カテゴリー別アーカイブ: 天命と天職

あるべき場所にあるように

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気持ちの良い天気ですね。

寒かった『大寒』が終わり今日から『立春』

トイレに置いてたまに読んでる二十四節気の本も、今日から最初のページに戻ります。

七十二候では『東風氷を解く』

東から吹く風が湖の氷を溶かして行く。

素敵なイメージですね。

ここからは春の気配が少しずつ見えてきます。

まだしばらくは寒いでしょうけど、お日様の陽気にも春の気配が感じられますね。

嬉しいものです。

僕の断捨離プロジェクトも3分の2ほどが終わって、気持ちがどんどん軽くなってきています。

この清々しさが何ものにも代えがたく良いです。

物が無くなって部屋が整理されたりスペースが生まれるのも気持ちが良いけど、それだけではないこの心地良さの源を探っていくと、

ずっと滞って使われなかった物がまたお金になって血液のように流れ出すことや、

物達がまた求められている人の元に行き、本来の能力を発揮して物自身の天分を全うできるように促すことがそもそも、徳の高い行為なんだということが分かります。

自分の滞っていたエネルギーも流れだして清々しい上に、徳のエネルギーも流れ込んでくる。心地よい。

逆に言うと、目的もなく使わないままに置いておくことは、本来物たちが発揮でたであろう才能と貢献を自分のもとで捨てているようなもので、もしかすると小さな不徳なのかもしれません。

力を無駄に捨てないために、それが求められている場所へと流す。

そうなることが自然の摂理なのでしょう。従うととても気持ちが良いのです。

仕事においてもそうですね。

自分や周りの人たちが持てる才能を滞らせずに、それぞれの能力を最大限に発揮して輝かすには、どういう配置がベストだろうか?と、そのバランス点を見出すように采配していくと、一番上手くいきますね。

自分の人生の方向性を決めるときも同じで、自分の能力や才能が今最も求められている場所はどこで、

「どこに時間や労力を注ぐことが世の中の価値を最大化させるだろうか?」

という問いをもって、その場所に自分を差し出していく。

そうするとスルスルと自分も周りも発展へと運ばれていきます。

自分と周りの人や物の能力や才能を無駄にせず、流れを止めず、出し惜しみもせずに、あるべき場所に流すだけで物事は随分上手くいくようです。

そんな風に感じているので、最近の僕はもう自分自身の個人的な夢や目標など、どうでも良くなってきました。

「なんでもするから、資質に合った場所で思いっきり使ってください。そこに運んでください。ガンガン貢献しますから。」

そんな祈りが心の中に響いていれば、それで良いですよね。

あとは、力を抜いて天の采配に委ねる。

力まない。握りしめない。

もっと物も夢も手放し、身軽になって進んで行こうと思います。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

アナとエルサと『力』をめぐる冒険

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最近話題の映画『アナと雪の女王』をようやく観に行くことができました。

随分前に先に観ていた娘二人が、家で寸劇付きで歌いまくっていたので、そのシーンが来ると「これをやってたのか!!」と吹き出しそうになりました(笑)

それにしても、世間にアナ雪現象に巻き起こすだけあって、力強い映画でしたね。

音楽も映像もシナリオも強く惹きつられる。

そして、とりわけ僕らの心を揺さぶるのは、このアナとエルサの物語が僕らが生きている内的人生の旅そのものだからです。

天から与えらた『力』や『才能』は当の本人にとって多くの場合、恐れや不調和をもたらすものとして経験されます。

例えば綺麗な容姿と女性的魅力を賦与された女の子は、自分の容姿が男性の心を乱していることに気づきます。

そして同時に周りの女性達の嫉妬心を刺激していることにも気づきます。

多くの男性の性的な欲望に満ちた視線にさらされている危険を察知します。

その結果、一定数の女性は意識的か無意識的かは別として女性性を抑圧します。天より与えられた女性的魅力という力を封じる選択をするのです。

同じように、キレすぎる頭脳を与えられた青年は、それによって周囲に馴染めない自分として人生をスタートさせます。

周りの幼さに戸惑い、退屈し、心の奥底で周囲を軽蔑するようになります。

そして心の中でキレすぎる言葉を使って人を切りつけ、やがてその刃は自分自身をも切り刻むようになります。

そして、ここでも同じようにその『力』を封印してバカになる選択をするか、それができなければ、人を避け自分の思考と観念だけの象牙の塔にこもり、偽りの全能感の中で生きることを選択します。

エルサがひきこもった氷のお城はまさに、彼女の力の「ありのまま」の全能感の表れでした。

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それはそれで眼を見張るほど美しく完璧ではあるのだけど、人が住めない世界です。人里離れた世界です。衝突する他者がいないことによる偽りの全能感なのです。

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天より与えられた「力」との関わりにおいて、多くの人はこのひきこもりのプロセスを通ります。(実際的なひきこもりか精神的なひきこもりかは別として)あるいは力の持つダークサイド(人を傷つける力)に惹き寄せられて翻弄され堕ちていきます。

かくいう僕も二十歳の時に1年ほど部屋に引きこもり、本や映画ばかりに触れ、自分の観念と言葉だけの世界に生きるという偽りの全能感の中に身を置いていました。

しかし、この人生の旅が素敵なのはこの先です。

ここに必ず恩恵が訪れるのです。

このひきこもりのプロセスには必ずと言っていいほど、魅力的な「アナ」が現れるのです。

そんなに難しい顔してないで外で遊ぼうよと。「雪だるまつくろう~♪」とアナは屈託の無い笑顔で誘うのです。「あなたの力を私に見せて。私を喜ばせて。」と言うのです。

僕の人生も振り返ると、何人もの魅力的な「アナ」の存在があります。

人生の節々に魅力的な「アナ」が現れ、僕を誘い出してくれました。観念にひきこもろうとする度に僕を社会に連れだそうとするのです。

「あなたの文章が読みたい。」「あなたの作る世界を見たい。」「外で遊ぼうよ。」そう言って、僕自身よりも僕の力に欲望してくれて、すぐに引きこもりそうになる意識を外に向けるように歌い続けてくれるのですね。

そこへ来て、改心が起こります。

人を傷つけたり惑わしたり、自分を切り刻むような無自覚な使い方しかできなかった「力」も、「アナ」の献身に触れることで自覚を取り戻していきます。

意識的にそれを扱おうと、そしてもう一度社会という外側の世界に接続しようと意図するのです。

その『力』を自覚的に扱うための極意は、この映画にあったように『愛』です。

『力』を使う意図を『愛』という一点に保ち続けることです。

(「人を愛する」ような情動的な愛よりももう少し大きくニュートラルな愛なのですが)

先の綺麗な容姿を持った女の子は、無自覚に性的魅力を振りまくのではなく、世の中の男性を祝福し喜ばせるために使おうと、そしてこの世の中を光り輝かせる一輪の花であろうと決意し、その貢献に自分の意図を結び、そのために女性としての容姿を磨き美を表現することを覚悟します。

天から賦与された力を止めずに社会に還元する決意です。

するとこれまでとは打って変わって、周りの男性の自分に対する態度が違っていることに気づきます。

奪い取ろうとするようなセクシャルな欲望ではなく、まごころをもって祝福するように自分を見ていることに気づきます。

同性たちの嫉妬がそれほど起こらないことに気づきます。

ここへ来て、これまでに自分に向けられていた欲望や嫉妬は、性的魅力を振りまく自分の無意識の中にあった小さな競争心や男性への軽蔑心が招いたことなのだと悟り、過去を許します。

それによってより一層、彼女は『愛』という意図に研ぎ澄まされていきます。

真の意味で『力』を扱えるようになるのです。

先に見た、頭のキレすぎる青年もまた身近なアナの献身に触れて改心します。

自分の中にある知識や思考やアイデアを世の中を創造するために使うというチャレンジを始めます。

そして、それでも軋轢はあり、時に心無い人の攻撃を受けるのですが、それでも『貢献』や『愛』という所に意図を結んでいる割合に応じて、自分が痛みを感じないことに気づきます。

意図を純粋に『愛』に整えてある分だけ守られていて、そしてそこからズレた分だけ傷つき痛みを負うことに気が付きます。

そして、痛みは意図を確かめるためのシグナルだと気付き、ますます意図は『愛』に純化されていきます。

『力』に翻弄されるのではなく、『力』を扱えるようになっていくのです。

これが僕らが力を扱い、才能を開いていく中で進む人生の内的な旅です。

誰もが多かれ少なかれ人とは違う力や才能を与えられており、その意味において「エルサ」としての人生を生きています。

そして、一方でその時々に出会った素敵な誰かの「アナ」になることも人生の至極の喜びですね。

より多くエルサとしての生を生きるのか、アナとして生を生きるのか。あるいはその両方なのか。

どちらにせよ、それは進むに値する旅です。

******

そして、ここで話を現実に戻して、主催のプレゼン練習会というワークショップを見た時。

表現力を磨くことで自分の中にある『力』の扱い方を習得していくという意味において、この会はエルサとしての旅をサポートする場であるのだけど、

あの場所が真に豊かなのは、個性的でチャーミングなたくさんの「アナ」の存在があるからなのですね。

アナとエルサの物語がこれまでにいくつも起こってきましたし、これからもそれは起こるのでしょう。

映画を観終えて、そんなことを思いました。

冬の時代

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先日、ここ数ヶ月間頭を占めていた(心を悩ませていた)プロジェクトを無事完了することができた。 プロの手助けを得て、なんとか形にできた。

これは僕にとっては特別な意味を持つ仕事だったので、嬉しかったしホッとした。

そこからの帰り道。

独立したての10年前に住んでいた深江橋を通りがかったので、車を止めて1人で散歩してみた。

いつもここを車で通る度に、当時の重たい記憶をこの土地に残していることに気付いていて、いつか機会があったらちゃんと向き合って供養したいと思っていたのだ。

車から下りて、いつも通勤で使っていた地下鉄の狭い道を歩いてみたり、当時の住んでいたマンションへと続く道筋を歩いていると、昔の感覚がフラッシュバックするみたいだった。

当時住んでいたマンションは空室になっていて、一階にあった弁当屋もお好み焼き屋も今はつぶれて空きテナントの看板が貼られていた。

この街に住んでいた当時の僕はニートのような状態で、いつも昼間っから自転車でウロウロしながら未来の仕事のイメージを広げていた。

嫁が仕事をして、僕はネットと株で収入はあるもののやっていることはニートで、そのくせ東京まで心理の勉強に行ったりしていた。

頭の中にはこうなりたいというアイデアでいっぱいだったけど、お金も能力も経験も無くて、悶々としながら未来へのイメージを広げていた。

当時よく行った公園には、昼間だからか子供連れのお母さんがたくさんいて、ベンチではサラリーマンが1人で座って弁当を食べていた。

よくこの公園で早朝からipodで経営コンサルの対談を聞きながら走っていた。そうでもしなければ自分を保っていられなかったからだ。

自分はやっていけると強く強く信念を固めてイメージを保っていても、翌朝目が覚めると自分は夢に逃げてるだけなんじゃないかと思えて不安に潰されそうになった。

いつもみぞおちのあたりに重い不安の塊のようなものがあった。

それに飲み込まれないためには違う情報を頭に入れ続けることと、走ることしかなかった。

あの時の孤独感。何もない自分への怒り。無力感。家族を持っていることの不安。

その惨めさったら無かった。

でも、今はお前の夢は全部叶えたからな。お前が培った知恵は全部人の役に立ててるからな。今では信頼してくれる仲間もできたからなって、

公園のベンチでそう強く思ったらなんだか泣けてきた。

逃げなかったな。よくやったなって。

この真っ昼間の深江橋の公園の、横でサラリーマンが弁当食ってるベンチで、一人で高らかに勝利宣言をした。

お前が正しかった。お前の勝ちだと、昔の思いを供養した。

人は誰でも冬の時代を通過する。

未来に望むものが大きければ大きいほど、冬の寒さは厳しいものとなる。

見ているヴィジョンと今の自分とのギャップに苦しむ。やってることが普通と違いすぎて孤独を感じる。自分の在り方を社会に説明する言葉も無い。周りと比較すると惨めな気持ちになる。

でも冬は省くことの出来ない成長のプロセスだ。

ヴィジョンを結晶化させるために、寒さでギュッと実を内側に凝結させて、春の芽吹きに備えているのだ。

でも、冬のただ中を生きる当人にはそうは思えず、まるで神様が自分に意地悪をしているのかと思うくらいに上手くいかないし、流れが停止してしまう。

そんな人生の冬を生きている人達の、それでもそこから逃げずに通過しようとする人達の味方でいたいと僕は思っている。

ヴィジョンを持つことで自分の人生に冬を招き入れ、その寒さに耐えながら粛々と進んでいく人達の誠実さが好きだ。僕はその人達の側にいたい。

冬を追い出すことで、人生から四季を無くしてはならない。

誰かの華やかな才能に惹かれるとしたら、それは同時にその人の生きた冬の深さをそこに見ているのだ。

夏はバカみたいに咲き乱れて秋の収穫が終わったら、また次の冬に備えたいと思う。

 

それは想像力の問題だった

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最近なにかにつけ、「それは想像力の問題だ」という言葉を発している。

今直面している社会や経済の閉塞感の多くも、想像力の問題なのだと思う。

僕らは想像力の問題を、情熱や努力量や技術や仕組みの問題にすり替えて、そこに限界を感じてきたのではないだろうか?

もうこれ以上の努力は無理。これ以上の情熱はもう出せないと思って行き詰まっている。確かにそっちは限界で行き止まりなのかもしれない。

テクニックや情熱を駆使しても、想像力の欠如は埋められない。

想像力を広げることが今必要なのだ。

僕らが暮らす10年後の社会がどのようであれば、より多くの人が幸せを感じるのか? その質問を持って毎晩未来を見に行く。

どこまで深く具体的に未来を洞察できるか。

そこへ来て始めて、歴史や社会情勢などを含む人間理解、つまり教養というものが必要になってくる。

世界をしっかり観察し、教養を深め、想像力を使えば使うほど未来を見通す精度は高まっていく。

そしてそれはやがて自分の想像ではなく、最初から存在していたようにさえ思える、神なる設計図とも言うべき世界へ行き着く。それを人はビジョンと呼んだ。

スティーブ・ジョブズは近い将来、人々がリビングで10インチのタブレットを持ってカジュアルに情報と戯れている未来を想像した。あるいはその未来を見ていた。それは「ビジョン」だ。

ジョブズはこう言っている。

「創造的な人々は、どうやって想像しているのかと聞かれると、少し後ろめたい気持ちなる。なぜなら、彼らは実際に想像しただけではなく、ただ何か見えただけだからだ。」

その同時期に日本の企業人は、リビングで家族みんなが妙にゴツゴツした大きなメガネをかけてテレビ番組を3Dで見ている場面を想像した(のだろうか??) あるいはそんな未来を無理やり信じ込もうとした。それはヴィジョンではなかった。妄想だった。

これは想像力の問題なのだ。

技術力や努力の前に想像力で負けている。

想像力とはビジョンにたどり着くための、知覚の翼のようなものだ。

10年後、人々は何に価値を置いて、何を求めて生きてるだろうか? どんな社会なら理想だろうか? その中で自分が担うべき役割は何だろうか?

想像力を駆使してそれを見ることさえできれば、情熱も技術も仕組みも後からついてくる。あるいはその技術を持っている誰かに出会うことになる。

毎晩毎晩、僕らが住むべき理想の未来を見に行こう。

仕事道

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夏でテンションが上がりすぎているのだろう。

いくつかの新しい仕事を手がけて、複数の企画が同時進行している。

フリーとして一人で仕事をしていると(会社で仕事をしている方もそうだと思いますが)、「襟を正しなさい!」というように、仕事そのものに対する忠誠を試されるような時が必ずある。

カウンセリングの仕事では、「そんな境地では全然ダメです。もっと高めなさい。姿勢を改めなさい」と怒られているような気になることが定期的にある。

文章を書いていても、「その言葉のチョイスは惰性です。流れてますよ。違いますよ。」と怒られているような気になる時がある。

でも最初はそれが無い。自分のアイデアで勝手に作って勝手に始めた仕事は、最初それが無い。

良くも悪くも本当に自由。それは単なる自分の一人遊びのようなものに過ぎない。

だけど、しばらく継続していくと、その声が出てくる。

「そんなんじゃダメですよ。」と厳しく指導が入る。そして志の高さみたいなものを求められる。仕事道とでもいうようなものが形成される。

厳しいけど、逆にその感覚が出てくると安心する。

それがあるということは、それが修正されて整って形になっていく流れがこの世界に許可されたということだ。つまりその仕事は形になる。

それが無いと、ばらけていて整っていかないから、この仕事は違うのかな?と不安になる。

とても感覚的な話だけど、そういう感じって確かにありますよね。

なにかと対話するように仕事をする感じ。

一人で仕事をしていても上司はいるんですね。それも結構スパルタな人が…。

そしてその上司が厳しいから、個人としての僕はある意味で子どもとしてバカで柔らかくいられる。ありがたい。

この指導してくれる上司としっかり向きあって、その人に認められるくらいに研鑽して行きさえすれば、マーケットをリサーチすることや、競合の動向をリサーチするとか、そんな作業はあまり必要ないのではないかと、最近は思っています。

てなことを書いておいてなんですが、今日はオフです。BBQと川遊び行ってきます(^^)