月別アーカイブ: 2015年6月

正義は如何にして物語の外側の命を忘れ去るか

トランスフォーマー

映画「トランスフォーマー ダークサイド・ムーン」をDVDで借りて観たのだけど、これがなかなか酷い出来。

だいたいマイケル・ベイ監督の映画はいつも無駄に長いし、本当に嫌になるほどくどい(笑)

観てて、「もう地球あかわ…。」と何度諦めたことか。

主人公もヒロインも10回くらい死んでて良いレベル。

危機一髪過ぎて逆に、「もう地球ええやん…?」と言いたくなってくる(笑)

でも、もちろん地球は救われるわけです。

ヒーローの勇気によって救われるのです。

そして最後はお約束のヒロインとのキスとアメリカ国旗によって、プチプチとあっけなく死んでいった脇役達の命と甚大な被害を全て忘れて悦に入るわけですが、

そこにアメリカのヒロイズムの恐ろしさを見た。

陳腐な正義がいかにして物語の外側の命を忘れ去るか。

こういうハリウッド映画の感性ってとても危ういなと、いつも思う。

で、そういうのを抜きにして純粋に作品として評価すればどうかというと、ほんと自信をもって太鼓判押せるくらいダメな映画だったよ…。

ハリウッド映画王道の個人の愛と勇気と友情が世界を救う的な話だけど、それら全てが上滑りして、単にガチャガチャ破壊したり戦ったり危機一髪が繰り返すだけのジェットコースタームービー。

トランスフォーマーは1作目が名作。

問題は貧困ではない

13194572644_66d175610f

生活が困窮して、母が中2の娘を殺害するという痛ましい事件がありました。

http://mainichi.jp/select/news/20150612k0000m040154000c.html

こういう事件があると考えてしまいますね。

愛する娘を殺すほど追い詰められるって、どんな心境だろうと。

でも本当に怖いのは貧困ではないのです。

なぜそういう悲惨で不幸な物語を選ぶのか。自滅の物語へと進ませるのはどんな力が働いているからなのだろうか?

そこにこの事件の真相があるんですね。

なぜ生活保護を一度断られたくらいで大人しく帰ってくるのか。娘の命がかかってるくらいなら食い下がっていけばよいのに。

なぜ立ち退きの人に自分の状況を話さないのか。

副業がダメって言われたらなぜ他の仕事を当たらないのか。っていうか隠して他の仕事すれば良い。

そもそも借金のある男となぜ結婚したのか?

そしてこの貧困の結末をなぜ、想像できるかぎり最も悲惨な娘殺害という形に締めくくったのか。

追い詰められたら火事場の馬鹿力で「母強し」となり、途方も無い力が出るはずなのに、なぜこの人は無力なままだったのか。

そこには根底に大きな力が働いているように感じます。

おそらくその無意識の働きに本人も気付いていないはずです。

セラピーを通じて、こういう行動の無意識の意図を解いていくと、だいたい現れてくるのは次のような思いです。

「ほら、お母さん。私はこんなに不幸だよ。こんなに不幸になったらお母さん愛してくれる? 私は不幸になることでお母さんのそばにいるよ。」

お母さんに自分の不幸というものを捧げることで、心の中で母のぬくもりを感じているのです。

だからこの不幸への誘惑は甘味なのです。

この自分のやっている深層の意図に気付き、衝撃を受けてようやく人は違う選択をできるようになります。

逆にこのことに気付かなければ、本当の解決にはなりません。

どんなアドバイスをしても「でも…。」と否定され、上滑りし、本人は不幸にとどまろうとします。(みなさんも経験ありますよね?)

今回の裁判では、如何に困難で追い詰められていて如何に不幸だったかが被告の言葉で語られたようです。

それは自分の罪を軽くするための供述ではなく、不幸の物語を強化するための供述です。

つまり裁判ですら、この「不幸を捧げる」という物語の内にあるのです。

そして、世論としては「生活保護の窓口はもっと慎重に詳しく聞かないと…」となっていくでしょうし、一方で生活保護を減らせと言われるし、市役所員は混乱します。

本質じゃないものに対策しようとするのと、ちぐはぐになるのです。

でもそもそも無理なのです。

貧困になることを自分で意図している人間は、他者には救えません。

そもそもこの問題の本質は貧困にはありません。

貧困ごときに愛する娘を殺害させるほどの力はありません。

それをさせたのは、もっと大きな愛によってです。

クレイジー・ラブと呼ばれる、子が親と同一化したいと願う狂おしいほどの愛によってそれは成されたのです。

貧困は利用されたのです。

******

さてさて、思うままに書いてきましたが、あまりに救いの無い話になってきましたね…。

明るい締めとしてお伝えしたのは2点です。

1つは、こういう問題にも本質的な解決ができて、痛ましい事件がなくなるように僕らセラピスト業界は頑張っていきますね!ということ。(我がごとか!)

2つ目は、今の時代、貧困なんて全然問題じゃないですよ。ということです。心配いりません。今回の事件は貧困とは違う問題です。だからご心配なさらずに。

愛する我が子を殺害するほどの力が人間にはあるのです。

その力を正しく使えば良いだけです。

貧困を意図しなければ、ましてや豊かさを意図すれば、僕らはまったく違った物語を選ぶことができるのです。

私淑するということ

6179439433_ae5c050bea

私淑する(ししゅくする)という言葉がある。

辞書で調べてみると、孟子の言葉からきているそうだ。

「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」

直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。

とある。

私はこの私淑するという在り方に、何か底知れない力があるような気がしている。

フェイスブックやツイッター全盛の昨今、会いたいと思ったら大概の人にはコンタクトを取って直接会いに行き、教えを請うことができる。

でも、1人で遠く離れて私淑する力の無い者に、その教えは言葉以上の深さを持たないだろう。

私淑することの力とは、師の言葉に根源の意図を見出そうと、心の中で自己対話を深めていくことにある。

それによって師の教えや在り方が内面化し、自分の中に師が持つものと同じ種が植え付けられる。

師の中に見える才能のエッセンスを自分の中にも開くことができる。

そのような学びの際には時に、実際の師の性格や個性はむしろ邪魔になることさえある。

師を通じて見えている、師の存在の向こう側にあるイデアこそが重要なのだ。

そして私淑することの良き点は、もう既に亡くなった偉人を師とできるところにある。

でもその力は偉人の技術や方法を学ぶことにはない。その偉人の行動のエネルギーの源泉を自分の中に掘り当てることにある。

それは深い内向の作業だ。

外に出ること、つながること、表現することがことさら強調されている昨今だが、一方で私淑するという内向の作業を怠らないようにしたい。

最近になって何かを伝えるという立場に立ってみてよく分かる。

決して近寄らず何も語らず少し離れた所で私を見ている生徒の寡黙さと眼光にこそ、頼もしい力が見える。