質問1つで生きていく決意

ここ最近、スマホをiPhoneからAndroidに変えてみて、感心することしきりです。

その詳細は改めて別記事に譲るとして、まずなにより、Google音声入力が本当に優秀ですね。

スマホに話しかけると瞬時に文字にしてくれます。

認識精度も高く反応も早いためストレスが無く、自分が話した言葉が瞬時に文字になってモニターに現れるのを見るのは、感動的ですらあります。

最近は簡単なメールやLINEは、ほぼ声で入力するようになりました。

そして、スマホで使えるAIの『Googleアシスタント』もこれがまた優秀で。

さすが検索エンジン会社の提供するAIだけあって、iPhoneのAIアシスタントの「Siri」よりも遥かに細かで行き届いた情報提供をしてくれます。

何気なくテレビを見をていて、クリスティアーノ・ロナウドが出ているシックスパックのCMを見て、

なんでこの企業はこんなCMを打てるだけの資本力があるんだろう?と気になった瞬間にスマホを持って、

「シックスパックの会社について調べて」話しかけると、

「こちらです」と、0.2秒後には会社のホームページを出してくれます。

見てみると、多角的な収益源があることがわかります。

この感じ。

自分の中の疑問を声に出した途端に謎が解け、解消されていく感覚。これが脳にとっても気持ち良いのです。

物知りのアシスタントが僕のためにいつも側にいてくれるような感覚です。

Siriを使ってみた時は「AI元年」とは言えまだまだ実用は先の話だなと思っていたのだけど、どうやらAIの時代は既に始まっていたようです。

最近は何かにつけてGoogle先生に頼るようになりました。

「P 10 LITE のテーマの変更方法を教えて」

「スマホで使う質の高いマイクある?」

「 Google 音声入力をMacで使う方法ある?」

瞬時に良くできた解説ページを5つ紹介してくれます。

慣れないAndroidだけど、いじっていて使い方がわからない度にGoogle 先生に聞けば解決してくれます。

そして、すでにGoogle様の提案に従ってネットでいくつかの買い物もしています。

凄いですね。

こうなると、質の良いクリエイティブな「問い」を思い付けるかどうか、

が大切になってきます。

こちらが何に疑問を感じているのか、適切に定義された質問を正確な用語を使って作り出すことは、なかなか高度で創造的なスキルなのだけど、

それさえできれば素晴らしい恩恵を返してくれます。

そして、これは自分自身の脳にも言えることですね。

僕らの脳の中には自分が生きた年数だけの(そして実は先祖代々や、人類が生きた歴史の)様々な知恵や経験がストックされていて、

しっかりと定義されたクリエイティブな質問を投げかけると、瞬時とはいかないまでもじっくりと深めて、適切な解をもって応えてくれます。

あるいは その後の人生そのものが問いの答えであるかのように展開していきます。

 

更に言うと、私たちは自分には無い膨大な経験を積んだ他者にも、質問をすることができます。

つまり問いには三つの方向があります。

・AI をはじめ、電子ネットワーク上に蓄積された膨大なデジタルデータへ。

・自分自身の脳の中にストックされた知識や経験や暗黙知へ。

・世界に7億を超えると言われている他者へ。

それぞれに適切で有用な問いを投げかけられるかどうか、それが膨大なリソースにアクセスできるかどうかの鍵となるわけです。

コンピューターが理解しやすい正確な語彙とシンプルな文法を使った問い。

自分の無意識を活性化して再構築し、パラダイムを作り変えてしまうような深くオープンな問い。

相手の無意識の奥底に眠っているフィーリングを刺激し答えるだけの意欲を与えて言葉を引き出すような問い。

それぞれにポイントは少し違うけれど、いずれにせよ、

良い質問さえ見つかれば、カチッと音がして扉が開き、新しい世界が目の前に出現するわけです。

その場で作ったちょっとした質問が鍵となり扉が開き、目の前に新しい世界が広がる。

それによって自分の中のイメージ空間も拡張されていくわけです。

面白いですね。

こんな時代が退屈だということはもうありえません。

もし退屈なのだとすれば、それは問いを作るための勉強ではなく、単に知識を頭に保存するためだけのインプットを勉強だと勘違いしてきたからかもしれません。

自分のものだとこだわりさえしなければ、知識も経験も既にコンピューターや他者の脳の中に膨大にストックされています。

ただ、それを使う鍵となる質問を持たなければ、それらは無いに等しいものですね。

自分の知識量の多寡など大胆に棚に上げて、良い質問を作る力1つだけ持って、世界中のリソースを引き出し活性化させクリエイトしていく。

質問の技術1つだけで生きていく。

そういう決意は、私たちの心を軽くしてくれますね。

長らく僕らを縛ってきた、「まずは自分が優秀でなければならない」という呪縛から開放してくれるようです。

恋の終わり破壊の時 小室哲哉の引退に思うこと

小室哲哉さんが引退を表明しましたね。

小中学生の頃にTM NETWORKを聞いていた世代としては寂しい限りです。

90年代に1つの時代の雰囲気を創り出した恩人の引退がこんな不本意な形というのが残念でなりません。

でも会見の全文を読むと、本人の少しほっとした様子も伝わってきますね。

 

もう今の生活にも創作活動にも限界を感じていて、降りたい、壊したい、という思いが心の奥底で育って行っていたのかもしれません。

人の不倫を裁く権利は当事者にしか無いはずだ。それでも無邪気に週刊文春を攻撃する気になれないのは、この流れが彼の無意識との共同創造でもあるように思えるからです。

恐らく以前のように音楽が降りてこないのでしょう。

彼は妻KEIKOさんを伴侶として介護したり時には家族に任せたりしているそうですが、

それは人として1人の妻に寄り添う素晴らしい体験であり、彼はこれまでとは違った魂の体験をしているわけですが、

残念だけれど、その道には以前のような音楽は降りてこないのでしょう。

ある種の音楽は、男女が激しく憧れ求め合うその情動の中に生まれるものです。

西洋の神智学体系のカバラの中では女性への狂おしい憧れ、そこに手を伸ばしたいが触れられない、その力動にこそ「永遠」があり、「創造」の力があるとし、それに『ヴィーナス』と女神の名を与えました。

ヴィーナスへと向かう恋愛的な力。永遠に持続する力。

ある種の創造やインスピレーションの源はそこにあります。

彼の扱っていた音楽は決して安定や誠実さの中に生まれるものではないのです。

残念なことだけれど貞操を貫く人間の美しさを生きることと、恋愛的な引力と熱と魔法を宿した音楽を作り続けることは、別のジャンルの仕事なのです。

ヴィーナスを良妻のように飼い慣らすことなど誰にもできないし、もしそれができたとしたらそれはもうヴィーナスではなく、代わりに別のヴィーナスの存在がその秩序と安定の外側に現れてきます。

今回も小室さんの人生にもそれが起こっていたのでしょう。

私は以前から、ミュージシャンというのは歳を重ねることが難しい職業だなと、彼らの歳の取り方を興味深く見ていました。

常に新しい異性のうちにヴィーナスを見出し、恋焦がれながらも手に入らない不安定さの中に身を置き続けることは誰にもできないし、

歳を取るということは、The Lover(求愛者)やトリックスターという不安定なアーキタイプを宿し続けるには、賢くなりすぎるものです。

私たちは誰もが平等に歳を取り、いつか恋するだけの存在ではなくなります。

その代わりにまた違ったアーキタイプが自分に宿るようになります。

老賢者かグレートマザーか援助者か。

それらが自分の内側から立ち現れようとする時、その時、古くなった自分を破壊して次に行かなければなりません。

古い自分にしがみつくとやがて必ず、泉は枯れます。

今の小室さんは見ていて切ないほど枯れていて、自分のエネルギーの源泉につながれていないことが明白でした。

創り出したものが大きい人は、壊して捨てなければならないものも大きいのでしょう。

小室哲哉という存在はある時代の象徴として固定され世間の共通言語として流通し、もはや自分1人の手では壊しきれないものだったのかもしれません。

だから今回、文春のスクープによって破壊が後押しされた時、彼が望んで会見を開いて引退を表明したこと。

そしてその時に見せたとても人間的で個人的な安堵に触れて私たちは、

一抹の寂しさとともに、彼を擁護して応援したくなるような衝動を禁じ得ないのでした。

彼は今また圧倒的な破壊をやってのけようとしています。

彼を突き動かすその力に私は、最大限の敬意を払いたいと思います。

 

そして、そんなことを思っていた時、この記事を読みました。

『大江千里、47歳で始めた僕の「ライフ・シフト」』

TM NETWORK時代の小室さんと同時期に活躍したシンガーソングライター、大江千里さんのインタビューです。

彼は日本でのポップシンガーとしての地位を捨て、47歳で渡米しジャズの名門校で学び、現在はニューヨークで毎週ライブをする生活なのだそうです。

インタビューの最後の部分がとても良くて、未だみずみずしく少年のような感性で世界に参加して触れて感じ取って生きている様子が伝わってきます。

素直に今の自分にチューニングして、

不要なものを手放し、内側に立ち現れてくるものに従って外側の人生を調節する。

そうやって破壊と再創造を繰り返していくと、人は枯れないのですね。

今も瑞々しいままです。

記事からは、彼が日々の人生に感じ取っている正解感が伝わってきます。

とても上手に歳を取っておられる。

私たちもこうありたいものですね。

今大切に握りしめている「私」の上にはもう次に行くためのリソースは乗せられない。

完成してしまっていて、人生に倦怠が入り込んできた。

それは破壊の時が来ているサインなのかもしれません。

山頂にて誰を思うか

元日の今日、ひととき家族を離れて1人で山に登った。

山頂付近から見える海。

太陽の光を照り返して、瀬戸内の海は光っていた。

高校生の頃、友人と山に登って同じような景色を一緒に眺めていると、

「こういう時って、自然にあいつのこと考えてしまうな。」と当時彼が恋していた相手のことを言っていた。

そうかもしれないと思った。

恋とはこういう景色を見た時に、自然に心の中で相手を想うことを言うのかもしれない。

そんなことを思い出しながら、では42歳の自分は今この景色を見ながら誰を想っていたか?と振り返ると。

自然に心が求めたのは誰かというと。

僕の心が求めたのは…。

 

鑑真である…(笑)

 

大丈夫か…。なんかだいぶ急ぎすぎてる気がするぞ…。

今から1300年近く前、鑑真はなぜ5度も渡航を失敗するほどのリスクを犯しながら、両目を失明するほど疲労困憊しながら、海を渡り異国の日本に戒律を伝える決意をしたのか。

日本からの要請があったにせよ。自国の反対を押し切り、命をかける程の行動を支えたものは何だったのか?

その心の有り様を理解したかった。

そこに何か大きなヒントがある気がする。

 

光る海を見ながら岩場で瞑想し、鑑真のその大きな心に自分を重ねてみる。

1300年の時を超えての愛慕。

もはや出家してしまいそうである…(笑)

 

ということで(どういうことで?)皆様、明けましておめでとうございます。

今年もこんな感じでいろんな時空を生きつつも、2018年的な現実をしっかり見据えて地に足をつけて歩んで行きたいと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

 

答えに力は無い

みなさん。こんにちは。

お元気にされていますか?

今日は久しぶりに一日休みを取って家でゆっくりしています。

長らく降り続いた雨も上がり、台風も通り過ぎ、良い天気ですね。

温かい部屋でゆっくりしていると自然に心が緩んで、

普段の仕事モードの時よりも深く広いところにまで心が広がります。

「あ、そういえばあの子最近どうしてるかな、元気かな?」とか、

「そうだあれをやりたかったんだった…」とか、


そんなことがポツポツと心に浮かんできます。

普段届かなかったところにまで意識が届いて、心の周辺に隠れていたひかえめなニーズがポツポツと顔を出して、今日はそれに丁寧に応えています。

そうすると良いものですね。

心の内側が息を吹き返したようにフワッと広がって、自分の中に一致感が出てきます。

自分のニーズを無視するために無意識に固くしていた心も、その必要がなくなり緩みます。

ここでもう少しゆっくりして更に緩むともう一層深い心のフタが開いて、

しょーもないこととか、ろくでもない考えが出てきて、深夜にどうしようもないダメな映画を観たりするのでしょうが(笑)

今日はそれは止めておこうと思います。

今日は良い天気だし、あくまで爽やかに行きたい。

静かに瞑想したり、丁寧に部屋を片付けたり、書類を処分したり計画を見直したり、

身の回りを今の自分の内面に合うように整え直したり、

余分なものは捨て、今の自分にとっての真実を表しているものだけを残していく。

過去の自分の思いつきの夢から選んだ本やアイテムを処分して、

誰かの声に刺激されて選んだもの、自分の声ではないものは手放していく。

そうすると更に自分の内と外に一致感が出てきて、自分のエネルギーの源につながり直すことができます。

心に力が取り戻されていきます。

そんな風に過ごしていると、いつからか心に大きな問いが浮かんでいることに気づきます。

『本当のところ、自分は誰に貢献をしたいのだろうか?

  誰に、どんな感性に、奉仕したいのだろうか?』

その問いと向き合い、更に瞑想を深めると明らかになってきます。

自分の中にしっかりと根ざした方向感が生まれて、情熱が流れ出てくるのが分かります。

こういう体験をする度に思います。

答えが正しいかどうかが重要なのではなく、

正しい答えを知っているかどうかが重要なのでもなく、

その問いにどれだけ真っ直ぐに向き合えたか。

そして答えをどの深さから引き出したかが重要なのだな、と。

大人は「これが答えだから、これを選んで進みなさい」と教えてくれます。

でも子供はそれには納得が行かず、受け取らずにしばらく引きこもって自分で考えます。

あるいは思いのままに動いてみては失敗を重ねます。

そうやって、1人で考え抜いた挙句にたどり着いた答えは、

失敗を繰り返した先にたどり着いた答は、

最初から大人が教えてくれていたものと同じものだったりします。

「ほら、だから言ったでしょ。素直に言うことを聞いてれば良かったのに」と大人たちは言います。

でも違うんです。

正しい答えが未来を作るわけではないんです。

その答えに自分はどれだけのコストを払ったのか。

その答えを自分のどの深さから掘り出したのか、

それがその人の未来を創る力なのです。

黙想や行動の末に導きだした答えは、成長への力動を含んでいます。

それは単なる情報ではなく、力なのです。

「問うこと」とは「考えること」ではなく、「自分の力の源泉を探り当てること」なのです。

大量の正しい答えに晒され続けた結果、自分の力の源泉につながることができなくなっているとしたら。

深さから出てくる力を感じられなくなっているとしたら。

それはとても不幸なことですね。

まずは捨てること。

静かに休み、自分とつながり、心に問いを置いておくことですね。決して考える事は無しに。

年齢を無効にする

先日、とあるセミナーに参加して、そこで仲良くなったおばさん(と言ったら怒られるか…、淑女?マダム?レディ?)と、夕食を共にしたのだけど、

その方の意識がとても自由で、放つエネルギーが気持ち良いんです。

 

年齢を聞くと60才。

還暦です。

 

でも落ち着くこともなく、余生に入っていくわけでもなく、

今でも創作系の講座に参加して講師の資格を取って教えようとしていて、

「そのためのツールが30万円もするよ~。困っちゃう。」とか、まるで学生みたいなマインドで明るく言うんです。

で、それ以外にも僕と同じような心理やスピリチュアリティについての学びも深めていて、人を救える技術を身に着けていたり、

還暦の今もまだまだ人生を攻め込んでいる。

 

これまでも、家でケーキ屋をやったり、オーラソーマをやったり、洋服の展示販売をしたり、宝石の展示販売をやったり、

全部自分でやってるんですね。

その時々に自分が興味があることをやって、興味が無くなったら次に行く。

そうやって雑多に生きてきた結果、今では何でも屋のようになり、

人生のその時々に出会う人に対して何かしらの手助けをして、価値を与え続けている。

 

そこにはビジネスというはっきりした形も無くて、生きながらにして価値を与え、時にはお金に変えたり、変えなかったり、だけど気にしないという感じで生きている。

お金が必要になったら、展示会をしてお金を生み出せば良い。

どの引き出しからでも自由に好きなように価値を生み出せる。

 

良いですね。

形がなくアイデンティティにもこだわらず、変幻自在。

 

かなり不便な地方にお住いなのですが、東京で息子がカメラマンをやっているので、洋服の展示販売や自分の学びのために頻繁に東京に来ては息子と食事を共にしたり泊めてもらったりするそうです。

まだまだ面白そうなこと学びたいことがいっぱいあるようで、「今度の講座高いのよ~。稼がないとね!」とか明るく言っている。

その好奇心と無方向に広がっていく感じが、20若いはずの僕よりもずっと若々しい。

面白いなと思う。

僕が知っている「還暦」のイメージとは随分違う。

 

で、そんな彼女が言うんです。

「こないだ温泉に行ったらおばあさんに話しかけられて、『私何歳に見える?』って言うのよ。

で、聞いたら『84歳よ』って。でも全然見えないの。

その人、水泳選手で今も現役で、トレーニングしていて地元の水泳大会の記録を保持してるんですって。

元気なのよー。」

 

いやほんと、年齢って何なのでしょう。

この年齢ではこうあるべきみたいな社会的な合意。

この年齢になったらもう新しいことにチャレンジしている場合ではないというような感覚。

それはもう僕らの意識を制限するメンタルブロックでしかないのですね。

 

そんなものはどんどん取っ払って、意識をどんどん自由にして、知識を増やし技術を磨き、

身体も生活も在り方もどんどん軽やかに自由になって行きたいですね。

 

現実の年齢は忘れましょう。

時間というのは相対的なもので、生き方と主観によって伸びたり縮んだりするものです。

興奮の中で過ごす1時間は一瞬。

であれば、一瞬しか時間を経験していない。

歳を取らないのです。

 

今の僕の年齢も、実感としては27歳くらいです。

社会人経験が身に付いて修行期間の第一段階が終わって、ようやく社会に対して本当の貢献ができるぞ!責任を大きく担うぞ!とわくわくしている段階です。

 

でも振り返ってみると20歳の頃には60歳みたいな心境で生きてたから(笑)歳を重ねるごとに心は若返って行ってるんですね。

家系から来る被害者意識や無意識のブロックを外していく度に、どんどん制限は無くなり心が自由になっていく。若返っていく。

そしてこれまで生きてきた経験や知識は豊かに積み上がり、好きなように扱えるようになっている。

その方もおっしゃっていました。

「この年齢になると大体のことが分かるから、めったなことでは失敗しないのよ。いいよ〜。何でもできるよ。」って。

なんとなくわかりますよね。40代になっただけで、随分と人を見る力、世の中のこと、自分のことが分かってきて、そうそう失敗しなくなってきています。

それがこの調子で60歳になったらどうなるんだろうと思うと、

ほんと歳を取るって面白い。

 

心を制限するメンタルブロックをバシバシ外し、所属する意識世界を選び、影響を受ける情報を選び、接する人を選び、業界を選び、それらをコラージュのように自分好みに編集することで、時間や年齢の社会的合意を無効にしていく。

パラレルに存在する異なる世界を自由に行き来しながら価値を生み出していく。

そういうことが簡単にできる時代になりました。

 

僕らは本当に刺激的な時代を生きていますね。

ワクワクします。

27歳の青年のようにそう思います。

靖國の心

8月のこの時期、

東京滞在の最終日に靖国神社に参拝してきました。

強い日差しに蝉の鳴き声。

鳥居をくぐると青々と茂る桜の木の葉。

終戦記念日の近いこの時期になると毎年私たちの心は、昭和のあの頃に引き戻されます。

私にとっては実際に生きて経験したわけではないにも関わらず、懐かしいあの時代です。

 

自分で経験せずとも日本の先人たちが、祖父母たちが、強烈な思いを刻んだ特別な時代でした。

その時、民族として私達の祖先がどんな思いを生きたのか、何を見たのか、その精神史を紐解いて自分の歴史につなぐという作業を数年前から続けています。

その一環として、ここ靖國神社にはできる限り足を運ぶようにしています。

 

戦死者を英霊として祀るこの神社に参拝することは、思想的にも感情的にも政治的にもいろいろと複雑なものがあるものです。

私もなんとなくそんなイメージに引っ張られて、40歳手前になるまで参拝することなく避けてきました。

でも、ある時ふと思い立って靖國の鳥居をくぐってその先の氣に触れた時に何が起こったか。その時の衝撃を未だに覚えています。

 

涙が溢れて溢れて止まらなかったのです。

未だ神社の氣に触れて涙を流したのは、ここ靖國神社のみです。

 

思想や感情など抜きにして、ただ鳥居をくぐり拝殿に立ってその氣に触れてみると、

ここで祀られているものが何なのか。

それがどれほど尊いものなのか。

頭ではなく肌で感じ取れます。

 

大切な何かのために自分を明け渡す意識。

 

英雄の氣質。

 

それがここに祀られている氣です。

 

それは個人主義のこの時代には長らく忘れられていたにも関わらず、確実に私達の中にもある懐かしく誇らしい感覚です。

 

人間というものが大義のためにどこまで私心を排することができるのか。

どれほどまでに心を澄みきらせ志に整えられるのか。

私達の先人が示したその清廉潔白な在り方を、

人間の可能性を、

ここの氣は教えてくれています。

 

それに触れてしまうと、私達の心は喜びに震えます。

 

神社の中には戦死者の遺書が毎月掲示されています。

今月は次のようなものでした。

24歳の青年が実際に残した遺書です。

目を通して、その心の有り様に触れてみてください。

肚(ハラ)に迷いのない青年の澄み切った心と、どっしりとした中心軸が伝わって来ますね。

 

戦争が起こったあの時代ほど日本人の祖国を思う心が、家族を思う心が尊く輝いた時代はありませんでした。

戦争を美化するつもりはありませんが、戦争を反省するのと同じくらいにはこの先人の残した偉大さと人間の可能性を受け取りたいと私は思います。

 

祖国が失われることを恐れ、祖国の存続を夢見て命を差し出した先人達の希望の中を生きているのが今の自分であるということを、知っておきたいと思います。

 

靖國で祈り手を合せて、そこに祀られた氣に触れると私達の心は共鳴し、先人の示した心の在り方を受け取ることができます。

それと同じものが私たちの中にもあることを思い出させてくれます。

私は靖国神社に参る度に、私心無く志に意図を結ぶような在り方に自分を調整してもらっています。

それができる貴重な場所。先人の薫陶を受けられる場所。

それがここ。靖國神社です。

 

実際にここを訪れたら、拝殿に立って手を合わせて次のように祈ってみて下さい。

祖国のために命を捧げた人達の大義に心を合わせて、

 

『あなたたちが命をかけて守ったこの大地を私は生きています。

 

あなたたちが命をかけて守ったこの国は今も存続し、栄え続けています。

 

あなたたちの誇りが、潔い心が、私の中にもあります。

 

私は日本人です。

 

あなたたちが命をかけて守ったもの。

 

未来へと残した希望。

 

それがこの私の命です。

 

ありがとうございます。ありがとうございます。

 

私は今、自分の命の重さを知ります。

 

そしてこの命を良きことに使っていきます。

 

この国が、この世界が、大切な人達の心が、

 

安らけく平らけく続きますように。

 

そう祈る時、自分の心の奥底に何が起こるのか、

是非ご自分の肌と境地で体験してみてくださいね。

先人が命をかけて守り、夢に見た未来の日本を私たちは今、生きています。

三田ホテル滞在記

クライアントの彼氏さんが仕事に集中するのに使っていると聞いて興味を持った、三田ホテル。

ここ最近は家での書き仕事が集中しにくくなっていたので、先日試しにそのホテルで缶詰というのをやってみると素晴らしく仕事が捗って、

その日の内に二回目の滞在を予約をしたのでした。

 

今日はその2回目の滞在。

兵庫県の三田市。その中でも最近新しく開発された『ウッディタウン中央』という駅にそれはある。

駅の改札を出ると、人工的な景観が見えてくる。

 

 

ウッディタウンというだけあって、木々の緑と人の暮らしの心地よい調和という感じ。

 

 

駅とつながる形で三田ホテルが現れる。ほとんど歩かなくて済むのも機能的でありがたい。

 

 

シングルルームはこんな感じ。

デスクの上のテレビを退かせると、仕事に十分な広さを確保できる。

 

窓からの景色はこんな感じ。

海でも山でもないけど、視界が広くて気持ちが良い。

大きな池と新興住宅地が見える。

 

部屋のクリアリングを済ませて早速仕事に取り掛かる。

執筆の仕事に集中してくたくたになるまで気力を使い果たしてからご褒美のマッサージを呼ぶ、というのが自分の中のお気に入りのプラン。 

 

が、しかし、メールの返信を終えたところでお腹が空いてくる。

 

でも大丈夫。

このホテル、向かい側はショッピングモールでなんでも手に入る。

スーパーはもちろん、ホームセンターからファーストフード、古本屋、学習塾、雑貨屋から映画館まで。

この場所だけで生活が完結するように設計されてあるようだ。

 

和食屋で蕎麦と寿司のセットを食し、水とチョコレートを買って部屋に戻って再度執筆に取り掛かる。

が、今度は無性に眠い…。

調子に乗って食べすぎたか

 

ここで寝てしまったら、単にホテルに来てメール返信して寝ましたっていう訳の分からない1日になってしまう(笑)

それだけはなんとしても避けねば。

 

省エネを図るためにMacの音声入力機能を使って口述筆記を試してみたが、出だしの1行で心が折れる。

 

誰がサラダやねん…!

 

このまま集中は難しそうなので20分だけ仮眠を取ると、頭スッキリで復活。

 

結局、集中して文章を2本書いて、23時40分にマッサージに来てもらった。

前回と同じマッサージ師で、「ここ凝ってるなー。」とか言うくせに、おっちゃん、めっちゃ猫背やん!っていうね(笑)

で、痛すぎてあひゃあひゃ笑って、その笑いも含めてものすごくスッキリする。

ほんま女性やったら首もげてるで。

 

マッサージ効果なのか、翌朝はスッキリと目が覚めて近所を散歩。

 

平日の朝ということもあって、とにかく人がいない。

時おり犬を散歩させている住民と「おはようございます」と挨拶を交わせるのが気持ちがよい。

 

何かがいそうな水辺。

カエルが時々ぴょんぴょん跳ねるのと、魚が泳いでいるのが見える。

ブルーギルのようだ。

ここでも外来魚か。

なんだかなぁ。また名前がブルーギルって可愛げ無いよなー。

 

そして池を横断するための面白そうな石があったので、歩いてみると住宅街が見えてくる。

こんな石を渡るのは、近所の小学生と42歳の僕くらいですよ。

 

気持ちのよい場所。

ほんと、人がいないのに場所のリソースは有り余るほど豊か。

 

その上は住宅地。新しくてまだ建設中の家もちらほら。

全てが新しいというのはやっぱり気持ちが良いな。

 

こういう住宅地は人の無意識の部分が残っていないので昔は苦手だった。

影が居つく場所がないではないか、と。

けれど、今は普通に気持ちが良いと思える。自分も変わったんだな。

 

何より、時々すれ違う住人に喜びと誇りのようなものを感じられるのが良い。

「私は今、自分の思い描いた夢の中で暮らしている」というような喜びと誇り。

それがとても心地よい。

街全体にある住人の満足感と喜び。

少し散歩しているだけでそれは感じる。挨拶を交わす人々にも余裕を感じる。

それが、この土地が気分を変えてくれることの秘密。

 

でもじゃあここに住めるか?というと、無理だろうな。

僕は旅行者という立場が好きなんだな。

 

振り返るとホテルが見える。

 

途中、ローソンでコーヒーとバナナを買ってホテルに戻る。

誰もいない広間で新聞を読み比べる。

ほんと、人は少ないのに場所というリソースはたっぷり。

 

先日亡くなった日野原さんの記事。

ジャンルは違えど同じ治療家として陰ながらお慕いし、生き方を参考にしていた方。

あの深い心と精神性はなるほど、信仰と幅広い教養によって支えられていたのか。

 

チェックアウトは少し遅めの11時。

1時間ほど仕事をして、帰り道も駅は直ぐ側。

今から帰ったら15時からのカウンセリングには十分に間に合いそうだ。

 

空が徐々に夏っぽくなってきている。

やっぱり良い所。

また来よう。

怒りが僕らを連れて行く

ここ最近自分の中にモヤモヤとした怒りのような不満のような塊があることに気付いていた。

2週間休み無しで仕事しまくっていたので、「もっと遊ばせろ!」と潜在意識が怒り出したか…と思ってたのだけど、

昨晩モヤモヤと向き合ってみたら違っていた。

怒りの理由は意外なものだった。

 

「お前の仕事は小さい!」

「いつまで私的な自分を生きてるねん!」

「もっと公的に国のスタンダードを作り変えるような仕事をしろよ!」と言って怒っている。

 

「全然リアルじゃない!」と。

「余裕を持ちすぎてる!」と。

 

これまでの人生、ずっと公的よりは私的に、体制側よりは反体制側を好んで生きてきた自分が、ここへ来て公的になることを求めて怒っていたのかと、それが意外でならなかった。

でも、「俺はもっと公的に社会貢献したい!」と言ってみると、確かに胸のあたりがしっくり来てモヤモヤが治まる。

と同時に自分のエネルギーがひと回り大きくなる。

もうエネルギーが来ているんだな。

 

自分を次のステージに引き上げようとする怒り。

それがもう無視できないくらいに激しくなってきている。

これを無かったことにすると、日常の様々なものがリアルに感じられなくなって、無気力になり無感覚になり、味気ない人生になっていくんだろうな。

今来ているこの流れをごまかさないように生きなければならない。

 

この怒りに従って意識と環境を次のステージに上げることが、今必要なチャレンジのようだ。

とは言え、個と個で限界まで深く向き合って変化を促すカウンセリングの仕事は、自分にとってライフワークと言えるほど大切なもので、

この実践の中で「人間とは」ということと「人生とは」ということを学ばせてもらっている。

だから日々のカウンセリングを辞めることはないだろうけど、

まずは自分のセルフイメージを公的なものに修正することからやっていこうと思う。

 

それにしても本当にただ取りこぼし無く、今リアルだと感じて楽しめることに真っ直ぐに取り組んできただけなのだが、

それだけやっているとちゃんと終わりが来て、次が来るのだな。

 

小学生が6年経つと中学生になるように、時が来ると意識のステージは勝手に次へ移行しようとする。

それに気づかずに、あるいは逆らって、中学生なのに小学生のように生きる時、人はどうやらイライラと無気力が合わさったような独特の感情を抱くようだ。

そして「人生は壮大な暇つぶし」などという偽りの悟りを得て、その達観によって人生から大人の距離を取り、あたかも自分が大人を生きているような錯覚をする。

でもそれは違う。

本人だって薄々気付いている。

大人になることは飽きて無感覚になっていくことではない。

それは自分の境界線を超えずに回避したことの症状だ。

 

本来、大人になることはとてもスリリングなことだ。

対峙する相手がどんどん大きくなり、影響できる範囲がどんどん拡大していく。

ただ自分の内側の衝動に忠実であれば良い。

内側が今リアルと感じるものに、外側を変えていけば良い。

無視しようにも、ちゃんと教えてくれる。

内側の無気力が、

イライラが、

次へ行けと言ってくる。

命を燃やすような場所へ行けと言ってくる。

それを無視しない勇気だけが問われている。

 

意識の行き届いた空間に身を置く

FullSizeRender

朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

美女と愛嬌と世界の収支

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東京での仕事を全て終えて新幹線の中で食べる弁当を選びに選んで、大阪へと帰る新幹線に乗り込む。

切符を確認しながら、自分の座席を見るとなぜか既に座っている人がいる。

ここ僕な気がするんだけど…?って表情で訴えると、中国語で何かを言っている。

「そうなんですよ。ごめんね~。本当はそっちの席なんだけど…」的なジェスチャーとともに切符を見せてくる。

ああ、なるほど、友達3人で並んで座りたいから、こっちと変わって欲しいってことか。

OK!  良い旅を!って気持ちになったのは、この中国人の心地よい人柄と徳がにじみ出ていたから。

不思議とこちらも悪い気がしない。

なるほどなぁ。人柄と愛嬌こそが世界共通のパスポートだよな。

可愛くお願いすると、結構いろんな所まで行ける。

とか考えているうちに新横浜に着き、

僕の横に美女が座る。

おおー。

世の中の収支は合うようにできている。

うん。

今日は良い日だ(笑)

AIに仕事を奪われた未来

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最近AIが仕事を奪うというテーマだったり、AIが人間の知能を超える『シンギュラリティ』なる言葉が話題ですね。

でも、その人間を超えることの論拠って、人間の頭脳の総体をAIの知能が超えるということだけど、

そもそも、それって人間というものの本質を「知性」や「脳」だと捉えているってことですよね。

だとすればその人間観がそもそも貧しいのではないか、と思うんです。

人間の本質は脳ではない。

人間は、脳や手足を持った「肉体」という道具に宿った「霊魂」です。

その霊と魂から「良心」や「意図」や、「芸術」の「真善美」という感覚であったり「反省」する力が現れてくると言われています。

脳はそれを外に出力する際に使う道具なんですね。

書家の書いた「書」には、その手の動きに宿った「氣の流れ」が保存されています。だからそれを見ると、ピシッと心が整うような迫力と正解感がある。

その形はAIにもコピーできるけど、新しく「氣」を扱って書を書くことはできるだろうか? AIが作り出したアートに、見る者の姿勢を正すような「氣」や迫力は宿るだろうか。

そういうところに人間を人間たらしめる本質があるように思うんですね。

だからAIが人間の道具としての機能を超えたからといって「人間そのもの」を超えたことにはならないし、そもそも機能を超えるということであえれば、それは既に十分に成されていますよね。

人間の走るスピードなんてはるか昔に自動車に負けているし、腕力だって機械に負けてるし、脳の情報処理能力も計算スピードも記憶力もコンピュータにはかなわない。

などと、そんな話を友人としていたら、

「違うよ。私がAIを怖いと言ってるのは、AIを持ったロボットに霊魂が宿るようになるのが怖いってこと。」

と言い出した。

え!? どういうこと?

「例えば神様がいるとして、人間の霊魂を地上に下ろす時に、人間の脳や肉体よりもAIやロボットの方が優れてたら、そっちに下ろすでしょ?」

え? そうなん!? 神様そうなん? その発想斬新やな…(笑)

「だから、怖いんよ~。」

怖いのか…?

人間とは何にでも恐れを見出すものなんだなと、逆に感心したのでした。

***

以前、主催している勉強会でAIが仕事を奪う未来について、皆の未来イメージを語り合うみたいな時間を持ったのだけど、その時気づいたのは、

今現在、他者や社会に対して不安や怖れを持っている人は、AIの活躍する未来にも不安を持つようで、

逆に今が幸せで他者を信頼している人は、AIに対してもポジティブで明るい未来を想像しているということ。

当たり前の話だけど、今の心の不安と安心の配分をAIのある未来に投影しているだけで、

であれば本当の問題はAIが作る未来にあるのではなく、今この瞬間にも自分の心に居座っている「不安」の方なのですね。

AIは関係無い。

解決すべきは、今現在の脳や神経の中をデフォルトモードで走っている「不安」なのです。

****

未来は確かにAIによって今ある多くの知的労働が失われるでしょう。

そしてAIという資本を持っている一部の資本家に富が集中して、一時的に格差が極限まで拡大してバランスを崩すでしょう。

でも、そうやって普通の人の仕事が無くなって食べていけないような社会。大多数が不幸な社会というものは、一部の富める資本家にとっても不幸なものだと気付き、やがては富を再分配する仕組みができていきますよね。

更に言うと、仕事を失うことの怖れとは、実は周りの皆には仕事があるのに自分にだけそれが無いことの、アイデンティティや自尊心の痛みにすぎず、

6割方が失業している社会で失業することは、それほど怖いことではないですよね。

みんな仕事無しで昼間から遊んでるんだったら、私も仕事やめよかな…くらいのものです。

あとは、できれば周りのみんなよりちょっとだけ後に失業したいという、セコい考えがあるくらいです(笑)

でも、それは大した問題じゃない。

そういう意味で、AIに仕事を奪われるという問題があるとして、

その問題の本質は、自尊心を仕事に結びつけていることの問題であったり、集中する富を得た人が、苦労して得た富を再分配する時に感じる喪失の痛みという問題であったり、

他社と競争して勝者がその報酬として富を得るという社会構造の根底にある、「競争心」が癒えていないことの問題であったりするわけです。

つまり、問題は人間の心の癒やしにあるのです。

そこさえ解消できていれば、AIが仕事を肩代わりしてくれる未来を、恐怖ではなく恩恵として受け取ることもできるはずです。

ようやく人類が労働から解放されるわけですからね。人類の長年夢です。

仕事はもはや労働でなく、自己実現の活動の1つであり、クリエイティブな遊びとなるかもしれません。

問題はそれを可能にするテクノロジーの進化に、人間の精神の進化が追いつけるかどうかですね。

人類の歴史とともにあり今も集合的無意識の領域に残っている貧困や侵略や奪い合いの痛み、執着の歴史を浄化して、今ある豊かさを信じられるかどうか。

そういう問題なんですね。(良かった。僕の仕事はちょっとだけ後まで残りそうだ…(笑))

そして、そこに向かう途中で、「AIに仕事を奪われるから備えておかないと大変ですよ!」などと恐怖を煽って、学習教材や投資商品を売る人たちが必ず出てきますからね(笑)そこは上手にスルーしましょう。

恐怖を煽られる時には、それによって何かを売って得する人たちがいるってことを良く知っておいてくださいね。

ということで、早くAI進化して、仕事して欲しいですよね。

労働から開放してくれないかな。僕はいつでもウェルカムなんだけどな。

その時はみなさん、魚釣りでもしながら、和歌を詠むっていう遊びをしましょうね(笑)

あと、皆それぞれが書いたシロウト小説をお互いに読んで感想を言い合うっていう、恥ずかしい遊びもしましょう(笑)

その時はよろしく!

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

人生を再定義して統合する

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先週の土曜は友人の結婚式でした。

(僕の周りはなぜか今、結婚ラッシュ)

新郎新婦のそれぞれが、自分がどのような個人的な歴史を生きて、どのような家系の流れを引き継いできたのか、それを改めて見つめ直し、

親との関係を出来る限り肯定的なものと捉え直し、そして、その2つの流れを皆の前でつなごうとしていました。

参加した結婚式の全てがそうでしたが、誰にとっても、決して手放しに肯定できる人生でも無いし、親でもなかったのでしょう。(人生とはそういうものです)

でも列席される皆に貴重な時間を取って集まってもらって、祝福された時間とするには、可能な限りそれを肯定できるものとして見つめ直し、捉え直すことを迫られる。

おそらく結婚式までは苦悩の日々だったのでしょう。

それを乗り越えて、2人が肩を並べて歩くとき、やっぱり感動しますね。

夫婦として立つとき。

覚悟が備わって良い顔になっている。

結婚式というのは、心理療法的な力を持った儀式なんだと、今では良くわかります。

儀式によって家系の流れを新たに意味を付与し祝福し、改めてつながりを強くする。

そして参列者の全員が2つの家系の結びつきを承認し、新しい家族の誕生を祝い、それが存在できる場所を社会の中に認める。

そうやって、個人的な恋愛による個人的な結びつきでしかなかった2人の関係が社会性を帯び、初めて人は社会的な生き物となるのでしょう。

祝福と覚悟に満ちた良い時間でした。どうぞお幸せに。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。