月別アーカイブ: 2017年2月

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに持つところから来るのではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないならば多すぎるので捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭によぎるんでね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕は、お金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んでいました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも、なんだろうこの幸せ感は?と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

ある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも、何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、目に見えて計測できるものに意識が引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから、意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから、僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで、「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなる。外の世界がうるさくても心は安心の中でくつろいでいる。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使っても何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、味わいを深めることはできないのです。

「言葉」は「お金」と同じ。豊かさを出現させる力なんですね。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

あるべき場所にあるように

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気持ちの良い天気ですね。

寒かった『大寒』が終わり今日から『立春』

トイレに置いてたまに読んでる二十四節気の本も、今日から最初のページに戻ります。

七十二候では『東風氷を解く』

東から吹く風が湖の氷を溶かして行く。

素敵なイメージですね。

ここからは春の気配が少しずつ見えてきます。

まだしばらくは寒いでしょうけど、お日様の陽気にも春の気配が感じられますね。

嬉しいものです。

僕の断捨離プロジェクトも3分の2ほどが終わって、気持ちがどんどん軽くなってきています。

この清々しさが何ものにも代えがたく良いです。

物が無くなって部屋が整理されたりスペースが生まれるのも気持ちが良いけど、それだけではないこの心地良さの源を探っていくと、

ずっと滞って使われなかった物がまたお金になって血液のように流れ出すことや、

物達がまた求められている人の元に行き、本来の能力を発揮して物自身の天分を全うできるように促すことがそもそも、徳の高い行為なんだということが分かります。

自分の滞っていたエネルギーも流れだして清々しい上に、徳のエネルギーも流れ込んでくる。心地よい。

逆に言うと、目的もなく使わないままに置いておくことは、本来物たちが発揮でたであろう才能と貢献を自分のもとで捨てているようなもので、もしかすると小さな不徳なのかもしれません。

力を無駄に捨てないために、それが求められている場所へと流す。

そうなることが自然の摂理なのでしょう。従うととても気持ちが良いのです。

仕事においてもそうですね。

自分や周りの人たちが持てる才能を滞らせずに、それぞれの能力を最大限に発揮して輝かすには、どういう配置がベストだろうか?と、そのバランス点を見出すように采配していくと、一番上手くいきますね。

自分の人生の方向性を決めるときも同じで、自分の能力や才能が今最も求められている場所はどこで、

「どこに時間や労力を注ぐことが世の中の価値を最大化させるだろうか?」

という問いをもって、その場所に自分を差し出していく。

そうするとスルスルと自分も周りも発展へと運ばれていきます。

自分と周りの人や物の能力や才能を無駄にせず、流れを止めず、出し惜しみもせずに、あるべき場所に流すだけで物事は随分上手くいくようです。

そんな風に感じているので、最近の僕はもう自分自身の個人的な夢や目標など、どうでも良くなってきました。

「なんでもするから、資質に合った場所で思いっきり使ってください。そこに運んでください。ガンガン貢献しますから。」

そんな祈りが心の中に響いていれば、それで良いですよね。

あとは、力を抜いて天の采配に委ねる。

力まない。握りしめない。

もっと物も夢も手放し、身軽になって進んで行こうと思います。