月別アーカイブ: 2011年10月

道具と感性 ~ジョブズ追悼のためのMac礼賛~

mac book air を買って、windowsを手放してそろそろ3ヶ月。

ここ最近は毎日、ひとりごとのように「Macええわ~。」とつぶやいています。

本当にMacはいい。

だからこの良さをなんとか伝えたと思っていたのだけど、それがなかなか難しい。

この、良さが伝えにくいのがMacのMacたる所以と言うか。

なかなか言語化できない微細なレベルでのブラッシュアップを続けて勝負してきたのがapple社の凄いところなんだと思う。

もともと勝負しているフィールドが他社とは違うのだ。

Macもはっきり言って、できることはwindowsと変わりません。

あえて良いところを上げると、

・画面が美しい。

・反応スピードが早い。

・ハードのデザインが秀逸。

・音が良い。

それはまあ、その通りだ。

でも、Macの本当の凄さはそこじゃない。

もっと微細な差異の積み重ねによって、使う人の感性や状態にまで違いを生み出すことに成功している。そこが凄いのだ。

一番わかりやすかったのは、家電量販店での体験だった。

PCを買おうと、windowsパソコンの前に立ってモニターを見ながらいじっていたのだけど、胸のあたりが「しょぼ~ん」と閉じていくんですね。

それがmacコーナーに行き、macをいじっていると今度は胸が「ふわっ」と広がる。

この身体感覚の違いは潜在意識の反応なのだが、潜在意識が何を感じているのかをあえて言語化すると、

windows 「う~ん、なんかギラギラしてしんどいな…。」

mac「おぉ~、なんか創りたい!」

とまあ、そんな感じ。

この違いは、仕事をする道具としては決定的に大きい。

では、この感覚の違いを生み出しているのは何かというと、フォントの美しさとか、モニターの発色とか、黄金比を用いてデザインされたアイコンとか、ウインドウの周りの影の自然さとか、ウインドウを開くときの動きとか、タッチパッドの操作性とか、

もうほんと些細なことの積み重ねと相乗効果によって支えられている。

だから、言語化が難しい。

スペックに現れない違いだし、ユーザーの感覚レベルの話なので、無理に言語化すると、「Macはクリエイティビティーを刺激してくれるんだよね。」となってしまって、

結果、「マック信者!!」と揶揄される。

でも、繰り返すが、こういった「スペックに現れない違い。」「言語化できなレベルでの差異の積み重ね。」によって体感レベルの圧倒的な違いを生み出している点が、Apple社の凄いところなのだ。

これは始めてiphoneを持った時の驚きも同じ。

携帯電話にしろPDAにしろ、それをポケットに入れた時、僕らの潜在意識は小さな家電製品を持ち歩いてると認識していた。

でも、iphoneの中の写真を指でスライドさせた時、潜在意識はそこに実際の紙の写真があるかのように認識した。

電子デバイスではなくて、紙があると認識することによって生まれた安心感と身体との親和性。

それが感性に与える影響は甚大で、ついには生活スタイルまで変えてしまった。

思考の道具として、創造の道具として、スペックがどうこうではなく、人間の感性や状態にどのように作用(影響)するのかという部分が、一番重要なのだ。

そして、最初からそこで勝負しているのがApple社なのだ。

試しにヨドバシにでも行って、windowsとmacを触った時の自分の体感と頭の中の創造意欲の違いを感じてみて欲しい。

きっと驚かれると思います。

この圧倒的な違いが、

なんと今なら驚きの79400円から…(笑)

同じようなことを、茂木健一郎さんが脳科学者の立場から発言していたので、引用しました。

全くそのとおりだと思いました。

***以下引用***

コンピュータという存在が、どのように私たちの脳の感覚、認知の回路に働きかけるか。感覚と運動の連関を通して、さまざまなクオリア、情動を引き起こすか。それは、「気のせい」や「趣味」のことなんかじゃなくって、「計算」なんだってば!

マック・ユーザーを、「こけ」にするコンピュータ・オタクたちがずっといた。いいよ、Linux使っても何やってても。でも、そういうチューリング・マシンの枠内で理解できる「計算」と、異なる「計算」が、この世界にはあるんだって。
なんでそのことが理解できないかな! iPadが出てとき、まるで遊んでいるように情報を扱えるようになった。3歳の子どもでも遊べる。キーボードからラインコマンドを打つコンピュータと、それは、アルゴリズムでは等価かもしれない。
しかし、「経験の質」という「計算」においては、全く違うんだ! OSで、アイコンをどのように配置するか。ハードウェアの曲線や、手触り、立ち上がりの時の音楽。
ジョブズがやってきたことは、「趣味」の問題じゃなくて、人間の感性における、ハードコアな「計算」なんだ。それを、「マック信者」だとか言って、「こけ」にしてきたんだよね。

Googleは、ユーザーが要求した情報以外には提示しない、という哲学で一つの「経験」を提供した。一方、世間には、要求もしないのに余計なことをするソフトがあふれている。
それは、「経験」という「計算」の領域において、やってはいけないことなんだよ! 結局、ジョブズは、単なるアルゴリズムの箱という意味合いを超えた「計算」の領域を、コンピュータにずっと見て来た人だった。趣味や感性の問題じゃないんだ。そこには、緻密な計算のロジックがあるんだ。
そのことを感じた人がアップルを支持した。ジョブズは、計算の未来だった。

憂鬱

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最近思うのだけど、僕は憂鬱が好きなのだな。

人生が機能的に回りすぎると、無意識に憂鬱を取り入れようとしている自分に気づく。

人生のスパイスみたいなもので、ちょっと憂鬱が入ると人生に味わいを感じられるのだろう。

ちょうどスイカに塩をかけると甘さが引き立つとか、それに近い感じなのかもしれない。

というわけで、今日も憂鬱が欲しくなった。

ただ憂鬱にも当然、上質な憂鬱と、粗悪な憂鬱がある。

芸術がくれるのは上質な憂鬱で、

日曜日に目覚めたら「うわっ、もう夕方やん!」というのが粗悪な憂鬱(笑)

最近お気に入りは『バベル』や『21グラム』を撮ったイニャリトゥ監督の作品。

ほんと、胸糞悪くなるくらい憂鬱で、とんでもなくすばらしい映画を撮る。

文学というものも上質な憂鬱を取り入れるためにあるのではないか。

村上春樹の小説は、染み渡るような憂鬱を与えてくれる。

最近、思想家の吉本隆明が、文学を読むと「毒が回る」と表現していた。

本人も学生の頃、文学作品を読むようになって毒が回って覇気がなくなって青白い顔になっていったのだとか。

ほんとそう思う。

教養のために文学作品を読めなんていう人がいるけど、とんでもない。

文学なんて人生にとって毒でしかない。

人生に役立つより、人生を滞らせる事のほうがはるかに多い。

でも毒を飲んできた人間には、それとはっきりわかる魅力が備わるというのも事実で、

明るく朗らかなだけな人間を見ていると、もっと毒飲みなさい、と言いたくなる。

人生というものが、一直線に成功に向かっていくような退屈なものであってたまるものか!と。

なんかもうどうしようもないなこの人…と思うようなグダグダな女のだらしなさが卑猥で魅力的に見えたりするのも人生の一興。

だから人生を綺麗に整頓し過ぎて、退屈にしてしまわないように。

そう言いたくなる。

う~ん。

歳か…。

毒が回りすぎたか…。

季節にゆだねる

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学生の頃、保坂和志の「季節の記憶」という小説を読んだ中に、

歳を重ねると、季節ごとの記憶が深まり懐かしいほどになっていく、というようなことが書いてあって、本当にそのとおりだな、その感覚はわかるなと思いました。

まだ23,4才の頃のことでした。

そして、それから10年以上が経ち、僕もあれやこれやと季節の記憶を重ねまして、

36歳になった今では、いよいよ季節は深まり、ついには向こうから語りかけんばかりに存在感を増し、ありありと僕に作用してくるようになりました。

そんなおり、友人から「日々是好日」森下 典子著、という茶道をテーマにした本をお借りして、そこに書いてあることにまた大きな感銘を受けました。

季節は春夏秋冬だけではなく、週ごとにかすかに気配を変え、つまり週ごとにも季節があり、そして季節ごとに心のありようが変わっていく。

茶道を通して、そんな感覚を捉えた本でした。

生きるということをイベントの連続としてではなく、むしろイベントのない退屈さの繰り返しの中で逆にあきらかになる「深み」のようなものとして経験する。

そういう感覚が表現されていました。

この本を読んで僕は、よりいっそう季節と調和して生きれるようになったように感じています。

自分というものが独立した生き物ではなく、季節というものに作用されて移ろいながら存在している、ひとつの流れのようなものだとして、そのさまざまな季節に現れる様々な自分を楽しむことが少しできるようになってきたのです。

思えば去年の秋は、憂鬱な感じになっていく自分に少しもどかしさを感じました。でも今年は秋の流れと完全に調和して、憂鬱に内向していく心を楽しんで、芸術や読書に親しんでいます。

秋は夏のようには弾けられないし、夏のような仕事はできないけど、夏に読めなかったような深みまで本が染み入るように入ってくるし、秋にしかできない仕事が進む。

そんな風に自分というものを、季節との相互作用として捉えられるようになりました。

そうすると、日本の偉大な先人たちの感性に共鳴でき、季節ごとの正しいありようの中で、安心してくつろいでいることもできるようになります。

それはとても豊かな感覚です。

例えば枕草子の有名な出だし。

「春はあけぼの。

ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。

月の頃はさらなり。

闇もなお、蛍のおおく飛びちがいたる。

また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。

雨など降るもをかし。」

先人たちが感じた季節の風情。

まさにそのように月を見て、雨に降られた夏が終わり、秋が来ました。

最近は、朝晩がめっきり寒くなり、

その寒さに少し心もとなさを感じながらも、心が内向していく感覚がとても自然で心地よい。

夏のようにはいられないし、冬ともまた違う。

今日、この日の季節と、自分の内面に現れてくるものに素直に従う。

一貫性なく移ろいながら、その移ろいにゆだねて楽しむ。

急がないし、目指しもしない。

満ち足りている。

こういう感じって、なんだかとても豊かですね。

歳を重ねるごとに、季節はますます豊かに、人はますますよい加減に。

追悼 スティーブ・ジョブズ

s.j

ジョブズが逝った。

ひと月程前に、ガリガリに痩せ細って、人に支えてもらわないと立てなくなっているジョブズの姿を見て目を疑った。

と同時に、もう長くはないなと覚悟をしてはいたが、実際に訃報を受けて朝からショックだ。

彼は芸術家であり思想家であり、起業家であった。

芸術家の繊細さと感性を押し通すために、傲慢なサディストのようにビジネスを動かした。

通常は一人の人間の中に共存できないはずの相容れないパーソナリティーを共存させていることが彼の強みであったし魅力であった。

そして、その歪みは癌として現れたのだろう。

それにしても惜しい人を亡くした。

もっと生きて、彼がどんな風に世界を驚かすのか、どんな言葉を発するのか、もっともっと見ていたかった。

僕は彼の啓発的で、深い洞察に根ざした言葉が好きだった。

その中で、彼が死について語った言葉を引用します。

彼の死後に聞くと、遺書のように感じてしばらく物思いにふけってしまった。

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誰も死を望みはしません。

天国に行きたいと言う人さえ、死を望まない。

にもかかわらず、死は我々が共有する最終地点なんです。

誰も逃れることはできないのです。

そして、そうあるべきなのです。

死は生における最も優れた創造物なのだから。

それは生に変化を起こすもので、

古きものを消し、新しきものへの道をつくるのです。

そして今、新しきは君たちです。

しかし、そう遠くはない未来に君たちも古きものとなり消えていきます。

とてもドラマチックな言い方で申し訳ないですが、

それは全くの真実なのです。

君たちの時間は限られている。

だから無駄に誰かの人生を生きないこと。

社会的通念に囚われてはいけない。

それは他人の考え方と共に生きるということだから。

他人の意見というノイズによって、

あなた自身の内なる声、心、直感をかき消されないようにしなさい。

最も大切なことはあなたの心や直感に従う勇気を持つことです。

それらの内なる声、心、直感はどういうわけか、

君が本当に何になりたいのかを既に知っている。

それ以外のものは二の次でいい。

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アップルのHPが泣ける。

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こんな深みのある顔になれるくらいに、正直に生きたいですね。