月別アーカイブ: 2011年3月

震災から日常へ

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おはようございます。

土曜の朝です。

世の中の集合意識は休日モードでゆったりしていて、外からは近所の子供たちが遊ぶ声が聞こえてきます。

窓からはやわらかい朝日が入ってきて、観葉植物たちは春の兆しを感じたのか、すくすくと新芽を伸ばしています。

そして、ゆったりとした音楽を聞きながら、コーヒーを煎れると、部屋の中にコーヒーの新鮮な香りが広がります。

あぁ、これぞ至福。

と、そんなことを書きたいなと思ったのですが、まだ時期尚早でしょうか?

僕はどちらかというと、そういう何でもないつぶやきを読みたいです。

今はもう、頑張ろう!でも、応援しよう!でも、大変だぞ!でも、痛み入ります!でもなく、日常の小さな営みにある幸福感と、生活の肌触りを感じたい。

つまり、

かなり、疲れてしまったということですね…。

疲れていながら、この大阪の地で「疲れた。」なんてとても言えないような空気を感じて、妙な罪悪感をしたためながら生活していたのでしょう。

数日前からどうにも気分が上がらなくなってました。

でも、先日の主催のワークショップで参加者の正直な思いを共有できて少し癒しが起こりました。そして今朝ようやく日常の感覚を取り戻すことができたように思います。

今は日本人の無意識の奥底に、「こんな時期に幸福を感じてはいけない!」みたいな罪悪感があるように感じます。

何をするにしても、心の奥底に「空腹をしのいでいる人がいるのに…」という思いがつきまとい、今受け取っている恩恵を味わえなくしてしまっています。

この罪悪感をとっぱらって、今ここ、この瞬間の生活の恩恵に対して心を開きませんか?

もう100%受け取って幸福を感じてしまいましょう。

感謝も祈りも他者へのはからいも、結局はそういった「今・ここ」の充実から生まれるものですから。

まだまだこれからって時に、バックアップするべき僕らが天から与えられているエネルギー源を断つ必要はないですよね。

「今ここ」にしっかりとどまり、ああ、コーヒーが美味い! と、

そこが源であり、そこから復興が始まります。

無力ではない

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テレビを見ていると、自分の日常に非常に大きな違和感を感じてしまいます。

同じ日本人の何万人かが寒い夜と空腹を感じていて、連絡を取れない家族のことに思いを馳せている中、

普通に今日が仕事だということに。

今子供たちがドラえもんを観ているということにも。

でもそんな時こそ感情のブレを押さえて、日本人の1人として今この瞬間に、自分の中心をどこに置くべきかと問います。

そうすると、やはり自分の目の前のことに集中するべきだと返ってきます。

むしろ日常を楽しんで見せよと返ってきます。

いつも通りの日本の日常があるということをしっかりと担い、

そしてしっかり働いて稼いで、しっかり募金するのが、僕のできる最も誠実な在り方なのでしょう。

僕らはそれぞれにつながり合って、それぞれを担いながら、日本という1つのシステムを動かしています。

それが1つの生命体であるとすれば、僕ら1人1人がその細胞のようなものです。

ちょうど宮城というのは日本という身体の胸の辺りを損傷したような形です。

でも自分が胸ではなくて足の細胞だとしたら、胸が損傷しても足は足としての役割を止めてはならないのです。

胸は痛いだろうけど、足は足として歩みを進める。

自分の担っている役割に集中しつつ今できる最善をつくす。

それがつながっているということの覚悟です。

僕が霊能者なら祈るけど、僕は経済人だから稼ごう。

稼いで稼いで募金しよう。

そして子供たちにはドラえもんを楽しめと言いたい。

僕らは決して無力なんかではないのです。