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村上春樹「1Q84」はやっぱり凄かった

村上春樹の「1Q84」のbook1をようやく読み終えました。

買ってすぐに第一章だけ読んで、その上手さに感動して、その勢いでプレゼン練習会で小説論を展開したのが去年の10月。

そこからは丸一年放ったらかしで読んでいなかったのだけど(笑) ここ一週間でようやくbook1を読み終えました。

上手いというか凄いというか。

小説を書く体力を得るために毎日15キロのランニングを自らに課し、文壇とも距離を置き、一人で小説という方法と誠実に向き合ってきた男が、30年かけてたどり着いた極みがこの小説。

読んでいて時々、「うまい!!」と叫びたくなるような衝動にかられました。

そして読み進めることによって、現実のリアリティーとは少しずれた、おなじみの春樹的リアリティーの世界に迷い込んでしまって、心地良いような憂鬱なような妙な気分が続きます。

日常生活に支障をきたしそうになりました(笑)

今回の小説「1Q84」は村上春樹の小説にしては珍しく、物語的にも普通に面白いですね。

先の展開が気になるような物語的な強さがある。

それでいて過剰な描写や比喩や、村上春樹特有の饒舌な薀蓄がその物語の進行に抵抗する。

それによって、線的に進むはずの物語が、それ以上に豊かな意味と印象を広げてしまって、読者の内面の中で収拾がつかなくなってしまう。

これこそが村上春樹の小説の悦楽ですね。

文学論を語る時、僕がいつもお話するのは、

(小説)ー(ストーリー)=小説的な悦楽

ということです。別の言い方をすると、映画化したら失われる何かにこそ小説的価値がある。

例えば「1Q84」の第一章は、映画にすると、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

でも、たったそれだけのストーリーが、テキストとしては、ヤナーチェックの音楽のうんちくから、チェコのカフカの話や歴史の話しへと移行し、多くの比喩がそれぞれの印象や連想を広げて多重な意味や奥行きを持ってしまい、それがなんとも言えない迫力となっていく。

非常階段から降りていくラストでは、カタルシスさえ感じる。

でも、ストーリーはと言えば先に書いたように、タクシーに乗って高速道路の渋滞に巻き込まれて、高速の非常階段から降りていくだけの話です。

(小説)ー(ストーリー)=小説の悦楽

ストーリーを差し引いた後にも残る余分な何か。その何かによって多重な意味世界に迷い込んでしまう厄介さと悦楽。

村上春樹はその幅と深度が圧倒的なんですね。

好き嫌いはあるでしょうが、これが村上春樹が30年で行き着いた「文学の方法」なのでしょう。

僕は好きですね。

この作家の方法がそうであるように、僕もシンプルな日常に多重な意味を背負わせるようにして、あるいは多重な意味を引き出すようにして生きていきたい。

残す所あと2冊。

楽しみなような、気が重いような…。

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