カテゴリー別アーカイブ: 村上春樹

小説の方法、人生の作法

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ちょっと長いですが、これは文学論ではなく、ある生き方に対する提案なので、ちょっと我慢して読み進めてみてください。

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村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」が非常に面白い。

文学というものの本質がとても良く表れているし、小説以外に多くを語ろうとしなかった村上春樹という人が、

どのように自分の生活を管理し、どのように世界と向き合っているのか、赤裸々な人生論としても読める特異な本となっている。

中でもとりわけ興味深かったのは、氏の小説観。

どういう訳か私達が体験した学校の国語教育では「作者の意図は?」とか「作者は何を伝えたかったのだろう?」といった問いを持って作者のメッセージを読み取ることが読書の中心にあり、それがあたかも正しいことであるかのような暗黙の前提があった。

でも、ある種の作家と向き合う場合において、こういった「読み」の姿勢が全くの間違いであることが、このインタビュー集を読むとよくわかる。

インタビューの中で村上春樹は「スプートニクの恋人」という作品の生い立ちをおおよそ次のように語っている。

・突然タイトルが浮かんで、わりとカッコいいタイトルだから小説を書こうと決めた。

・最初に物語や構成やメッセージがあって設計されたわけではなく、ぱっとタイトルが浮かんで、それに従って書いていると、物語が展開されていった。

・彼自身も毎朝書くことで、展開される物語にドキドキしながら書き進めた。

・そんな風に作者自身も、書き終わるまでは何を書いているのかよく分かっていなかった。

・書き終わって出版した後も、その物語がどういう意味を持つのかという点に関しては読者にゆだねている。

つまり作者の意図や伝えたいメッセージというような意識的な表現手段として小説があるのではなく、作者の無意識が作家としての感性と嗅覚に従って言葉と物語を選択していった結果として作品があり、それに対しては作者もまた一人の読者すぎないという訳だ。

***以下引用***

テキストというのは全ての人に対して平等なんです。例えば僕が「スプートニクの恋人」という小説を書いたとして、そこに対して僕も含めて、あらゆる人が等距離からアクセスできる。それが僕のテキスト観だから、誰が何を考えようと自由で、僕はそれに対して「違いますよ」とか「考えすぎですよ」とケチをつける根拠は実は全くない。

**********

もし文学というものが、作者の意図を伝えるための道具であるならば、文学作品の持つ価値は、作者の知性の限界、思想の限界、人生経験の限界に縛られた限定的なものになってしまうだろう。

村上春樹が何を思い、小説にどんな思いを込めたのか? そんなことに正直言って私はほとんど興味が無い。

彼の思想に別段特別な価値があるとは思えない。

私が興味があるのは、村上春樹が書くことによって立ち現れてくる、彼自身にも理解できていない何かだ。

彼の小説という方法を通じて向こう側から立ち現れてくる、何か良くわからない力。

それは現代という時代的な何かであり、歴史的な何かであり、人類の集合的無意識的な何かであり、つまりは結局のところよくわからないものだ。

その立ち現れようとする「何か」に私は非常に興味がある。

本書の中で村上春樹は「家」をメタファーにしてこう語っている。

***引用開始(改行は引用者による)***

人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。

一階は人がみんなで集まってご飯を食べたり、テレビを見たり、話をしたりするところです。

二階は個室や寝室があって、そこに行って1人になって本読んだり、 1人で音楽を聞いたりする。

そして地下室というのがあって、ここは特別な場所で色んな物が置いてある。

日常的に使うことがないけれど時々入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。

ただ何かの拍子にふっと中に入ってしまうと、そこに暗がりがあるんです。

~中略~

その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。

~中略~

その暗闇の深さというのは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど。

~中略~

いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。

だからみんな、なるほどなるほどと、読む方はわかるんです。

あ、そういうことなんだって頭でわかる。

そういう思考体系みたいなものができあがっているから。

でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。

***引用終わり***

つまり国語教育的な「作者のメッセージは?」という読みに対応できるのは、地下一階で作者が意図して書いた小説までであって、

村上春樹がやっているのは、その更に下の危険な場所、それは彼自身にも説明できないもの、頭では処理できない何かを、言葉を通じてすくい上げることなのだ。

その方法として小説があり、メタファーを多用する文体がある。

さてさて、ここまで書いてきましたが、私は何も長々と文学論を語りたかった訳ではなくてですね。

村上春樹の素晴らしさを語りたかった訳でもありません。

では、何が言いたかったのか。

それは、村上春樹が小説に対して持っている姿勢が非常に有用だということです。

つまりこういうことです。

『村上春樹が自分の作品に接するような慎重さや謙虚さを持って「人生」を扱うとすれば、いったい人生とはどのようなものになるのだろうか?』

こういう問いを立てたかったわけです。

村上春樹の言う「小説」を「人生」に置き換える。
私達は自分の人生の作者として道筋を選択し、主人公として実際に行動して生きている。

でもそんな自分自身にすら理解できていない、より大きな何かというものに対して、慎重にそれを感じ取りつつ、尊重してそれを招き入れる。

人生の主人公としての「私」は感性を全開にして流れと未来を感じ取り、ストーリーを選択するが、それでも決して未来は予測しきれるものでも設計しきれるものではなく、

一方で今ここに展開している出来事を、物語の読者のようにワクワクしながら受け取る。

そしてそのように生きた人生の意味も価値も、到底自分には理解しきれるものではないという前提に立つこと。

そのような距離とスペースを空けることで、自分の人生に自分より大きな何かを招き入れることができるのです。

村上春樹の比喩を使うとすれば、地下二階まで降りていくことができるのです。

そして、そうでいながら自分の知性を全開にして、その出来意事を定義し意味を与え物語として編みんでいく。

私はここに人が生きることの面白さと可能性があるように思っています。

もう何でも手に入ってしまって、物質的には満たされて欲しいものなど無くなってきているのに「内需拡大だ!」と無理して疲弊している今の時代。

その物語の限界を超える力を人間が持ちえるとしたら、それは地下二階への冒険心ではないかと思うのです。

刺激に飽きたらより大きな刺激を!より新しい刺激を!より大量の刺激を!とやってきた先に行き着くのは、人間の無関心と無感覚。

そっちはもう行き止まりですね。

目指すべきは危険に満ちた地下二階ではないでしょうか。

その方法とヒントは彼の小説ではなく小説の方法にあるように思います。

村上春樹とエリクソン催眠

村上春樹

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」を読了。

前々から思っていたのだけど、村上春樹の文学的手法は催眠療法家エリクソンの魔術的とも言われる言葉使いと同じものだ。

エリクソンが対話の中で比喩を多用して、クライアントの意識が気づかない間に無意識の病を癒してしまう力と、

村上春樹の小説が、「正直よく意味がわからなかったけど、なんか良かった」と、ぼんやりとした印象しか与えないにも関わらず、中毒性があって次作も買わせてしまう力とは全く同じものだ。

時間を行き来したり、脱線したり、比喩を多用したり、無駄に薀蓄を披露したり、言葉で再定義したりと、過剰な言葉に煙に巻かれる体験によって読者はトランスに入る。(場合によっては眠くなる)

そして、ストーリーのもつ感情体験よりも、言葉遣いや比喩そのものに反応して内面に奇妙なイメージ世界が広がり、それに読者の無意識にある記憶や感情が反応する。

これが村上春樹=エリクソンの方法である。

だから、村上春樹の言葉によって響かせられるような内面の傷や記憶や感情を持っている人は、それが揺り動かされ、そこはかとない迫力と癒しを体験することとなる。

一方、そういった傷や記憶を持っていない人にとって村上春樹作品は、たんなる思わせぶりな言葉遣いを多用した退屈で鬱陶しい小説だというような評価になる(この評価はまったくもって正しいし健全だ)

そしてこの方法である以上は当然、読者それぞれが持っている病理や記憶の質によって合う合わないがある。

だから村上春樹の作品のどれが優れているか、どれが代表作であるかを客観的に判断するというのは、風邪薬と胃薬と痛み止めのどれが一番優れた薬かを決めるくらい不毛なことなのかもしれない。

ということで、今回読んだ「女のいない男たち」を退屈に感じたのは、僕がそれに対応する病をもっていなかっただけであって、僕はそれを批判する正当な権利を有していないような気がする。

ただ言えるのは、表題作「女のいない男たち」のロートレアモン伯爵みたいな比喩を多用しまくった独白。

「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会い」的な文章は読んでいて正直つらくて、もう催眠を超えて睡眠に落ちてしまいそうだった。というか実際に2回落ちた。(ある意味で凄い力ということか…)

それにしても、今回は「女のいない男たち」というタイトルの短篇集だから、まさか女性がまったく登場しない男ばかりの物語なのだろうか? そんなこと無いよな? そんな春樹作品不可能やんな? と、にわかに不安になっていたのだけど。

蓋を開けてみたら全編女の話しかしてなかった(笑)

なんか安心した! それでこそ春樹!

死は生の対極にあるのではなく…。

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最近よく「自分はいつか死ぬんだな」と、死ぬ時のことを想像します。

別に死にたいわけではなく、むしろ逆で、今が楽しくて人生を愛していて、そして自分が死んだら悲しむ人達が増えてきた気がするから(それはとても豊かなことだ)

だから、自分が死にゆく時、自分の死にどのような肯定的な意味を与えてあげられるか、前もって考えようとしてるのだと思います。

最近、身内を亡くした方のお話を伺う機会が何度かありました。

そして、そのどれにも「美しいなぁ」という感想を持ちました。

死というものが見せる生の美しさと神聖さに心打たれたのです。

それは身内の方も同じだったようで、もちろんこれまで当たり前に存在していた肉親に会えなくなる淋しさや悲しさは大きいけれど、

家族が死によって苦しみから開放されたこと、生身の存在ではなく象徴的な存在へと姿を変えたこと、

そして、長い人生を死によってあっけなくピリオドを打つ生の潔さ、それに触れて敬虔な感動を覚えている様子でした。

そして私も、死ぬ時は周りの人にそのように思って欲しいと思いました。

周りの人が泣き笑いするような、「見事に逝ったなぁ」と、死を祝福してもらえるような、そして生き残った人が、自分の生かされている人生の美しさと愛おしさに思いを馳せるような、そんな肯定的なものとして死を迎えたい。

そして、そうなるように今を生きたい。

ここへ来て、ジョブズの言葉を思い出します。

「だれも死を望む人はいません ~中略~ それでも死は生における最高の発明品なのです。」

あるいは村上春樹の言葉。

「死は生の対極ではなく、その一部として存在している。」

私が思うのは、ジョブズが使った文脈ではなく、村上春樹が書いた意味でもないのだけど、それでもこれらの言葉が今の私にとても印象深く示唆を与えてくれています。

死というものを生の対極ではなく、生の一部として含めることではじめて、生は作品としての美学を全うできるのではないか。

映画や小説が作品として意味を固定するために『終わり』を必要とするように、死こそが生の意味と輝きを支えている。

生きることの終わりとして死があるのではなく、やがて来る死を終幕として意識した上に今を生き、死によって生の意味を総括できるように日々選択すること。

人生を作品とするために、死を忌避するのではなく必要とすること。

これが成熟した人間としての美学ではないかと思いました。

逆に死というものを恐れ、死を回避しようとする努力の多くが問題を創りだしているようにも思えます。

上手く死にきれず生をこじらせたことが、その人の尊厳と偉大さと物語を希薄にして、生き残された人達の中に残っていたその人の記憶や物語を汚してしまう。

また、長期化する介護によって、今を色濃く生きて多くの経験をするべき家族の人生の時間をも侵食してしまう。

もちろん侵食される側もそれはそれで、介護という現実に意味を見出し、作品に昇華することは可能だけれど。

これは死にゆく者の美学の問題なのです。

私は死から逃れるように生きるのではなく、迎え入れるように生きて行きたいと思います。

「やあ、こんにちは。いよいよその時が来たんだね。待っていたよ。」って(笑)

友達を迎え入れるように死を受け入れたい。

それは今を納得しながら、一つ一つ丁寧に生きるということですね。

村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

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先日開催した主催のワークショップは、村上春樹氏の新著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をテキストに語らう。読書会形式で行いました。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

純文学の小説をテキストにすると、皆の中から何が引き出されるのかと思いましたが、なかなかタフな会となりました。

「色彩を持たない~」は王道の成長物語でもあるので、大筋の理解は皆だいたい同じなのですが、その上でそれを良い作品とするのか、不足とするのかという点では大きく異なりました。

そして、それによって、その人のベースとしている世界観や信念や今大切にしている価値観が炙りだされたような形だったのではないかと、今振り返ってみると思います。

安全な立場で感想を言い合うのではなく、作品を題材に何か内側のものが引き出されたり刺激されたらいいな…。という漠然とした期待は、その意味ではある程度成されたように思いますが、これはなかなか刺激の強い作業でした。

翌朝、村上春樹氏の発言をまとめたTwitterを発見して読んでいると、こうありました。

『僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、ひとつとして同じ本の読み方はない。それはある意味では孤独な厳しい作業でもある―生きることも、読むことも。』

確かに、皆さんの様々な読み方を通じて明らかになったのは、僕らは「同じではない」という、ある意味で厳しい事実だったかもしれません。

参加された皆様お疲れ様でした。

僕にとって村上春樹氏の作品に触れることは、独特な比喩に満ちた世界に没入していくことで、普段現実世界では生きられなかった(おいてけぼりにした)1つの可能性を生き直すような作業だと感じています

僕らの心というものは、沢山の小さな自分の寄せ集めでできていて、それはさながら1つの社会のようなものです。

そして、現実の肉体としての僕らは、毎日仕事をして社会的責任を果たして、ひとまずは大人として振る舞うことができていると思います。

ですが、その心の社会の中には、挫折したり、回避したり、傷ついて蓋をして無かったことにしたりして、成長を止めている小さな自分が多かれ少なかれいるものです。

拒絶を恐れて回避してしまった恋愛体験の記憶の中に。

曖昧なまま遠ざけてしまった友人関係の記憶の中に。

そして、その分だけ僕らの心の成熟は滞っていて、全体性を回復できずにいます。

今回の『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』は特に、そういった心の中に住む、成長を止めたままの小さな存在に響いていき、追体験させることで道筋を与え、成長へと導いてくれる、一種のセラピーのようなものだったと感じました。

もちろんどんな物語でも、良くも悪くも避けがたくセラピー的に機能するのですが、村上春樹氏はその方法と筆力によって、その力がずば抜けているのですね。

彼の本を通じて、生きられなかった人生を象徴的に生き直すことができるのです。

それはとても内向的な作業で、あまり褒められたものではないかもしれませんが、たまに僕はそれを無性にやりたくなる時期があるんですね。

文学がじわじわと人生に効いてくる

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唐突に僕の人生語りから始まりますが…(笑)

僕はもともとは文学畑の人間なのですが、大学を出て働き出してから10年以上は、ほとんど小説や文学作品というものを手に取ることをしませんでした。

その代わりに、『小予算で顧客を獲得する方法』とか『ユダヤ大富豪の教え』など、文学的な感性からすると恥ずかしいくらいに卑俗なタイトルの本を、カバが水を飲むみたいに次々に読破していきました。

お金を稼いで食うための力を身に付けなければならない。家族を養わなければならない。

そういった現実的な課題に直面する20代の多くがそうであるように、小説家が作った架空のお話しに付き合っているような暇を持てなかったのです。

それはとてつもなく無駄な贅沢品に思えました。

「この本を読むことに気晴らし以上に何か生産的な意味があるのか?」

「それを読むことは僕の人生に経済的な価値を生み出すのか?」

そういったプラグマティックな質問を持って文学作品を眺めてみると、その問いを越えて僕の心に訴えかけてくるような本は皆無でした。

ところが37歳になった今、これまでの自分の人生の流れを俯瞰的に振り返ってみると、思った以上に文学が効いていることに気付きます。文学が僕の人生を形作っていると言ってもいいかもしれない。

それは『小予算で顧客を獲得する方法』を読んで、実際に顧客を獲得できるようになるような分かりやすい影響ではないにしても、それでももっと深淵な形で文学や小説は僕の人生に影響を及ぼしている。

例えば、僕の今の暮らし。

家族と住んでるマンションがあって、そこから自転車で10分の場所に仕事場のオフィスがあります。

僕はそのどちらに寝泊まりしても基本的には自由で、その時の仕事の気分に応じて行ったり来たりして生活しています。

そして時にはオフィスに篭って個人としての僕を保つことで、子供達とも個人的な人間として静かにゆったりと語らい向き合うことができる。そういう暮らしをしようとしています。(どこまでできているかは別として)

これらの暮らしの雛形となるアイデアは、高校生の頃に読んだウィリアム・サローヤンの「パパ・ユー・アー・クレイジー」という本の世界観と主人公の生き方、家族のあり方がそのままベースになっています。

思い返せば確かに17歳の僕はその本を読んで、明確に願ったのでした。

「今はどんな職業に就きたいかは分からないけど、この本みたいに静かにゆっくりと生きていくんだ!」と。

そしてフリーで生きるという今の仕事の仕方も、名前は忘れましたが高校生の頃に読んだ氷上なんとかという女流作家の短編小説で感じた憧れが、無意識の奥底で僕を動かしていました。

それ以外にもちょっとここでは書けないようなドロドロとした(村上龍的)人生経験も、10代の頃に彼の小説を通じて想像力を広げた世界が、20年を経て現実となって(良くも悪くも)再体験されているのだと付きます。

こうして見てみると僕の現在は、文学作品によって無意識に撒かれた種が、ゆっくりと長い時間をかけて花開いたものなのです。

もちろん意識の上ではそんなことは全く忘れていて、日々、目の前のやりたいことをやったり、仕事に追われたりしているだけなのですが、無意識の中に植えられた種はゆっくりと時間をかけて根を張り芽を伸ばし、気づけばそれを人生に具現化してくれていたのです。

でもどうして文学にそんな力があるのでしょうか?

心理療法を仕事にしている今では、その秘密がとても良くわかります。

物語は無意識の奥の奥に作用します。

そしてそれを映画のような映像作品ではなく、書き言葉によって体験すること。それは他者によって押し付けられたイメージではなく、作者の言葉を触媒に自分の内側にあるイメージを引き出していく作業です。

だからその世界は作者のものでありながら、無意識はすでにそれを自分のものとして受け入れて経験しているのです。

作者の言葉と自分のリソースとの共同創造によって、自分のイメージを広げ、物語として織りなしていくこと。それはコーチングによく似た現実創造の訓練なのです。

さてさて、ここで村上春樹です。

彼は僕らに何を与えてくれているのでしょうか? 彼は僕らの無意識にどんな種を植え、何を花開かせようとしてくれているのでしょうか?

それは1つに「深く深く内向する技術」ですね。

豊かな言葉を使って自分の内側に下りて行く技術。そしてその内向したリアリティーのまま現実世界を生きるという、一風変わった世界との関わり方を練習させてくれています。

そしてもう1つは「失意や喪失感から立ち直るための内的な道筋」を与えてくれています。

現実に何かを喪失したり心に深い傷を負った時に、ちゃんと無意識的に立ち直って来られるように、癒しと再生の道筋を僕らの無意識にしっかりと刻んでくれています。(実際にどれだけその道筋に助けられているのか、意識はそれさえなかなか気づかないものですが。)

そして、今回のつくる君です。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

この物語は私たちの中にどんな種を植え、どんな道筋を作ってくれるのでしょうか?

(実は別に意識でそれを理解しなくても良いのですが。よくわからないけどなんか好きで読んでしまうというのが十分に種が機能している証拠なのですが。)

一度ご自分の感覚とイメージを使って体験してみてはいかがでしょうか?

このGWは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をオススメします。

村上春樹「1Q84」はやっぱり凄かった

村上春樹の「1Q84」のbook1をようやく読み終えました。

買ってすぐに第一章だけ読んで、その上手さに感動して、その勢いでプレゼン練習会で小説論を展開したのが去年の10月。

そこからは丸一年放ったらかしで読んでいなかったのだけど(笑) ここ一週間でようやくbook1を読み終えました。

上手いというか凄いというか。

小説を書く体力を得るために毎日15キロのランニングを自らに課し、文壇とも距離を置き、一人で小説という方法と誠実に向き合ってきた男が、30年かけてたどり着いた極みがこの小説。

読んでいて時々、「うまい!!」と叫びたくなるような衝動にかられました。

そして読み進めることによって、現実のリアリティーとは少しずれた、おなじみの春樹的リアリティーの世界に迷い込んでしまって、心地良いような憂鬱なような妙な気分が続きます。

日常生活に支障をきたしそうになりました(笑)

今回の小説「1Q84」は村上春樹の小説にしては珍しく、物語的にも普通に面白いですね。

先の展開が気になるような物語的な強さがある。

それでいて過剰な描写や比喩や、村上春樹特有の饒舌な薀蓄がその物語の進行に抵抗する。

それによって、線的に進むはずの物語が、それ以上に豊かな意味と印象を広げてしまって、読者の内面の中で収拾がつかなくなってしまう。

これこそが村上春樹の小説の悦楽ですね。

文学論を語る時、僕がいつもお話するのは、

(小説)ー(ストーリー)=小説的な悦楽

ということです。別の言い方をすると、映画化したら失われる何かにこそ小説的価値がある。

例えば「1Q84」の第一章は、映画にすると、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

でも、たったそれだけのストーリーが、テキストとしては、ヤナーチェックの音楽のうんちくから、チェコのカフカの話や歴史の話しへと移行し、多くの比喩がそれぞれの印象や連想を広げて多重な意味や奥行きを持ってしまい、それがなんとも言えない迫力となっていく。

非常階段から降りていくラストでは、カタルシスさえ感じる。

でも、ストーリーはと言えば先に書いたように、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

(小説)ー(ストーリー)=小説の悦楽

ストーリーを差し引いた後にも残る余分な何か。その何かによって多重な意味世界に迷い込んでしまう厄介さと悦楽。

村上春樹はその幅と深度が圧倒的なんですね。

好き嫌いはあるでしょうが、これが村上春樹が30年で行き着いた「文学の方法」なのでしょう。

僕は好きですね。

この作家の方法がそうであるように、僕もシンプルな日常に多重な意味を背負わせるようにして、あるいは多重な意味を引き出すようにして生きていきたい。

残す所あと2冊。

楽しみなような、気が重いような…。