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季節にゆだねる

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学生の頃、保坂和志の「季節の記憶」という小説を読んだ中に、

歳を重ねると、季節ごとの記憶が深まり懐かしいほどになっていく、というようなことが書いてあって、本当にそのとおりだな、その感覚はわかるなと思いました。

まだ23,4才の頃のことでした。

そして、それから10年以上が経ち、僕もあれやこれやと季節の記憶を重ねまして、

36歳になった今では、いよいよ季節は深まり、ついには向こうから語りかけんばかりに存在感を増し、ありありと僕に作用してくるようになりました。

そんなおり、友人から「日々是好日」森下 典子著、という茶道をテーマにした本をお借りして、そこに書いてあることにまた大きな感銘を受けました。

季節は春夏秋冬だけではなく、週ごとにかすかに気配を変え、つまり週ごとにも季節があり、そして季節ごとに心のありようが変わっていく。

茶道を通して、そんな感覚を捉えた本でした。

生きるということをイベントの連続としてではなく、むしろイベントのない退屈さの繰り返しの中で逆にあきらかになる「深み」のようなものとして経験する。

そういう感覚が表現されていました。

この本を読んで僕は、よりいっそう季節と調和して生きれるようになったように感じています。

自分というものが独立した生き物ではなく、季節というものに作用されて移ろいながら存在している、ひとつの流れのようなものだとして、そのさまざまな季節に現れる様々な自分を楽しむことが少しできるようになってきたのです。

思えば去年の秋は、憂鬱な感じになっていく自分に少しもどかしさを感じました。でも今年は秋の流れと完全に調和して、憂鬱に内向していく心を楽しんで、芸術や読書に親しんでいます。

秋は夏のようには弾けられないし、夏のような仕事はできないけど、夏に読めなかったような深みまで本が染み入るように入ってくるし、秋にしかできない仕事が進む。

そんな風に自分というものを、季節との相互作用として捉えられるようになりました。

そうすると、日本の偉大な先人たちの感性に共鳴でき、季節ごとの正しいありようの中で、安心してくつろいでいることもできるようになります。

それはとても豊かな感覚です。

例えば枕草子の有名な出だし。

「春はあけぼの。

ようよう白くなりゆく山ぎわ少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。

月の頃はさらなり。

闇もなお、蛍のおおく飛びちがいたる。

また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。

雨など降るもをかし。」

先人たちが感じた季節の風情。

まさにそのように月を見て、雨に降られた夏が終わり、秋が来ました。

最近は、朝晩がめっきり寒くなり、

その寒さに少し心もとなさを感じながらも、心が内向していく感覚がとても自然で心地よい。

夏のようにはいられないし、冬ともまた違う。

今日、この日の季節と、自分の内面に現れてくるものに素直に従う。

一貫性なく移ろいながら、その移ろいにゆだねて楽しむ。

急がないし、目指しもしない。

満ち足りている。

こういう感じって、なんだかとても豊かですね。

歳を重ねるごとに、季節はますます豊かに、人はますますよい加減に。

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