東京に向かう新幹線が品川に着き、山手線に乗り換えて仕事場の代々木に向かう。
電車が動き出すとともに仕事モードに立ち上がっていく自分の内的感覚にも、車窓から見える街の景色にもいつも少し気分が高揚する。
ここは東京。僕らの都だ。
その電車の中でいつも聞きたくなるのがこの曲。
本当にこの街はヒエラルキーを形成していて、これほど残酷に魅惑的に格差にさらされる場所はそうはないだろうと思う。
頂上にあるものも最底辺も振り幅広く全てここにある。
でもそのヒエラルキーは、どの階層にも等しく居場所が残されているということでもあり、
置き場に困った自分の特異さにも居場所を与えてくれているという意味では、ここはとても優しい街でもあるようだ。
自分がどれだけ変わっていようともどんな感覚を忍ばせていようとも、誰も白い目で見ないし排除もしない。
ただ背景の1つであるかのように通り過ぎてくれる。
その感覚が最初とても冷たく独特の孤独を刺激したが、今はそれがとても優しく居心地良く感じる。
1日に驚くほどの人数の人達と空間を共にし、時にはギュウギュウ詰めで肌を合わせながらも、
私たちは圧倒的に誰とも出会わない。
この素晴らしき無関心。
私が誰であろうとどこから来てどんな姿をしていようと誰も関心払わずに、そっと優しく通り過ぎてくれる。
関心が払われないことで得られる独特の自由がある。
それによって初めて居場所を得るような曖昧な自分がいる。
本当に面白い場所だなと思う。
ある時に気が付いた。
東京には華やかで面白い場所がたくさんあるのに、なぜ自分は畳の安ホテルに泊まり代々木で仕事をして安い富士そばを食べるような、慎ましやかな生活を送っているのか。
どうやら僕は、60~70年代の空気感。野心を持って田舎から上京し、貧乏に耐えながら成功を夢見た無名のアーティストたちの意識をなぞろうとしているようだった。
四畳半に象徴される彼らの見た夢と、中心への距離とそこで破れて行った者たちの思いに寄り添おうとしていたのだ。
そして、そんな内的な活動もやがては終わり、今度は漱石の「三四朗」にあるような学問と東京へのあこがれと失望のような少し高尚な意識をなぞるようになり、
それが終わるとまた次に行こうとしている。
階層化して保存されているこの街の密度の高い集合無意識の記憶を1枚1枚、
ページをめくるように体験しようとしている。
ヒエラルキー。
階層性。
それは残酷でもあるが優しく、そして面白いものだなと思う。
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