月別アーカイブ: 2012年8月

カブトムシと神の意図

お盆休みは田舎に帰省して、毎年恒例のカブトムシ捕りに行ってきました。

僕のご先祖の眠る墓地はクヌギの雑木林となっていて、そこには樹液がプンプンと匂う絶好のカブトムシスポットがあるのです。

毎年夏になれば、夜中のカブトムシ捕りが僕の個人的な楽しみになっています。

そして今回、そこで捕ったのがこの立派なカブトムシとコクワガタ。

カブトムシのオス。立派なツノ。

ほんとに小さなコクワガタ。(このコクワは、翌日、姪っ子を挟んで大泣きさせる…)

田舎といえど、カブトムシやクワガタがわんさかと捕れるわけではなく、去年などは何度見に行っても一匹も捕れずに終わったので、

今回、深夜の墓地で樹液にたかるカブトムシを見つけた時は、ハンパなく興奮しました。この興奮は、子供の頃から全く一切色あせていない。

そして2日目にも、同じように車を走らせてスポットに行くと、一日目と同じくオスのカブトムシをゲットし、結局オス2匹を得る。

せっかくだからメスも欲しいな~と思ってると、僕と同じカブトムシ目当てのおじさんが現れ。顔も見えない深夜の墓地の暗闇の中で挨拶を済ませて仲良くなる(笑)

「オスが捕れへんのんや~」と言うおじさんの虫カゴにはなんと! メスだけが3匹!

そして「僕はオスが2匹なんですよ~。」と言って、交換してもらったのがこの子。

キューキューと鳴いて愛くるしい。

こうして知らないおじさんと深夜の墓地でwin-winの交換を成立させ、めでたくオス・メス1匹づつゲットすることとなりました。

ちょっといい話でしょ(笑)

それにしてもカブトムシは美しい。

このフォルム。完成された造形美。

まじまじと見ていると不思議な気持ちになって来る。このツノの造形の美しさ。サイズ感。このカブトムシという存在そのものが、人間を喜ばすためにデザインされているのではないかと思えてくる。

このツノも進化論的には敵を倒すために発達したということになるだろうけど、ハッキリ言って生存のためには無駄に目立ち、小回りもきかず、土にも潜りにくく、リスクでしかない。

実際ツノの無いメスのほうが長生きする。

クワガタと戦う時に、もの凄く巧妙に大小2つのツノを使うのだけど、それをやりたいために、こんなオシャレなツノを進化させたのだろうか?

だとしても、あまりに無駄が多い贅沢品ではないか?

そもそもクワガタとカブトムシの喧嘩というのが無駄にかっこ良くて、人間を楽しませるためのショウに見える。

神様はこの虫を人間の娯楽のために作ったのでは?

そんな無茶なことを考えたくなるほど、よくできたフォルムなのです。

持つ所あるし。

聞くところによると、カブトムシもまた人間がいないと存在できないと言います。

人間の手が加わっていない手付かずな大自然にカブトムシが育つのかというと、実はそうではなく、

カブトムシが住むのは、人間が手を入れて間引いて適度の空間ができた林であり、カブトムシの幼虫が育つのは、人間が草を刈って、それを一箇所に集めて堆肥となった土の中なのだそうだ。

人間の存在が無いと、生きられないカブトムシ。

いかにも人間に愛されそうな無駄にかっこいいフォルムを持ったカブトムシ。

絶妙に人に愛される不思議な生き物。

結局虫カゴを買って、家で育てることになりました。(子供が飼いたいと言うから~的な理由を付けて)

そして交尾して卵も産まれ、その後幼虫も育てるだろうと勝手な予測で、幼虫がすくすく育つための土も買って来ました。(気が早すぎる。)

今日も仕事を終え、カブトムシに餌をやりに家に帰る。

日に日に膨らむ僕のカブトムシ愛がやばいです。

瞑想で才能を開く、魅力を開く

「はめはめは~♪ はめはめは~♫」と5歳の娘が横で歌っているのだけど、よく聞いてみるとハメハメハ大王。

とってもカッコイイ。

「かぜのすべてがかれのうた~♪ ほしのすべてがかれのゆめ~♫」

ってなんというでっかい男だろう。

大地のような大きな愛。

実際のハメハメハ大王がどうかは知らないけれど、この歌に現されているハメハメハ大王の意識のひな形(アーキタイプ)はグレートマザーを思わせる。

アーキタイプとしてあるということは、僕らも瞑想通じてこの境地を追体験することができるということだ。

あたかもこの地球の風の全てが自分の歌であるかのように静かに座ってみる。

宇宙に存在する星の全てが自分の夢の具現であるかのように静かに座ってみる。

その時の自分の広さ深さ、そして自分の内に感じられる静かな慈愛を体験する。

そうすると、自分の魂の中の神性が共鳴して開かれて行きます。

才能とか魅力というものは、実はここから出てきます。

このようにして開かれていきます。

外側から学んだりインプットすることはもちろん大切だけど、本当の才能はある意識の形をアーキタイプに沿わせることで共鳴して、内側から流れ出す。

才能は開かれる。

魅力は開かれる。

セミナー講師という役割と意識を作ることで、セミナー講師の才能が内側から開いていく。

私が主催しているプレゼン練習会は、いろんなレベルでの学びを想定していますが、一番高いところでは、そういった意識の形によって才能を開いていくような教育の場だと思っています。

セミナー講師、プレゼンターという意識の形を作ることによって、それに共鳴した魅力を開いていく。

そして、さらに多くの才能や魅力を開くために、私たちの共通の遺産として多くのアーキタイプが存在しています。

神話の中には、様々な神が存在しています。それら全ては人が開くことができる才能の原型(アーキタイプ)です。そしてその種はみなさんの中に既に備わっています。

それを開いて、自分の中に花開かせるかどうかは、その人の意識の形を整えてアーキタイプに共鳴できるかにかかっています。

時には、私も瞑想を通じて自分が「さはら」という個人名を持った存在であることから離れて、より大きく空なるものとして存在する時間を取るようにしています。

そして何かが自分の中に流れこむのを待つのです。

 

我と供に先祖を養う

先祖供養の図

みなさん。こんにちは。

お盆ですね。

今年はオリンピックの影響で、お盆や終戦というものが例年ほどには集合意識として形成されていないように感じています。

でも、僕らにとってオリンピック以上に大切なのが先祖供養です。

それは、僕らの過去やルーツに関わるからではなく、僕らの今と未来に関わるものだからです。

人の今現在の性格や思考パターン、反応パターンの多くは、記憶によって成り立っています。

これまでの人生がこうだったから今の私はこうなのだと。これまでがそうだったから、きっと未来はこんな感じだと。

人間とは過去の記憶の産物です。

そして僕が専門としている心理療法の世界では、そういった今の反応の原因となる記憶を掘り下げていくことを行います。

そうすると、僕らの潜在意識に保存されている記憶の多くは、自分がこの人生で体験したものではなく、先祖代々の記憶であるということが明かされます。

貧困の恐れや執着。自信の無さ。他人に対する恐れ。存在することに対する罪悪感。そういった反応の多くは、今の人生を体験をする前から、僕らの潜在意識に先天的に保存されているものです。

だから、自分の潜在意識の中に残っているご先祖の渇きを癒し、ご先祖を思いを満たしていくことで、自分の思考パターン、反応パターンを変えていくことができるのです。

自己啓発、能力開発の究極です。

そして供養とは供に養うことです。

今の生活で学びを得たら、その学びを自分だけではなくご先祖にまで捧げ、ご先祖の学びとして、ご先祖を養う。

今の生活で美味しい物を食べたら、その喜びと満足をご先祖にまで届け、それによって飢えて亡くなったご先祖の無念を癒す。

努力で何かを成し遂げたら、その経験と自信を、無力感に苛まされているご先祖に捧げ、ご先祖の人格的成長に役立ててもらう。

そうしていくことでご先祖は学び癒され、ご先祖もまた成長していく。

能力開発的とか心理療法やNLP(神経言語プログラミング)などの文脈で言うとこれは、潜在意識の書き換えをしているということです。

ですので、当然そのまま今の自分の変化、成長として現実に反映されます。

今日はご先祖との距離が最も近い1日。

僕は静かに瞑想して、ご先祖と交流したり感謝を送ったり、ここ最近得た学びや豊かさのシェアをしました。方法はシンプルに祈り(意乗り、意宣り)です。

自分が今体験できている豊かさは、ご先祖が苦しみ耐え抜いて命をつないでくれたことで得られたものなので、これはあなたの成した成果なのですよと、ご先祖に感謝と供に捧げる。

そして自分もまた、先祖代々が紡いだ意図の集大成として、最高傑作として、この瞬間に生を受けて生きているのだと、その存在の誉れを自覚する。

こうして自分自身と供にご先祖を養うことが、その人の人格の柱を太く尊いものとしていきます。

ということでみなさま。

今日の良き日をご先祖と供にあらんことを。

5000万ダウンロードを突破したLINEは家族や恋愛を解体するか

今日初めてスマホを買ったという友人が、「いろんな人からLINEをやろう!って誘われるけど、LINEってそんなに良いの?」と訊ねてきた。

いつの間にやら5000万ダウンロードを突破して、驚くほどのスピードで浸透していくLINE。

この驚異的なスピードは、それだけこのツールが人間の欲求に合っているということだろう。

優れたテクノロジーというものは、その特質や利便性に対する驚き以上に、自然なフィット感がある。なぜ今までこれが存在しなかったのか? と疑問に思うくらいに。

今から12年前。ネットでのコミュニケーションと言えば、メールか掲示板しか無かったその頃、僕は仲良くしている何人かの友人を限定して、携帯電話の掲示板でつながりたいなと思っていた。

それぞれに違う場所で、違う現実を生きている友人が、それぞれの今を表現してシェアしながら、ゆるやかにつながれるクローズドなコミュニケーション空間。

そういうものがネット上にあれば、随分と日常が豊かになるなと思ったのだ。(まぁそれは実現はしなかったけど。)

最近、LINEのグループという機能を使ってみて嬉しくなったのは、それが12年前の僕の妄想を、想像以上にシンプルで楽しい形で実現してくれていることに気付いたからだ。

これは楽しい。

現在、僕は主催している勉強会の運営メンバー2人と、僕を入れて3人だけがコミュニケートできる部屋を作っている。

勉強会の今後の方針について白熱したやり取りをすることもあれば、「おはよう。今日は暑いですね。」というような、日常のやり取りもある。

また、僕が個人的な相談事を投げかけると、残りの2人がそれぞれにアイデアを出して相談に乗ってくれる。応援までしてくれる。

そんな風にお互いをサポートし合うコミュニティが、スマートホンとなって常にポケットに入っている。

発信したメッセージは、3人にしか見られることはないので、かなりクローズドでTwitterのような炎上はありえない。

この安心感。

そして、僕が必ずしも返信する必要もなく、勝手に残りの2人の間で話が盛り上がっていることもある。

このゆるさ。

なんという心地良いメディアだろう。

もう1つ今、勢いがあるソーシャルメディアと言えばFacebookだろう。

Facebookは、本名や学歴まで開示することで、既に交流の途絶えてしまっていた古い友人まで検索可能にし、再接続して見せた点で革命的だった。

でも、高校時代の旧友も、今のビジネスの友人も、近所のママ友達も、仕事のクライアントも…、とたくさんつながればつながるほどに安心して発信できる情報が無くなっていくことに気づかざるをえない。

ビジネスの話をすると、ママ友達を無視するような気分になる。あまりにプライベートを開示しすぎるとクライアントに対する信頼が損ないかねない。

結局は天気の話か、今日食べたランチの写真か、そんな当たり障りのないものしか発言できなくなってゆく。そのあまりに表面的な感じが僕の趣味には合わない。

コミュニケーションにおいて、つながる相手が多いというのは決して良いことばかりではないのだ。

そこで、LINEは逆にクローズドに関係を制限する。

勉強会つながり、ビジネスつながり、趣味のつながりなど、幾つものグループとのゆるやかなつながりに属しながら、1人ひとりはそれぞれの今、目の前にある現実に向きあう。

ショックなことがあれば、LINEに書き込めば、慰めやアドバイスがもらえる。

そしてそれが、いつでもポケットに入っていて、ほぼ身体化してしまっている。

そんな生き方の中で、僕らの「個」としての在り方は、どんどん変容してくだろう。

恋愛や家族というものの意味も在り方も、少しずつ解体されていくはずだ。

なぜなら、LINEがもたらすグループなどは、機能的には家族そのものだからだ。

現代に溢れている機能不全家族より遙かに家族的に機能している。所属感や承認、アドバイスなど、家族が持っていた精神的な役割を完全に肩代わりしている。

物理的な距離や生まれの違いを超えて、僕らは自由に家族を形成し始めている。

そしてバブル期であれば、外車やブランドなどのステータスを使って得ていた「承認」というご褒美が、今やお金を使わずともソーシャルメディアによって得ることができる。

人同士が経済を介さずにつながりはじめることで、人の物への欲望はますます希薄になり草食化していくだろう。

そんなに多くを求めなくても、競争しなくても、ぼんやりしていてなんだか幸せ…という新しい自我状態へと僕らは進化していくはずだ。

こうして新しいテクノロジーというものは、確実に人間の感性を変容させ、人間というもののの根底を作り変えていくのだろう。

「家族が希薄」という言説の上に、専門家達によるいくつもの議論と問題提起が繰り返される、その外側で、若者は悠々と幾つもの家族をポケットにたずさえて生きていく。

面白い時代になったなと思う。

お金から自由になり、家族など欲しいだけ複数持つことができ、恋愛ではこれまでの「付き合う」「彼氏彼女」という関係以外にも、恋愛的な深い信頼によって結び付くゆるやかなつながりを可能にするだろう。

そんな時代に今僕らは生きているわけだ。

深く深呼吸して周りを広く見渡し、今起こっていることの本質を見極めて、この時代を遊ぼうと思う。