先日、友人の結婚式に京都に来て。
その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、
夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。
少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。
歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。
風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。
思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。
その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。
その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。
うつしよ=写し世
この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。
京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。
あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、
ここが古都であることの凄さを思い知る。
現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。
そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。
さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。
そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。
それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。
なんという雅な世界だろうか。
不意に遠くで花火が上がる。
僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。
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