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身体の経験値と内臓の言葉

個人的メモ

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身体の経験値を積まないとダメだな。

身体が何かを体験して、その結果なにか捉えようのない体感が生まれるが、それはまだ言語化されていない。

それをあえて言語化する試み。そこに言葉の力が宿るのであって、最初から言語を通じて入ってきた情報を頭の中でこねくり回して編集し直して、また言語で出力されたような脳だけの創作物は、世の中を創る上でも影響力の上でも非常に弱い。

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初期の村上龍の言葉が持っていた迫力も、岡村靖幸の楽曲のアレンジやグルーヴ感にも共通しているのは身体感覚。もっと言うと内臓感覚というくらいに生々しいもの。結局僕はそれが好きなんだな。

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身体の経験という意味で、退屈なエアロバイクを漕ぐなんて、もしかしたら自分の潜在力を奪うだけで、一番やってはいけないことをしていたのではないか? これは仮説だけど。

自分の足で大地を蹴って歩くことで景色を動かすこと。旅。味わったことのない身体の経験。身体の巧みさ。ダンス。そういうところから心身と頭脳のポテンシャルを高める方法をもう一度模索していこう。

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岡村靖幸は自身がダンスをかなりのレベルまで極めている。その身体知性を持ってソングライティングからアレンジまでする。その意味は思っている以上に大きいのではないか。

↑岡村靖幸の異様なグルーブ感とポップすぎる言語センス

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そして釈迦の苦行。「苦行では悟れない、真理は中道にあり!」と悟ったと言われているが、それは王族としての豊かさと、修行での苦行という両極を嫌というほど身体の神経系に刻み込んだ後の悟りであって、最初からの「中道」を知識として理解したのでは、単にぼんやりした人しか生まないのではないか?

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つまり知識としての真理を理解することではなく、身体経験として中道という真理を悟ること。

ヨガ行者の成瀬雅春さんが「結局、人は身体からしか悟りに到達しない」という意味のことを言っていたが、その真意はこの辺りにあるのではないか。

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「人生が退屈だとしたら、それはあなたの身体の使い方が退屈なのだ」これはジェームス・スキナーか(笑)

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「人間の神経系の発達を通じてスピリットは目覚めようとしている」スティーブ・ギリガン これもそうか。

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