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AKB48 開きっぱなしだけど決して入れないドアについて

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僕はAKB48がどうも苦手で、見ていてとても疲れるのだけど、

いったいなんで疲れるんだろうと、自分の反応を探ってみて気付きました。

どうやらAKB48のメンバーは、非言語メッセージとして、

「先輩! 大好き〜(*^_^*) 」みたいに、恋に落ちた女子高生が、あこがれの相手に発するようなメッセージを発し続けているようなのです。

歌っている時も、バラエティ番組に出演している時も、恋した女の子が、好きな人の前でだけ発するようなムンムンとしたエネルギーを、テレビの向こうの視聴者に向けて発し続けている。

それをキャッチした僕の無意識は、

「お? そうなん? 俺の事好きなんやな。」と素直に受け取り(笑)、自分の境界線をほどいて、正面から彼女たちを求めようとすると同時に、

「いやいや、テレビやって!」とストップがかかる。

自分の無意識の反応を観察してみると、AKB48を観ているほんの数秒の間に、

「お? そうなん。俺の事好きなんやな。」「いやいや、テレビやって!」「お? そうなん。俺の事好きなんやな。」「いやいや、テレビやって!」「お? そうなん。俺の事好きなんやな。」「いやいや、テレビやって!」「お? そうなん。俺の事好きなんやな。」「いやいや、テレビやって!」「お? そうなん。俺の事好きなんやな。」「いやいや、テレビやって!」

と、凄い勢いでループしている。

そら疲れるわ(笑)

AKB48は意識的にそのように訓練されているのか、他のアイドルグループよりもそういった非言語メッセージというか、誘惑のエネルギーが強いように思います。

その象徴が前田敦子で、彼女が男性役のドラマで一切の魅力を発揮出来なかったのは、彼女の才能が、顔やスタイルなどといった静的な姿態にあるのではなく、動的な動きや表情の中で、人並み外れた女の子エネルギーと魅力を発動できるところにあるからなのだと感じました。

つまり、キャピキャピできない男役では、彼女の魅力はほぼ無いに等しいが、動的な表情の中でフェロモンを分泌させると類まれなるパワーを発揮するという意味で、彼女はAKB48の本質を象徴する才能なわけです。

そういったエネルギーを使って、AKB48というのは、選挙で応援するという点だけではなく、表情や振る舞いという非言語レベルでも、視聴者と擬似恋愛に近いコミュニケーションを創りだそうとしているところが、特殊なんですね。

でも、こういったセクシャルな意味での非言語メッセージを発するというのは、刺激的だから人気も出るけど、同時に影も濃くなりますよね。

男性は意識では気づいていなくても、無意識では向こうから誘惑されていることに気づいていますから、

そっちから誘っておいて、自分のものにならないし、他の男にも同じ姿を見せるし…というところに、潜在的なやりきれなさや怒りや嫉妬を蓄積していきます。

あるいは、僕がそうであったように、反応させられて意識のエネルギーを奪われそうになるので、それを防ぐために、本能的に「嫌い!」というエネルギーを発生させて、アンチになることで防衛したりします。

無意識レベルでの攻防が起こるので、惹きつける力と共に反発する力も大きくなり、

アンバランスなエネルギーを発生させるので、調和とは程遠くなります。

AKB48に、心ないアンチが多いのはそのせいだと思います。

好きでなければ、無関心でいれば良いだけなのですが、無関心ではなくわざわざ攻撃したくなるのは、自分の中の乱されたエネルギーバランスを回復させるために、自らの働きかけが必要だからなんですね。

メンバー自身も、仕事中には求愛のエネルギーを発し続ける必要があるのですから、疲弊もするだろうし、心の中にも影が濃くなるでしょうし、なかなか大変な世界ですね。

セクシャルエネルギーというのは、惹きつける力として最強だけど、最強であるがゆえに、運用が非常に難しいものです。

この話を、一般のビジネスに当てはめて教訓を汲み取るとするならば、こういった過剰な関心を吸い上げるようなやり方は一時的にはよくても、顧客にかなりの負荷をかけるので、長期的にやっていく上では抑えた方が良い、ということだと思います。

マーケティングで言うと、魅了しすぎない。依存させすぎない。期待させすぎない。

顧客が過度に自社の商品に期待したり惚れ込んで、生活や心のバランスを壊していないかどうかをしっかりチェックする必要があるのですね。

やはり調和やバランスを意識していないと、長期的には存続していけないのが、自然の摂理なのだと、最近はいろんな人の仕事を見て思います。

しかしまあ、ビジネスは良いとして、

最近のメディアって、こういった性的な誘惑が多いですよね。

セックスというものが、1つの究極であるのは当たり前なわけで、

そこからいかに距離をおいて湾曲させて、官能的で緊張感のある表現ができるかどうかが、文化や芸術の成熟度を現す指標だと思っているのだけど、最近はとても直接的にセックスが現れすぎですよね。

そのままやん!と思います。

芸術としては堕落です。

かなり直接的に性的な誘惑が溢れている。

そんな時代を普通に意識を整えて生きていくためには、防護服として自分の内面に、ある種の無感覚や無関心を携えて行かないといけないのでしょう。

そら男たちも草食化しますよ。

「この国の感性に馴らされて、オスとしてスポイルされてはいけない。」

みたいなことを、昔、村上龍が繰り返し言っていましたけど、

最近はさらに差し迫って、それを実感しています。

そういう世界から遠く離れて、もっと静かに、そしてもっと官能的に生きたいですよね。