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映画『裸の島』が凄い

いやはや、凄い映画を観た。

これだから映画鑑賞は止められない。

新藤兼人監督の「裸の島」という作品。1960年のモノクロ映画でセリフも無い。


瀬戸内海の小さな島に住む家族の日々の仕事をただ追いかけながら、家族の四季とそこに起こる出来事をカメラに収めているような作風。

でもそれが凄い迫力で、あっという間に引きこまれて90分が終わってしまう。

何が凄いって、この人達の仕事。

朝から船を漕いで水をくみに行き、天秤棒を肩に担いで水を船に乗せる。

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そこから船を漕いで自分の住む島にたどり着くと、山の斜面を登り、

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その水を柄杓で汲んで畑に与える。

するとものすごい勢いで土は水を吸い込んでいく。

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そしてまた船を漕ぎ、水を汲みに行く。

黙々とその作業が続けられていく。

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そのマインドと身体性を目の当たりにして、軽いショックを受けた。

世界がグローバル化した21世紀の日本の都市で過ごし、「日本のホワイトカラーの生産性はまだまだ低いからもっと生産性を高めないと…」などという風潮に漠然と駆り立てられながら暮らしてる自分の日常のほんの50年前に、こんな生き方があったのかと。

ただ農作物に水をやるために、船を漕ぎ、水を担ぎ山を登る。

蛇口を捻ったら水が出る都市部に引っ越したら? とも思う。

せめて水路が整った農村部ならもっと生産性が高いだろうにと。

意識の浅い部分ではそう思う。

でも、一方でなぜか目が離せないほどに、この人達に魅了される。

いったい自分は何にこれほど感動しているのだろう?

心理療法でクライアントの無意識に潜む信念や家系の力学を見ていくと、僕らの親の世代やその先の世代に、

「人生を楽しむ」という考えに対しての怒りや、怨念のようなものを感じることがある。

「人生はそんな簡単なものじゃないよ! 楽しむって? なに馬鹿なこと言ってるの! 真面目に苦労しなさい!」

そういう声を無意識の中に持っている人たちがいる。

そして、豊かになった今の時代。

豊かさを味わう時間が足りないほどに物も情報も溢れ返ったこの時代に生きていながらも、

その人達は一生懸命に、苦労できる場所を探している。

そして、つらい目にあっては「生きることは大変だ」ということを証明しようとしている。

彼ら(彼女ら)はその苦労によって、一体誰の想いを慰めているのか。

一体誰への絆を表明しているのか。

自分が豊かに楽しく生きてしまうことで、誰と離れてしまうことに淋しさを刺激されているのか。

その答えは心理療法の中で知っていたが、その現場を時代の風景とともに肉感と表情を伴って目の当たりにすると、心を打たれる。

水の重さに曲がった天秤棒が肩に食い込む痛みと、足腰にかかる身体の重さを感じながら、自分の脚で一歩一歩踏み込むことで景色を変えていく。

その繰り返しによって生きるということの重さを身体に刻んでいく。

その重さを通じて収穫した芋には、自分自身の身体性と時間が宿っている。

それを自分で食し、消化し、エネルギーに変えていく。

あるいはお金に変えていく。

それが生きることの営み。

そこに流れているものの凄み。

最近、私の仕事である心理業界では「お金のメンタルブロックを外す」みたいなテーマが人気だ。

お金を稼ぐことに対する心理的抵抗や、楽に豊かになることに対する罪悪感を外す。

それによって、楽にパーッと幸せになりましょう!という訳だ。

それはそうなのだけど、私はどうもそういう手法にある軽薄さに違和感を感じていた。

外して捨てるべきと言うその心理的抵抗に、何かとても大切な自分のコアがあるような気がしてならない。

それは、この映画で見たような、物言わず静かに生きてきた先人達への畏敬。

肉体を使って生活を回していくことの迫力に心打たれるような感性から来ている。

私はこの人たちを尊敬しているのだ。

自分中に流れている彼らのように生きた祖先の想いや、彼らの払った犠牲、それを見て、それに敬意を払えることがどれほど自分の深い心を喜ばせるか。

どれほど心に栄養を与えるか。

そういったことがこの映画を観ているとよくわかる。

私達の祖父母の代がどのように生きたのか、自分に流れている血がどのようなものなのか。

自分の無意識から出てくる思いにどのようなルーツがあるのか。

どうやら私達の心はそれを知りたがっており、そして本当は頭を下げてそこに敬意を払いたいと思っているようだ。

過去を切り離して捨てるのではなく、

過去を見て知って敬意を持って頭を下げることで自由になる道がある。

そしてそちらの道こそが王道で、人に自然で永続的な変化と成長をもたらす。

それが心理療法家として人の変化を見てきて私が確信したことの1つだ。

根無し草のように軽薄にならなくてもいい。

私達の心はむしろ深く根を張ることで自由になれる。

映画「裸の島」は無意識の奥底が喜ぶ映画だった。

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>Amazonの評価も高い

レンタルでは置いてないと思いますが、私はTSUTAYA DISCASで借りました。

みんな秘境を目指している

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昨日は21時くらいに子供と添い寝してたらそのまま一緒に寝てしまって、気づけば夜中の2時だった。

こういう時はいつも時間を無駄にしたと凄く後悔するのだけど、

昨日は気づいた。

夜中の2時に目が覚めて家族みな寝静まった中で時間が動き出す感じ。

夜が深くてちょっと憂鬱で、世の中の流れから切り離されてしまったような感覚。

この感じは映画を観るのに最適な意識状態だ。

普段からもう少し映画を観たいなとは思っていたけど、仕事をしつつ家庭を持つ父でもある日常の中では、映画を観る感覚に意識をチューニングすることが難しいと感じていた。

でも、世の中から切り離された深夜なら行ける。

そして有り難いことに今の時代、TSUTAYAに行かなくともAmazonプライムビデオでその時の気分に合わせて映画をチョイスすることができる。

これは新しい感覚だ。

ちょっと憂鬱っぽく人間の業に触れるような感触の映画を観たいなと思って、テレビのホーム画面で「邦画」を選んでタイトルをスクロールさせていく。

園子温監督の「冷たい熱帯魚」 ちょっと暴力的すぎるかな…。

「蛇にピアス」 吉高由里子のヌード見たいだけだな…。

「空海」 興味はあるけど今はそっちじゃないな…。

本当にたくさんの映画が出てくる。(これが年(月ではない)3900円とは、AmazonはいずれTSUTAYAのマーケットも奪ってしまうだろう)

結局、適度に憂鬱そうな田口ランディ原作の「コンセント」を選んだ。

そこそこに面白かった。

奔放な女の性(エロス)精神療法(サイコ)、死、シャーマニズム、そういった記号がまだ神秘的な魅力を放っていた90年代後半だからこそ力を持った作品で、

そういうのを観ていると、今の時代はエロスやサイコ的なものが放つオーラや神秘が剥がされた後の時代なんだなということが良く分かる。

それらの記号をこれ見よがしに提示して来るのだけど、今を生きるこちらとしてはもうそれに大した驚きも反応もできないので、演出が上滑りしていくように感じられる。

でも、それと同時に「あぁ、90年代なら…」と、当時の感覚を思い出して懐かしい気持ちになる。

時代は流れているし人の意識は進化しているんだなと、そんなことを感じさせてくれた。
(あるいは単に僕が歳を取っただけか)

期せずして露わになった市川実和子の華奢な裸体の美しさにも、発作的に男を求める色情にも、畏怖するべき女の性も業も感じられずただの記号になってしまっていた。

あれから随分世の中は情報化したのだ。

かつては神秘をたたえ、空想するしか無かった世界の秘境もGoogleのストリートビューにキャシュされていくこの時代。

いったい僕らが目指すべき神秘や冒険はどこに行ってしまったのか?

秘境はどこに残っているのか?

そう問えば、みんなそれぞれにそれぞれが思う秘境に惹かれてそこを開拓しているんだなということがよくわかる。

僕にとってそれは記号としての『サイコ』なものの中にあるのでもなく、海外を旅することの中にあるのでもなく、女の子のスカートの奥にあるのでもなく、

言語化できていないものを言語化することで内的世界を耕していくことと、創造性を発揮して現実を作り変えるためにリスクを取ることの中にあるんだなって。

そんなことを改めて考えたり。

映画の主題とは全く関係ないことにあれやこれやと心を泳がす。

深夜2時の映画鑑賞はとても贅沢な時間でした。