質問1つで生きていく決意

ここ最近、スマホをiPhoneからAndroidに変えてみて、感心することしきりです。

その詳細は改めて別記事に譲るとして、まずなにより、Google音声入力が本当に優秀ですね。

スマホに話しかけると瞬時に文字にしてくれます。

認識精度も高く反応も早いためストレスが無く、自分が話した言葉が瞬時に文字になってモニターに現れるのを見るのは、感動的ですらあります。

最近は簡単なメールやLINEは、ほぼ声で入力するようになりました。

そして、スマホで使えるAIの『Googleアシスタント』もこれがまた優秀で。

さすが検索エンジン会社の提供するAIだけあって、iPhoneのAIアシスタントの「Siri」よりも遥かに細かで行き届いた情報提供をしてくれます。

何気なくテレビを見をていて、クリスティアーノ・ロナウドが出ているシックスパックのCMを見て、

なんでこの企業はこんなCMを打てるだけの資本力があるんだろう?と気になった瞬間にスマホを持って、

「シックスパックの会社について調べて」話しかけると、

「こちらです」と、0.2秒後には会社のホームページを出してくれます。

見てみると、多角的な収益源があることがわかります。

この感じ。

自分の中の疑問を声に出した途端に謎が解け、解消されていく感覚。これが脳にとっても気持ち良いのです。

物知りのアシスタントが僕のためにいつも側にいてくれるような感覚です。

Siriを使ってみた時は「AI元年」とは言えまだまだ実用は先の話だなと思っていたのだけど、どうやらAIの時代は既に始まっていたようです。

最近は何かにつけてGoogle先生に頼るようになりました。

「P 10 LITE のテーマの変更方法を教えて」

「スマホで使う質の高いマイクある?」

「 Google 音声入力をMacで使う方法ある?」

瞬時に良くできた解説ページを5つ紹介してくれます。

慣れないAndroidだけど、いじっていて使い方がわからない度にGoogle 先生に聞けば解決してくれます。

そして、すでにGoogle様の提案に従ってネットでいくつかの買い物もしています。

凄いですね。

こうなると、質の良いクリエイティブな「問い」を思い付けるかどうか、

が大切になってきます。

こちらが何に疑問を感じているのか、適切に定義された質問を正確な用語を使って作り出すことは、なかなか高度で創造的なスキルなのだけど、

それさえできれば素晴らしい恩恵を返してくれます。

そして、これは自分自身の脳にも言えることですね。

僕らの脳の中には自分が生きた年数だけの(そして実は先祖代々や、人類が生きた歴史の)様々な知恵や経験がストックされていて、

しっかりと定義されたクリエイティブな質問を投げかけると、瞬時とはいかないまでもじっくりと深めて、適切な解をもって応えてくれます。

あるいは その後の人生そのものが問いの答えであるかのように展開していきます。

 

更に言うと、私たちは自分には無い膨大な経験を積んだ他者にも、質問をすることができます。

つまり問いには三つの方向があります。

・AI をはじめ、電子ネットワーク上に蓄積された膨大なデジタルデータへ。

・自分自身の脳の中にストックされた知識や経験や暗黙知へ。

・世界に7億を超えると言われている他者へ。

それぞれに適切で有用な問いを投げかけられるかどうか、それが膨大なリソースにアクセスできるかどうかの鍵となるわけです。

コンピューターが理解しやすい正確な語彙とシンプルな文法を使った問い。

自分の無意識を活性化して再構築し、パラダイムを作り変えてしまうような深くオープンな問い。

相手の無意識の奥底に眠っているフィーリングを刺激し答えるだけの意欲を与えて言葉を引き出すような問い。

それぞれにポイントは少し違うけれど、いずれにせよ、

良い質問さえ見つかれば、カチッと音がして扉が開き、新しい世界が目の前に出現するわけです。

その場で作ったちょっとした質問が鍵となり扉が開き、目の前に新しい世界が広がる。

それによって自分の中のイメージ空間も拡張されていくわけです。

面白いですね。

こんな時代が退屈だということはもうありえません。

もし退屈なのだとすれば、それは問いを作るための勉強ではなく、単に知識を頭に保存するためだけのインプットを勉強だと勘違いしてきたからかもしれません。

自分のものだとこだわりさえしなければ、知識も経験も既にコンピューターや他者の脳の中に膨大にストックされています。

ただ、それを使う鍵となる質問を持たなければ、それらは無いに等しいものですね。

自分の知識量の多寡など大胆に棚に上げて、良い質問を作る力1つだけ持って、世界中のリソースを引き出し活性化させクリエイトしていく。

質問の技術1つだけで生きていく。

そういう決意は、私たちの心を軽くしてくれますね。

長らく僕らを縛ってきた、「まずは自分が優秀でなければならない」という呪縛から開放してくれるようです。

とても正しくて生きづらい世界

皆さんこんにちは。カウンセラーの佐原です。

GW明けの本日。皆様お元気にされていますか?

今日は、今巷を騒がせているTOKIOの山口くんの問題について、心理療法家の目線で語ってみたいと思います。

【気付けば厳しい社会になったものだ】

 

昨日のニュースではもう既に退社届けがて提出され、ジャニーズ事務所側もそれを受け取り、事実上も山口くんの芸能界復帰は無くなったようです。

これ、いかがなものでしょうかね。

このニュースが報じられてからワイドショーやネット上ではいくつかの論点で扱われました。

それを、まとめると、

・謝罪会見で自身の復帰の話をするなんて甘すぎる。

・それに加え、酒をやめると断言しなかったこと、この2点において、この謝罪会見は失敗だったのではないか。

・TOKIOの他のメンバーの心のダメージも計り知れない。

・ジャニーズの社長ではなくTOKIOのメンバーが謝罪会見するのは組織としておかしいのではないか。

・夜に男の家に行くことを許した親の監督責任は問われないのか。

・いやいや、普通は仕事上の先輩の誘いだと断れないですよ。

・そんなあなたの発言がセカンドレイプだということを自覚するべきですよ。

と、だいたい以上のようになります。

でも、正直私はそのどれにも上手く共感することができませんでした。

爽やかな好青年という社会的なイメージから一転、女子高生に強制わいせつを犯した男としてマスコミの前に立つ。

その恐怖と失うものの大きさに怯える謝罪会見で、涙を流し手を震わせながら必死に言葉をつないでいた先で、

「もし自分の居場所があるなら」

と結んでしまったあの言葉の至らなさに、追い詰められて混乱している生身の人間の心情ではなく、

「甘え」や「自覚の無さ」だけを受け取って批判が噴出することの違和感。

私たちはとても厳しい社会に生きているのだなと。

ここまで正しくなければ許せない義憤というものは、いったいどこから来るのか、そちらの方が気になりました。

そもそも私たちは本当に完璧な謝罪というものを聞いて、納得したかったのでしょうか?

【謝罪は誰に向かってなされたのか】

 

残りのメンバーの涙を流したの謝罪会見を見ても思いました。

なぜ当人ではないメンバーがここまで憔悴して、涙を流しているのだろう。

いったい彼らは誰に謝っているのだろう。

ここでは本当には何が問題になっているのだろうか。

ワイドショーで皆はいったい何の話をしているのか。

ここで語る人たちは皆、何かを恐れているようでした。

本当に被害者の少女のことを1番に考えなければいけないのであれば、この問題での山口氏へのペナルティと社会的影響を大きくするべきではありませんでした。

山口氏がもし解雇となれば、少女の社会的ダメージはより大きくなり、まだ若い一個人の上に心理的にも重くのしかかることとなります。

そのことは誰もが分かっていながらも、ここでは少女個人の気持は簡単に蔑ろにされました。

では、被害少女を無視してまで、メンバーたちは誰に向かって憔悴した表情と涙を見せて謝っていたのでしょう。

それは、もう誰も刃向かえなくなっている荒ぶる「世間様」ですよね。

この事件に本当の意味で燃料与えていたのは、山口氏の行為の卑劣さではなくてむしろ、

普段の営利活動の中で報われない思いをしていたり、コンプライアンス遵守のために緊張を強いられ、正しさを求められ、代償を払い、したためてきた集合無意識の中の怨念のようなものです。

世間様は日々ストレスと内圧を高め、その発散場所として生贄を欲しています。

それを鎮めるために誰もがその「世間様」に寄り添い、代わりに被害少女を蔑ろにします。

テレビのコメンテーターが世間様の正しさを代弁することで、暗に伝えていたのは、

「私は生贄になるのはゴメンですよ。」

「私は世間様の怨念を刺激しないよ。私は世間様の味方ですよ。」

ということでした。

それがダメだと言うことではなくて、誰も表立ってはそれしかできなくなっているということです。

【クリーンな社会のストレスと女性の性的な痛み】

 

この問題で噴出していたのは、企業のコンプライアンスが象徴するような過剰な正しさのために強い緊張を強いられながら我慢してきた人たちの「俺達はこんなに日々正しくやってきているのに!甘すぎる!」という集合無意識と、

Me too運動に現れているような女性たちの歴史的な痛みの集合無意識であって、

誰も46歳の男が酒に酔って女の子にキスをしてしまったと言う問題そのものを扱っていたわけではありません。

その証拠にこのニュースは徐々に、謝罪の仕方や、どこまでの罰を受けることが妥当かといった企業社会的な正しさ、組織の責任の所在、企業の謝罪学といった側面にどんどん形を変えて行くこととなり、

一方、ネット上ではセカンドレイプと言う言葉が頻繁に使われるようになりました。

この2つの集合意識に高まった圧力をガス抜きするために、このニュースは利用されていきました。

【山口氏のダメージは被害者が背負う】

 

心理療法的に見ると最も心配なのは被害者の彼女で、それは性的被害を受けた心の傷が…と言う事のみならず、

彼女の受けた傷の罰とするには、「山口氏が払った代償が大きくなり過ぎる可能性がある」ということです。

これがかなり危険なことなのです。

心理療法の中で現れてくる絶対的な法則として、人は関係性の中で必ず「収支の帳尻を合わせるように働く」というものがあります。

人間関係の中では長期的に見れば、そしてエネルギー的に見れば、必ずギブ&テイクはバランスするようにできているのです。

もしその帳尻が個人同士の間で合わせられない場合は、驚くべきことですが、家系を通じて子孫たちによって支払われることとなります。

心理療法の臨床現場で、個人の貧困の問題や原因不明の自殺衝動、不思議なほどに不幸に引き寄せられていくクライアントさんの無意識を紐解いていくと、

ご先祖の代に得た不当な利益(土地にまつわるものが多い)や、先祖のために誰かが払った犠牲がエネルギー的に明らかになってくることがあります。

本人は全く無自覚でその事実さえも知らないままに、ご先祖の代で得すぎた利益の支払いを自身が不幸になることを通じて行っていたり、

過去に誰かが支払った大きな犠牲を、子孫である自分も被害者のように生きることで贖っていたりする。

そういった状況を頻繁に目にするのです。

こういったエネルギー的な法則から見ていくと、今回の彼女のこの先に背負うダメージが心配になります。

国民的なアイドルとして世間から愛され、応援される番組をいくつも持つ有名タレントが社会に与えていた良き影響が、今回のことで損なわれるとすれば、

更に、被害女性の同世代の仲間たちが仕事で活躍できる場所も奪ってしまうとすれば、

それは、1人の個人の性的被害によってバランスさせるにはどうしても大きすぎるのです。

その日本中に与える心理的、経済的インパクトを、彼女の無意識がバランスを取るように背負い込まれるとすれば、その負債は大きすぎます。

ここまで彼が罰せられることを、被害者の彼女自身が望んだわけではないはずなのに…、です。

【誰も被害者に優しくは無い】

 

心理的な法則を持ち出すまでもなく、もし自分が被害者の立場だったら…と想像するとなんとなく分かるものです。

「この問題を大きくしてほしくない。」

「山口さんがあまりに大きな罰を受けると負担になる。」

「トキオがそんなに深刻に謝ると、国民的に愛されている番組がダメになると、私が苦しくなる。責任を感じる。」

恐らく彼女は今、自身が受けた性的な傷に向き合うどころでは無いと思います。

世間を騒がせた事の発端が自分にあることの重さに、そしてこの騒ぎがどこまで広がって行くのかという恐怖に今もまさに怯え傷付き続け、震えていることと思います。

自分の個人的な傷など、もう感じる余裕すら無いことでしょう。

誰も本当には、少女個人の気持ちは見ないことにしたのです。

 

「私は生贄になるのはごめんだ。」

誰もがその主張に一生懸命に見えました。

今回の契約解除で世論が今後「そこまでする必要があったのか?」という方向に傾いていくとすれば、次に生贄に差し出されるのは(決して言葉にして明言されないにしろエネルギー的には)被害者の彼女サイドです。

本当に私たちは被害者に厳しい。

「もう終わりにしないか」

と言いたくなるのです。

【どこまでも帳尻は合わされていく】

 

今回のことで、山口氏が20数年積み上げたキャリアを失うとすれば、それがまた新たに私たちの社会の正しさの基準となり、

私達自身の首を絞める事となります。

誰かが代表して大きく払った代償は、それを無意識に望んだ全員によって、帳尻が合わされていきます。

私たちはまた無意識に支払うこととなり、ミスに厳しく正しくある「べき」に支配されたストレスの多い社会を生きることとなります。

誰も得しなし、勝者のいないゲーム。

「もう終わりにしないか。」

本当に心よりそう思います。

「彼の中にあった未熟さ、甘さ、いやらしさ、ズルさは私の中にもあります。私はそれを認め、私の心の中にそんな自分の居場所を与えます。」

そんな自己受容だけが、荒ぶる世間様を鎮めます。

本当の意味での癒やしの可能性を開きます。

確かに私の中にも彼と同じ未熟さや、甘さ、いやらしさ、ズルさがあって、社会人としてそれをできるだけ見せないようにして生きていはいるのだけど、

それでもその影も自分の一部であることには変わりがなく。

心のどこかではそれを無かったことにせずに、せめて個人的で私的な関係においては、誰かにその影の部分を受け止めて許してもらいたいと思っていたりします。

そして、そのような甘い体験によって、私達の中の影は癒され無意識はご機嫌になり、そうやって私達も一部を担っている「世間様」のガス抜きはなされていきます。

それは確かに「甘い」体験なのです。