月別アーカイブ: 2012年7月

他者の力で夢を叶える

先日は主催している月1のワークショップでした。

そこでビジネス書の名著『7つの習慣』の中の幾つかの考え方やフレームワークを使って、今の自分の生活や方向性を見直すことを行いました。

ちょうど開催日の3日前の7月16日に、著者であるスティーブン・コヴィ博士が逝去されたのを知り、こんなタイミングで彼の知を使ったワークショップをすることになった偶然に驚き、背筋を正される思いがしました。

氏の偉大な仕事に最初に出会ったのは10年以上前。大学を出たての頃に本屋で手にとったこの本(7つの習慣)によってでした。

当時の僕は文学畑の人間で、ビジネスや自己啓発という概念を持ってなかったため、何を言ってるのかさっぱり理解できなかったけれど、それでも何かとても大切なこと、人生に激変を起こすような何かが書いてありそうな雰囲気だけは肌で感じていました。

それから『7つの習慣』は引っ越しのゴタゴタで処分されたり、また古本屋で100円で買い戻されたり、誰かにゆずったり、また買い戻したりしながらもご縁は続き、その度に少しずつ氏のフレームワークは僕の人生を修正して行き、ついにはそれを人に伝えるというところまで育って行ったわけです。

この偉大な恩恵に感謝しつつ、氏のご冥福をお祈りいたします。

さて、昨日は「重要ー緊急のマトリクス」と「卓越した役割」というテーマを使いましたが、その中の役割の部分の掘り下げはとても面白かったので、少しシェアしたいと思います。

1人の人間の中にはたくさん人格、役割があります。

会社の一員。上司、部下、父親、夫、主催者、PTA役員、芸術家、恋人、友人、遊び人 などなど。

これらいろんな役割が、生活の様々な側面で顔を出している。

だから、「自分を成長させよう!」とか「自分を向上させよう!」というような曖昧な方法ではなく、自分の中の1つ1つの役割にフォーカスして、役割ごとに育てて行こうというのが、コヴィ博士の考え方です。

自分の中に役割というたくさんの鉢植えがあって、それぞれに育て方が違うから、あるものは日陰に置いたり、あるものは日差しと水をたっぷりやったりしながら別々に育てて行くわけです。

面白い考え方ですし、心理学的に見ても真実ですね。

そして、それぞれの役割に一日にどれだけの時間を配分しているかを見てみると、自分が無意識に選んでいることが客観的に見えて、驚きます。

発揮できていない役割が怒っていたり。人生において一番大切だと思っているものを後回しにしていたり。十分に発揮しているつもりが0分だったり(笑)

更にこの「役割」という考え方に、いろんな質問をしていくと、自分の様々な側面が明らかになっていき、自分が今フォーカスするべき役割も見えてきて、進むべき方向が明かされて行きます。

そんなお話しとワークだったわけですが、準備しているうちに出てきた思いとして、個人的にとても強く訴えたくなったメッセージは、

役割には必ず相手がいるということです。

父であるには子供という相手がいる。上司であるには部下という相手がいる。カウンセラーであるにはクライアントという相手がいる。

それは、哲学的に言うと、相手が自分を存在させてくれているということです。

子供ができるまで、僕の中には父親という役割もキャラクターもありませんでした。でも子供が生まれたことで、庇護を必要とする娘たちの存在が僕を父親として存在させたのです。

同じように困っているクライアントが僕をカウンセラーとして存在させている。

他者が自分の人格や役割を支えている。他者が自分の存在を支えている。

さて、大切なのはここからです。

何かを目指そうとした時、最初は自分の存在を支えてくれるような他者は存在しないということです。

例えばもしあながたカウンセラーを目指しているとしましょう。

カウンセラーになると決めた時、「助けて欲しい」とあなたを求めてくれるクライアントはいません。だからあなたはまだカウンセラーとしては存在できないのです。

でも、それでも想像するクライアントに向けて、何かを発し続ける必要があるのです。

誰も自分ことなど求めてはいないのだけれど、助けを求めているだろう想像上のクライアントに向けて、言葉を発し続ける。学びを続ける。ブログを書き続ける。

そうするとやがては、それを見つけてくれる誰かが現れて、そのうちの何割かはあなたの能力を強く求めてくれます。

こうしてはじめて、その役割はこの現実世界に存在し始めるわけです。

だから想像の相手に向けて、自分の今持てる最高の言葉と才能を与え続けなければならない。

それは返事の無い相手に気持ちたっぷりのラブレターを送り続けるような不毛で消耗する作業だけど、それでもそれをやり続けなければならない。

ただし、ここに陥りやすい落とし穴があります。

多くの人が陥る落とし穴。

それは、カウンセラーとして想像上のクライアントに言葉と行動を発するのではなく、

「カウンセラーを目指す人」として言葉や行動を発してしまうことです。カウンセラーを目指す人としてブログを書く。カウンセラーを目指す人として勉強を重ねる。

その結果はどうなるでしょうか?

「カウンセラーを目指す人」に対して相手が生まれるので、当然「カウンセラーを目指す人を応援する人」という相手がたくさん集まって賑わっていきます。

そのような相手に支えられて、その人は「カウンセラーを目指す人」という存在になります。決してカウンセラーになるのではなく。

他者という偉大な力を使って、「目指す人」という夢追い人であり続けてしまうのです。

だから目指すのではなく、まずその者として立ってください。

誰も求めてくれる人がいなくとも、その者として立ってください。

そしてその位置から言葉を発してください。現実の創造はそこから始まります。

集合意識と個体意識で仕事は変わる

子供たちが夏休みに入り、7歳と5歳の娘が朝からずっと家にいる。

僕にとって午前中の集中したPCワークは最もクリエイティブで生産性の高い時間なので、子供たちがいる中でどれくらい集中していられるかが、これからの勝負だ。

さっきまで熱心に見ていたアニメが終わって、上の娘が僕の隣で電子ピアノを弾きだした…。

妻はテレビで情報番組を見ている。下の娘は声を出して本を読んでいる。

僕は黙々とこの文章を書いている。

和室とリビングをつないだ1つの大きなスペースに家族4人がいて、別々のことをしている。

この感じってなかなかいいものだ。

人間には個人としての心の外側に、個々に結びつき、集合意識を形成するような集団の心がある。

その集団の心がつながり合い安心すると、自分の作業にも集中しやすくなる。

思えば会社もそんな場所だ。皆が集まり身を寄せ合いながら、別々の仕事をしている。

カフェで勉強や仕事をするとはかどるというのも同じことなのだろう。

一人でいるよりも、皆が何かをしている中にいてその場の集合意識につながる方が、雑多な作業は進みやすい。

僕もそれを求めて、カフェで仕事をすることがある。

そして、一方で集合意識に属していては出来ない種類の仕事もある。

心の中のビジョンを最大限に広げて言葉ですくい上げるような仕事がそれだ。

人のいる場所や、会社の中にいる時の意識では入っていけないような、深い創造の源泉が心の奥底にはあって、

そこにつながるには、一人になる必要がある。隣に人がいるだけで潜在意識はそれを察知しているので、揺れてしまう。

だから、家族全員が寝静まって完全に一人になれるのを待つ必要がある。

そして、夜である方が望ましい。

夜に完全に一人になって気持ちを整えて、必要であれば瞑想する。そうすると周りの人とつながっていた意識は開放されて、それが違う世界に向かいだす。

ビジョンが広がってアイデアが流れこむ。

そうやって出てくるアイデアや言葉は、昼間とはかなり質の違う趣を持っているものだ。

そして、時にはこのような世界のビジョンに触れることをしなければ、いくら作業を重ねても平凡な仕事になるように思う。

今からする仕事がどんな質のものかを判断し、浅い心を使う時は集合意識に属して、深い心を使う場合は1人の時間を確保する。

そうやって必要な心の深さに応じて、仕事の環境を整える。

そういうことを始めてから、創造的が仕事はよりスムーズになって来たように思う。

時間の庭で水をやるということ

以前、主催するワークショプの自己紹介で、参加者の女の子が、「ニューヨーク・シティー・マラソンにエントリーしました。」ということを言っていて、内心、密かに驚いた。

そんな言葉がこんな場所で聞けるのかと。

僕にとって「ニューヨーク・シティー・マラソン」という言葉は、秘密の引き出しにでもしまっておきたい言葉であって、ワークショップの自己紹介として聞くような言葉では無かった。

「エントリーしたので、当選したら走ってきます。」とキラキラした表情で健康的な文脈で話されるような言葉ではなかった。

僕が初めてこの言葉に出会ったのは17歳の時に読んだ、村上龍の「ニューヨーク・シティ・マラソン」と題した短編小説集によってだった。

男娼と娼婦とセックスとドラッグと、そんな酷い話ばかりで、今思うと高校生が読むにはあんまりな内容だったけど、当時の僕はその言葉の強さと、どこにも向かわないような世界の奔放な広がりに心を打たれて、何度か読み返すほどのお気に入りの短篇集だった。

だからその小説の中の憂鬱な風景や出来事と、当時の17歳の僕の鬱屈した心象と、どこにも向かわない田舎の僕の部屋の閉塞感とがひとまとまりになって、記憶の中に保存されていたのだと思う。

そしてなにより「ニューヨークシティーマラソン」は小説というおとぎの国の言葉であり、決して行く事はできない遥か遠くの異国の物語であった。

それが、今、現実の女の子の言葉によって、実体験するものとして語られたことに僕は軽い衝撃を受けたわけだ。

あれから20年が経ち、それは遠い世界のおとぎではなく、生身の人生として体験してもいい年齢に自分は達したのだ。

そこで僕も、ニューヨーク・シティー・マラソンを走ってみよう! ということには勿論ならなかったけど、それでも「ニューヨーク・シティー・マラソン」をもう一度読み直してみよう! という気持ちにはなった。そして実際に読んでみた。

先日ある本の中で「時間を庭とする。」という言葉に出会った。

時間というものを過去から未来へと進んでいく一本の線としてではなく、奥行きがあり庭のように広がる「面」として、プレイグランドとして捉えるということだ。

横軸の流れとは別に奥行きの広がりがあり、好きな時に自由にそこに遊びにいける。そんな広大な時間の庭の中で、映画や音楽や小説といった作品体験は1つのランドマーク(目印)となる。

「ニューヨーク・シティー・マラソン」を読んだ17歳の僕の読書体験は、時間の庭の奥行きに、ある1点として確かに特有の感覚を残していた。
そして、37歳の僕がある女の子の言葉をきっかけに、もう一度そこを目指すことになったわけだ。

それは茂みをかき分けて、昔隠した宝物の輝きを確かめにいくようなワクワクする体験だった。

そしてそこに行き着くともう一度それは体験し直されて、新しい認識が加わり、上書きされる。決して静的にそこにあり続けるわけではなく、そのランドマークもまた変わっていく。育っていく。

時折そこに戻っては感動したり認識を改めたり、再解釈されることで、それは育っていく。

恐らくこれこそが人というものだと思う。

未来を新しく体験するだけではなく、未来を高めるように成長するだけではなく、過去に遊びに行き、再び意味を与え、新しく感じ方を加え、上書きすることで過去を深めていく。植木に水をやるように栄養を与えることで、記憶は深く根を張り、幹を太くし、その結果として人は広く未来へと葉を伸ばせるようになる。

それが成熟するということなのだろう。

新しい体験が人を育てるのはもちろん、過去の解釈の多様性もまた人を育てるのだ。成長ではなく成熟という形で。

とはいっても、この時間という庭の中は鬱蒼として秘密に満ちていて。そこに入っていくことはどこか独りよがりな内向的作業だから、普段はあまりそんなことは考えない。

日常生活では「そんなものありませんよ。」という顔をしている。私は薄っぺらくて表面的で、ペラッペラですよ!という顔をしている。

だけど、たまに出会った誰かの中に自分と同じ何かを感じたら、その人をどうにかしてそのランドマークへ連れて行ってみたくなる。自分の中の時間の庭に連れ込み、大切に隠していた場所へと連れて行ってみたくなる。

それはなかなか厄介な作業で、地図も無く、手がかりは芸術作品と言葉しか無い。

それでも、言葉を尽くして、連れていく。

もっと奥、もっと右、いや違うもっと先。

解釈も与える。

こんな感じ。どう? わかる?

本当にそこにいる?

その感じ体験できてる?

ほんと? わかる?

とか疑心暗鬼になりながらも、でもどうしてもその人にその場所に行って同じ感覚を感じて欲しい。

その感覚を共有して欲しい。

そんな風に思うことってありませんか?

ありますよね。

もし、そう思えたとしたらあなた、

それこそが、

その感覚こそが、

恋というものですよ(笑)

( ´,_ゝ`)プッ

何 の 話 だ !

村上龍の「ニューヨークシティーマラソン」はほんとお勧めですよ。何より今の時代には無い暑苦しい感性で書かれている。収録作品の中でも「蝶乱舞的夜総会」は特に素晴らしいです。お勧めします。

仕事道

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夏でテンションが上がりすぎているのだろう。

いくつかの新しい仕事を手がけて、複数の企画が同時進行している。

フリーとして一人で仕事をしていると(会社で仕事をしている方もそうだと思いますが)、「襟を正しなさい!」というように、仕事そのものに対する忠誠を試されるような時が必ずある。

カウンセリングの仕事では、「そんな境地では全然ダメです。もっと高めなさい。姿勢を改めなさい」と怒られているような気になることが定期的にある。

文章を書いていても、「その言葉のチョイスは惰性です。流れてますよ。違いますよ。」と怒られているような気になる時がある。

でも最初はそれが無い。自分のアイデアで勝手に作って勝手に始めた仕事は、最初それが無い。

良くも悪くも本当に自由。それは単なる自分の一人遊びのようなものに過ぎない。

だけど、しばらく継続していくと、その声が出てくる。

「そんなんじゃダメですよ。」と厳しく指導が入る。そして志の高さみたいなものを求められる。仕事道とでもいうようなものが形成される。

厳しいけど、逆にその感覚が出てくると安心する。

それがあるということは、それが修正されて整って形になっていく流れがこの世界に許可されたということだ。つまりその仕事は形になる。

それが無いと、ばらけていて整っていかないから、この仕事は違うのかな?と不安になる。

とても感覚的な話だけど、そういう感じって確かにありますよね。

なにかと対話するように仕事をする感じ。

一人で仕事をしていても上司はいるんですね。それも結構スパルタな人が…。

そしてその上司が厳しいから、個人としての僕はある意味で子どもとしてバカで柔らかくいられる。ありがたい。

この指導してくれる上司としっかり向きあって、その人に認められるくらいに研鑽して行きさえすれば、マーケットをリサーチすることや、競合の動向をリサーチするとか、そんな作業はあまり必要ないのではないかと、最近は思っています。

てなことを書いておいてなんですが、今日はオフです。BBQと川遊び行ってきます(^^)

 

子供の横で仕事

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7歳の娘は、Amazonで買った絵の具セットが届くのを今か今かと待っている。

娘「とと。絵の具セット何時くらいに届くと思う?」

僕「う~ん。3時くらいちゃう。でもわからんで。」

娘「え~(´・ω・`) 3時!? 遅い~、待てへんわ。」

・・・2分後・・・・

娘「なぁなぁ。とと。」

僕「ん? なんや。」

娘「ととは、絵の具セット何時くらいに届くと思う?」

僕「いや、だからわからへんで。3時くらいやと思うけど4時かもしれへんし。」

娘「え~(´・ω・`) 4時!? 遅くなってるやんか~。」

とか、なんとか、さっきからそんな会話を繰り返している。

仕事にならん(-_-;)

これを書いてる今も娘は、僕のそばでゴロンと横になって、絵の具セットを物欲しそうに待っている。

待ちながら何かをするという発想の無い7歳児は、「待つ」ということを全身で体現している。それはつまり布団にだらしなく横になったり、足を変な形にしてみたり。

思えば僕も昔は学研の「科学」を届けてくれるおばさんを、窓を空けて「まだかまだか」と待ってたな。←これ分かる人いないかな?(笑)

今ではそれほど何かを待ち遠しく思うことは無くなり、毎日のように届くアマゾンからの荷物も開封されずに積まれていたりする。物を所有することや商品と出会うことに対する感動は明らかに低下している。

でも、子供たちにとってこの世界はまだ新しく、ワクワクすることだらけなのだろう。

そういう子供たちのキラキラした欲望を通じて世界を見ることで、少し世界が鮮やかになりますね。

「あんな。これ見て。ここにペンが入ってるねんで。ほんでこれが鉛筆削りやねん。」と娘は筆箱を広げて、非常に当たり前のことをドヤ顔で説明してくれます。

欲望と喜びを込めて彼女は世界に注釈を与えてくれる。そんなことで日常がいつもより少しだけ色濃く意味性を帯びる。

これ子育ての悦びの1つかな。

まあ、仕事にはならんけど…。

ダウンシフトする生き方

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みなさんこんにちは。

大阪は曇です。夏が来たのかと思えば、どうやら梅雨の中休みだったそうですね。

でもこれが通り過ぎると、本格的な夏到来です。僕は夏になったらアホになって遊ぶと決めていますので、今からワクワクしています。

さて、今日は生活習慣のお話しです。

実は最近僕はこれまでの生活スタイルに大きな変更を加えました。

朝のカウンセリング枠を完全に無くしてしまったのです。そしてその時間を自分の精神活動に使うことにしました。

これは正直、かなりの勇気のいる決断でした。でも収入より精神活動の方が大切なのだと、ようやく思想面だけではなく、行動面にもそれを現したことになります。

文章の執筆や、創作、瞑想、一日の計画、めだかや金魚の世話、ゆったりとした朝食、家族との会話。

昼のカウンセリングが始まる14時までは、そういったゆったりとした時間にすることにしたのです。

そうすることで深い自分とのつながりが密になり、とても心が穏やかになりました。

生活のリズムと自分の内側に起こっている情緒の波が調和してきたのでしょう。まるで「正解!」と身体の奥から聞こえて来そうなほどに馴染んでいて自然です。

そして最も驚いたのは、朝の目覚めが喜びと祝福に満ちたもの変わったことです。

というより、そうなって初めてこれまでの自分が、朝の目覚めと共に呪詛のようなものを吐いていたことに気付きました。

「もうこんな時間か…。う~ん。」とか

「ふ~、仕事行かないと…う~、めんどくさいな…。」とか、

その先の言葉は言語化しないものの、僕の無意識は毎朝小さく世界に呪いをかけていたわけです。

そのことに気付きました。

それが今では、穏やかな喜びと期待とともに朝を迎えることができ、呪詛は祝福に変わり、僕はこの生活の被害者ではなくなりました。

大げさに言うとそういうことなのだと思います。

朝には朝の意識があって、朝の自分にだけ入っていける想念世界がある。昼には昼の意識があって、夜には夜の意識がある。

もちろん人間として社会生活を営んでいる以上、朝だ昼だと四の五の言わずに片付けなければいけない仕事がある。それは仕方がない。

でも一方で、僕らは人間である以前に動物であり自然の一部でもある。その僕の中の自然は地球と太陽と大地と季節と互いに影響し合いながら、自分もその大きな円環の一部分として、毎瞬毎瞬在り方を変えている。

そういう自然の一部としての自分を、もっと多く生きたいと思うようになったのです。

社会生活の達人を目指す努力は楽しいけど、それはあくまでゲームにすぎない。だからそれに熱中する一方で、自然の一部としての自分の生命にも目を開いていたい。

そんな思いの1つの現われとして、生活をダウンシフトし、朝は朝、昼は昼、夜は夜の在り方をしようと思いました。

そうすると、自分の中の自然が喜び、期待と祝福をもって目覚めることができるようになったわけです。

これから更に、この方向を極めて行くと、どういう生き方になるのだろうか?

そんなことして、家族を食わせていくことはできるのだろうか?

逆に相当な仕事力が求められるのではないか?

いろいろ思うことはありますが、少なくともそれは探求するに値するテーマだと思いました。

こうやって自然としての自分、動物としての自分を生かす生活を、これからも模索していきたいと思います。

雨の日は雨、晴れの日は晴れ

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雨だけど頑張ろう~(・∀・)

とかじゃなくて、雨の時は雨ぽいジメジメした自分でいるとか、晴れの時は晴れっぽいアホな自分でいるとか、日本人って自己の一貫性よりも、外に流される自分を許して楽しむような粋な距離感がありますよね。

晴耕雨読って1つの境地だと思うんです。

外を無理に変えようとせず、自分の目標を持って頑張ろうともせず、今ここのありのままを受け入れて、それに流されている自分をも受け入れて楽しんでいる状態。

でもそうなると外交には弱いよな…。外圧に押されっぱなし…。

その結果ひどい状態になった世相の中で、歌でも詠みながら受け入れて楽しむのが究極なのか。

確かにその方向の強さというのもありますね。受け入れて今あるもので楽しむ強さ。

ニートのphaさんがやってることがまさにそれか。

でも一方でしっかり我を張って、交渉してグイグイと現実を動かしていく強さもありますよね。

そっちも鍛えたい。

自分の中にどちらも共存させたい。

生活者としては流れるがままに。仕事人としては研ぎ澄ませて切り込んでいく。

いや違うな。

この2つは別々ではない。

流されるのを許して楽しむことで研ぎ澄まされて、現実を動かしていくような感じ。

そうそう。それが近い。

思えばこれって合気道そのものですね。