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村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

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先日開催した主催のワークショップは、村上春樹氏の新著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をテキストに語らう。読書会形式で行いました。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

純文学の小説をテキストにすると、皆の中から何が引き出されるのかと思いましたが、なかなかタフな会となりました。

「色彩を持たない~」は王道の成長物語でもあるので、大筋の理解は皆だいたい同じなのですが、その上でそれを良い作品とするのか、不足とするのかという点では大きく異なりました。

そして、それによって、その人のベースとしている世界観や信念や今大切にしている価値観が炙りだされたような形だったのではないかと、今振り返ってみると思います。

安全な立場で感想を言い合うのではなく、作品を題材に何か内側のものが引き出されたり刺激されたらいいな…。という漠然とした期待は、その意味ではある程度成されたように思いますが、これはなかなか刺激の強い作業でした。

翌朝、村上春樹氏の発言をまとめたTwitterを発見して読んでいると、こうありました。

『僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある―生きることも、読むことも。』

確かに、皆さんの様々な読み方を通じて明らかになったのは、僕らは「同じではない」という、ある意味で厳しい事実だったかもしれません。

参加された皆様お疲れ様でした。

僕にとって村上春樹氏の作品に触れることは、独特な比喩に満ちた世界に没入していくことで、普段現実世界では生きられなかった(おいてけぼりにした)1つの可能性を生き直すような作業だと感じています

僕らの心というものは、沢山の小さな自分の寄せ集めでできていて、それはさながら1つの社会のようなものです。

そして、現実の肉体としての僕らは、毎日仕事をして社会的責任を果たして、ひとまずは大人として振る舞うことができていると思います。

ですが、その心の社会の中には、挫折したり、回避したり、傷ついて蓋をして無かったことにしたりして、成長を止めている小さな自分が多かれ少なかれいるものです。

拒絶を恐れて回避してしまった恋愛体験の記憶の中に。

曖昧なまま遠ざけてしまった友人関係の記憶の中に。

そして、その分だけ僕らの心の成熟は滞っていて、全体性を回復できずにいます。

今回の『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』は特に、そういった心の中に住む、成長を止めたままの小さな存在に響いていき、追体験させることで道筋を与え、成長へと導いてくれる、一種のセラピーのようなものだったと感じました。

もちろんどんな物語でも、良くも悪くも避けがたくセラピー的に機能するのですが、村上春樹氏はその方法と筆力によって、その力がずば抜けているのですね。

彼の本を通じて、生きられなかった人生を象徴的に生き直すことができるのです。

それはとても内向的な作業で、あまり褒められたものではないかもしれませんが、たまに僕はそれを無性にやりたくなる時期があるんですね。

文学がじわじわと人生に効いてくる

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唐突に僕の人生語りから始まりますが…(笑)

僕はもともとは文学畑の人間なのですが、大学を出て働き出してから10年以上は、ほとんど小説や文学作品というものを手に取ることをしませんでした。

その代わりに、『小予算で顧客を獲得する方法』とか『ユダヤ大富豪の教え』など、文学的な感性からすると恥ずかしいくらいに卑俗なタイトルの本を、カバが水を飲むみたいに次々に読破していきました。

お金を稼いで食うための力を身に付けなければならない。家族を養わなければならない。

そういった現実的な課題に直面する20代の多くがそうであるように、小説家が作った架空のお話しに付き合っているような暇を持てなかったのです。

それはとてつもなく無駄な贅沢品に思えました。

「この本を読むことに気晴らし以上に何か生産的な意味があるのか?」

「それを読むことは僕の人生に経済的な価値を生み出すのか?」

そういったプラグマティックな質問を持って文学作品を眺めてみると、その問いを越えて僕の心に訴えかけてくるような本は皆無でした。

ところが37歳になった今、これまでの自分の人生の流れを俯瞰的に振り返ってみると、思った以上に文学が効いていることに気付きます。文学が僕の人生を形作っていると言ってもいいかもしれない。

それは『小予算で顧客を獲得する方法』を読んで、実際に顧客を獲得できるようになるような分かりやすい影響ではないにしても、それでももっと深淵な形で文学や小説は僕の人生に影響を及ぼしている。

例えば、僕の今の暮らし。

家族と住んでるマンションがあって、そこから自転車で10分の場所に仕事場のオフィスがあります。

僕はそのどちらに寝泊まりしても基本的には自由で、その時の仕事の気分に応じて行ったり来たりして生活しています。

そして時にはオフィスに篭って個人としての僕を保つことで、子供達とも個人的な人間として静かにゆったりと語らい向き合うことができる。そういう暮らしをしようとしています。(どこまでできているかは別として)

これらの暮らしの雛形となるアイデアは、高校生の頃に読んだウィリアム・サローヤンの「パパ・ユー・アー・クレイジー」という本の世界観と主人公の生き方、家族のあり方がそのままベースになっています。

思い返せば確かに17歳の僕はその本を読んで、明確に願ったのでした。

「今はどんな職業に就きたいかは分からないけど、この本みたいに静かにゆっくりと生きていくんだ!」と。

そしてフリーで生きるという今の仕事の仕方も、名前は忘れましたが高校生の頃に読んだ氷上なんとかという女流作家の短編小説で感じた憧れが、無意識の奥底で僕を動かしていました。

それ以外にもちょっとここでは書けないようなドロドロとした(村上龍的)人生経験も、10代の頃に彼の小説を通じて想像力を広げた世界が、20年を経て現実となって(良くも悪くも)再体験されているのだと付きます。

こうして見てみると僕の現在は、文学作品によって無意識に撒かれた種が、ゆっくりと長い時間をかけて花開いたものなのです。

もちろん意識の上ではそんなことは全く忘れていて、日々、目の前のやりたいことをやったり、仕事に追われたりしているだけなのですが、無意識の中に植えられた種はゆっくりと時間をかけて根を張り芽を伸ばし、気づけばそれを人生に具現化してくれていたのです。

でもどうして文学にそんな力があるのでしょうか?

心理療法を仕事にしている今では、その秘密がとても良くわかります。

物語は無意識の奥の奥に作用します。

そしてそれを映画のような映像作品ではなく、書き言葉によって体験すること。それは他者によって押し付けられたイメージではなく、作者の言葉を触媒に自分の内側にあるイメージを引き出していく作業です。

だからその世界は作者のものでありながら、無意識はすでにそれを自分のものとして受け入れて経験しているのです。

作者の言葉と自分のリソースとの共同創造によって、自分のイメージを広げ、物語として織りなしていくこと。それはコーチングによく似た現実創造の訓練なのです。

さてさて、ここで村上春樹です。

彼は僕らに何を与えてくれているのでしょうか? 彼は僕らの無意識にどんな種を植え、何を花開かせようとしてくれているのでしょうか?

それは1つに「深く深く内向する技術」ですね。

豊かな言葉を使って自分の内側に下りて行く技術。そしてその内向したリアリティーのまま現実世界を生きるという、一風変わった世界との関わり方を練習させてくれています。

そしてもう1つは「失意や喪失感から立ち直るための内的な道筋」を与えてくれています。

現実に何かを喪失したり心に深い傷を負った時に、ちゃんと無意識的に立ち直って来られるように、癒しと再生の道筋を僕らの無意識にしっかりと刻んでくれています。(実際にどれだけその道筋に助けられているのか、意識はそれさえなかなか気づかないものですが。)

そして、今回のつくる君です。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

この物語は私たちの中にどんな種を植え、どんな道筋を作ってくれるのでしょうか?

(実は別に意識でそれを理解しなくても良いのですが。よくわからないけどなんか好きで読んでしまうというのが十分に種が機能している証拠なのですが。)

一度ご自分の感覚とイメージを使って体験してみてはいかがでしょうか?

このGWは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をオススメします。