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真に怖ろしきもの

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某寿司屋のアルバイトが「ハサミ」を天ぷらにした写真をツイッターに投稿して、また炎上したのだとか。

こういう記事を見る度に思うのだけど、

ハサミを天ぷらにして仲間に見せようとした高校生よりも、子供のイタズラがここまで容認されなくなってしまった社会の方がはるかに病的で、ゾッとする。

所詮は高校生のいたずら。

お灸をすえて仕事の責任を叩き込んで、育てて行けば良いではないか。

何より、この子を守る意見が全く出てこないのが気味悪い。

子供の行き過ぎたいたずら1つによって、その子が社会的に抹殺されることを期待するのみで、再教育していくという世論が生まれないとすれば、病んでいるのは社会の方なのだ。

本人に謝罪会見させろ!とか、実名出せ!とか、許されることではない!とか、プラスチックが油に溶けて毒素になっただろ!とか、店はこいつに損害賠償しろ!とか、

正義や被害者を装ってこの子の人生が徹底的に破壊されることを願うその祈りで、自分の中のいったい何を慰めているのか。それを心底見てみた方が良い。

『無名の大衆』という暗がりに身をひそめて、バカな獲物が現れることを目を光らせてじっと待っている。この暗い欲望。

ニーチェの言うところの「ルサンチマン」

内田樹さんが言うところの「呪い」

蓄積された怨念を鎮めるためにこの社会は生贄を求めている。

この子は追い詰められて高校を自主退学したそうだ。

これは1つの供養なのだろう。

日本社会を暗雲のように覆っているこの怨念。呪い。ルサンチマン。

それを鎮めるための供養。

ある時期、私は自分で考えて発想したつもりになっていた夢や目標というものが、この怨念への恐れと気遣いにどれほど色濃く影響されているのかに気づいてゾッとしたことがある。

この力への怖れは私達の無意識の奥底から、私達の感性を支配している。

この力をしっかりと捉えて、それを刺激しないように上手く立ち回らないとこの国で自由に身軽に生きることは難しい。

この力はあまりに大きくて強いので、決して戦わないこと。

刺激せずにそっと静かに離れること。

場合によっては全力で走って逃げること。

そして、

逃げながらも、個人として理想を追求する手は緩めないこと。

時には息を潜めて身を隠しても、爪を研ぎ続けること。

初恋の人という呪い

漂流

漫画『惡の華』が僕の感覚にピッタリきたので、同じ作者の『漂流ネットカフェ』という作品を借りてきて読んだ。

これまたピッタリで、グロいけど素晴らしかった。

中学生の時の初恋の女性の意外な行動。その時、緊張して勇気が出なくてその先に進めなかったことの後悔。

もしその先に進んでいたら…?

これは初恋の女性に、自分のありえたかもしれない理想を投影しているわけだけど、とても良くわかる。

関係を未完了のまま、あこがれのまま残している異性というのは、ある意味で呪いのように人生に作用するものだ。

その憧れの女性が、自分が生きられたかもしれない愛に満ちた理想の時間を映し出して誘惑する。

現実ではなく、ファンタジーに引き込もうとする。

それと戦ってそのファンタジーを切り裂いて人は大人になるものだ。

それができないとファンタジーの中にひきこもり、実際の人生の有り様を「そんなはずではなかった!」と心の中で否定しながら、自分の幻想を支えてくれる作品を取り込み続け、ファンタジーに燃料をくべ続けることになる。(それはそれで豊かではないかとこの時代は言うが)

ではそのファンタジーを超えるには、どのようなイニシエーションを通過する必要があるのだろうか?

投影された理想を超えるような魅力的な現実を作ってそれを生きるか。

現実の異性という生々しい肉体と存在に何度も触れることでファンタジーを追い出すか。

あるいは理想の相手の老いた現実を目の当たりにするか。

漫画のあとがきで作者は、この作品は自分のトラウマを元にして描いたとしている。描き終えることで長い間の思い出の檻から出られたのだと。

作者は描くことで自分の中のファンタジーを殺したのだろう。

同じようなテーマで『秒速5センチメートル』という美しいアニメ映画がある。

でも、『秒速~』はファンタジーを美しく賛美してファンタジーに燃料をくべる作品であるのに対して、『漂流ネットカフェ』はファンタジーを破壊するものだ。

その意味で暴力的で猥褻にも関わらず、後者の方が実は教育的だったりする。

非常にグロいのでとてもお勧めしにくいけど、特に男性にはお勧めします。