月別アーカイブ: 2013年3月

移りゆくもの

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「なぜ、私は移ろいやすいのですか」と、美が尋ねた。

「移ろいやすいものだけを美しくしたのだ」と、神は答えた。

                    ゲーテ

エゴ(自我意識)は永遠を求める。自分が永遠ではないことを知っているから。移ろいゆくものが怖い。

一方で魂は永遠を求めたりはしない。代わりに移ろいゆくもののその瞬間瞬間の表情と美を楽しむ。

自分が永遠であることを知っているからだ。

そして、あなたの中にも2種類の意識がある。

問いと共に在る

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今日もよく働いた。

今日のカウンセリングで出てきた質問。

「苦労とか我慢という方向の努力を全て止めて、その代わりに最高度にクリエイティビティーを発揮したら、あなたの行動はどのように変わるだろうか?」

この質問を腹に置いて20分ほど瞑想してみよう。

この手の質問は頭で答えるものではない。

問いそのものを腹に置くことで、気づけばその回答のような自分に変化しているかもしれない。

あるいはその回答のような人生を生きている自分を発見するかもしれない。

答えを出さずに、問いとともに在ること。

性急さは良くない。

問いを置いたら、決して頭を働かさないこと。

教養について

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現代において教養とは何か? というのは難しいテーマだけど、岡田斗司夫さんがある本の中で、「情報を摂取し過ぎると逆に教養というものは失われる」みたいなことを言っていて、とても良くわかると思った。

「何を観て、何を読んで、何に触れて考えてきたか」というのも大切だけど、「何に触れなかったか」というのも同じくらいか、あるいはそれ以上に大切なのだと最近は思う。

子どもの頃から両親の躾として、格調高い意識によって作られた芸術にだけ触れることを許されて、サブカルチャーに触れることを一切許されて来なかったような人が現実に存在している。

そういった方と話してみると、ちょっと真似しがたい品性のようなものが漂っている。

いくら大量の情報や言葉をこねくり回しても超えられないような説得力がそこにはある。いわば、清潔さを守りぬいた強さのようなもの。

でもまあ、今更僕はそこには戻れないわけです。泥んこな感性によって作られたサブカルチャーをシャワーのように浴びて来た一時代を、今更無かったことにはできないわけです。

見ていなかったものは見れば良い。

でも、見たものを見なかったことにはできない。

だからそっちの方向は諦めて、僕は泥んこなりの教養というものを深めて行きたいなと最近は考えています。

それは作品や哲学を「知性」というレベルにストックするのではなく、肉体の体験に落とし込むことによって生まれる迫力のようなものだと思うんですね。

例えばプラトンの言うような恋愛を本気で体験してみる。その哲学を生々しく生きてみる。

それによって知を体験した者だけが放つ境地と凄みのようなものをまとっていく。

それが泥んこな僕(ら)にとっての「教養を深める」ということではないかと思うんです。

「何をもってすれば、この人生をしっかりと生きたと言えるか?」ということを考えた時に、(僕に限って言えば)やっぱり仕事で稼いで家族を養うだけではダメだとなるんです。勉強するだけでもダメなんです。それだけでは生きたとは言えないぞ!となる。

自分の持って生まれた精神と肉体の体験を深めないと。深く練りこまないと。

そのためにはやっぱり勉強が大事なんですよね。出来事を解釈するバリエーションを学ばないと、いくら体験を重ねても深まらない。

でも一方で勉強に逃げててもダメなんです。

これは自戒を込めて、そう思いますね。