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映画『シンゴジラ』 父的なるものの肯定

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※注意 ネタバレ全開!

この夏、話題になった映画『シン・ゴジラ』について書きたいと思いつつ、なかなか筆が進まないでいた。

あの映画を観て、映画館で嗚咽が出るくらいに号泣して、さらに帰りの電車でも涙が止まらず、自分でも驚いた。

まさか、ゴジラを観て41歳の大人が号泣することになるとは。

そしてその涙は一般的な心理療法で扱うような個人的な感情から来る涙ではなく、

ファミリー・コンステレーションなどの個を超えた深い領域を扱うセラピーで体験する種類の涙だった。

自分自身がなぜ泣いているかもわからないまま、身体の奥底から発作のようなエネルギーを伴って外に溢れ出ようとする涙。

それは僕の個人的な感情から来るものではなく、日本人の集合的無意識から流れ出る涙だった。

だから、自分を通じて流れている涙の源にどんな思いがあるのか。その意味を言葉にしなければと、半ば使命感のようなものにかられながらも、ずっと書けずに来た。

そんな折、ローランド・エメリッヒ監督の『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た。

エメリッヒ監督と言えば、宇宙人が地球侵略に来る『インデペンデンス・デイ』やハリウッド版の『ゴジラ』など、パニック映画の巨匠で、僕はそんなバカで大味な彼の作品が好きだった。

でも、異常気象による地球の危機を描いた『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た時、もうこういった物語にも演出にも乗れなくなっている自分に気付かざるを得なかった。

どうやら僕(ら)の感性は311以降、不可逆的に変化してしまったようだ。

主人公のヒロイズムや家族愛やロマンスを際立たせるためだけに壊れていく地球や都市を、もう以前のようには観ていられなかった。

それはもう背景ではなかった。

ニューヨークの街が為す術もなく壊れ、無名の人があっけなく亡くなって行く中、主人公とヒロインの恋愛が成就していく描写に、心の底から思った。

「お前の恋愛などどうでも良い!」と。

主人公のヒロイズムを際だたせるための背景として、街や人が壊されていく、そんなハリウッド的な遠近法を、もう全く受け付けられなくなっていた。

そして『シン・ゴジラ』とはまさに、そういったハリウッド的な遠近法を反転させた、いわばアンチ・ハリウッド映画として捉えられるべき作品だった。

その反転によって、戦後、そして311以降の日本人の集合的無意識にあるトラウマを癒やし、励ますだけの力を持った作品だった。

ハリウッド映画が、事態の凄惨さを描写するために脇役をバタバタと死なせ、そのコントラストとしてヒーローの活躍を際立たせるのに対し、

シン・ゴジラはたった2名の脇役の命を守るために、ミッションの遂行を躊躇し、タイミングを逃し、結果、ゴジラを完全体に成長させてしまうことになる。

まさに、ハリウッド映画の真逆のことが行われている。

脇役の命を消費することでヒーローの活躍を際立たせるのではなく、

脇役を重んじることでヒーローの不在というテーマがあぶり出される。

それが「シンゴジラ」の選んだ方法だった。

庵野監督はなぜ200人近い有名人をキャストに使いながら、その多くがファンですらどこに登場しているのか分からないような没個性な使い方をしたのか。

なぜ主人公の家族やバックグランドといった物語の感情移入を助けるはずの要素を排除したのか。

そこには、1人の突出したヒーローの物語としてゴジラと対峙することを拒む、アンチ・ハリウッド的な意思が明確に表れている。

ではヒーロー不在の物語の中で、ゴジラを倒したのはいったい誰だったのか? 何だったのか?

それは日本経済の象徴である新幹線であり、高層ビルであり、山手線であり、企業が決死の覚悟で生産した薬品だった。

新幹線がゴジラに突っ込む時。

高層ビルがゴジラに直撃する時。

僕の体は震えて涙が溢れた。

嬉しかった。

あれは戦後71年。

リーダー不在。アメリカの属国。意思決定が遅い。エコノミックアニマルと揶揄されてきた、日本の「父なるもの」への大いなる肯定だった。

決してカッコ良くはない。突出したヒーローもいない。エコノミックアニマルとして馬鹿にされてきた。

でもそうやって父達がコツコツと71年積み上げてきたものの大きさを見よと。

軍事力ではなく新幹線や高層ビルや生産力で戦う、ヒーロー無き対決に込められた肯定。

やっとそれを父なるもの(大切なものを守るもの)として肯定してもらえたことに、涙が止まらなかった。

戦後、日本人の集合的無意識に植え込まれ、僕らの個人的な心のずっと奥で、長い間維持され続けてきた父的なるものへの失望と軽蔑。

それを日本映画の象徴であるゴジラによって再定義し、癒やし、つながり直すことに成功した。少なくとも僕にはそう思えた。

なぜ「シン・ゴジラ」にあれほど多くの人が足を運んだのか。

彼らは何度も同じ映画を観に行くことで、一体自分の中の何を満たしていたのか。それがよく分かる気がした。

あの涙は、長らく喪失したままになっていた父的なるものと、再接続することの感涙であった。

映画『裸の島』が凄い

いやはや、凄い映画を観た。

これだから映画鑑賞は止められない。

新藤兼人監督の「裸の島」という作品。1960年のモノクロ映画でセリフも無い。


瀬戸内海の小さな島に住む家族の日々の仕事をただ追いかけながら、家族の四季とそこに起こる出来事をカメラに収めているような作風。

でもそれが凄い迫力で、あっという間に引きこまれて90分が終わってしまう。

何が凄いって、この人達の仕事。

朝から船を漕いで水をくみに行き、天秤棒を肩に担いで水を船に乗せる。

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そこから船を漕いで自分の住む島にたどり着くと、山の斜面を登り、

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その水を柄杓で汲んで畑に与える。

するとものすごい勢いで土は水を吸い込んでいく。

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そしてまた船を漕ぎ、水を汲みに行く。

黙々とその作業が続けられていく。

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そのマインドと身体性を目の当たりにして、軽いショックを受けた。

世界がグローバル化した21世紀の日本の都市で過ごし、「日本のホワイトカラーの生産性はまだまだ低いからもっと生産性を高めないと…」などという風潮に漠然と駆り立てられながら暮らしてる自分の日常のほんの50年前に、こんな生き方があったのかと。

ただ農作物に水をやるために、船を漕ぎ、水を担ぎ山を登る。

蛇口を捻ったら水が出る都市部に引っ越したら? とも思う。

せめて水路が整った農村部ならもっと生産性が高いだろうにと。

意識の浅い部分ではそう思う。

でも、一方でなぜか目が離せないほどに、この人達に魅了される。

いったい自分は何にこれほど感動しているのだろう?

心理療法でクライアントの無意識に潜む信念や家系の力学を見ていくと、僕らの親の世代やその先の世代に、

「人生を楽しむ」という考えに対しての怒りや、怨念のようなものを感じることがある。

「人生はそんな簡単なものじゃないよ! 楽しむって? なに馬鹿なこと言ってるの! 真面目に苦労しなさい!」

そういう声を無意識の中に持っている人たちがいる。

そして、豊かになった今の時代。

豊かさを味わう時間が足りないほどに物も情報も溢れ返ったこの時代に生きていながらも、

その人達は一生懸命に、苦労できる場所を探している。

そして、つらい目にあっては「生きることは大変だ」ということを証明しようとしている。

彼ら(彼女ら)はその苦労によって、一体誰の想いを慰めているのか。

一体誰への絆を表明しているのか。

自分が豊かに楽しく生きてしまうことで、誰と離れてしまうことに淋しさを刺激されているのか。

その答えは心理療法の中で知っていたが、その現場を時代の風景とともに肉感と表情を伴って目の当たりにすると、心を打たれる。

水の重さに曲がった天秤棒が肩に食い込む痛みと、足腰にかかる身体の重さを感じながら、自分の脚で一歩一歩踏み込むことで景色を変えていく。

その繰り返しによって生きるということの重さを身体に刻んでいく。

その重さを通じて収穫した芋には、自分自身の身体性と時間が宿っている。

それを自分で食し、消化し、エネルギーに変えていく。

あるいはお金に変えていく。

それが生きることの営み。

そこに流れているものの凄み。

最近、私の仕事である心理業界では「お金のメンタルブロックを外す」みたいなテーマが人気だ。

お金を稼ぐことに対する心理的抵抗や、楽に豊かになることに対する罪悪感を外す。

それによって、楽にパーッと幸せになりましょう!という訳だ。

それはそうなのだけど、私はどうもそういう手法にある軽薄さに違和感を感じていた。

外して捨てるべきと言うその心理的抵抗に、何かとても大切な自分のコアがあるような気がしてならない。

それは、この映画で見たような、物言わず静かに生きてきた先人達への畏敬。

肉体を使って生活を回していくことの迫力に心打たれるような感性から来ている。

私はこの人たちを尊敬しているのだ。

自分中に流れている彼らのように生きた祖先の想いや、彼らの払った犠牲、それを見て、それに敬意を払えることがどれほど自分の深い心を喜ばせるか。

どれほど心に栄養を与えるか。

そういったことがこの映画を観ているとよくわかる。

私達の祖父母の代がどのように生きたのか、自分に流れている血がどのようなものなのか。

自分の無意識から出てくる思いにどのようなルーツがあるのか。

どうやら私達の心はそれを知りたがっており、そして本当は頭を下げてそこに敬意を払いたいと思っているようだ。

過去を切り離して捨てるのではなく、

過去を見て知って敬意を持って頭を下げることで自由になる道がある。

そしてそちらの道こそが王道で、人に自然で永続的な変化と成長をもたらす。

それが心理療法家として人の変化を見てきて私が確信したことの1つだ。

根無し草のように軽薄にならなくてもいい。

私達の心はむしろ深く根を張ることで自由になれる。

映画「裸の島」は無意識の奥底が喜ぶ映画だった。

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>Amazonの評価も高い

レンタルでは置いてないと思いますが、私はTSUTAYA DISCASで借りました。

みんな秘境を目指している

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昨日は21時くらいに子供と添い寝してたらそのまま一緒に寝てしまって、気づけば夜中の2時だった。

こういう時はいつも時間を無駄にしたと凄く後悔するのだけど、

昨日は気づいた。

夜中の2時に目が覚めて家族みな寝静まった中で時間が動き出す感じ。

夜が深くてちょっと憂鬱で、世の中の流れから切り離されてしまったような感覚。

この感じは映画を観るのに最適な意識状態だ。

普段からもう少し映画を観たいなとは思っていたけど、仕事をしつつ家庭を持つ父でもある日常の中では、映画を観る感覚に意識をチューニングすることが難しいと感じていた。

でも、世の中から切り離された深夜なら行ける。

そして有り難いことに今の時代、TSUTAYAに行かなくともAmazonプライムビデオでその時の気分に合わせて映画をチョイスすることができる。

これは新しい感覚だ。

ちょっと憂鬱っぽく人間の業に触れるような感触の映画を観たいなと思って、テレビのホーム画面で「邦画」を選んでタイトルをスクロールさせていく。

園子温監督の「冷たい熱帯魚」 ちょっと暴力的すぎるかな…。

「蛇にピアス」 吉高由里子のヌード見たいだけだな…。

「空海」 興味はあるけど今はそっちじゃないな…。

本当にたくさんの映画が出てくる。(これが年(月ではない)3900円とは、AmazonはいずれTSUTAYAのマーケットも奪ってしまうだろう)

結局、適度に憂鬱そうな田口ランディ原作の「コンセント」を選んだ。

そこそこに面白かった。

奔放な女の性(エロス)精神療法(サイコ)、死、シャーマニズム、そういった記号がまだ神秘的な魅力を放っていた90年代後半だからこそ力を持った作品で、

そういうのを観ていると、今の時代はエロスやサイコ的なものが放つオーラや神秘が剥がされた後の時代なんだなということが良く分かる。

それらの記号をこれ見よがしに提示して来るのだけど、今を生きるこちらとしてはもうそれに大した驚きも反応もできないので、演出が上滑りしていくように感じられる。

でも、それと同時に「あぁ、90年代なら…」と、当時の感覚を思い出して懐かしい気持ちになる。

時代は流れているし人の意識は進化しているんだなと、そんなことを感じさせてくれた。
(あるいは単に僕が歳を取っただけか)

期せずして露わになった市川実和子の華奢な裸体の美しさにも、発作的に男を求める色情にも、畏怖するべき女の性も業も感じられずただの記号になってしまっていた。

あれから随分世の中は情報化したのだ。

かつては神秘をたたえ、空想するしか無かった世界の秘境もGoogleのストリートビューにキャシュされていくこの時代。

いったい僕らが目指すべき神秘や冒険はどこに行ってしまったのか?

秘境はどこに残っているのか?

そう問えば、みんなそれぞれにそれぞれが思う秘境に惹かれてそこを開拓しているんだなということがよくわかる。

僕にとってそれは記号としての『サイコ』なものの中にあるのでもなく、海外を旅することの中にあるのでもなく、女の子のスカートの奥にあるのでもなく、

言語化できていないものを言語化することで内的世界を耕していくことと、創造性を発揮して現実を作り変えるためにリスクを取ることの中にあるんだなって。

そんなことを改めて考えたり。

映画の主題とは全く関係ないことにあれやこれやと心を泳がす。

深夜2時の映画鑑賞はとても贅沢な時間でした。

マッドマックス 怒りのデスロード

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ずっと気になっていた映画「マッドマックス 怒りのデスロード」を観てきた。

素晴らしかった。

本当にMADで脳幹のみで観る映画だった(笑)

30年前の映画「マッドマックス3」からの続編ということで、アラフォー世代には懐かしくてたまらない。

あの当時は映画が今よりずっとキラキラしていて、

小学生だった僕らはジャッキー・チェンの映画見ては家でカンフーの練習をしていた(笑)そんな時代の映画が持ってた真っ直ぐな興奮が、この映画にはあった。

これを70歳の監督が撮ったんだから驚く。

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昔の監督のアクションシーンって古臭くてもたもたしてて観てられないのだけど、マッドマックスのアクションは斬新でアイデアに溢れていて、驚きの連続だった。

映画館を出て何が残ったのかと感じてみると、「生きるか死ぬか」とか、「戦って生き残る」とか、そういうモードを自分の無意識に体験させることは何かを活性化せるということ。

映画館から出て梅田の街を歩く人を見て、その世界観の落差に愕然としたもん(笑)

お前ら、そんな軟弱な感じで生き残れるのかよ? 大丈夫か?と。(お前が大丈夫か!)

僕もギターから火吹くくらい熱く生きよっと。

今の時代でも身体と筋力と男気を使って何かを成せないものか。

そんなことを空っぽの頭で思った。

それにしても、子供を育てるようになってからは映画の中の暴力シーンが、痛くて受け付けなくなっていたのだけど、マッドマックスは嫌な気がしなかったな。

あれはなぜだろう。

誰も人間に見えなかったからかな(笑)

正義は如何にして物語の外側の命を忘れ去るか

トランスフォーマー

映画「トランスフォーマー ダークサイド・ムーン」をDVDで借りて観たのだけど、これがなかなか酷い出来。

だいたいマイケル・ベイ監督の映画はいつも無駄に長いし、本当に嫌になるほどくどい(笑)

観てて、「もう地球あかわ…。」と何度諦めたことか。

主人公もヒロインも10回くらい死んでて良いレベル。

危機一髪過ぎて逆に、「もう地球ええやん…?」と言いたくなってくる(笑)

でも、もちろん地球は救われるわけです。

ヒーローの勇気によって救われるのです。

そして最後はお約束のヒロインとのキスとアメリカ国旗によって、プチプチとあっけなく死んでいった脇役達の命と甚大な被害を全て忘れて悦に入るわけですが、

そこにアメリカのヒロイズムの恐ろしさを見た。

陳腐な正義がいかにして物語の外側の命を忘れ去るか。

こういうハリウッド映画の感性ってとても危ういなと、いつも思う。

で、そういうのを抜きにして純粋に作品として評価すればどうかというと、ほんと自信をもって太鼓判押せるくらいダメな映画だったよ…。

ハリウッド映画王道の個人の愛と勇気と友情が世界を救う的な話だけど、それら全てが上滑りして、単にガチャガチャ破壊したり戦ったり危機一髪が繰り返すだけのジェットコースタームービー。

トランスフォーマーは1作目が名作。

アナとエルサと『力』をめぐる冒険

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最近話題の映画『アナと雪の女王』をようやく観に行くことができました。

随分前に先に観ていた娘二人が、家で寸劇付きで歌いまくっていたので、そのシーンが来ると「これをやってたのか!!」と吹き出しそうになりました(笑)

それにしても、世間にアナ雪現象に巻き起こすだけあって、力強い映画でしたね。

音楽も映像もシナリオも強く惹きつられる。

そして、とりわけ僕らの心を揺さぶるのは、このアナとエルサの物語が僕らが生きている内的人生の旅そのものだからです。

天から与えらた『力』や『才能』は当の本人にとって多くの場合、恐れや不調和をもたらすものとして経験されます。

例えば綺麗な容姿と女性的魅力を賦与された女の子は、自分の容姿が男性の心を乱していることに気づきます。

そして同時に周りの女性達の嫉妬心を刺激していることにも気づきます。

多くの男性の性的な欲望に満ちた視線にさらされている危険を察知します。

その結果、一定数の女性は意識的か無意識的かは別として女性性を抑圧します。天より与えられた女性的魅力という力を封じる選択をするのです。

同じように、キレすぎる頭脳を与えられた青年は、それによって周囲に馴染めない自分として人生をスタートさせます。

周りの幼さに戸惑い、退屈し、心の奥底で周囲を軽蔑するようになります。

そして心の中でキレすぎる言葉を使って人を切りつけ、やがてその刃は自分自身をも切り刻むようになります。

そして、ここでも同じようにその『力』を封印してバカになる選択をするか、それができなければ、人を避け自分の思考と観念だけの象牙の塔にこもり、偽りの全能感の中で生きることを選択します。

エルサがひきこもった氷のお城はまさに、彼女の力の「ありのまま」の全能感の表れでした。

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それはそれで眼を見張るほど美しく完璧ではあるのだけど、人が住めない世界です。人里離れた世界です。衝突する他者がいないことによる偽りの全能感なのです。

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天より与えられた「力」との関わりにおいて、多くの人はこのひきこもりのプロセスを通ります。(実際的なひきこもりか精神的なひきこもりかは別として)あるいは力の持つダークサイド(人を傷つける力)に惹き寄せられて翻弄され堕ちていきます。

かくいう僕も二十歳の時に1年ほど部屋に引きこもり、本や映画ばかりに触れ、自分の観念と言葉だけの世界に生きるという偽りの全能感の中に身を置いていました。

しかし、この人生の旅が素敵なのはこの先です。

ここに必ず恩恵が訪れるのです。

このひきこもりのプロセスには必ずと言っていいほど、魅力的な「アナ」が現れるのです。

そんなに難しい顔してないで外で遊ぼうよと。「雪だるまつくろう~♪」とアナは屈託の無い笑顔で誘うのです。「あなたの力を私に見せて。私を喜ばせて。」と言うのです。

僕の人生も振り返ると、何人もの魅力的な「アナ」の存在があります。

人生の節々に魅力的な「アナ」が現れ、僕を誘い出してくれました。観念にひきこもろうとする度に僕を社会に連れだそうとするのです。

「あなたの文章が読みたい。」「あなたの作る世界を見たい。」「外で遊ぼうよ。」そう言って、僕自身よりも僕の力に欲望してくれて、すぐに引きこもりそうになる意識を外に向けるように歌い続けてくれるのですね。

そこへ来て、改心が起こります。

人を傷つけたり惑わしたり、自分を切り刻むような無自覚な使い方しかできなかった「力」も、「アナ」の献身に触れることで自覚を取り戻していきます。

意識的にそれを扱おうと、そしてもう一度社会という外側の世界に接続しようと意図するのです。

その『力』を自覚的に扱うための極意は、この映画にあったように『愛』です。

『力』を使う意図を『愛』という一点に保ち続けることです。

(「人を愛する」ような情動的な愛よりももう少し大きくニュートラルな愛なのですが)

先の綺麗な容姿を持った女の子は、無自覚に性的魅力を振りまくのではなく、世の中の男性を祝福し喜ばせるために使おうと、そしてこの世の中を光り輝かせる一輪の花であろうと決意し、その貢献に自分の意図を結び、そのために女性としての容姿を磨き美を表現することを覚悟します。

天から賦与された力を止めずに社会に還元する決意です。

するとこれまでとは打って変わって、周りの男性の自分に対する態度が違っていることに気づきます。

奪い取ろうとするようなセクシャルな欲望ではなく、まごころをもって祝福するように自分を見ていることに気づきます。

同性たちの嫉妬がそれほど起こらないことに気づきます。

ここへ来て、これまでに自分に向けられていた欲望や嫉妬は、性的魅力を振りまく自分の無意識の中にあった小さな競争心や男性への軽蔑心が招いたことなのだと悟り、過去を許します。

それによってより一層、彼女は『愛』という意図に研ぎ澄まされていきます。

真の意味で『力』を扱えるようになるのです。

先に見た、頭のキレすぎる青年もまた身近なアナの献身に触れて改心します。

自分の中にある知識や思考やアイデアを世の中を創造するために使うというチャレンジを始めます。

そして、それでも軋轢はあり、時に心無い人の攻撃を受けるのですが、それでも『貢献』や『愛』という所に意図を結んでいる割合に応じて、自分が痛みを感じないことに気づきます。

意図を純粋に『愛』に整えてある分だけ守られていて、そしてそこからズレた分だけ傷つき痛みを負うことに気が付きます。

そして、痛みは意図を確かめるためのシグナルだと気付き、ますます意図は『愛』に純化されていきます。

『力』に翻弄されるのではなく、『力』を扱えるようになっていくのです。

これが僕らが力を扱い、才能を開いていく中で進む人生の内的な旅です。

誰もが多かれ少なかれ人とは違う力や才能を与えられており、その意味において「エルサ」としての人生を生きています。

そして、一方でその時々に出会った素敵な誰かの「アナ」になることも人生の至極の喜びですね。

より多くエルサとしての生を生きるのか、アナとして生を生きるのか。あるいはその両方なのか。

どちらにせよ、それは進むに値する旅です。

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そして、ここで話を現実に戻して、主催のプレゼン練習会というワークショップを見た時。

表現力を磨くことで自分の中にある『力』の扱い方を習得していくという意味において、この会はエルサとしての旅をサポートする場であるのだけど、

あの場所が真に豊かなのは、個性的でチャーミングなたくさんの「アナ」の存在があるからなのですね。

アナとエルサの物語がこれまでにいくつも起こってきましたし、これからもそれは起こるのでしょう。

映画を観終えて、そんなことを思いました。

映画『悪人』の閉塞感にリアルを感じた

今日は家族がいないのを良いことに、夜中の3時半から映画を観始めて今見終わったわけだけど、

映画「悪人」の写真

『悪人』  李相日監督

素晴らしすぎた。

田舎の絶望的な閉塞感も、誰かと出会いたいという後ろめたい希望も、そして性器を交わしてもその人と出会ってすらいないという青臭いセックスへの失望も、すごくリアルでヒリヒリする。

なにより演技が圧倒的。

僕の中で毎年秋の恒例行事『憂鬱映画祭』が開幕したわけですが、

もうグランプリはこれに決まりかもしれません。

観た後に喜怒哀楽のどこにも分類できない深くて重い感情が生まれてしまって、それをなんとか言葉で言い表そうとしても、まったく追いつかないような時、これこそが映画だなと思うわけだけど、まさにそんな風に言葉を失う圧倒的な映画だった。

観てない方にはオススメします。

それにしても、とても久しぶりの映画。やっぱりいいですね、映画は。(DVDで鑑賞だけど)

次の憂鬱映画は「八日目の蝉」とイニャリトゥ監督の二本を予定してます。たった二時間とは言え、観るのにものすごい気合と集中力と覚悟がいる。

それが憂鬱映画祭(笑)

開幕です。

憂鬱

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最近思うのだけど、僕は憂鬱が好きなのだな。

人生が機能的に回りすぎると、無意識に憂鬱を取り入れようとしている自分に気づく。

人生のスパイスみたいなもので、ちょっと憂鬱が入ると人生に味わいを感じられるのだろう。

ちょうどスイカに塩をかけると甘さが引き立つとか、それに近い感じなのかもしれない。

というわけで、今日も憂鬱が欲しくなった。

ただ憂鬱にも当然、上質な憂鬱と、粗悪な憂鬱がある。

芸術がくれるのは上質な憂鬱で、

日曜日に目覚めたら「うわっ、もう夕方やん!」というのが粗悪な憂鬱(笑)

最近お気に入りは『バベル』や『21グラム』を撮ったイニャリトゥ監督の作品。

ほんと、胸糞悪くなるくらい憂鬱で、とんでもなくすばらしい映画を撮る。

文学というものも上質な憂鬱を取り入れるためにあるのではないか。

村上春樹の小説は、染み渡るような憂鬱を与えてくれる。

最近、思想家の吉本隆明が、文学を読むと「毒が回る」と表現していた。

本人も学生の頃、文学作品を読むようになって毒が回って覇気がなくなって青白い顔になっていったのだとか。

ほんとそう思う。

教養のために文学作品を読めなんていう人がいるけど、とんでもない。

文学なんて人生にとって毒でしかない。

人生に役立つより、人生を滞らせる事のほうがはるかに多い。

でも毒を飲んできた人間には、それとはっきりわかる魅力が備わるというのも事実で、

明るく朗らかなだけな人間を見ていると、もっと毒飲みなさい、と言いたくなる。

人生というものが、一直線に成功に向かっていくような退屈なものであってたまるものか!と。

なんかもうどうしようもないなこの人…と思うようなグダグダな女のだらしなさが卑猥で魅力的に見えたりするのも人生の一興。

だから人生を綺麗に整頓し過ぎて、退屈にしてしまわないように。

そう言いたくなる。

う~ん。

歳か…。

毒が回りすぎたか…。