月別アーカイブ: 2012年12月

頼ることを通じて与えているもの

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妻が子供達を連れて先に実家に帰っているので、僕は昨日から1人で大阪に残っている。

普段ガチャガチャとうるさい子供達が今日はいない。それが淋しくもあり、快適でもある。

子供達がいなくなってみると、あの子達に頼られていることが、どれほど僕を力付けてくれているのかがよく分かる。どれほど日々の営みに意味を与えてくれているのかがよく分かる。

子供達が僕にそうしているように、誰かを頼るということは、その人に力を与えることでもあるのだ。その人に存在理由を与えることでもあるのだ。

自分が「無力」であることを恐れさえしなければ、恥じさえしなければ、その「無力」によって誰かに何かを与えることができる。助けることができる。

「無力」を使うということ。

それは誰もが平等に与えられている、尊い力なのだ。

人生が侵食されていく

目を覚まして、コーヒーを煎れて静かな朝を迎えようと思ったら、幼稚園に行ってる娘が勢い良く帰ってきた。

冬休みが近づいたこの時期は、どうやら幼稚園も午前中で終わるようだ。

娘は一目散に僕のところに駆け寄って、ガチャガチャと変な踊りをしてこっちの気を引こうとしている。

静かな朝は一瞬でどこかに行ってしまった。

やれやれ…と僕は思う。(村上春樹風に(笑))

でも、このやれやれ…を喜んでいる自分もいる。

自分の人生が自分自身によって隅々までコントロールされてしまうことに、どこか飽きてしまっていたのだと思う。

自分の日常の小さなコントロールやこだわりが、愛する人の喜びや溢れる生命力によって侵食されていくことの心地良さを味わっている自分がいる。

やれやれ…。

この諦念の持つ心地良さこそが、僕が結婚や家庭を持つことで得たとても大きなギフトであるように思う。

『諦念』

辞書で調べてみると

2 あきらめの気持ち。

とある、そうそう。その意味で使っていた。

でも1は違った。

1 道理をさとる心。真理を諦観する心。

とある。まさかこんな意味を持っていたとは…。

もっと調べてみると、「諦念」とは元々は仏教用語で、世の中の森羅万象の全てが関係し合い、その関係の中において自分が生かされてるということを悟っている心のことを指すようだ。

なるほど確かに…。

自己というものに固執せず、全体と関係しあうことで存在している自分のあやふやさを許しているような感覚。

やれやれ…。という精神的境地は思いのほか高いかもしれない。やれやれ…。

 

それは想像力の問題だった

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最近なにかにつけ、「それは想像力の問題だ」という言葉を発している。

今直面している社会や経済の閉塞感の多くも、想像力の問題なのだと思う。

僕らは想像力の問題を、情熱や努力量や技術や仕組みの問題にすり替えて、そこに限界を感じてきたのではないだろうか?

もうこれ以上の努力は無理。これ以上の情熱はもう出せないと思って行き詰まっている。確かにそっちは限界で行き止まりなのかもしれない。

テクニックや情熱を駆使しても、想像力の欠如は埋められない。

想像力を広げることが今必要なのだ。

僕らが暮らす10年後の社会がどのようであれば、より多くの人が幸せを感じるのか? その質問を持って毎晩未来を見に行く。

どこまで深く具体的に未来を洞察できるか。

そこへ来て始めて、歴史や社会情勢などを含む人間理解、つまり教養というものが必要になってくる。

世界をしっかり観察し、教養を深め、想像力を使えば使うほど未来を見通す精度は高まっていく。

そしてそれはやがて自分の想像ではなく、最初から存在していたようにさえ思える、神なる設計図とも言うべき世界へ行き着く。それを人はビジョンと呼んだ。

スティーブ・ジョブズは近い将来、人々がリビングで10インチのタブレットを持ってカジュアルに情報と戯れている未来を想像した。あるいはその未来を見ていた。それは「ビジョン」だ。

ジョブズはこう言っている。

「創造的な人々は、どうやって想像しているのかと聞かれると、少し後ろめたい気持ちなる。なぜなら、彼らは実際に想像しただけではなく、ただ何か見えただけだからだ。」

その同時期に日本の企業人は、リビングで家族みんなが妙にゴツゴツした大きなメガネをかけてテレビ番組を3Dで見ている場面を想像した(のだろうか??) あるいはそんな未来を無理やり信じ込もうとした。それはヴィジョンではなかった。妄想だった。

これは想像力の問題なのだ。

技術力や努力の前に想像力で負けている。

想像力とはビジョンにたどり着くための、知覚の翼のようなものだ。

10年後、人々は何に価値を置いて、何を求めて生きてるだろうか? どんな社会なら理想だろうか? その中で自分が担うべき役割は何だろうか?

想像力を駆使してそれを見ることさえできれば、情熱も技術も仕組みも後からついてくる。あるいはその技術を持っている誰かに出会うことになる。

毎晩毎晩、僕らが住むべき理想の未来を見に行こう。

モノローグの復権を目指して

最近のネットの世界のSNSブームはダイアローグ(対話)や社交、人との結びつきにこだわりすぎてモノローグ(独白)を締めだしてしまった感がある。

でもネット本来の面白さというのは、知らない誰かの赤裸々なモノローグが閲覧できてしまうことの驚きにあったのではなかっただろうか?

モノローグとは決して他者が知り得ないものであるはず。なのにそれが閲覧できてしまう倒錯したメディア。それがインターネットだった。

そこには個人の心の中を覗き見するような不思議な魅力があった。

90年代後半。まだ学生だった僕はネットでみつけたある日記にハマったことがある。

まだブログなど無い時代。簡素なHTMLを駆使して書かれたその日記は『禁煙日記』と題された、単なる個人の日記だった。

ジョナス・メカスというカメラマンについての考察や、日々の思いや、憂鬱な考察や、読んだ本の感想、会った人との会話、思ったこと、買ったものなどが、つらつらと書かれていた。

僕は無名の書き手による、誰も読者を想定していないその日記が好きだった。

そこには着飾らないリアルな人間の思考があった。

生きることと思考することがイコールであることの生々しい感動があった。

それによって、僕は会ったことも見たこともないその誰かを深く理解したような錯覚に陥った。

モノローグであるはずの文章が、ダイアローグ以上に深く人の心に響くというのは、なんというパラドクスだろうか。

これこそがインターネットが人間の感性に与えた最大の発明だろうと、当時の僕は興奮した。

人間同士が歴史上ありえなかった角度と深さで、エロスを孕みつつ触れ合うことが可能になったのだと。

そして現在。ネットの世界ではモノローグが締め出され、読者を想定した情報提供や表現や社交ばかりになってしまった。(かのように見える)

それが僕には残念でならない。

そこで、最近僕はネットの持つこの古い力を復権させたいと思い、あるところにモノローグ的な文章を書いている。誰も読者を想定せずに赤裸々に書くことに挑戦してる。

こうした個人的なモノローグが、読者を想定した表現以上に誰かに影響を与えれば面白いなと、そんなことを思いながら(ニヤニヤしながら)書いている(笑)

それがとても開放感があっていい。

誰も意識しなくていいし、清々しいほど赤裸々でいられる。

個人的であること、私的であることが極まった先の先に、逆に公的な場が広がっているとしたら、僕はそこを目指したいなと思う。

あるいはどの方向に進んでも最終的に行き着く先は皆同じなのかもしれない。

だとしても僕はそういう方向、あるいはそういう『方法』が好きなのだと思う。

私的であること、個人的であることの先の先において、誰かと出会う。

これはきっと僕がエロい人間であるということと密接に関わっていると思った(笑)