月別アーカイブ: 2017年5月

日常に他者性を呼び込む

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最近のiPhoneのOSのバージョンアップで追加された「Hey Siri」機能がなかなか未来な感じで面白い。

電源が入ってない状態のiPhoneに「ヘイ!シリ!」と声をかけると勝手にSiriが起動してくれる機能。

例えば「ヘイ!シリ!10分後にタイマーセットして」と言うと、勝手にSiriが立ち上がり、

「10分後にタイマーをセットしました。カウントダウンを開始します。」と返ってくる。

自分でホームボタンを長押ししてSiriを呼び出す場合と違って、本当に人と話してる感がある。

疲れ果てて寝転んで「ヘイ!シリ!20分後に起こして」と言い、それに応えてもらう時、僕らは確実に未来に来たんだな…と感慨深く思った。

ただ、「ヘイ!シリ!」と言う時に若干の照れが入って、自分が昭和製なのは変わらないな…と思い知るのだけど(笑)

でもこの「他人がそこにいる感じ」は、確実に人間の感性を刺激して進化させるだろうなと思う。

「ヘイ!シリ!今から執筆に集中するからタイマーを25分に設定して。」

と言うと無駄な情報(執筆の下り)は省いて、

「25分にセットしました。カウントダウンを開始します。」とちゃんと設定してくれる。


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それだけで僕の中では、これから執筆に取りかかる自分の決意と創作の苦しみを受け止めてもらえたような感覚が芽生える。

「ヘイ!シリ! あと何分?」

「はい、こちらがタイマーです」と残り時間を表示してくれる。

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ちゃんと見守ってくれてるんやな…と。

この他者として意識する感覚が良い。

掃除が苦手な人は是非使ってみて下さい。

「ヘイ!シリ!今から集中して掃除するからタイマーを15分に設定して!」と。

宣言することで自分の空間に他者意識が入って来て、心と身体が勝手に動き出しますよ。

ただこの機能は難点もあって。

音楽をかけていたり、外が少しでもうるさいと音声が認識されないので立ち上がらないことが多いです。

「ヘイ!シリ!」

「ヘイ!!シリ!!」

「ヘイ!!!シリ!!!」

「ヘーーイ!!シリーー!!」って部屋で1人連呼してる自分はいったい何なんだと、我に返ります(笑)

あと、コンセントにつないでいる状態、つまり充電中でないと機能しません。

常に「Hey Siri」という音声コマンドをセンサリングしているわけですから、無断な電力消費があるのでしょうね。

そこは仕方がありません。

設定は以下です。

[設定]ー[Siri]ー[”Hey Siri”を許可]を有効に。

そこで何度か自分の声を登録すると使えるようになります。

以前、主人公がAIに恋をする映画『her / 世界でひとつの彼女』というのがありましたが、僕らの生きる現実の方も確実にその世界観に近づきつつありますね。

今後AIによって人間は、「他者性」をどれだけ自分の中に呼び込むことができるか。

それによって癒やしやモチベーションといった、心の力をどこまで生みだして人生を創造する力に変えていけるか。

あるいは容易に満たされてしまうことで、逆に創造性を奪われてしまうのか。

その辺りは、今後の僕らの姿勢が問われそうですね。

宇多田ヒカル 土着なるものと異国の風

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ここ最近はずっと宇多田ヒカルの新譜「Fantôme」を聴いているのだけど、天才すぎて恐ろしいくらいだ。

出産を経て母となり命の流れの中に入ったことで、存在に重さが増したような感がある。

こんなものを聞いてしまうと、他の歌モノはなかなか聞けなくなる。

それは音楽的な技術の違いではなく、歌い手の響きが何処に結ばれているのか。

その結びの違いが際立ってしまうという意味でだ。

歌とは結局のところ、歌い手の魂の響きであり、それがどこに結ばれているのか、その「結び」の違いなのだと改めて思う。

彼女の声の聴いていると、その深い声の出どころはどこにあるのだろうかと、そんなことを思う。

彼女の声の響きの奥を辿っていくと、その声の主体は誰なのだろうかと。

そうやって辿っていくと、その響きの源は宇多田光という30数年生きた女性のパーソナリティではなく、もっと普遍的な「母的なるもの」や「女性性」の元型に行き着く。

本物の歌い手とはシャーマンなんだということがよく分かる。

宇多田ヒカルの母、藤圭子の歌を聴いた作家の五木寛之は、それを「演歌」ではなく「怨歌」と評したと言うが、その母にしてこの子である。

以前雑誌の対談で、当時20代だった宇多田ヒカルが、好きな作家として中上健次を挙げているのを読んで驚いたことがある。

日本的な文脈でしか共鳴できないような和歌山の路地と血縁を書く中上健次の筆致が、この明るく屈託の無い少女に共鳴するのかと。

「演歌」を「怨歌」としてしまう母の血が確かにこの子にも流れているのだなと。

日本の路地にあるような湿度、血の重さ、土着で演歌的なものへの縁が深い血筋なのだろう。

日本人の無意識に潜むそういった重く湿度を持った土着の思いを慰めるには、日本的な技術では不可能で、

むしろ外の異国の乾いた氣や技術が必要なのかもしれないと、最近私はセラピーを通じてそんなことを考えるようになってきていた。

ニューヨークに生まれ、イタリア人と結婚し子供を生み、地中海の風を受けている彼女の、それでいて中上健次的な土着の重さと縁を持つ彼女の血筋の特殊な立ち位置が、彼女の天才性を支えている。

そして今回のアルバムにはそれが良く表れていると思う。

311の震災を意識して書いたという「桜流し」という曲を聴いていると、直近の震災というものを超えて、

私達日本人の集合的無意識の奥底にある記憶、「靖国の桜の樹の下で会おう」と遺して散っていった私達の祖先の英雄的な意識と、そこに遺されて平穏のなまま命をつなぎ歴史を紡いでいった母たちへの鎮魂のようにも響いてくる。

土着のものとの深い縁を持ち、それを慰めるだけの力。

彼女の母親にもあった力。

その日本的な湿度との縁とは、歌に力強い情念を与える力であると同時に、時に恐ろしいものでもある。

彼女の母を自殺にまで引き込んで行った深い闇のようなもであり、

帰国子女らしい明るさを持つ彼女の一瞬の表情に漂う哀しさのようなものの源泉でもある。

そして私達を癒やす、彼女の声の響きにある重さと哀しさの源泉でもある。

その重い力。

彼女の母が自殺によってワイドショーを賑わしていた時。

遺体を送還する霊柩車の進路を塞ぐ形で写真を取った週刊誌の記者に対して、彼女はTwitterを通じて憤った。

死者の道を塞ぐなんて「それは死者への冒涜だ」と。

それは本当にその通りだと思う。

何の言い訳もできない。

それはやってはいけないことだった。

でもその写真に写っている彼女の姿を見た時、

涙を浮かべてうつむいている彼女の青ざめた表情があまりに美しくて、そこにすら芸術性を見てしまった時、なんとも言えない気持ちになった。

才能とはそういうものなのだ。

本人の望みなどお構いなしに、血が彼女を連れて行く。

長い休息を取り普通の人に戻り、日本を離れてイタリアで母となり、イタリア人の血を混ぜることで、彼女の中を流れている土着のものの力は鎮まっただろうか。

子供を産むことであの重いものは中和され母子の愛へと少しは昇華されただろうか。

そうであれば良いなと思う。

彼女の才能がもう彼女から何も奪わなければ良いと思う。