目に苦労しなさい!」

そういう声を無意識の中に持っている人たちがいる。

そして、豊かになった今の時代。

豊かさを味わう時間が足りないほどに物も情報も溢れ返ったこの時代に生きていながらも、

その人達は一生懸命に、苦労できる場所を探している。

そして、つらい目にあっては「生きることは大変だ」ということを証明しようとしている。

彼ら(彼女ら)はその苦労によって、一体誰の想いを慰めているのか。

一体誰への絆を表明しているのか。

自分が豊かに楽しく生きてしまうことで、誰と離れてしまうことに淋しさを刺激されているのか。

その答えは心理療法の中で知っていたが、その現場を時代の風景とともに肉感と表情を伴って目の当たりにすると、心を打たれる。

水の重さに曲がった天秤棒が肩に食い込む痛みと、足腰にかかる身体の重さを感じながら、自分の脚で一歩一歩踏み込むことで景色を変えていく。

その繰り返しによって生きるということの重さを身体に刻んでいく。

その重さを通じて収穫した芋には、自分自身の身体性と時間が宿っている。

それを自分で食し、消化し、エネルギーに変えていく。

あるいはお金に変えていく。

それが生きることの営み。

そこに流れているものの凄み。

最近、私の仕事である心理業界では「お金のメンタルブロックを外す」みたいなテーマが人気だ。

お金を稼ぐことに対する心理的抵抗や、楽に豊かになることに対する罪悪感を外す。

それによって、楽にパーッと幸せになりましょう!という訳だ。

それはそうなのだけど、私はどうもそういう手法にある軽薄さに違和感を感じていた。

外して捨てるべきと言うその心理的抵抗に、何かとても大切な自分のコアがあるような気がしてならない。

それは、この映画で見たような、物言わず静かに生きてきた先人達への畏敬。

肉体を使って生活を回していくことの迫力に心打たれるような感性から来ている。

私はこの人たちを尊敬しているのだ。

自分中に流れている彼らのように生きた祖先の想いや、彼らの払った犠牲、それを見て、それに敬意を払えることがどれほど自分の深い心を喜ばせるか。

どれほど心に栄養を与えるか。

そういったことがこの映画を観ているとよくわかる。

私達の祖父母の代がどのように生きたのか、自分に流れている血がどのようなものなのか。

自分の無意識から出てくる思いにどのようなルーツがあるのか。

どうやら私達の心はそれを知りたがっており、そして本当は頭を下げてそこに敬意を払いたいと思っているようだ。

過去を切り離して捨てるのではなく、

過去を見て知って敬意を持って頭を下げることで自由になる道がある。

そしてそちらの道こそが王道で、人に自然で永続的な変化と成長をもたらす。

それが心理療法家として人の変化を見てきて私が確信したことの1つだ。

根無し草のように軽薄にならなくてもいい。

私達の心はむしろ深く根を張ることで自由になれる。

映画「裸の島」は無意識の奥底が喜ぶ映画だった。

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>Amazonの評価も高い

レンタルでは置いてないと思いますが、私はTSUTAYA DISCASで借りました。

真心を発見する

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ベッキーがやらかしちゃいましたね。

初のスキャンダルが不倫だとか。

相手に妻がいることを知っていながらの恋愛。

そしてどこから流出したのか、LINEのやり取りまで明かされている。

その中には「卒論」という表現で「離婚届」を提出するために話し合っている2人のやり取りがありました。

好感度タレントのベッキーのスキャンダルということで大騒ぎになっていますが、みなさんはどう感じていらっしゃいますか?

いろんな声が上がっていますね。

「売れない時代を支えた奥さんを売れた途端に捨てるなんて、奥さんの悲しみははかり知れない。」

「ベッキーも結局はそういう人間だったんだ!」

「離婚届を卒論と言って嘲り笑うなんて、最低!」

などなど、

いろいろありますが、誰もがこの出来事を通じて自分自身の恐れを見ているのですね。

相手の奥さんがどんな人で、二人の間にどんな歴史があってこの決断に至っているのか、それは当人にしかわからないことです。

でもそこに「捨てられる女の物語」を投影する。

それは自分自身の無意識に潜む恐れであって、バンドの男性もその奥さんもベッキーも本当には関係のない話です。

同じように、あのLINEのやり取りを見て、奥さんのことを馬鹿にしていると感じる人がいる。

離婚届を『卒論』と表現していることを蔑みだと感じる人もいる。

でも、逆に『卒論』という表現に、できるだけ誰も傷つけたくないベッキーの優しさを見る人もいる。

LINEのやり取りに、自分の出来る限り奥さんへの配慮や思いやりを持ちながらも、それでも自分の愛に忠実に生きようとする女の強さを見る人もいる。

見え方は人それぞれ。

皆そこに『自分自身の内面』を見ているのですね。

自分の中にあるものを通じてしか、人は外の現象を理解できないということです。

話は変わりますが、私は世界最高峰であるサッカーのスペインリーグを見るのが好きなのですが、

今シーズンからスペインリーグに移籍した日本人に、乾貴士という選手がいるのです。

なかなかチャンスを活かせずに苦戦していたのですが、先日ようやく初ゴールを上げたのです。

それも見事なカーブを描いてゴールポストの右隅に吸い込まれた美しいゴールです。

それを見て「良かったなぁー」って。

「ほんと良かったな~、乾!! 良かった良かった!」って、自分の息子を想う父親のような喜びと祝福が自分の腹の底から沸き起こってくるんですね。

嬉しくて嬉しくて。

その何の混じりっけもない祝福のエネルギーに自分が包まれて、

相手を思う以外に何の打算もなく純粋に喜べる自分の心を体験して初めて、

無意識は知るわけです。

もしかしたら、私の周りの人達も同じように私を打算無く祝福してくれていたのかもしれないと。

もしかしたら人間はそれほど醜い生き物ではないのかもしれないと。

この世の中は本当は自分が思っている以上に愛が溢れているのかもしれないと。

そうやって、自分の中に沸き起こるものを通じて世界観は更新されていくのです。

ベッキーが問題なのではないのですね。あのバンドの男が問題なのでもない。

世の中が汚れているわけでもなく、

人は自分の中に真心を発見するまでは、

そしてそれが何があっても揺るぎないのだと確信できるまでは、

悪意のある世界に恐れとともに居続けるということです。

無かったことにされた人に居場所を

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パリで同時多発テロが起こりました。

今分かっている限りで130名の命が失われたと言います。

こんな時、私たちに何ができるでしょうか。

「影響の輪、関心の輪」というフレームで見ると、パリで起こったことは海を隔てた遠い異国の出来事であり、私が影響できることなどなにも無いように感じます。

それは関心の輪の出来事に思えます。

であれば「自分の影響の輪に集中しろ!」というのがセオリーですね。

「世界平和のために私ができることはありますか?」と聞かれたマザー・テレサはこう答えたと言います。

「家に帰って家族を愛しなさい」

影響できる世界に集中して、そこにまず平和と愛を実現すること。

それが平和のためにあなたができる一歩なのだと。

尊い言葉です。本当にその通りだと思います。

でも、今の私の認識はそれとも少し違っています。

心理療法家として人の精神的な病や激しい感情を扱ってきて、そこで見てきたもの。

人間の集合的無意識を扱うような最近の心理療法が明らかにしてきたもの。

それは、

私たちは自分が思っているほど個人ではなく、お互いに影響し合っている。

ということです。

血縁の中の会ったこともない人の痛みを代わりに背負って子供が問題行動を起こしていたり、

戦争で亡くなった祖父の恐怖を背負うことで、孫の世代に原因不明の対人恐怖症が現れていたり、

そういったメカニズムが心理療法の中で明らかになり、そして変化が起こっています。

私達の深い心は互いに繋がり影響し合っているのです。

そしてこういった心理学が明らかにした法則があります。

それは、

グループの中で除外されたメンバー(無かったことにされたメンバー)の感情はグループの誰かによって代理される。

ということです。

そのような目で今回のパリのテロを見た時に思うのは、

テロリスト達に、自分の命を捨て罪無き人を殺さなければならないほどの強い力動を与えているのは、誰が除外されたからなのだろうか?

居なかったことにされたのは誰なのか?

テロリストたちはその抗いがたい行動によって誰への愛と絆を表明しているのだろうか?

ということです。

それは実際に本人たちがそう叫んだと言われているようにシリア空爆によって命を失った同胞たちです。

その人達の痛みには充分な注目と哀悼が与えられたでしょうか。

パリの130人と同じように、その痛みと恐怖と無念に思いを馳せ、私達の心の中に居場所を与えられたでしょうか?

空爆というものの背景として無かったことにされてはいないでしょうか?

除外されて無かったことにされた者の痛みや無念は誰かが背負い、暴力や病気を通じて現象化します。

そしてその役割を担う人というのは、所属しているグループの中で最も愛情深く忠誠心があり、心優しい者だと言われています。

アラーに対する狂信や宗教の対立がこれを起こしているのではありません。そのイメージは何かを見えなくさせています。

所属している家族があり民族があり、そのメンバーが除外された時、その同胞の誰かが狂おしいような力動を持って暴れざるをえないのです。

その狂気は個人の意志力で抵抗できるようなものではないのです。

心理療法を通じて最近では、こういったグループの力動として現れる病理を少しずつ癒やすことができるようになってきました。

それは、無かったことにされた人達をしっかりと見ること。

そして心にその人達の居場所を与えることによって成されます。

癒しは次のような祈りによって成されます。

『シリアの人たち。私には知るすべもなく無残に亡くなっていった人たちへ。

あなた達の痛み無念、悲しみを私はこの心の目で見ます。

そして銃を持たざるをえない人たちの衝動に、あなた達の悲しみと同胞愛と絆を見ます。

あなた達の過酷な運命とそれを全うしたあなたの生の尊さに敬意を表します。

あなた達もまた私の家族です。地球というより大きな家族のメンバーです。

私の心の中にあなた達の居場所を作ります。

そして遠く離れたこの国で、私はあなたが夢見た平和と愛を生きていきます。

あなたの同胞の1人として。』

そう祈り迎え入れる時、対立と恐怖によって凍りついていたものが溶け、温かいものが流れ始めます。

深い瞑想とともにこのような祈りを捧げる時、見たことも会ったこともないシリアで亡くなった人たちと自分との間に温かいつながりを感じられるでしょう。

そして自分の心の深いところがそのつながりを喜び、私たちは生命力を感じます。

心に居場所を与えることで私たちは僅かながら遠い異国の同胞達の悲しみと怒りを慰め、そして一方で今を生きる力に変えることができるのです。

パリのテロもシリア問題も、私達の影響の輪の中にあります。

信頼に足る流れ

ヘリンガー

久しぶりの東京。3日間の学びの時間。

今、僕が夢中になってる心理療法「ファミリー・コンステレーション」の創始者、バート・ヘリンガーの来日ワークショプ。

彼はもう90歳だから、これが最後の来日になるかもしれない…と、勝手にそう思って迷わず参加を決めた。

ちゃんと会って、見て、薫陶を受けて、彼の偉大な仕事が創りだした流れを引き継ぎたいと思ったのだ。

その目的は3日目に達成された。

セッションの代理人をする中で、彼が扱っているエネルギーを身体を通して体感した。

それは良質な瞑想であり、老子の言うタオの完璧な実践だった。

思考を手放す中で身体は勝手に動き、セラピーにおいてどのエネルギーの流れに従うべきか、そしてそれに従った時にどのような安らぎと祝福を感じるのか、それが身体の通じて経験され、神経に記憶された。

仙人のような目をした90才のヘリンガーと魂で対話した。

3日間のワークショップの後半にヘリンガーはシンプルな一言に加えて言った。

「…それが、ファミリー・コンステレーションの秘密です。」

その言葉の意図がよく分かった。

 

最後に「2つ質問があるんです。」という参加者の1つ目の質問に答え、そして「もう一つは…」と言う質問者に静かに首を振り、席に戻るように促した。

「2つ質問があるという人は本当には1つも質問が無い人です。だから私にも答えは無いのです。それがこの感動的なセミナーの最後です。

そして私の観察では、ここにいる多くの方は大切なモノを受け取ったようです。必要なことは成されたのです。」

そう言って満足そうに、90歳の老師は好奇心旺盛な目で参加者を見回していた。

とても言葉の少ないワークショップで、時には休み時間に参加者同士が感想を言い合うことも禁止された。

思考で理解しようとすることは体験の質を表面に浮上させてしまうだけで、本当には受け取るための助けにはならないし、他の人達が魂で受け取るプロセスを邪魔することにもなりかねない。

今は頭が空っぽで胸から丹田にかけて熱く充実していて、そこにヘリンガーのいくつかの言葉が響いている。

自分がヘリンガーのような仕事をするのは何十年先になるだろうか。

でも、今の流れに従っていればその先にどのような世界があるのか、その可能性の片鱗は見えた気がした。

ワークショップの中盤、男性性と女性性についての話の後で「どうすれば、本当の男になれますか?」と質問をする若者に、ヘリンガーは嬉しそうに微笑みながら、ゆっくりと諭すようにこう答えた。

「私は今では90歳になりました。

ようやくあなたの言うゴールが見えてきたところです。

私は90年生きたのです。

そして、その経験のどれも失いたくはないのです。

分かりますか?」

彼から受けたものがこれからどのように形になって現れるのか、楽しみでならない。

私淑するということ

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私淑する(ししゅくする)という言葉がある。

辞書で調べてみると、孟子の言葉からきているそうだ。

「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」

直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。

とある。

私はこの私淑するという在り方に、何か底知れない力があるような気がしている。

フェイスブックやツイッター全盛の昨今、会いたいと思ったら大概の人にはコンタクトを取って直接会いに行き、教えを請うことができる。

でも、1人で遠く離れて私淑する力の無い者に、その教えは言葉以上の深さを持たないだろう。

私淑することの力とは、師の言葉に根源の意図を見出そうと、心の中で自己対話を深めていくことにある。

それによって師の教えや在り方が内面化し、自分の中に師が持つものと同じ種が植え付けられる。

師の中に見える才能のエッセンスを自分の中にも開くことができる。

そのような学びの際には時に、実際の師の性格や個性はむしろ邪魔になることさえある。

師を通じて見えている、師の存在の向こう側にあるイデアこそが重要なのだ。

そして私淑することの良き点は、もう既に亡くなった偉人を師とできるところにある。

でもその力は偉人の技術や方法を学ぶことにはない。その偉人の行動のエネルギーの源泉を自分の中に掘り当てることにある。

それは深い内向の作業だ。

外に出ること、つながること、表現することがことさら強調されている昨今だが、一方で私淑するという内向の作業を怠らないようにしたい。

最近になって何かを伝えるという立場に立ってみてよく分かる。

決して近寄らず何も語らず少し離れた所で私を見ている生徒の寡黙さと眼光にこそ、頼もしい力が見える。

帰還を果たす

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前回の記事で、平日に1人で田舎に帰省しないといけない気がしてそれを実行したと書きました。

>>前回の記事『答えが先で理由は後』

理由は分からないが、その衝動に従ったと。

そして、そういう時は謎が解けるように人生が展開していくのだと書きました。

それが結局なんだったのか。

田舎に1人で帰るべき理由はどこにあったのか。

結局その日、僕は実家の裏山に入り、静かに1人で自然の中で森林浴をしていました。それをすることが重要な気がしたのです。

そして、翌日になって、何をするでもなく父と母と仕事のことや今現在のこと、今の自分の考えなどを話していて、そこに流れている祝福されているような穏やかな空気感を受けて気付きました。

ああ、これをやるために帰ってきたのだなと。

裏山に入ることが重要なのではなかった。

この両親との他愛のない時間こそが目的だったのだなと。

それはつまり『英雄の旅』で言うところの『帰還』です。

どうやら僕は象徴的な意味での1つの旅を終え、故郷に帰還して、父と母に今までの旅の報告するということをしたかったようなのです。

思えば18歳で家を出てから、もう20年以上。ようやく自分でも納得できるような成果と達成を親に報告できるようになりました。

そして、そうやって帰還を果たし、1つの旅を終えるということはつまり、次の新しい旅の始まりでもあります。

故郷の山に登り、登頂すると見えてくる景色。

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太陽を照り返す瀬戸内の海と山。子供の頃から愛して止まない景色。

そして腹が決まりました。

その帰り道、山を降りてしばらく歩いたところで、ちょうど夕方のウォーキングをしていた父に会い、一緒に家まで歩きました。

その間に何を話したのかはまったく覚えていないし、おそらくそれはどうでも良いことだったのでしょう。

ただ、あの夕方にあの場所で、二人で並んで歩いて帰るということが正しかったのだと。そんな正解感だけが今でも心に残っています。

そして、これからより遠くへ行くために、

より深く色濃く原点のエネルギーに触れないといけないような気がしています。

まだ十分では無い感じ。

もうしばらく1人で実家に帰る活動は続きそうです。

答えが先で理由は後

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なんとなく、平日に1人で実家に帰るということをしなければならないような気がして、今日、それをしている。

1人で電車に乗って、田舎である相生市に向かっている。

この「なんとなく」という感覚は、人が自分自身の人生を生きる上でとても大切な感覚だと思っている。

なんとなくその時期が来た。とか、なんとなく自分がそれをやるべきな気がする。とか。

その「なんとなく」こそが直感の声だ。

思考で考えたものは直線的な因果律で導き出した答えだが、

直感の声は、潜在意識の中の数十から数百の自分が会議で話し合った結果出た結論だ。

だから、思考で導いた答えより遥かに深い意図と恩恵が隠されており、そして数百の自分の合意なので、それを実際に生きることは外側の現実と自分との深い調和をもたらす。

ただ、その声が何を意味しているのか、数百の自分はどんな意図でその行動を「なんとなくするべきだ」と導いたのか、普通はわからない。

よほどの訓練を積んでいない限り、意識は潜在意識の意図を理解できない。

でも、それはおいおい明かされていく。

意識からすると直感というものは唐突で、まず「なんとなくそれをするべきな気がする…」という結論が先にあって、

それを実際に行動に移しつつ自分の感覚を確かめることで、なぜそれをする必要があったのか、その理由が明かされて行く。

答えが先。

理由は後。

それが直感に従って調和した人生を生きる上での「コツ」のようだ。

人生を上手く生きられている時は、波に乗るように内側の情熱に従って動いているだけで、後々になって、謎が解けていくようにその行動の意味や理由が明かされていく。

まるで上質な冒険小説みたいに。

というわけで、僕はなぜか平日に1人で田舎に帰らないといけない気がしていて、そしてそれが何を意味するのかは徐々に分かってきているのだけど、それが本当にそうなのか、

それとも今自分が思っている以上に大きな何かがあるのか、それとも単なる思い違いなのか。

それを確認するために今、相生市に向かっています。