カテゴリー別アーカイブ: 読書

ここではない何処かへ行くためのツール

最近の執筆活動の中で随分助けられていて、無くてはならない存在になりつつあるのがこの本。

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天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

モーツァルト、フロイト、カフカ、トーマス・マン、ピカソ、サルトル、アシモフ、ナボコフ、イエーツ、フェリーニ、マルクス、サティ、などなど。

歴史に残る小説家や画家、作曲家、映画監督など、161人の創作のための習慣ばかりをピックアップした本。

1人につき2、3ページで紹介されている。

読んでみると分かるけど、朝型の人もいれば夜型の人もいる。

立って書く人も入れば、完全にベッドに横になって器用に書いていた人(カポーティ)もいる。

散歩を習慣にする人が多いが、酒や煙草で健康を蝕みながら書いていた人(J・P・サルトルなど)もいる。

***

最近なぜか朝型人間になっている私は、目が覚めると朝日の入る部屋で机に向かい、バロックミュージックを流して、まずはこの本を手に取るようにしている。(文章にすると、なんだかとてつもなくカッコ付けてる感があるが…(笑))

ペラペラとページをめくりながら何人かの創作習慣を読んでいるうちに、自然に文章を書く気分になってくる。

偉人達の創作現場で繰り広げられたであろう、決して派手ではない日々の時間に想像力を広げていると、自分の日々のルーティンと向き合うことがそれほど嫌ではなくなってくる。

そうやって本を読んだ後に入っていく集中モードがある種独特で、日本的な集合意識からするりと抜け出したような軽さがあって、とても気に入っている。

意識が自由で、言葉が流れやすくなるのだ。

だから、常にデスクの上にこの本を置いて、疲れたらパラパラと読むようにしている。

こうやって自分の状態管理をしているわけだ。

このようにある特定の意識状態にチューニングして、いつでもその想念世界を呼び出すせるようにするには、

いくつかの要素を固定することがポイントになる。

まず1つは場所。

どこで仕事をするかによって、そこで受ける氣の質が固定される。

方角、窓や太陽との位置関係。それらによって微妙に感覚が変わる。

試しにいろんな場所で仕事をしてみると、この仕事はこの場所が合う、というような特徴が分かってくるものだ。

そして固定するべきもう1つの要素が時刻。

午前中には午前中、夜には夜にうってつけの仕事がある。

そして同じ午前中でも細かく感じてみると、微妙に違う。

例えば私にとって掃除は、朝の氣の中でやると宇宙と調和したような正解感があるが、それは早朝ではない。

9時~12時くらいがぴったり来る。

それ以上早い時間は身体を動かすよりも、意識を静かに内向させるような静謐な空気感がある。それは創作のためのものだ。

外側の世界がその時に発している氣の質と、自分の仕事を調和させると、かなり深い(こういう言い方が許されるならば「スピリチュアルな」)充足が得られる。

仕事をすることで体力は消耗するのだが、気持ちは充足する。

そしてもう1つ使えるツールが音楽。

その時に必要な想念世界に意識をチューニングするのに、音楽はお手軽かつパワフルなツールだ。

アーティストによって召喚できる世界の波長が違うので、自分に今必要な波長を持ったアーティストを選んで意識を調整することができる。

更にもう1つが、先に上げたように「本」だ。

『天才たちの日課』を読んで海外の偉人の習慣に触れることで、日本の集合意識から抜けだして、偉人達の創作の世界に意識を結んだように、

本から得られる世界観と氣を借りることができる。

そうすると、独特のリズムを持った言葉が流れてくるし、書くことを通じてその世界の氣質を文章に反映させて、それを読者に届けることができる。

妙なこと言っているように聞こえるかもしれないが、そのような人生の作り方もあるのだ。

場所、時刻、音楽、本、などを使って氣と想念世界をコラージュのように織りなすことで、独自の意識場を作り、その中で仕事をする。

そうすると、その場の感覚がやがて形になって現実生活に立ち現れる。

大切なのはある独特なフィーリングを長期的に保ち続けるための方法とツールを持つこと。

ここではないどこかへと行くためのツールだ。

あなたはどうだろうか。

あなたが内的に静かに研ぎ澄まされて充足するような、特別なフィーリングに入っていくには、

どこで、どんな時間に、どのような音楽が合っていて、そしてどのような本がその世界に招待してくれているのだろうか。

先人達の偉大な作品が、様々な想念世界への門を開いていてくれる。

そしてあなたが望めば、その世界に行ってそこの氣を受けて仕事をすることができる。

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

この本は本当に清々しいほどにクリエイティブな氣を発する本なので、文章を書く人やなにかしらの創作の習慣を作りたいと思う人にはお勧めします。

小説の方法、人生の作法

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ちょっと長いですが、これは文学論ではなく、ある生き方に対する提案なので、ちょっと我慢して読み進めてみてください。

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村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」が非常に面白い。

文学というものの本質がとても良く表れているし、小説以外に多くを語ろうとしなかった村上春樹という人が、

どのように自分の生活を管理し、どのように世界と向き合っているのか、赤裸々な人生論としても読める特異な本となっている。

中でもとりわけ興味深かったのは、氏の小説観。

どういう訳か私達が体験した学校の国語教育では「作者の意図は?」とか「作者は何を伝えたかったのだろう?」といった問いを持って作者のメッセージを読み取ることが読書の中心にあり、それがあたかも正しいことであるかのような暗黙の前提があった。

でも、ある種の作家と向き合う場合において、こういった「読み」の姿勢が全くの間違いであることが、このインタビュー集を読むとよくわかる。

インタビューの中で村上春樹は「スプートニクの恋人」という作品の生い立ちをおおよそ次のように語っている。

・突然タイトルが浮かんで、わりとカッコいいタイトルだから小説を書こうと決めた。

・最初に物語や構成やメッセージがあって設計されたわけではなく、ぱっとタイトルが浮かんで、それに従って書いていると、物語が展開されていった。

・彼自身も毎朝書くことで、展開される物語にドキドキしながら書き進めた。

・そんな風に作者自身も、書き終わるまでは何を書いているのかよく分かっていなかった。

・書き終わって出版した後も、その物語がどういう意味を持つのかという点に関しては読者にゆだねている。

つまり作者の意図や伝えたいメッセージというような意識的な表現手段として小説があるのではなく、作者の無意識が作家としての感性と嗅覚に従って言葉と物語を選択していった結果として作品があり、それに対しては作者もまた一人の読者すぎないという訳だ。

***以下引用***

テキストというのは全ての人に対して平等なんです。例えば僕が「スプートニクの恋人」という小説を書いたとして、そこに対して僕も含めて、あらゆる人が等距離からアクセスできる。それが僕のテキスト観だから、誰が何を考えようと自由で、僕はそれに対して「違いますよ」とか「考えすぎですよ」とケチをつける根拠は実は全くない。

**********

もし文学というものが、作者の意図を伝えるための道具であるならば、文学作品の持つ価値は、作者の知性の限界、思想の限界、人生経験の限界に縛られた限定的なものになってしまうだろう。

村上春樹が何を思い、小説にどんな思いを込めたのか? そんなことに正直言って私はほとんど興味が無い。

彼の思想に別段特別な価値があるとは思えない。

私が興味があるのは、村上春樹が書くことによって立ち現れてくる、彼自身にも理解できていない何かだ。

彼の小説という方法を通じて向こう側から立ち現れてくる、何か良くわからない力。

それは現代という時代的な何かであり、歴史的な何かであり、人類の集合的無意識的な何かであり、つまりは結局のところよくわからないものだ。

その立ち現れようとする「何か」に私は非常に興味がある。

本書の中で村上春樹は「家」をメタファーにしてこう語っている。

***引用開始(改行は引用者による)***

人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。

一階は人がみんなで集まってご飯を食べたり、テレビを見たり、話をしたりするところです。

二階は個室や寝室があって、そこに行って1人になって本読んだり、 1人で音楽を聞いたりする。

そして地下室というのがあって、ここは特別な場所で色んな物が置いてある。

日常的に使うことがないけれど時々入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。

ただ何かの拍子にふっと中に入ってしまうと、そこに暗がりがあるんです。

~中略~

その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。

~中略~

その暗闇の深さというのは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど。

~中略~

いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。

だからみんな、なるほどなるほどと、読む方はわかるんです。

あ、そういうことなんだって頭でわかる。

そういう思考体系みたいなものができあがっているから。

でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。

***引用終わり***

つまり国語教育的な「作者のメッセージは?」という読みに対応できるのは、地下一階で作者が意図して書いた小説までであって、

村上春樹がやっているのは、その更に下の危険な場所、それは彼自身にも説明できないもの、頭では処理できない何かを、言葉を通じてすくい上げることなのだ。

その方法として小説があり、メタファーを多用する文体がある。

さてさて、ここまで書いてきましたが、私は何も長々と文学論を語りたかった訳ではなくてですね。

村上春樹の素晴らしさを語りたかった訳でもありません。

では、何が言いたかったのか。

それは、村上春樹が小説に対して持っている姿勢が非常に有用だということです。

つまりこういうことです。

『村上春樹が自分の作品に接するような慎重さや謙虚さを持って「人生」を扱うとすれば、いったい人生とはどのようなものになるのだろうか?』

こういう問いを立てたかったわけです。

村上春樹の言う「小説」を「人生」に置き換える。
私達は自分の人生の作者として道筋を選択し、主人公として実際に行動して生きている。

でもそんな自分自身にすら理解できていない、より大きな何かというものに対して、慎重にそれを感じ取りつつ、尊重してそれを招き入れる。

人生の主人公としての「私」は感性を全開にして流れと未来を感じ取り、ストーリーを選択するが、それでも決して未来は予測しきれるものでも設計しきれるものではなく、

一方で今ここに展開している出来事を、物語の読者のようにワクワクしながら受け取る。

そしてそのように生きた人生の意味も価値も、到底自分には理解しきれるものではないという前提に立つこと。

そのような距離とスペースを空けることで、自分の人生に自分より大きな何かを招き入れることができるのです。

村上春樹の比喩を使うとすれば、地下二階まで降りていくことができるのです。

そして、そうでいながら自分の知性を全開にして、その出来意事を定義し意味を与え物語として編みんでいく。

私はここに人が生きることの面白さと可能性があるように思っています。

もう何でも手に入ってしまって、物質的には満たされて欲しいものなど無くなってきているのに「内需拡大だ!」と無理して疲弊している今の時代。

その物語の限界を超える力を人間が持ちえるとしたら、それは地下二階への冒険心ではないかと思うのです。

刺激に飽きたらより大きな刺激を!より新しい刺激を!より大量の刺激を!とやってきた先に行き着くのは、人間の無関心と無感覚。

そっちはもう行き止まりですね。

目指すべきは危険に満ちた地下二階ではないでしょうか。

その方法とヒントは彼の小説ではなく小説の方法にあるように思います。

初恋の人という呪い

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漫画『惡の華』が僕の感覚にピッタリきたので、同じ作者の『漂流ネットカフェ』という作品を借りてきて読んだ。

これまたピッタリで、グロいけど素晴らしかった。

中学生の時の初恋の女性の意外な行動。その時、緊張して勇気が出なくてその先に進めなかったことの後悔。

もしその先に進んでいたら…?

これは初恋の女性に、自分のありえたかもしれない理想を投影しているわけだけど、とても良くわかる。

関係を未完了のまま、あこがれのまま残している異性というのは、ある意味で呪いのように人生に作用するものだ。

その憧れの女性が、自分が生きられたかもしれない愛に満ちた理想の時間を映し出して誘惑する。

現実ではなく、ファンタジーに引き込もうとする。

それと戦ってそのファンタジーを切り裂いて人は大人になるものだ。

それができないとファンタジーの中にひきこもり、実際の人生の有り様を「そんなはずではなかった!」と心の中で否定しながら、自分の幻想を支えてくれる作品を取り込み続け、ファンタジーに燃料をくべ続けることになる。(それはそれで豊かではないかとこの時代は言うが)

ではそのファンタジーを超えるには、どのようなイニシエーションを通過する必要があるのだろうか?

投影された理想を超えるような魅力的な現実を作ってそれを生きるか。

現実の異性という生々しい肉体と存在に何度も触れることでファンタジーを追い出すか。

あるいは理想の相手の老いた現実を目の当たりにするか。

漫画のあとがきで作者は、この作品は自分のトラウマを元にして描いたとしている。描き終えることで長い間の思い出の檻から出られたのだと。

作者は描くことで自分の中のファンタジーを殺したのだろう。

同じようなテーマで『秒速5センチメートル』という美しいアニメ映画がある。

でも、『秒速~』はファンタジーを美しく賛美してファンタジーに燃料をくべる作品であるのに対して、『漂流ネットカフェ』はファンタジーを破壊するものだ。

その意味で暴力的で猥褻にも関わらず、後者の方が実は教育的だったりする。

非常にグロいのでとてもお勧めしにくいけど、特に男性にはお勧めします。

漫画『惡の華』が面白い

惡の華

GEOで借りた漫画『惡の華』が個人的には、異様に面白かったので記念に書いておきたい。

どこにも行き場がなくて吐き気がするくらい退屈な田舎町で鬱屈した青春時代を、文学に精神をこじらせつつ生きた自分には、懐かしいとさえ思えた。

中二病の先に見ようとした「向こう側の世界」

そんなの無いんだけど…(笑)

そして誰かの心に巣食う自分と同じ種類の闇を見て、共犯関係みたいに惹かれていく感覚。

僕はもうその闇に乗っ取られることは無くなったけど、今でも不思議なくらいにその闇を持った人を引き寄せる。

まあ、仕事柄あたりまえなんだけど、プライベートも含めて本当に不思議なくらいに。

で、「その憂鬱、僕はよく知ってるよ(笑)」って言うと、相手も笑う。

どうしても嫌いになれないんですよね。その闇が。

むしろ惹かれる。

『惡の華』

前半の6巻くらいまでは中二病が走りすぎて行き過ぎるけど、後半にちゃんと昇華されます。

青春時代的な闇に浸って、もう一度中二病をこじらせたい夜にオススメします。

それにしても「クソムシが」って、たまらないですね(笑)

 

 

村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

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先日開催した主催のワークショップは、村上春樹氏の新著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をテキストに語らう。読書会形式で行いました。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

純文学の小説をテキストにすると、皆の中から何が引き出されるのかと思いましたが、なかなかタフな会となりました。

「色彩を持たない~」は王道の成長物語でもあるので、大筋の理解は皆だいたい同じなのですが、その上でそれを良い作品とするのか、不足とするのかという点では大きく異なりました。

そして、それによって、その人のベースとしている世界観や信念や今大切にしている価値観が炙りだされたような形だったのではないかと、今振り返ってみると思います。

安全な立場で感想を言い合うのではなく、作品を題材に何か内側のものが引き出されたり刺激されたらいいな…。という漠然とした期待は、その意味ではある程度成されたように思いますが、これはなかなか刺激の強い作業でした。

翌朝、村上春樹氏の発言をまとめたTwitterを発見して読んでいると、こうありました。

『僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある―生きることも、読むことも。』

確かに、皆さんの様々な読み方を通じて明らかになったのは、僕らは「同じではない」という、ある意味で厳しい事実だったかもしれません。

参加された皆様お疲れ様でした。

僕にとって村上春樹氏の作品に触れることは、独特な比喩に満ちた世界に没入していくことで、普段現実世界では生きられなかった(おいてけぼりにした)1つの可能性を生き直すような作業だと感じています

僕らの心というものは、沢山の小さな自分の寄せ集めでできていて、それはさながら1つの社会のようなものです。

そして、現実の肉体としての僕らは、毎日仕事をして社会的責任を果たして、ひとまずは大人として振る舞うことができていると思います。

ですが、その心の社会の中には、挫折したり、回避したり、傷ついて蓋をして無かったことにしたりして、成長を止めている小さな自分が多かれ少なかれいるものです。

拒絶を恐れて回避してしまった恋愛体験の記憶の中に。

曖昧なまま遠ざけてしまった友人関係の記憶の中に。

そして、その分だけ僕らの心の成熟は滞っていて、全体性を回復できずにいます。

今回の『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』は特に、そういった心の中に住む、成長を止めたままの小さな存在に響いていき、追体験させることで道筋を与え、成長へと導いてくれる、一種のセラピーのようなものだったと感じました。

もちろんどんな物語でも、良くも悪くも避けがたくセラピー的に機能するのですが、村上春樹氏はその方法と筆力によって、その力がずば抜けているのですね。

彼の本を通じて、生きられなかった人生を象徴的に生き直すことができるのです。

それはとても内向的な作業で、あまり褒められたものではないかもしれませんが、たまに僕はそれを無性にやりたくなる時期があるんですね。

教養について

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現代において教養とは何か? というのは難しいテーマだけど、岡田斗司夫さんがある本の中で、「情報を摂取し過ぎると逆に教養というものは失われる」みたいなことを言っていて、とても良くわかると思った。

「何を観て、何を読んで、何に触れて考えてきたか」というのも大切だけど、「何に触れなかったか」というのも同じくらいか、あるいはそれ以上に大切なのだと最近は思う。

子どもの頃から両親の躾として、格調高い意識によって作られた芸術にだけ触れることを許されて、サブカルチャーに触れることを一切許されて来なかったような人が現実に存在している。

そういった方と話してみると、ちょっと真似しがたい品性のようなものが漂っている。

いくら大量の情報や言葉をこねくり回しても超えられないような説得力がそこにはある。いわば、清潔さを守りぬいた強さのようなもの。

でもまあ、今更僕はそこには戻れないわけです。泥んこな感性によって作られたサブカルチャーをシャワーのように浴びて来た一時代を、今更無かったことにはできないわけです。

見ていなかったものは見れば良い。

でも、見たものを見なかったことにはできない。

だからそっちの方向は諦めて、僕は泥んこなりの教養というものを深めて行きたいなと最近は考えています。

それは作品や哲学を「知性」というレベルにストックするのではなく、肉体の体験に落とし込むことによって生まれる迫力のようなものだと思うんですね。

例えばプラトンの言うような恋愛を本気で体験してみる。その哲学を生々しく生きてみる。

それによって知を体験した者だけが放つ境地と凄みのようなものをまとっていく。

それが泥んこな僕(ら)にとっての「教養を深める」ということではないかと思うんです。

「何をもってすれば、この人生をしっかりと生きたと言えるか?」ということを考えた時に、(僕に限って言えば)やっぱり仕事で稼いで家族を養うだけではダメだとなるんです。勉強するだけでもダメなんです。それだけでは生きたとは言えないぞ!となる。

自分の持って生まれた精神と肉体の体験を深めないと。深く練りこまないと。

そのためにはやっぱり勉強が大事なんですよね。出来事を解釈するバリエーションを学ばないと、いくら体験を重ねても深まらない。

でも一方で勉強に逃げててもダメなんです。

これは自戒を込めて、そう思いますね。

『ベルセルク』とあちら側の世界

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正月休みに漫画『ベルセルク』を読もうと、全36巻をまとめ買いしていたのだが、読み終えてショック。

この漫画、まだ完結してなかった…。というより完結する気配すらない…。

調べてみると、もう20年も連載しているのに、作者自身も自分が生きている間に描き終えられるかどうか分からないと言っているらしい。

漫画家という存在が面白いなと感じるのは、イメージ世界、つまり心象の世界に深く没入して行くことで、当初、作者自身が想定していたのとは違った世界に移行し、思ってもみないストーリーを進めてしまうような変容が起こることだ。

作者が描いているというより、あちらの世界から描かされているような、そんな風にさえ感じる。

そういう次元に移行した漫画家は筆致が変わり、絵の技術が急激に高まったように感じたり、物語になんとも言えない深みや凄みが出てくる。

例えば有名どころでは『幽遊白書』の冨樫義博氏は描いて行く中であっちの世界にブレークスルーして、最初と最後では明らかに違うレベルの漫画家になっている。

これを昔の人達は「神意が宿る」と言った。

最初な人間の知識と経験のレベルでやっていた仕事が、神意が宿った瞬間に技術が格段に高まり、表せる世界も深遠で芸術性を備えたものになる。

幽遊白書が面白かったのは、あちらの世界の深淵で豊穣なイメージ世界を垣間見せたと同時に、そのイメージを筆で表すことの身を削るような困難さも同時に表していたからだ。

冨樫氏は今でも遅筆で、通常ではありえないくらいに休載が多いが、描く世界の緊張感は比類なきものだ。

あっちの世界に行った人の筆はやはり凄い。

『ベルセルク』も途中からその凄みが出てきた。

最初は作者の創造のものだったのが、ある時、あちらの世界のものに変わった。おそらくどうしてこのようにストーリーが展開していくのか、作者自身もわからないような部分があっただろう。

そしてそれがストーリーを進めていくと、どこかで整合して全体像が見えて、それに作者自身が驚いたりする。

そういったあちら側に属した作品。人間の思考と計算の作りものというレベルを超えてしまった作品に僕は触れたいと思う。

それだけ作り手が払う代償も大きいのだけど。

以下は『ベルセルク』の作者のここ20年のあとがきの歴史。

これがなかなか凄まじい。

***以下引用***

40℃の高熱でダウン。考えてみれば今年はまだ2日しか休んでない。(1993年・12号)

7月で27歳、ふり返ればマンガだらけの27年、これでいいのか?(1993年・14号)

な~~んもせんのに5キロやせた。なぜだろう???(1993年・21号)

この2か月で平均睡眠時間が4時間を切った。これでもうすぐ里中さん。(1993年・23号)

毎年の事だけどクリスマスも正月もお仕事。たまにはおせちが食べたい。(1994年・3号)

引越し以来、平均睡眠時間が4時間を下回る。ガ、ガンムになる。(1994年・16号)

ひと月半ぶりに休みがとれて外出したら熱射病にやられた!!(1995年・17号)

7月で30。振りかえれば金太郎飴の様にマンガばかり描いてたな。(1996年・12号)

マンガ家人生初めての大連休は沖縄へ。4日中2日半を熱射病で倒れてました。(1998年・19号)

ふと思う。死ぬまでに今のアタマの中にあるものすべて出せるのか?(1999年・12号)

マンガ家暦13年、初めての一週間強のお休み。久米島にダイビングの免許をとりにいく。友達は忙しいし、彼女もいないので一人で行く。(2001年・10号)

長い間、人に会わないと口がうまくまわらなくなる。(2002年・7号)

2年間着信ゼロ。携帯解約しよ。まずしい人間関係が私を机に向かわせる原動力。(2002年・21号)

今年もマンガが描ける世の中が続きますように。(2003年・2号)

ひとりの時は忙しいし、メンドっちいので、三食シリアル。(2003年・19号)

ダンボールに囲まれて暮らしています。(2004年・13号)

30代もあとわずか。マンガ以外何もないイビツな人生だが、もうとりかえしがつかないのでこのままGO!(2006年・2号)

休載の間もずっと兵隊を描いてました。(2007年・3号)

***引用終わり***

『ベルセルク』という作品によって人生が侵食されていってる様子が窺える。

この感じ、とても良く分かる。

大変だなと思う一方で僕らは、このような偉大な仕事によって、自分の生命を使い果たされてしまうことにどこか憧憬に似た感情を持っている。

自分が生きている間に真に偉大なる仕事に出会って、それによって自分の生命を使い果たされたい。

そのようなレベルで成された作品はやっぱり見ていて違うものだ。人智を超えて神々しいとさえ言える。

工業製品でいうとジョブズの作ったMacやiPhoneにはそれがある。

僕にとってスピリチュアルに生きるというのはこういうことだ。

前世がどうとかオーラが何色とか守護霊が見えるとかそういう話ではなく、スピリチュリティーとは偉大な仕事の中に宿るものだ。

偉大なる創造の意図に、自分の生を捧げた時に出てくる感覚。

全体の一部となることの至福。

漫画でも映画でも文学でも商品でもいい。僕は偉大な仕事に触れたい。そして偉大な仕事によって使い果たされたい。

村上春樹「1Q84」はやっぱり凄かった

村上春樹の「1Q84」のbook1をようやく読み終えました。

買ってすぐに第一章だけ読んで、その上手さに感動して、その勢いでプレゼン練習会で小説論を展開したのが去年の10月。

そこからは丸一年放ったらかしで読んでいなかったのだけど(笑) ここ一週間でようやくbook1を読み終えました。

上手いというか凄いというか。

小説を書く体力を得るために毎日15キロのランニングを自らに課し、文壇とも距離を置き、一人で小説という方法と誠実に向き合ってきた男が、30年かけてたどり着いた極みがこの小説。

読んでいて時々、「うまい!!」と叫びたくなるような衝動にかられました。

そして読み進めることによって、現実のリアリティーとは少しずれた、おなじみの春樹的リアリティーの世界に迷い込んでしまって、心地良いような憂鬱なような妙な気分が続きます。

日常生活に支障をきたしそうになりました(笑)

今回の小説「1Q84」は村上春樹の小説にしては珍しく、物語的にも普通に面白いですね。

先の展開が気になるような物語的な強さがある。

それでいて過剰な描写や比喩や、村上春樹特有の饒舌な薀蓄がその物語の進行に抵抗する。

それによって、線的に進むはずの物語が、それ以上に豊かな意味と印象を広げてしまって、読者の内面の中で収拾がつかなくなってしまう。

これこそが村上春樹の小説の悦楽ですね。

文学論を語る時、僕がいつもお話するのは、

(小説)ー(ストーリー)=小説的な悦楽

ということです。別の言い方をすると、映画化したら失われる何かにこそ小説的価値がある。

例えば「1Q84」の第一章は、映画にすると、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

でも、たったそれだけのストーリーが、テキストとしては、ヤナーチェックの音楽のうんちくから、チェコのカフカの話や歴史の話しへと移行し、多くの比喩がそれぞれの印象や連想を広げて多重な意味や奥行きを持ってしまい、それがなんとも言えない迫力となっていく。

非常階段から降りていくラストでは、カタルシスさえ感じる。

でも、ストーリーはと言えば先に書いたように、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

(小説)ー(ストーリー)=小説の悦楽

ストーリーを差し引いた後にも残る余分な何か。その何かによって多重な意味世界に迷い込んでしまう厄介さと悦楽。

村上春樹はその幅と深度が圧倒的なんですね。

好き嫌いはあるでしょうが、これが村上春樹が30年で行き着いた「文学の方法」なのでしょう。

僕は好きですね。

この作家の方法がそうであるように、僕もシンプルな日常に多重な意味を背負わせるようにして、あるいは多重な意味を引き出すようにして生きていきたい。

残す所あと2冊。

楽しみなような、気が重いような…。

デヴィッド・リンチと創造性

今日、アマゾンで本を見ていたら、類似商品の欄に、デビッド・リンチという名前が。←最近この手の書き出し多いな…(笑)

デビッド・リンチといえば、「イレイザー・ヘッド」や「ロスト・ハイウェイ」を撮った映画監督。世間的に彼を有名にしたのは「ツイン・ピークス」だろうか。

その鬼才の映画監督が、意外な本を出していた。

「大きな魚をつかまえよう―リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン」デヴィッド・リンチ著

「リンチ流アートライフ」? う~ん。気になる。

「瞑想レッスン」? 創造性を開発する瞑想ということだろうか?

「大きな魚をつかまえよう」? なんかポジティブ。大きな魚とはアイデアのことか?

が、それ以外の説明が一切無し。レビューも無し。

なんだろう。とても気になる。

そこでアメリカのAmazonで原書を調べてみると出てきた。

やっぱり瞑想をつかっての創造性の開発であったり、アイデアの捕らえ方といった感じのようだ。

でも、レビューを見てみると、単に彼はTM瞑想の実践者ってことか。

世代的に言ってもありえる。

時間があれば買ってみよう。(僕の瞑想熱がぶり返していたら買ったんだなと思ってもらっていい。)

最近、創造性とかアイデアと言えば、フレームワークを使って広げたり、ブレーンストーミングや6色ハット、マインドマップのような考具を使ったりというのが主流だけど、

ジョン・レノンが瞑想を学んだように、スティーブ・ジョブズが座禅を実践したように、60年代後半のヒッピームーブメントを通過した人達は、

思考であれこれ練るのではなく、マインドの奥底にある神秘の世界の扉を開けることで創造を成そうとしていた。

その結果、彼らの作品にはどこか思考では割り切れないような、奥行きと神秘といかがわしさがあったように思う。

あのスティーブ・ジョブズがフレームワークを使ってあれやこれやと考えたようには思えない。やはり座禅をして完成形をイメージでしっかりと見ていたのだと思う。

そこには脈絡も理論もなく、最初から完成形のイメージがあったはずだ。

フレームワークというのはむしろ、脈絡もなく現れた完成イメージの特性を忘れてしまわないように固定したり、左脳に理解させたり、マーケットに落とし込む時に役立つツールだと思う。

創造とはもっと突発的なものだ。

決して思考の結果としてあるのではなく、むしろ思考しすぎた結果、左脳が疲れ果てて思考が死んでしまうことによって、その奥から現れるものだ。(それはつまり瞑想家が呼吸によって思考を追い出すことと、構造的には同じことだ。)

アイデアは思考するまでもなく、既にあっちの世界にあるのだ。

流れている無数のアイデアを、思考で乱さないように息をひそめて捕らえようとするだけでいい。

さあ、大きな魚をつかまえよう!

って、あれっ、言ってもうた(笑)

買うか。