カテゴリー別アーカイブ: 素晴らしき世界

靖國の心

8月のこの時期、

東京滞在の最終日に靖国神社に参拝してきました。

強い日差しに蝉の鳴き声。

鳥居をくぐると青々と茂る桜の木の葉。

終戦記念日の近いこの時期になると毎年私たちの心は、昭和のあの頃に引き戻されます。

私にとっては実際に生きて経験したわけではないにも関わらず、懐かしいあの時代です。

 

自分で経験せずとも日本の先人たちが、祖父母たちが、強烈な思いを刻んだ特別な時代でした。

その時、民族として私達の祖先がどんな思いを生きたのか、何を見たのか、その精神史を紐解いて自分の歴史につなぐという作業を数年前から続けています。

その一環として、ここ靖國神社にはできる限り足を運ぶようにしています。

 

戦死者を英霊として祀るこの神社に参拝することは、思想的にも感情的にも政治的にもいろいろと複雑なものがあるものです。

私もなんとなくそんなイメージに引っ張られて、40歳手前になるまで参拝することなく避けてきました。

でも、ある時ふと思い立って靖國の鳥居をくぐってその先の氣に触れた時に何が起こったか。その時の衝撃を未だに覚えています。

 

涙が溢れて溢れて止まらなかったのです。

未だ神社の氣に触れて涙を流したのは、ここ靖國神社のみです。

 

思想や感情など抜きにして、ただ鳥居をくぐり拝殿に立ってその氣に触れてみると、

ここで祀られているものが何なのか。

それがどれほど尊いものなのか。

頭ではなく肌で感じ取れます。

 

大切な何かのために自分を明け渡す意識。

 

英雄の氣質。

 

それがここに祀られている氣です。

 

それは個人主義のこの時代には長らく忘れられていたにも関わらず、確実に私達の中にもある懐かしく誇らしい感覚です。

 

人間というものが大義のためにどこまで私心を排することができるのか。

どれほどまでに心を澄みきらせ志に整えられるのか。

私達の先人が示したその清廉潔白な在り方を、

人間の可能性を、

ここの氣は教えてくれています。

 

それに触れてしまうと、私達の心は喜びに震えます。

 

神社の中には戦死者の遺書が毎月掲示されています。

今月は次のようなものでした。

24歳の青年が実際に残した遺書です。

目を通して、その心の有り様に触れてみてください。

肚(ハラ)に迷いのない青年の澄み切った心と、どっしりとした中心軸が伝わって来ますね。

 

戦争が起こったあの時代ほど日本人の祖国を思う心が、家族を思う心が尊く輝いた時代はありませんでした。

戦争を美化するつもりはありませんが、戦争を反省するのと同じくらいにはこの先人の残した偉大さと人間の可能性を受け取りたいと私は思います。

 

祖国が失われることを恐れ、祖国の存続を夢見て命を差し出した先人達の希望の中を生きているのが今の自分であるということを、知っておきたいと思います。

 

靖國で祈り手を合せて、そこに祀られた氣に触れると私達の心は共鳴し、先人の示した心の在り方を受け取ることができます。

それと同じものが私たちの中にもあることを思い出させてくれます。

私は靖国神社に参る度に、私心無く志に意図を結ぶような在り方に自分を調整してもらっています。

それができる貴重な場所。先人の薫陶を受けられる場所。

それがここ。靖國神社です。

 

実際にここを訪れたら、拝殿に立って手を合わせて次のように祈ってみて下さい。

祖国のために命を捧げた人達の大義に心を合わせて、

 

『あなたたちが命をかけて守ったこの大地を私は生きています。

 

あなたたちが命をかけて守ったこの国は今も存続し、栄え続けています。

 

あなたたちの誇りが、潔い心が、私の中にもあります。

 

私は日本人です。

 

あなたたちが命をかけて守ったもの。

 

未来へと残した希望。

 

それがこの私の命です。

 

ありがとうございます。ありがとうございます。

 

私は今、自分の命の重さを知ります。

 

そしてこの命を良きことに使っていきます。

 

この国が、この世界が、大切な人達の心が、

 

安らけく平らけく続きますように。

 

そう祈る時、自分の心の奥底に何が起こるのか、

是非ご自分の肌と境地で体験してみてくださいね。

三田ホテル滞在記

クライアントの彼氏さんが仕事に集中するのに使っていると聞いて興味を持った、三田ホテル。

ここ最近は家での書き仕事が集中しにくくなっていたので、先日試しにそのホテルで缶詰というのをやってみると素晴らしく仕事が捗って、

その日の内に二回目の滞在を予約をしたのでした。

 

今日はその2回目の滞在。

兵庫県の三田市。その中でも最近新しく開発された『ウッディタウン中央』という駅にそれはある。

駅の改札を出ると、人工的な景観が見えてくる。

 

 

ウッディタウンというだけあって、木々の緑と人の暮らしの心地よい調和という感じ。

 

 

駅とつながる形で三田ホテルが現れる。ほとんど歩かなくて済むのも機能的でありがたい。

 

 

シングルルームはこんな感じ。

デスクの上のテレビを退かせると、仕事に十分な広さを確保できる。

 

窓からの景色はこんな感じ。

海でも山でもないけど、視界が広くて気持ちが良い。

大きな池と新興住宅地が見える。

 

部屋のクリアリングを済ませて早速仕事に取り掛かる。

執筆の仕事に集中してくたくたになるまで気力を使い果たしてからご褒美のマッサージを呼ぶ、というのが自分の中のお気に入りのプラン。 

 

が、しかし、メールの返信を終えたところでお腹が空いてくる。

 

でも大丈夫。

このホテル、向かい側はショッピングモールでなんでも手に入る。

スーパーはもちろん、ホームセンターからファーストフード、古本屋、学習塾、雑貨屋から映画館まで。

この場所だけで生活が完結するように設計されてあるようだ。

 

和食屋で蕎麦と寿司のセットを食し、水とチョコレートを買って部屋に戻って再度執筆に取り掛かる。

が、今度は無性に眠い…。

調子に乗って食べすぎたか

 

ここで寝てしまったら、単にホテルに来てメール返信して寝ましたっていう訳の分からない1日になってしまう(笑)

それだけはなんとしても避けねば。

 

省エネを図るためにMacの音声入力機能を使って口述筆記を試してみたが、出だしの1行で心が折れる。

 

誰がサラダやねん…!

 

このまま集中は難しそうなので20分だけ仮眠を取ると、頭スッキリで復活。

 

結局、集中して文章を2本書いて、23時40分にマッサージに来てもらった。

前回と同じマッサージ師で、「ここ凝ってるなー。」とか言うくせに、おっちゃん、めっちゃ猫背やん!っていうね(笑)

で、痛すぎてあひゃあひゃ笑って、その笑いも含めてものすごくスッキリする。

ほんま女性やったら首もげてるで。

 

マッサージ効果なのか、翌朝はスッキリと目が覚めて近所を散歩。

 

平日の朝ということもあって、とにかく人がいない。

時おり犬を散歩させている住民と「おはようございます」と挨拶を交わせるのが気持ちがよい。

 

何かがいそうな水辺。

カエルが時々ぴょんぴょん跳ねるのと、魚が泳いでいるのが見える。

ブルーギルのようだ。

ここでも外来魚か。

なんだかなぁ。また名前がブルーギルって可愛げ無いよなー。

 

そして池を横断するための面白そうな石があったので、歩いてみると住宅街が見えてくる。

こんな石を渡るのは、近所の小学生と42歳の僕くらいですよ。

 

気持ちのよい場所。

ほんと、人がいないのに場所のリソースは有り余るほど豊か。

 

その上は住宅地。新しくてまだ建設中の家もちらほら。

全てが新しいというのはやっぱり気持ちが良いな。

 

こういう住宅地は人の無意識の部分が残っていないので昔は苦手だった。

影が居つく場所がないではないか、と。

けれど、今は普通に気持ちが良いと思える。自分も変わったんだな。

 

何より、時々すれ違う住人に喜びと誇りのようなものを感じられるのが良い。

「私は今、自分の思い描いた夢の中で暮らしている」というような喜びと誇り。

それがとても心地よい。

街全体にある住人の満足感と喜び。

少し散歩しているだけでそれは感じる。挨拶を交わす人々にも余裕を感じる。

それが、この土地が気分を変えてくれることの秘密。

 

でもじゃあここに住めるか?というと、無理だろうな。

僕は旅行者という立場が好きなんだな。

 

振り返るとホテルが見える。

 

途中、ローソンでコーヒーとバナナを買ってホテルに戻る。

誰もいない広間で新聞を読み比べる。

ほんと、人は少ないのに場所というリソースはたっぷり。

 

先日亡くなった日野原さんの記事。

ジャンルは違えど同じ治療家として陰ながらお慕いし、生き方を参考にしていた方。

あの深い心と精神性はなるほど、信仰と幅広い教養によって支えられていたのか。

 

チェックアウトは少し遅めの11時。

1時間ほど仕事をして、帰り道も駅は直ぐ側。

今から帰ったら15時からのカウンセリングには十分に間に合いそうだ。

 

空が徐々に夏っぽくなってきている。

やっぱり良い所。

また来よう。

怒りが僕らを連れて行く

ここ最近自分の中にモヤモヤとした怒りのような不満のような塊があることに気付いていた。

2週間休み無しで仕事しまくっていたので、「もっと遊ばせろ!」と潜在意識が怒り出したか…と思ってたのだけど、

昨晩モヤモヤと向き合ってみたら違っていた。

怒りの理由は意外なものだった。

 

「お前の仕事は小さい!」

「いつまで私的な自分を生きてるねん!」

「もっと公的に国のスタンダードを作り変えるような仕事をしろよ!」と言って怒っている。

 

「全然リアルじゃない!」と。

「余裕を持ちすぎてる!」と。

 

これまでの人生、ずっと公的よりは私的に、体制側よりは反体制側を好んで生きてきた自分が、ここへ来て公的になることを求めて怒っていたのかと、それが意外でならなかった。

でも、「俺はもっと公的に社会貢献したい!」と言ってみると、確かに胸のあたりがしっくり来てモヤモヤが治まる。

と同時に自分のエネルギーがひと回り大きくなる。

もうエネルギーが来ているんだな。

 

自分を次のステージに引き上げようとする怒り。

それがもう無視できないくらいに激しくなってきている。

これを無かったことにすると、日常の様々なものがリアルに感じられなくなって、無気力になり無感覚になり、味気ない人生になっていくんだろうな。

今来ているこの流れをごまかさないように生きなければならない。

 

この怒りに従って意識と環境を次のステージに上げることが、今必要なチャレンジのようだ。

とは言え、個と個で限界まで深く向き合って変化を促すカウンセリングの仕事は、自分にとってライフワークと言えるほど大切なもので、

この実践の中で「人間とは」ということと「人生とは」ということを学ばせてもらっている。

だから日々のカウンセリングを辞めることはないだろうけど、

まずは自分のセルフイメージを公的なものに修正することからやっていこうと思う。

 

それにしても本当にただ取りこぼし無く、今リアルだと感じて楽しめることに真っ直ぐに取り組んできただけなのだが、

それだけやっているとちゃんと終わりが来て、次が来るのだな。

 

小学生が6年経つと中学生になるように、時が来ると意識のステージは勝手に次へ移行しようとする。

それに気づかずに、あるいは逆らって、中学生なのに小学生のように生きる時、人はどうやらイライラと無気力が合わさったような独特の感情を抱くようだ。

そして「人生は壮大な暇つぶし」などという偽りの悟りを得て、その達観によって人生から大人の距離を取り、あたかも自分が大人を生きているような錯覚をする。

でもそれは違う。

本人だって薄々気付いている。

大人になることは飽きて無感覚になっていくことではない。

それは自分の境界線を超えずに回避したことの症状だ。

 

本来、大人になることはとてもスリリングなことだ。

対峙する相手がどんどん大きくなり、影響できる範囲がどんどん拡大していく。

ただ自分の内側の衝動に忠実であれば良い。

内側が今リアルと感じるものに、外側を変えていけば良い。

無視しようにも、ちゃんと教えてくれる。

内側の無気力が、

イライラが、

次へ行けと言ってくる。

命を燃やすような場所へ行けと言ってくる。

それを無視しない勇気だけが問われている。

 

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

美女と愛嬌と世界の収支

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東京での仕事を全て終えて新幹線の中で食べる弁当を選びに選んで、大阪へと帰る新幹線に乗り込む。

切符を確認しながら、自分の座席を見るとなぜか既に座っている人がいる。

ここ僕な気がするんだけど…?って表情で訴えると、中国語で何かを言っている。

「そうなんですよ。ごめんね~。本当はそっちの席なんだけど…」的なジェスチャーとともに切符を見せてくる。

ああ、なるほど、友達3人で並んで座りたいから、こっちと変わって欲しいってことか。

OK!  良い旅を!って気持ちになったのは、この中国人の心地よい人柄と徳がにじみ出ていたから。

不思議とこちらも悪い気がしない。

なるほどなぁ。人柄と愛嬌こそが世界共通のパスポートだよな。

可愛くお願いすると、結構いろんな所まで行ける。

とか考えているうちに新横浜に着き、

僕の横に美女が座る。

おおー。

世の中の収支は合うようにできている。

うん。

今日は良い日だ(笑)

AIに仕事を奪われた未来

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最近AIが仕事を奪うというテーマだったり、AIが人間の知能を超える『シンギュラリティ』なる言葉が話題ですね。

でも、その人間を超えることの論拠って、人間の頭脳の総体をAIの知能が超えるということだけど、

そもそも、それって人間というものの本質を「知性」や「脳」だと捉えているってことですよね。

だとすればその人間観がそもそも貧しいのではないか、と思うんです。

人間の本質は脳ではない。

人間は、脳や手足を持った「肉体」という道具に宿った「霊魂」です。

その霊と魂から「良心」や「意図」や、「芸術」の「真善美」という感覚であったり「反省」する力が現れてくると言われています。

脳はそれを外に出力する際に使う道具なんですね。

書家の書いた「書」には、その手の動きに宿った「氣の流れ」が保存されています。だからそれを見ると、ピシッと心が整うような迫力と正解感がある。

その形はAIにもコピーできるけど、新しく「氣」を扱って書を書くことはできるだろうか? AIが作り出したアートに、見る者の姿勢を正すような「氣」や迫力は宿るだろうか。

そういうところに人間を人間たらしめる本質があるように思うんですね。

だからAIが人間の道具としての機能を超えたからといって「人間そのもの」を超えたことにはならないし、そもそも機能を超えるということであえれば、それは既に十分に成されていますよね。

人間の走るスピードなんてはるか昔に自動車に負けているし、腕力だって機械に負けてるし、脳の情報処理能力も計算スピードも記憶力もコンピュータにはかなわない。

などと、そんな話を友人としていたら、

「違うよ。私がAIを怖いと言ってるのは、AIを持ったロボットに霊魂が宿るようになるのが怖いってこと。」

と言い出した。

え!? どういうこと?

「例えば神様がいるとして、人間の霊魂を地上に下ろす時に、人間の脳や肉体よりもAIやロボットの方が優れてたら、そっちに下ろすでしょ?」

え? そうなん!? 神様そうなん? その発想斬新やな…(笑)

「だから、怖いんよ~。」

怖いのか…?

人間とは何にでも恐れを見出すものなんだなと、逆に感心したのでした。

***

以前、主催している勉強会でAIが仕事を奪う未来について、皆の未来イメージを語り合うみたいな時間を持ったのだけど、その時気づいたのは、

今現在、他者や社会に対して不安や怖れを持っている人は、AIの活躍する未来にも不安を持つようで、

逆に今が幸せで他者を信頼している人は、AIに対してもポジティブで明るい未来を想像しているということ。

当たり前の話だけど、今の心の不安と安心の配分をAIのある未来に投影しているだけで、

であれば本当の問題はAIが作る未来にあるのではなく、今この瞬間にも自分の心に居座っている「不安」の方なのですね。

AIは関係無い。

解決すべきは、今現在の脳や神経の中をデフォルトモードで走っている「不安」なのです。

****

未来は確かにAIによって今ある多くの知的労働が失われるでしょう。

そしてAIという資本を持っている一部の資本家に富が集中して、一時的に格差が極限まで拡大してバランスを崩すでしょう。

でも、そうやって普通の人の仕事が無くなって食べていけないような社会。大多数が不幸な社会というものは、一部の富める資本家にとっても不幸なものだと気付き、やがては富を再分配する仕組みができていきますよね。

更に言うと、仕事を失うことの怖れとは、実は周りの皆には仕事があるのに自分にだけそれが無いことの、アイデンティティや自尊心の痛みにすぎず、

6割方が失業している社会で失業することは、それほど怖いことではないですよね。

みんな仕事無しで昼間から遊んでるんだったら、私も仕事やめよかな…くらいのものです。

あとは、できれば周りのみんなよりちょっとだけ後に失業したいという、セコい考えがあるくらいです(笑)

でも、それは大した問題じゃない。

そういう意味で、AIに仕事を奪われるという問題があるとして、

その問題の本質は、自尊心を仕事に結びつけていることの問題であったり、集中する富を得た人が、苦労して得た富を再分配する時に感じる喪失の痛みという問題であったり、

他社と競争して勝者がその報酬として富を得るという社会構造の根底にある、「競争心」が癒えていないことの問題であったりするわけです。

つまり、問題は人間の心の癒やしにあるのです。

そこさえ解消できていれば、AIが仕事を肩代わりしてくれる未来を、恐怖ではなく恩恵として受け取ることもできるはずです。

ようやく人類が労働から解放されるわけですからね。人類の長年夢です。

仕事はもはや労働でなく、自己実現の活動の1つであり、クリエイティブな遊びとなるかもしれません。

問題はそれを可能にするテクノロジーの進化に、人間の精神の進化が追いつけるかどうかですね。

人類の歴史とともにあり今も集合的無意識の領域に残っている貧困や侵略や奪い合いの痛み、執着の歴史を浄化して、今ある豊かさを信じられるかどうか。

そういう問題なんですね。(良かった。僕の仕事はちょっとだけ後まで残りそうだ…(笑))

そして、そこに向かう途中で、「AIに仕事を奪われるから備えておかないと大変ですよ!」などと恐怖を煽って、学習教材や投資商品を売る人たちが必ず出てきますからね(笑)そこは上手にスルーしましょう。

恐怖を煽られる時には、それによって何かを売って得する人たちがいるってことを良く知っておいてくださいね。

ということで、早くAI進化して、仕事して欲しいですよね。

労働から開放してくれないかな。僕はいつでもウェルカムなんだけどな。

その時はみなさん、魚釣りでもしながら、和歌を詠むっていう遊びをしましょうね(笑)

あと、皆それぞれが書いたシロウト小説をお互いに読んで感想を言い合うっていう、恥ずかしい遊びもしましょう(笑)

その時はよろしく!

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

人生を再定義して統合する

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先週の土曜は友人の結婚式でした。

(僕の周りはなぜか今、結婚ラッシュ)

新郎新婦のそれぞれが、自分がどのような個人的な歴史を生きて、どのような家系の流れを引き継いできたのか、それを改めて見つめ直し、

親との関係を出来る限り肯定的なものと捉え直し、そして、その2つの流れを皆の前でつなごうとしていました。

参加した結婚式の全てがそうでしたが、誰にとっても、決して手放しに肯定できる人生でも無いし、親でもなかったのでしょう。(人生とはそういうものです)

でも列席される皆に貴重な時間を取って集まってもらって、祝福された時間とするには、可能な限りそれを肯定できるものとして見つめ直し、捉え直すことを迫られる。

おそらく結婚式までは苦悩の日々だったのでしょう。

それを乗り越えて、2人が肩を並べて歩くとき、やっぱり感動しますね。

夫婦として立つとき。

覚悟が備わって良い顔になっている。

結婚式というのは、心理療法的な力を持った儀式なんだと、今では良くわかります。

儀式によって家系の流れを新たに意味を付与し祝福し、改めてつながりを強くする。

そして参列者の全員が2つの家系の結びつきを承認し、新しい家族の誕生を祝い、それが存在できる場所を社会の中に認める。

そうやって、個人的な恋愛による個人的な結びつきでしかなかった2人の関係が社会性を帯び、初めて人は社会的な生き物となるのでしょう。

祝福と覚悟に満ちた良い時間でした。どうぞお幸せに。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

遠くて近い


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海外に住んでいる友人から、たまにメールが届く。

今日はイランに来ていますと、テヘランの町並みの写真付きで。

絵葉書でももらった気分で、異国の写真を見て彼女の日常を思う。

でもこの友人、よく考えると生涯に2,3回しかお会いしたことがない。

メールのやり取りだってここ数年の内に5回ほどだ。

でも、僕の心のなかにちゃんと居場所がある。

なぜだろう?

彼女の人との関わり方にとても丁寧な、昔の日本人が他者に持っていたような敬意が感じられるからだろうか。

それとも日本とテヘランと遠く離れていることが、ある深さの心の結びつきにリアリティを与えてくれているのだろうか。

あるいは、お互いの人生に向き合う姿勢や、心の内に持っている静けさの質が似ているのかもしれない。

いずれにせよ、若いころにはできなかったこういう距離での人との関わりがとても清々しくて心地よい。

歳を重ねるにつれて、こんな風に自分の心の中の辺境に住まわせて、時々お互いを気にかけるような大切な人が増えていくのだろうか。

だとしたら、それはとても豊かなこと。

 

儚げ

Made with Repix (http://repix.it)

東京にて。

新たなるオモシロ空間を求めてカプセルホテルに向かって歩いていると、

新宿駅前で一人でギターを持って弾き語りをしている女の子がいた。

見てみるとギターが僕の持ってるのと同じモデルで、おおって!って思って立ち止まったらちょうど曲が終わって、

勢いで盛大に拍手しながら「うんうん」って頷きながら受け止めたら、女の子の不安そうだった表情がぱぁーっと晴れてとっても嬉しそうな顔をするもんだからこっちも嬉しくなって。

MCをまた「うんうん」頷きながら、娘を見守るお父さんみたいな気持ちで聞いてたら、女の子はその曲を作った不登校時代の愛媛での過去について語りながらついには泣き出してしまって。

そうか。そんな辛いことあって今があるんやな。泣きなはれ…。おっちゃん受け止めたるから、おもいっきり泣きなはれ…。

って気持ちになって(笑)

また「うんうん」受け止めてたら歌いながらも時おり涙で詰まって、なんだかとても伝わってくるものがあった。

25歳の女の子が一度愛媛に引っ込んだけどまた東京に出て来て、孤独なんだけど頑張ってますって話してて、そういう内容の歌を真っ直ぐに歌ってる。

いやもうお金あげる。おっちゃんお金あげるから温かいもの食べなはれって。

恐縮する女の子とガッシリ握手して、僕も兵庫の出身でいろいろあって今ここにいるんだよ。お互い頑張ろうなって言ったら、通じ合うものがあってなんだかこっちも泣きそうになりつつバイバイして、またカプセルホテルに向かった。

東京に来るようになっていろいろ思うところはあるけれど、でもやっぱりこういう所が面白いな東京は。

本気で夢を追ってる人がいる。

危なっかしいくらいに真っ直ぐで、そこに照れが無い。

脆くて儚げで綺麗だなって思ったわ、おっちゃん。

小説の方法、人生の作法

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ちょっと長いですが、これは文学論ではなく、ある生き方に対する提案なので、ちょっと我慢して読み進めてみてください。

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村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」が非常に面白い。

文学というものの本質がとても良く表れているし、小説以外に多くを語ろうとしなかった村上春樹という人が、

どのように自分の生活を管理し、どのように世界と向き合っているのか、赤裸々な人生論としても読める特異な本となっている。

中でもとりわけ興味深かったのは、氏の小説観。

どういう訳か私達が体験した学校の国語教育では「作者の意図は?」とか「作者は何を伝えたかったのだろう?」といった問いを持って作者のメッセージを読み取ることが読書の中心にあり、それがあたかも正しいことであるかのような暗黙の前提があった。

でも、ある種の作家と向き合う場合において、こういった「読み」の姿勢が全くの間違いであることが、このインタビュー集を読むとよくわかる。

インタビューの中で村上春樹は「スプートニクの恋人」という作品の生い立ちをおおよそ次のように語っている。

・突然タイトルが浮かんで、わりとカッコいいタイトルだから小説を書こうと決めた。

・最初に物語や構成やメッセージがあって設計されたわけではなく、ぱっとタイトルが浮かんで、それに従って書いていると、物語が展開されていった。

・彼自身も毎朝書くことで、展開される物語にドキドキしながら書き進めた。

・そんな風に作者自身も、書き終わるまでは何を書いているのかよく分かっていなかった。

・書き終わって出版した後も、その物語がどういう意味を持つのかという点に関しては読者にゆだねている。

つまり作者の意図や伝えたいメッセージというような意識的な表現手段として小説があるのではなく、作者の無意識が作家としての感性と嗅覚に従って言葉と物語を選択していった結果として作品があり、それに対しては作者もまた一人の読者すぎないという訳だ。

***以下引用***

テキストというのは全ての人に対して平等なんです。例えば僕が「スプートニクの恋人」という小説を書いたとして、そこに対して僕も含めて、あらゆる人が等距離からアクセスできる。それが僕のテキスト観だから、誰が何を考えようと自由で、僕はそれに対して「違いますよ」とか「考えすぎですよ」とケチをつける根拠は実は全くない。

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もし文学というものが、作者の意図を伝えるための道具であるならば、文学作品の持つ価値は、作者の知性の限界、思想の限界、人生経験の限界に縛られた限定的なものになってしまうだろう。

村上春樹が何を思い、小説にどんな思いを込めたのか? そんなことに正直言って私はほとんど興味が無い。

彼の思想に別段特別な価値があるとは思えない。

私が興味があるのは、村上春樹が書くことによって立ち現れてくる、彼自身にも理解できていない何かだ。

彼の小説という方法を通じて向こう側から立ち現れてくる、何か良くわからない力。

それは現代という時代的な何かであり、歴史的な何かであり、人類の集合的無意識的な何かであり、つまりは結局のところよくわからないものだ。

その立ち現れようとする「何か」に私は非常に興味がある。

本書の中で村上春樹は「家」をメタファーにしてこう語っている。

***引用開始(改行は引用者による)***

人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。

一階は人がみんなで集まってご飯を食べたり、テレビを見たり、話をしたりするところです。

二階は個室や寝室があって、そこに行って1人になって本読んだり、 1人で音楽を聞いたりする。

そして地下室というのがあって、ここは特別な場所で色んな物が置いてある。

日常的に使うことがないけれど時々入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。

ただ何かの拍子にふっと中に入ってしまうと、そこに暗がりがあるんです。

~中略~

その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。

~中略~

その暗闇の深さというのは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど。

~中略~

いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。

だからみんな、なるほどなるほどと、読む方はわかるんです。

あ、そういうことなんだって頭でわかる。

そういう思考体系みたいなものができあがっているから。

でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。

***引用終わり***

つまり国語教育的な「作者のメッセージは?」という読みに対応できるのは、地下一階で作者が意図して書いた小説までであって、

村上春樹がやっているのは、その更に下の危険な場所、それは彼自身にも説明できないもの、頭では処理できない何かを、言葉を通じてすくい上げることなのだ。

その方法として小説があり、メタファーを多用する文体がある。

さてさて、ここまで書いてきましたが、私は何も長々と文学論を語りたかった訳ではなくてですね。

村上春樹の素晴らしさを語りたかった訳でもありません。

では、何が言いたかったのか。

それは、村上春樹が小説に対して持っている姿勢が非常に有用だということです。

つまりこういうことです。

『村上春樹が自分の作品に接するような慎重さや謙虚さを持って「人生」を扱うとすれば、いったい人生とはどのようなものになるのだろうか?』

こういう問いを立てたかったわけです。

村上春樹の言う「小説」を「人生」に置き換える。
私達は自分の人生の作者として道筋を選択し、主人公として実際に行動して生きている。

でもそんな自分自身にすら理解できていない、より大きな何かというものに対して、慎重にそれを感じ取りつつ、尊重してそれを招き入れる。

人生の主人公としての「私」は感性を全開にして流れと未来を感じ取り、ストーリーを選択するが、それでも決して未来は予測しきれるものでも設計しきれるものではなく、

一方で今ここに展開している出来事を、物語の読者のようにワクワクしながら受け取る。

そしてそのように生きた人生の意味も価値も、到底自分には理解しきれるものではないという前提に立つこと。

そのような距離とスペースを空けることで、自分の人生に自分より大きな何かを招き入れることができるのです。

村上春樹の比喩を使うとすれば、地下二階まで降りていくことができるのです。

そして、そうでいながら自分の知性を全開にして、その出来意事を定義し意味を与え物語として編みんでいく。

私はここに人が生きることの面白さと可能性があるように思っています。

もう何でも手に入ってしまって、物質的には満たされて欲しいものなど無くなってきているのに「内需拡大だ!」と無理して疲弊している今の時代。

その物語の限界を超える力を人間が持ちえるとしたら、それは地下二階への冒険心ではないかと思うのです。

刺激に飽きたらより大きな刺激を!より新しい刺激を!より大量の刺激を!とやってきた先に行き着くのは、人間の無関心と無感覚。

そっちはもう行き止まりですね。

目指すべきは危険に満ちた地下二階ではないでしょうか。

その方法とヒントは彼の小説ではなく小説の方法にあるように思います。