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問題は貧困ではない

 

生活が困窮して、母が中2の娘を殺害するという痛ましい事件がありました。

http://mainichi.jp/select/news/20150612k0000m040154000c.html

こういう事件があると考えてしまいますね。

愛する娘を殺すほど追い詰められるって、どんな心境だろうと。

でも本当に怖いのは貧困ではないのです。

なぜそういう悲惨で不幸な物語を選ぶのか。自滅の物語へと進ませるのはどんな力が働いているからなのだろうか?

そこにこの事件の真相があるんですね。

なぜ生活保護を一度断られたくらいで大人しく帰ってくるのか。娘の命がかかってるくらいなら食い下がっていけばよいのに。

なぜ立ち退きの人に自分の状況を話さないのか。

副業がダメって言われたらなぜ他の仕事を当たらないのか。っていうか隠して他の仕事すれば良い。

そもそも借金のある男となぜ結婚したのか?

そしてこの貧困の結末をなぜ、想像できるかぎり最も悲惨な娘殺害という形に締めくくったのか。

追い詰められたら火事場の馬鹿力で「母強し」となり、途方も無い力が出るはずなのに、なぜこの人は無力なままだったのか。

そこには根底に大きな力が働いているように感じます。

おそらくその無意識の働きに本人も気付いていないはずです。

セラピーを通じて、こういう行動の無意識の意図を解いていくと、だいたい現れてくるのは次のような思いです。

「ほら、お母さん。私はこんなに不幸だよ。こんなに不幸になったらお母さん愛してくれる? 私は不幸になることでお母さんのそばにいるよ。」

お母さんに自分の不幸というものを捧げることで、心の中で母のぬくもりを感じているのです。

だからこの不幸への誘惑は甘味なのです。

この自分のやっている深層の意図に気付き、衝撃を受けてようやく人は違う選択をできるようになります。

逆にこのことに気付かなければ、本当の解決にはなりません。

どんなアドバイスをしても「でも…。」と否定され、上滑りし、本人は不幸にとどまろうとします。(みなさんも経験ありますよね?)

今回の裁判では、如何に困難で追い詰められていて如何に不幸だったかが被告の言葉で語られたようです。

それは自分の罪を軽くするための供述ではなく、不幸の物語を強化するための供述です。

つまり裁判ですら、この「不幸を捧げる」という物語の内にあるのです。

そして、世論としては「生活保護の窓口はもっと慎重に詳しく聞かないと…」となっていくでしょうし、一方で生活保護を減らせと言われるし、市役所員は混乱します。

本質じゃないものに対策しようとするのと、ちぐはぐになるのです。

でもそもそも無理なのです。

貧困になることを自分で意図している人間は、他者には救えません。

そもそもこの問題の本質は貧困にはありません。

貧困ごときに愛する娘を殺害させるほどの力はありません。

それをさせたのは、もっと大きな愛によってです。

クレイジー・ラブと呼ばれる、子が親と同一化したいと願う狂おしいほどの愛によってそれは成されたのです。

貧困は利用されたのです。

******

さてさて、思うままに書いてきましたが、あまりに救いの無い話になってきましたね…。

明るい締めとしてお伝えしたのは2点です。

1つは、こういう問題にも本質的な解決ができて、痛ましい事件がなくなるように僕らセラピスト業界は頑張っていきますね!ということ。(我がごとか!)

2つ目は、今の時代、貧困なんて全然問題じゃないですよ。ということです。心配いりません。今回の事件は貧困とは違う問題です。だからご心配なさらずに。

愛する我が子を殺害するほどの力が人間にはあるのです。

その力を正しく使えば良いだけです。

貧困を意図しなければ、ましてや豊かさを意図すれば、僕らはまったく違った物語を選ぶことができるのです。

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1 Comment

美鈴

こちらのブログを密かにずっと読ませてもらっています。この記事を読んで驚きました。私は彼女と同じような性質というか考え方をしているのではないかと思います。

もちろん、誰かに迷惑をかけるようなことはしないように気を付けているので、彼女のような状態に陥ってはいません。

しかし、自分をとことんまで不幸に追い詰めてしまいます。それが嫌で、10代後半から30歳頃までは前向きに努力して、自分のやりたいことを実行し手に入れることが出来ました。

しかし、最も気を付けるべきだった結婚において、自ら不幸な道を選んでしまいました。何となく、自分の頭でもわかっていたのですが、止められませんでした。自分が最も結婚したくないような性格の人を選んでしまったのです。自分はそれを気付かないふりをしていたのか、潜在的には気づいていたのか。。。わかりません。

そして、幼少時代に母と姉に罵倒され続けた記憶が今も消えません。それでも、母に愛されたかったんです。

カウンセリングに行きたいのですが、今すぐに行けない事情があります。この場で回答をいただくことは出来ないとわかっているのですが、ひとつだけでもヒントをいただけないでしょうか?

“「ほら、お母さん。私はこんなに不幸だよ。こんなに不幸になったらお母さん愛してくれる? 私は不幸になることでお母さんのそばにいるよ。」
お母さんに自分の不幸というものを捧げることで、心の中で母のぬくもりを感じているのです。”

こんな状態の人は、違う選択をするために何が必要なのでしょうか?自分はそのままの自分でじゅうぶん愛される存在だと、潜在意識に理解させなければならないのでしょうか?

今現在、私の母は私を愛しているのだと感じます。あんなに罵倒された後でも、今となっては実感出来るのです。ただ、あの時なぜ罵倒され続けなければならなかったのかは、全く理解出来ていませんが。。。

もしよろしければ、何かヒントをいただけましたら幸いです。ただ、答えにくい質問ですので、カウンセリングでなければ解決できないのであれば、いずれそのようにしたいと思います。

長文失礼しました。これからも、ブログを楽しみにしています。ありがとうございます。

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