カテゴリー別アーカイブ: NLP心理学

無かったことにされた人に居場所を

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パリで同時多発テロが起こりました。

今分かっている限りで130名の命が失われたと言います。

こんな時、私たちに何ができるでしょうか。

「影響の輪、関心の輪」というフレームで見ると、パリで起こったことは海を隔てた遠い異国の出来事であり、私が影響できることなどなにも無いように感じます。

それは関心の輪の出来事に思えます。

であれば「自分の影響の輪に集中しろ!」というのがセオリーですね。

「世界平和のために私ができることはありますか?」と聞かれたマザー・テレサはこう答えたと言います。

「家に帰って家族を愛しなさい」

影響できる世界に集中して、そこにまず平和と愛を実現すること。

それが平和のためにあなたができる一歩なのだと。

尊い言葉です。本当にその通りだと思います。

でも、今の私の認識はそれとも少し違っています。

心理療法家として人の精神的な病や激しい感情を扱ってきて、そこで見てきたもの。

人間の集合的無意識を扱うような最近の心理療法が明らかにしてきたもの。

それは、

私たちは自分が思っているほど個人ではなく、お互いに影響し合っている。

ということです。

血縁の中の会ったこともない人の痛みを代わりに背負って子供が問題行動を起こしていたり、

戦争で亡くなった祖父の恐怖を背負うことで、孫の世代に原因不明の対人恐怖症が現れていたり、

そういったメカニズムが心理療法の中で明らかになり、そして変化が起こっています。

私達の深い心は互いに繋がり影響し合っているのです。

そしてこういった心理学が明らかにした法則があります。

それは、

グループの中で除外されたメンバー(無かったことにされたメンバー)の感情はグループの誰かによって代理される。

ということです。

そのような目で今回のパリのテロを見た時に思うのは、

テロリスト達に、自分の命を捨て罪無き人を殺さなければならないほどの強い力動を与えているのは、誰が除外されたからなのだろうか?

居なかったことにされたのは誰なのか?

テロリストたちはその抗いがたい行動によって誰への愛と絆を表明しているのだろうか?

ということです。

それは実際に本人たちがそう叫んだと言われているようにシリア空爆によって命を失った同胞たちです。

その人達の痛みには充分な注目と哀悼が与えられたでしょうか。

パリの130人と同じように、その痛みと恐怖と無念に思いを馳せ、私達の心の中に居場所を与えられたでしょうか?

空爆というものの背景として無かったことにされてはいないでしょうか?

除外されて無かったことにされた者の痛みや無念は誰かが背負い、暴力や病気を通じて現象化します。

そしてその役割を担う人というのは、所属しているグループの中で最も愛情深く忠誠心があり、心優しい者だと言われています。

アラーに対する狂信や宗教の対立がこれを起こしているのではありません。そのイメージは何かを見えなくさせています。

所属している家族があり民族があり、そのメンバーが除外された時、その同胞の誰かが狂おしいような力動を持って暴れざるをえないのです。

その狂気は個人の意志力で抵抗できるようなものではないのです。

心理療法を通じて最近では、こういったグループの力動として現れる病理を少しずつ癒やすことができるようになってきました。

それは、無かったことにされた人達をしっかりと見ること。

そして心にその人達の居場所を与えることによって成されます。

癒しは次のような祈りによって成されます。

『シリアの人たち。私には知るすべもなく無残に亡くなっていった人たちへ。

あなた達の痛み無念、悲しみを私はこの心の目で見ます。

そして銃を持たざるをえない人たちの衝動に、あなた達の悲しみと同胞愛と絆を見ます。

あなた達の過酷な運命とそれを全うしたあなたの生の尊さに敬意を表します。

あなた達もまた私の家族です。地球というより大きな家族のメンバーです。

私の心の中にあなた達の居場所を作ります。

そして遠く離れたこの国で、私はあなたが夢見た平和と愛を生きていきます。

あなたの同胞の1人として。』

そう祈り迎え入れる時、対立と恐怖によって凍りついていたものが溶け、温かいものが流れ始めます。

深い瞑想とともにこのような祈りを捧げる時、見たことも会ったこともないシリアで亡くなった人たちと自分との間に温かいつながりを感じられるでしょう。

そして自分の心の深いところがそのつながりを喜び、私たちは生命力を感じます。

心に居場所を与えることで私たちは僅かながら遠い異国の同胞達の悲しみと怒りを慰め、そして一方で今を生きる力に変えることができるのです。

パリのテロもシリア問題も、私達の影響の輪の中にあります。

信頼に足る流れ

ヘリンガー

久しぶりの東京。3日間の学びの時間。

今、僕が夢中になってる心理療法「ファミリー・コンステレーション」の創始者、バート・ヘリンガーの来日ワークショプ。

彼はもう90歳だから、これが最後の来日になるかもしれない…と、勝手にそう思って迷わず参加を決めた。

ちゃんと会って、見て、薫陶を受けて、彼の偉大な仕事が創りだした流れを引き継ぎたいと思ったのだ。

その目的は3日目に達成された。

セッションの代理人をする中で、彼が扱っているエネルギーを身体を通して体感した。

それは良質な瞑想であり、老子の言うタオの完璧な実践だった。

思考を手放す中で身体は勝手に動き、セラピーにおいてどのエネルギーの流れに従うべきか、そしてそれに従った時にどのような安らぎと祝福を感じるのか、それが身体の通じて経験され、神経に記憶された。

仙人のような目をした90才のヘリンガーと魂で対話した。

3日間のワークショップの後半にヘリンガーはシンプルな一言に加えて言った。

「…それが、ファミリー・コンステレーションの秘密です。」

その言葉の意図がよく分かった。

 

最後に「2つ質問があるんです。」という参加者の1つ目の質問に答え、そして「もう一つは…」と言う質問者に静かに首を振り、席に戻るように促した。

「2つ質問があるという人は本当には1つも質問が無い人です。だから私にも答えは無いのです。それがこの感動的なセミナーの最後です。

そして私の観察では、ここにいる多くの方は大切なモノを受け取ったようです。必要なことは成されたのです。」

そう言って満足そうに、90歳の老師は好奇心旺盛な目で参加者を見回していた。

とても言葉の少ないワークショップで、時には休み時間に参加者同士が感想を言い合うことも禁止された。

思考で理解しようとすることは体験の質を表面に浮上させてしまうだけで、本当には受け取るための助けにはならないし、他の人達が魂で受け取るプロセスを邪魔することにもなりかねない。

今は頭が空っぽで胸から丹田にかけて熱く充実していて、そこにヘリンガーのいくつかの言葉が響いている。

自分がヘリンガーのような仕事をするのは何十年先になるだろうか。

でも、今の流れに従っていればその先にどのような世界があるのか、その可能性の片鱗は見えた気がした。

ワークショップの中盤、男性性と女性性についての話の後で「どうすれば、本当の男になれますか?」と質問をする若者に、ヘリンガーは嬉しそうに微笑みながら、ゆっくりと諭すようにこう答えた。

「私は今では90歳になりました。

ようやくあなたの言うゴールが見えてきたところです。

私は90年生きたのです。

そして、その経験のどれも失いたくはないのです。

分かりますか?」

彼から受けたものがこれからどのように形になって現れるのか、楽しみでならない。

流れこそ状態なり

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ポジティブ思考とかいう言葉がもてはやされて、ポジティブな考え方で心をポジティブに保とうとしたりするのが今の本屋さんに並んでる心理系の本のおおかたの主張なわけだけど、それは本質ではなく、

心がポジティブに保てるかどうか。

それを決定付ける本質は、

『交流が無く流れが止んだエネルギーは必ずネガティブになる』という所にあります。

与えては受け取り、受け取っては与え、心は流し続けていてこそ自然なのです。

流れを止めたり流れが淀むと、そこに憂鬱や自己否定が忍び寄ります。

だからそんな時、人は無意識に無駄な買い物をしたりしてお金を通じてエネルギーを外に出したりします。

内から外へ外から内へと、心とは流れている状態こそが自然なのです。

「自信が無い…。」という人に対しても同じことが言えます。

「私はできる!」とポジティブなアファーメーション(自己宣言)を繰り返すことで、自信が養われますよ。とか。

NLPの心理ワークでイメージを操作すれば心が変わって、セルフイメージが上がりますよとか。

もちろんそういった方法は補助的には有効なのだけど、どんな強烈なワークも本質は偽れません。

『自信』とは自分から社会へ、社会から自分へと通せるエネルギーパイプの太さを言うのです。

小さなエネルギーしか流さずに「自信がある」なんて思えるとしたらそれは執拗なアファーメーションとイメージングの結果、自己認識が歪んだということです。あるいはまだ外の世界を知らないのです。

心が沈んだら、

ポジティブ思考なんてほどほどで良いので、

自分の中にどれだけのエネルギーを通せているか。

止めているところが無いか。

そしてエネルギーのパイプを自分が心地よいと思える範囲でもう少し拡大できないか。

あるいはインターネットや組織などの仕組みを使って、疲弊することなく効率よく自分のエネルギーを世に流す方法が無いか。(まずい経営者のまずいビジネスモデルなど、返ってこない場所にエネルギーを送ってないか。)

その辺りをチェックするようにしましょう。

完全な休息(停止)よりも、心地良いエネルギーの流れをマネジメントしましょう。

幸せなライフバランスを保つにも豊かさを得るにも、そのあたりにコツがあります。

恋人を得るためのシンプルな方法

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ん? 恋人? 得る? 方法?

このブログってそんなテイストな場所でしたっけ…? っと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが心配ありません。その違和感。僕もしっかり感じてるのですから…(笑)

元々は内輪的な場所に書いた記事ですが、反響が大きかったので公にしようと思ったものの、僕のブログにはこの手の記事にぴったり来る場所が無くてですね。

まわりまわってここに来ました。

どなたかのヒントとなれば幸いです。

※女性の場合は「彼女」を「彼氏」に置き換えて読んでくださいね。

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例えば

彼女が欲しいときの心の中の設定として、

【目標】素敵な彼女を作る!

【そのための行動】出会いの場に行く。デートに誘う。

として、

実際に行動して上手く行くのであればそれで良いのですが、なかなか上手くいかない場合は目標設定を変えてみましょう。

【目標】女の子と心を通わせる喜びを体験する。お互いのことを知っていくワクワクを体験する。女の子と生活の機微を共有する喜びを味わう。

つまり、何を得るか?(Have)ではなく、その関係を通じてどう在りたいか(Be)を目標にする。

そうすると、

【そのための行動】…いったいどうすればいいんだろう?

と、問いが出てきますね。

そこで心底考えるのです。

どうすれば、そのような目標を達成できるのだろうか? 問い続けることで無意識の再構築が起こります。コミュニケーションの質が微妙に変わります。

彼女を得たいがためにやってきた形骸化した言葉のやりとりではなく、実を伴った心の交換が行われるようになります。

その女性が好いてくれているか、彼女になってくれるかはひとまず置いておいて、その子との時間の一瞬一瞬を、「喜びを味わう」という所に意識をフォーカスして丁寧に過ごすわけですね。

「好かれてるかな?」とか「何を話せば良いのだろう?」という不安が頭をよぎったら「今この関係において私はどんな感情を感じたいのだろう?」と問い直しましょう。

そうすると、行動(Do)ではなく在り方(Be)に意識がいき、味わうことができるようになり自然な言葉が出てきます。あるいは実はそれほど言葉は必要ないのかもしれません。

このように「在ること」「感じること」を習得すると、女の子が付き合ってくれるくれないは全く関係なく、食事だけでも女の子の与えてくれる喜びや恩恵を受け取れることに気づきます。目標を達成できるわけです。

その結果、ありがたいな。嬉しいな。女の子って素晴らしいなと、感謝とともに女の子が与えてくれる美を受け取ることができるようになります。

そして、この喜びや感謝や女性を祝福するエネルギーが自分の中に満たされていき、その心の在り方が備わってくると、自然に女性から愛されるようになります。

思いやりに純化された男性エネルギーと女性エネルギーの交換を起こすことは、男女お互いにとってこの上なく甘味な体験であり、人生の悦びそのものなんですね。

そして、それは付き合うかどうかには全く関係なく、肉体的な関係からも自由で、普段のコンビニのレジのおばさんとの交流の中でも起こすことができるものです。

余談ですが、男女のエネルギーが祝福とともに混ざり合うとお互いのエネルギーが増えます。物質レベルでは子供が生まれますね。物質を介さなくてもエネルギーそのものが増えるのです。

で、その増えたエネルギーをどこに注いでいくのか。

そういったエネルギーの運用が現実創造のコツなんですね。

以上、ちょっと着地点がズレましたが、『恋人を得るためのシンプルな方法』でした。

 

冒険の書

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ちゃんと読んで受け止めてくれるかどうかもわからない相手に向けて、まごころたっぷりのラブレターを書く。

書くだけではなく、実際に会って手渡す。

人生の冒険とは、比喩的に言うとそのようなもののようです。

ビジネスをするにも、人付き合いをするにも、恋愛をするにも、子育てをするにも、霊的な成長、つまり「道」するにも、結局はそのような心の姿勢を求められています。

相手の姿勢の如何に関わらず、自分の深いまごころに根ざしたラブレターを与えられるかどうか、それを問われています。

ラブレターを送れば成長の道が開かれ、人生は刺激的な冒険となります。

送らなければ、代わりに「退屈」が訪れるようです。

そしてもし、その成長への道を正しく進んでいれば、必ずと言って良いほど確実に訪れるのが「お試し(シャーマニック・テスト)」です。

これはみなさんが真剣に意識の成長の道を進もうとすればするほどに、必ずと言ってよいほど遭遇するものなので、覚えておいてください。

(この「お試し」が来たら、自分の道が間違っていないと安心しても良いくらいです)

お試しには様々な種類があり遭遇する出来事も多種多様ですが、その中の1つとして、とても日常的でほとんどの人が経験していながら、なかなかパスできない「お試し」があります。

それは比喩的に表現すると、

『あなたが身を焦がすほどのまごころを込めて書いたラブレターを、心ない人が笑う』

というようなものです。

誰かの心ない言動によってあなたの恐怖は煽り立てられて、「誠」が試されるのです。あなたの覚悟を問うために天が与えたテストなのです。

この「お試し」を前にして、人が選択する反応はおおよそ3つあります。

1つ目は、ふと我にかえって恥ずかしくなって、「いやオレもそんなつもりじゃなかったし…」「そこまで本気じゃなかったし…」と一緒に笑って軽い方へ、表面的な方へ浮上することで恐れを回避する道です。

その結果、痛みは無いけど冒険も無い、のっぺりとした表面的な世界を生きることとなります。

人生は退屈なものだと、そのような哲学を持ち、偽りの悟りを得ます。

2つ目の道は、「こんなにまごころを込めて書いたのにヒドイ!もう二度と誰にも与えない!」と人を恨み心を閉ざし、被害者として生きる道です。

「周りは心無い人ばかりだ!」と世の中に失望し、「もう誰も愛さない!」と世の中を恨み、恨むことで世界から切り離され、人からの愛も恩恵も受け取れなくなります。

以上2つは、「お試し」をパスできずに落第してしまったということです。

それでは、どうすればお試しはパスできるのでしょうか。

お試しをパスして新しいステージへと上がっていく非凡なる道。

それは

『笑われたら、もう一度自分の深いまごころの中心に降りて行き、より一層の誠実さを持って意図を整え、再度それを与える』道です。

ラブレターの中にあった思いあがりを反省し、自分の中にある恐れを受け入れ、まごころに純化して、相手の恐れからの行動も許し、その人の前でよりいっそう大胆に裸になるのです。

そうすると、相手は全く違った姿を、真実の姿を見せてくれます。

「あの時は笑ったけど実は私も…」と、相手もあなたの誠実さに触発され恐れを乗り越えてまごころの姿を見せてくれます。

「お試し」は合格したのです。

あなたは人の心に奥行きがあることを知り、その深さでつながることを知り、その関係性において物事が動くのを経験し、世界が以前より優しくなったように感じます。

どんなに勉強して知識を蓄えても、どんなに努力して技術を磨いても、この「お試し」をクリアしない限り、奥行きのない退屈な人生か、心無い人達に失望する人生か、いずれにせよ似たような景色を見続けることとなります。

第3の道こそが、霊的成長を選ぶ勇者の道であり、魂を磨くためにあると言われるこの人生を生きる意味です。

そして、この冒険はどこからでも始めることができます。

遠い外国の地や険しいジャングルに行かなくとも、あなたの今いる場所からでも、あなたの今している仕事からでも、目の前にいるその人との関係からでも冒険を始めることはできます。

その場に居ながらにして、あなたは景色を変えることができるのです。

 

始まりは「直視する」ことから

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人生を根本的に変えようとする時、最初にしなければならないのは「直視すること」です。

「目標設定すること」でも「行動すること」でも「学ぶこと」でもありません。

「直視すること」がスタートなのです。

自分の現状とまっすぐに向き合い、恐れて見ないようにしているもののフタを開けて、その現実の肌触りを確かめ、それとともに自分の中に沸き起こってくる恐怖を受け入れて味わい尽くすこと。

それは正直になるということに似ているかもしれません。

自分が目を背けているものを見て、隠している感情を受け入れる。

これはとても厳しいプロセスで、内面は嵐のように激しく揺れ動きますが、嵐とは必ず通り過ぎるものです。

その嵐に吹き飛ばされないようにしがみつくべき手綱は、自分に対する徹底した「正直さ」と「誠実さ」そして「呼吸」です。

それさえ掴んでいれば、嵐があなたを吹き飛ばすことはありません。

直視するというプロセスを通過することで、嵐の後に清々しい空が広がっていることに気付き、いくつかの恩恵に似た選択肢を発見し、深い腹の底からの決断をもってそれを選択することができます。

人はこのプロセスを通ることを怖れるあまり、まるで怖れをまぎらわすかのように目標を設定したり行動したり、思考したりします。

でも、厳しい言い方ですが、そのような目標や行動や知識は、怖れを覆い隠すことは出来ても、本質的な変化へと自分を押し出す力を持たないのです。

本質的な変化とは、その問題解決のプロセスを通じて自分の霊性が進化し、境地が1つ高まり、それ以後は見える景色が変わってしまうような不可逆的な変化のことです。

そのような変化は、自分の恐れを直視して正直になっていくことを通じて、その土壌が用意されます。

「目標設定」や「行動」はその後にくるものです。

これまでにあれやこれやと前向きに目標を設定したり行動しているにも関わらず「変わらないな…。」と感じている方は、

「目標」や「行動」や「学び」をひとまず横に置いて、より一層正直に自分の内側に降りていきましょう。

今の現状で、あなたが最も恐れていて、最も見ないようにしているものは何でしょうか?

感じないようにしている感情は何でしょうか?

無かったことにしている小さな嘘は? 小さな不誠実は?

そこに光を当てましょう。

ソーシャル・メディアが内在化させるもの

Twitterによって、アルバイト店員による悪ふざけ写真が相次いで晒されて炎上しているのだとか。

店の冷蔵庫に入っていたかと思うと、今度はピザ生地を顔にはりつけて炎上だそうな。

一見、個人的で内輪なメディアでありながら、全世界に開かれたマスメディアでもあるという、Twitterの持つ両義的な性質に学生の感性が付いて行けてないってことだと思うな。

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決して良いことではないけど、学生の何割かは、悪友が見てると思うと悪ふざけをしたくなる生きものだよ。

そこにピザがあれば顔に貼るし、そこに冷蔵庫があれば入るのが彼らだ(笑)

Twitterは悪友の視線を内在化させて持ち運べるようにした。そして悪いことにそれはマスメディアでもあった。

それだけのことだと思うな。

最近はいろんなメディアが次々に無料で使えるようになるから、使い手の感性が追いつかない。これは正直、大人でも苦労しますよね。

そのメディアを使うかどうかは、そのメディアによって自分の中にどんな視点が内在化するようになるのか、そしてその視点によって豊かになるのか、面白くなるのか、どんな効用があるのか、それを基準に決めたら良いと思う。

メディアが内面にもたらす視点によって、顔にピザを貼りたくなることもあれば、学んで成長したくなることもあるのだから。

被害者を超える

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今日のカウンセリングを通しての悟り。

「どんなに心の傷を癒しても、最終的にはその傷も自分の責任だという悟りにまで至らなければ、本当の癒しにはならない。

癒すということも、許すということでさえも、自分を被害者という位置に留めてしまう。

そして被害者でいるということは、厳密に言えば、それは癒されていない状態なのだ。」

厳しくて躊躇もするけど、これが真実です。

幼児期から虐待されて生きてきた人に、「それはあなたのせいですよ。」なんて、とても言えない。

でも、癒して癒して泣きじゃくって、開放した後には、

「なぜ自分はこの親の元に生まれることを選んできたのか?」というレベルから、人生の深い意図を洞察するような高みに登らないと、この傷は統合できない。

大きな傷を負って生きてきた人というのは、その高みから自己を省みるくらいの境地が備わっているのだと言うこともできる。

小我(エゴ)は、いろんなトラブルに反応して、自分は無力な被害者だと主張するけど、本当の自分である大我は、その時々の体験を祝福している。

実際、ある精神的指導者は、過酷な犯罪の被害者にこう言ったと言います。

「congratulation! やっと、エゴを超えられる時が来たね。」と。

思考を収める

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人間というのは、頭を良くするのも大切だけど、

馬鹿になる能力は実はもっと大切ですね。

僕の所に来られる方の悩みは多種多様ですが、無理やり一言でまとめると、

「馬鹿になれない。」

ということに尽きます。

考えないでいいのに、考えすぎて不安。

気にしなくていいのに、相手を気遣って疲れる。

剣術を学ぶには、怪我をしないように、まず刃を向ける方向や、鞘への収め方から学びます。

銃を扱うにも、まず安全装置と保管方法から学ぶでしょう。

でも、思考は刃を研ぐばかりで、振り回すばかりで、収め方を学びません。

だから、時に武器として研いだ思考の刃が、自分自身を切り刻みます。

人によっては言葉にせずとも、無意識下で他人を切り刻みます。

思考を磨くなら、それを止める術も学びたいものですね。

少なくとも、思考は道具であって、自分自身ではないのだと。

そして道具は「使う」だけではなく、「収める」ということとセットになって初めて習得したと言えるのだと。

そのように理解すると、刀を扱うように細心の注意をもって、思考を扱おうという気になりますね。

あなたは、どうでしょうか?

武士が刀を鞘におさめるように、今、思考を収めることができますか?

とても当たり前でとても残酷な真実

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ここ最近、カウンセリングで人の心に触れて思うのは、

健やかな心で、自分の望む人生を創って行くには、

そして自己に忠実に生きていくには、

「とても当たり前だけど、とても残酷な真実」を受け入れていく必要があるということです。

例えば、恋愛の苦しみを掘り下げていくと、

「今愛しているその人が、これからも自分と共に寝るのか、それともいつか他の誰かと寝るのか、それを決める力は自分には無い。」という、とてもシンプルで残酷な真実に行き当たります。

相手の選択は相手の自由意志の問題であって、自分のコントロールできる範疇に無いということ。

とても当たり前ですが、でも、とても残酷です。

こんな当たり前のことでも、しっかりと意志力を持って受け入れないと、エゴはこの事実を認めないぞ! と一生懸命戦って、疲弊してしまいます。

相手に「愛されるために」自分の言動を使って、なんとか相手をコントロールしようとして、その「期待」が満たされないことに不満を持ち始めるのです。

そして、もう1つ、多くの人が避けている、当たり前だけど、とても残酷な真実。

それは

「あらゆる人に愛されるのは不可能だ。」ということです。

正直に勇気を持って、ありのままの自分を世界に表明すると、ある一定数の人は、今まで以上に自分を愛してくれるようになり、

逆にある一定数の人は嫌うか批判するか、静かに離れていきます。

もし、全ての人に愛してもらおうと努力すると、相手ごとに自分を取り繕うことで、自分の内面が分裂して苦しみを生み出してしまいます。

だから自分に忠実に統一性と、自己尊重を持って生きるということは、誰かが自分に対してアンチであることを受け入れるということでもあります。

ビジネスの世界では、

新しくモデルチェンジすると、前の方が良かったという方が一定数現れます。

専門に特化して一部の人の満足度を上げると、他の誰かは自分のニーズとは違う!と批判を始めます。

だから、あらゆる人に満足してもらおうと無理な期待を持つと、「行動できなくなる。」という症状で現れます。

他者が自分を嫌う自由を与える。

誰かの期待はずれになることを受け入れる。、

これはとても当たり前で、そう考えるまでもなく、今までもそうだったし、受け入れようと受け入れまいと、これからもそうなのですが、

でも、しっかりと主体性を持って、この事実を受け入れることが、とてもとても大切です。

知るだけではダメで、理解するだけでもダメで、受け入れる必要があるのです。

それをすることによって、自分の中に正当でいさぎよい、「至誠」という所から沸き起こる力を取り戻すことができます。

「とても当たり前だけど、とても残酷な真実」を受け入れる。

これが自分の人生を動かす力と、自由を取り戻す大きなカギです。

「私は、あらゆる人に自分を嫌う自由があることを受け入れます。」

こう宣言してみると、なんだかスッキリして自由な感覚が出てきませんか?