最近のネットの世界のSNSブームはダイアローグ(対話)や社交、人との結びつきにこだわりすぎてモノローグ(独白)を締めだしてしまった感がある。
でもネット本来の面白さというのは、知らない誰かの赤裸々なモノローグが閲覧できてしまうことの驚きにあったのではなかっただろうか?
モノローグとは決して他者が知り得ないものであるはず。なのにそれが閲覧できてしまう倒錯したメディア。それがインターネットだった。
そこには個人の心の中を覗き見するような不思議な魅力があった。
90年代後半。まだ学生だった僕はネットでみつけたある日記にハマったことがある。
まだブログなど無い時代。簡素なHTMLを駆使して書かれたその日記は『禁煙日記』と題された、単なる個人の日記だった。
ジョナス・メカスというカメラマンについての考察や、日々の思いや、憂鬱な考察や、読んだ本の感想、会った人との会話、思ったこと、買ったものなどが、つらつらと書かれていた。
僕は無名の書き手による、誰も読者を想定していないその日記が好きだった。
そこには着飾らないリアルな人間の思考があった。
生きることと思考することがイコールであることの生々しい感動があった。
それによって、僕は会ったことも見たこともないその誰かを深く理解したような錯覚に陥った。
モノローグであるはずの文章が、ダイアローグ以上に深く人の心に響くというのは、なんというパラドクスだろうか。
これこそがインターネットが人間の感性に与えた最大の発明だろうと、当時の僕は興奮した。
人間同士が歴史上ありえなかった角度と深さで、エロスを孕みつつ触れ合うことが可能になったのだと。
そして現在。ネットの世界ではモノローグが締め出され、読者を想定した情報提供や表現や社交ばかりになってしまった。(かのように見える)
それが僕には残念でならない。
そこで、最近僕はネットの持つこの古い力を復権させたいと思い、あるところにモノローグ的な文章を書いている。誰も読者を想定せずに赤裸々に書くことに挑戦してる。
こうした個人的なモノローグが、読者を想定した表現以上に誰かに影響を与えれば面白いなと、そんなことを思いながら(ニヤニヤしながら)書いている(笑)
それがとても開放感があっていい。
誰も意識しなくていいし、清々しいほど赤裸々でいられる。
個人的であること、私的であることが極まった先の先に、逆に公的な場が広がっているとしたら、僕はそこを目指したいなと思う。
あるいはどの方向に進んでも最終的に行き着く先は皆同じなのかもしれない。
だとしても僕はそういう方向、あるいはそういう『方法』が好きなのだと思う。
私的であること、個人的であることの先の先において、誰かと出会う。
これはきっと僕がエロい人間であるということと密接に関わっていると思った(笑)
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