小室哲哉さんが引退を表明しましたね。
小中学生の頃にTM NETWORKを聞いていた世代としては寂しい限りです。
90年代に1つの時代の雰囲気を創り出した恩人の引退がこんな不本意な形というのが残念でなりません。
でも会見の全文を読むと、本人の少しほっとした様子も伝わってきますね。
もう今の生活にも創作活動にも限界を感じていて、降りたい、壊したい、という思いが心の奥底で育って行っていたのかもしれません。
人の不倫を裁く権利は当事者にしか無いはずです。それでも無邪気に週刊文春を攻撃する気になれないのは、この流れが彼の無意識との共同創造でもあるように思えるからです。
恐らく以前のように音楽が降りてこないのでしょう。
彼は妻KEIKOさんを伴侶として介護したり時には家族に任せたりしているそうですが、
それは人として1人の妻に寄り添う素晴らしい体験であり、彼はこれまでとは違った魂の体験をしているわけですが、
残念だけれど、その道には以前のような音楽は降りてこないのでしょう。
ある種の音楽は、男女が激しく憧れ求め合うその情動の中に生まれるものです。
西洋の神智学体系のカバラの中では女性への狂おしい憧れ、そこに手を伸ばしたいが触れられない、その力動にこそ「永遠」があり「創造」の力があるとし、それに『ヴィーナス』と女神の名を与えました。
ヴィーナスへと向かう恋愛的な力。永遠に持続する力。
ある種の創造やインスピレーションの源はそこにあります。
彼の扱っていた音楽は決して安定や誠実さの中に生まれるものではないのです。
残念なことだけれど貞操を貫く人間の美しさを生きることと、恋愛的な引力と熱と魔法を宿した音楽を作り続けることは、別のジャンルの仕事なのです。
ヴィーナスを良妻のように飼い慣らすことなど誰にもできないし、もしそれができたとしたらそれはもうヴィーナスではなく、代わりに別のヴィーナスの存在がその秩序と安定の外側に現れてきます。
今回も小室さんの人生にもそれが起こっていたのでしょう。
私は以前から、ミュージシャンというのは歳を重ねることが難しい職業だなと、彼らの歳の取り方を興味深く見ていました。
常に新しい異性のうちにヴィーナスを見出し、恋焦がれながらも手に入らない不安定さの中に身を置き続けることは誰にもできないし、
歳を取るということは、The Lover(求愛者)やトリックスターという不安定なアーキタイプを宿し続けるには、賢くなりすぎるものです。
私たちの誰もが平等に歳を取り、いつか恋するだけの存在ではなくなります。
その代わりにまた違ったアーキタイプが自分に宿るようになります。
老賢者かグレートマザーか援助者か。
それらが自分の内側から立ち現れようとする時、その時、古くなった自分を破壊して次に進まなければなりません。
古い自分にしがみつくとやがて必ず、泉は枯れます。
今の小室さんは見ていて切ないほど枯れていて、自分のエネルギーの源泉につながれていないことが明白でした。
創り出したものが大きい人は、壊して捨てなければならないものも大きいのでしょう。
小室哲哉という存在はある時代の象徴として固定され世間の共通言語として流通し、もはや自分1人の手では壊しきれないものだったのかもしれません。
だから今回、文春のスクープによって破壊が後押しされた時、彼が望んで会見を開いて引退を表明したこと。
そしてその時に見せたとても人間的で個人的な安堵に触れて私たちは、
一抹の寂しさとともに、彼を擁護して応援したくなるような衝動を禁じ得ないのでした。
彼は今また圧倒的な破壊をやってのけようとしています。
彼を突き動かすその力に私は、最大限の敬意を払いたいと思います。
そして、そんなことを思っていた同時期に、こんな記事を読みました。
TM NETWORK時代の小室さんと同時期に活躍したシンガーソングライター、大江千里さんのインタビューです。
彼は日本でのポップシンガーとしての地位を捨て、47歳で渡米しジャズの名門校で学び、現在はニューヨークで毎週ライブをする生活なのだそうです。
インタビューの最後の部分がとても良くて、未だみずみずしく少年のような感性で世界に参加し、触れ、感じ取って生きている様子が伝わってきます。
素直に今の自分にチューニングして、
不要なものを手放し、内側に立ち現れてくるものに従って外側の人生を調節する。
そうやって破壊と再創造を繰り返していくと、人は枯れないのですね。
今も瑞々しいままです。
記事からは、彼が日々の人生に感じ取っている充実と正解感が伝わってきます。
とても上手に歳を取っておられる。
私たちもこうありたいものですね。
今大切に握りしめている「私」の上にはもう次に行くためのリソースは乗せられない。
完成してしまっていて、人生に倦怠が入り込んできた。
それは破壊の時が来ているサインなのかもしれません。
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