先日のプレゼン練習会ビギナーコースでお話した3分間スピーチの内容ですが、僕が主催する会の理念に(少しだけ)関わる部分なので、文章にしておきたいと思います。
僕が何かを主催したり、場や仕組みを作ったりするときにみなさんに提供したいものの1つとして、とても大切にしているものの1つとして、『嬉し恥ずかし』な感覚というのがあります。
これは実は随分昔から一貫してあります。
みなさんの今後の人生で、社会的な成功者になるかどうかは趣味の問題なのでどちらでも良いことだと思っていますが、
みなさんの今後の人生に『嬉し恥ずかし』があるかどうかは真剣に考えてみたほうが良いテーマだと、僕は勝手に思っています(笑)
個人的にはそれほど特別なものとして、『嬉し恥ずかし』はあります。
僕がそう思うに至った原風景は、高校1年の体育で経験したフォークダンスの授業にまでさかのぼります。
思春期まっただ中で、近くて遠い存在であり、ヒリヒリするような憧れであった『女子』と手を握って踊る。
その嬉しすぎて悶絶しそうがゆえに小っ恥ずかしいイベント。それがフォークダンスでした。
今思えば、そこにどんな教育的意図があったのかはわかりませんが、フォークダンスは公立高校の体育の授業に平然と組み込まれていたのです。(今もあるのかな?)
このフォークダンスというイベントを前にして多くの男子は「めんどくせぇなぁ~」とか「フォークダンスだるいなぁ」とか、かなり鋭角に斜に構えて見せることしかでしか、自分を制御することができませんでした。
そう。あまりに『嬉し恥ずかし』が過ぎたのです。
そして「めんどくせぇ~」とか言いながら、本番は心躍りすぎで抑えるのに四苦八苦で、手汗べっとりです(笑)
この感じ。
この時にあった『嬉し恥ずかし』な感覚こそが、生きることのきらめきではなかっただろうか? と気づいたのは、それから10年以上が経って、自分の人生からそれが完全に失われてしまった後のことでした。
そして失った後になって、この『嬉し恥ずかし』な感覚がどれほど日常に生命を与えていたのか、それを取り戻すことがどれほど難しいものなのかを知りました。
こういう感覚は、それを強制してくれる存在がなければ成り立たないものです。決して自分が望むだけでは不可能なのです。
嫌がっても斜に構えてもそれを強制してくれる体制側の人間が必要なのです。
だから、僕もいつか何かを主催したり仕組みを作る側に立つことがあるとしたら、この『嬉し恥ずかし』な感覚を提供することが主催者の善意だなと、そんなことを思っていました。
プレゼン練習会には時折、それが生まれます。昨日のプレゼン練習会ビギナーは『嬉し恥ずかし』が場をきらめかせていました(笑)
そして今年の暮れに開催しようとしている音楽フェス。
これは更に色濃く嬉し恥ずかしいのです(笑)もう考えただけで恥ずかしくてプルプルするけど、やっぱり嬉しいのです。
この感覚を生み出せること、体験できることを嬉しく思います。
プレゼン練習会後の食事会で音楽フェスの開催を提案してくださったお二人、そしてそれにキラキラしながら乗って来てくださった皆さん。ありがとうございます。年末に向けての個人練習も含めて楽しい時間にしましょう。
『嬉し恥ずかし』は人の心の奥底をキラキラさせ人生を活性化するとともに、その人の設定している限界を広げてくれます。
終わった後に、清々しいやり切った感と、自分の違った側面に出会えていたらいいですね。
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