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私淑するということ

6179439433_ae5c050bea 私淑する(ししゅくする)という言葉がある。 辞書で調べてみると、孟子の言葉からきているそうだ。 「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」 直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。 とある。 私はこの私淑するという在り方に、何か底知れない力があるような気がしている。 フェイスブックやツイッター全盛の昨今、会いたいと思ったら大概の人にはコンタクトを取って直接会いに行き、教えを請うことができる。 でも、1人で遠く離れて私淑する力の無い者に、その教えは言葉以上の深さを持たないだろう。 私淑することの力とは、師の言葉に根源の意図を見出そうと、心の中で自己対話を深めていくことにある。 それによって師の教えや在り方が内面化し、自分の中に師が持つものと同じ種が植え付けられる。 師の中に見える才能のエッセンスを自分の中にも開くことができる。 そのような学びの際には時に、実際の師の性格や個性はむしろ邪魔になることさえある。 師を通じて見えている、師の存在の向こう側にあるイデアこそが重要なのだ。 そして私淑することの良き点は、もう既に亡くなった偉人を師とできるところにある。 でもその力は偉人の技術や方法を学ぶことにはない。その偉人の行動のエネルギーの源泉を自分の中に掘り当てることにある。 それは深い内向の作業だ。 外に出ること、つながること、表現することがことさら強調されている昨今だが、一方で私淑するという内向の作業を怠らないようにしたい。 最近になって何かを伝えるという立場に立ってみてよく分かる。 決して近寄らず何も語らず少し離れた所で私を見ている生徒の寡黙さと眼光にこそ、頼もしい力が見える。
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