今週は緊急事態宣言下の五輪開幕となりますね。
我慢している人たちが五輪を批判したくなる気持ちは分かるけど、
そもそも五輪の開催か中止かを決定する主体って誰にあるんでしょうね。
首相?都知事?
いずれも決定権なんか持ってなくて、ただ批判の矢面に立たされる気の毒なポジションの人にしか見えないんだけど…。
なのであまり批判する気になれませんね。
理不尽な会社の決定を背負わされて、それがおかしいのは百も承知ながら顧客対応して怒られてるバイトさんを本気で憎めないのと同じことです。
あと「何よりも命が大事」というのはその通りだけど、そこには「死を忌避しすぎることで生の輝きを損なってはいけない」ということも含まれているべきだと思うんですね。
死を避けすぎると生が薄まります。
それは命を大切にしているということになるのだろうか?と。
オリンピックは公開記録測定会くらいのイメージに変えて、それでも結果的に熱いものになれば良いですね。
静かに熱く、強く。
開催が決定されてお祭り騒ぎだった数年前。その時想像していた輝かしいオリンピックとはかけ離れてしまったけれど、
ボコボコに批判されながらもなんだかんだと形にしてしまうオリンピックというのも、考えてみれば日本らしくて良いではないか。
緊急事態宣言が発令されても、もはやまったく緊急事態感はなくいつもの日常がだらだらと続くように、
ボコボコに批判されながらもなんとなく形にして、結局それなりに楽しめてしまうオリンピック。
日本の凄いところって案外そういう所にあるんじゃないかな。
覚悟して決断して開催!でもなく、リーダーシップを発揮して断腸の思いで中止!でもない。その間にあるもの。
白でもなく黒でもなく、その間でなんだかんだと生きながらえる。
これ、実は世界各国が見習ったほうが良い日本の高度な文化的所作なんじゃないか?とか、
最近はそんなことを考えています。
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