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ドラクエが可能にし、そして現在のRPGが失くした箱庭的快楽

みなさん、こんにちは。

ブログ初回のネタとしてはちょっとアレですが、ドラクエ(ドラゴンクエスト)ネタからスタートします(笑)
4月1日のエイプリルフールに、Googleがグーグルマップをドラゴンクエスト風に表現して世の中を驚かせましたね。

そのマップを見て「懐かし~。」とワクワクする気持ちが蘇って、ドラクエをやってみたくなりました。

そして10数年ぶりにドラクエ5をやってみて、驚きました。

ほんとに面白い。ワクワクする。もうええオッサンなのに…。

それで、この面白さって何なんだろう? って考えてみて気付いたのは、

これって世界を単純化してアイコンとして体験することで感じられる面白さなんですね。

現実の世界というのは当たり前だけど、とても奥深くて、風景1つとっても情報量が非常に多い。

一節には人間が生きる世界の情報量は1秒間に数億バイトあると言われています。

そして、当然ですが、目に見える建物の中には何があって、どんな人がいて何を考えているのかは、決して把握できません。わからないことだらけなのです。

(現実の街)

僕らは自分のいる世界の全容を把握することは無く、世界の表面のその更にほんの一部分しか認識できない。

人生を精一杯生きたとしても世界のほんの一部分の0.000000000000000000001%くらいを見て触れて体験する程度の小さな存在が現実の僕らです。

でもドラクエはその世界をシンプルに記号化することで、世界を俯瞰して、まるで世界を完全に把握しながら生きている(冒険している)かのような体験を可能にしています。

(ドラクエの街)

現実には決してありえないこの感覚。

これって、とてつもない癒しなんですね。

その意味でドラゴンクエストとは、箱庭療法のようなものかもしれない。 

世界を極限までシンプル化することで起こる癒しと、世界を完全に把握できているかのような快感がそこにはある。

でも、ゲーム業界はもう10年以上もその真逆に行っていますね。

リアルに描画して、視覚イメージを現実に近づければ近づくほど気持ち良いはず! という怪しい前提の上に仕事を積み重ねている。

最近のファイナルファンタジーシリーズは確かに目を見張るほど美しい。

でも、その結果僕らは「決してこの世界の全貌を把握することも理解することはできない。」という実人生と同じ卑小な自己感覚を、わざわざ娯楽であるゲームの世界でも味わうことになる。

いまひとつワクワクしないし、実生活に似た疲労感さえ感じる。

昔のドラクエのように箱庭的に世界を俯瞰して自己像が肥大するような快楽と癒しは起こらない。

これは、同じRPGでも、プレイ中に脳の中で起こっていることは質的に全く異なるということですね。

で、面白いな~と思ったのは、昔のドラクエにそういった箱庭療法的な力と魅力があったのは、製作者がそれを意識して作ったからではなく、単にテクノロジーの限界があったからにすぎないってことなんですね。

ファミコンにそんな描画能力は無いから、2Dで世界を表現するしかなかった。

そして、テクノロジーが進化して描画能力が上がるに従って、ゲームメーカーはしのぎを削って、そのハードの限界まで使ったリアリティーを実現してきた。

これはこれで正当な進化だし、僕も毎回その美しさに感動させられました。

でもRPGが持っていた快楽の本質をしっかりと捉えていたら、別の方向への進化もあったかもしれないと思うんですね。

巨額の製作費をつぎ込んで、世界中の才能がしのぎを削って戦っている、「よりリアルに!」「より刺激的な視覚効果に!」という戦場。

そことは全く違う価値観で低予算で制作して提供できる価値があるということです。

これは今の世の中の構造そのままですよね。

グローバリズムでしのぎを削っている厳しい世界があり、テクノロジーの進化も情報量の増加も著しい昨今。

でも、人間の本質なんてそれほど変わっていないのだから、本質さえわかっていれば8ビットのファミコンくらいのテクノロジーを使ってでも、大きな喜びと価値を提供することは可能なのかもしれません。

ドラクエをやっていると、そういう当たり前の感覚を思い出させてくれます。

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