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部屋から脱皮すると自分がこぼれ出した

東京でのホテル暮らしを終えて我が家に帰ってくると、勝手に自分の中の何かが停止して、どうにもこうにも面白くない。

今の自分にとっては…という限定付きで言うならば、自分の家や部屋や帰る場所があるというのは、何かもう違うのではないかと、そんな風に思えてきている。

この部屋が無ければ、どこにも自分所有の場所が無いとすればと空想すると、羽が生えたように心が軽くなる。気持ちが動き出す。

自分の場所が無く、常に自分を流動させ続けなければならない状況は、出不精な自分にはちょうど良いのだろう。

それにしても、いったいいつからこんな風に感じるようになったのだろう。

昔は自分の部屋と自分の自我が一体化していたように思う。

少年時代、初めて自分の部屋を与えられた喜びは自我確立の喜びであった。

その部屋に少しずつお気に入りのアイテムを増やし快適な配置を作り、憧れを飾り付け、そうやって自分だけの場所を作ることが喜びだった。

それがやがては家族が住むマンションへと拡大し、マイホームとなり、拡大し発展して行く。

それに伴って、自我は満たされ揺るぎない土台を得る。

働くというのはその外に出て活動することで、内である家や部屋の中に富を持ち帰ることだった。

部屋こそが私という内面を広げる容器であり、本来の私に戻る場所だった。

そこに一つ一つお気に入りのアイテムを増やしていくことが、自分の欲望の中心だったはずだ。

でも今は自分の部屋というものに興味が無い。

そこにいても、それが自分の部屋だと思うと重く感じる。

自分の所有物となってしまった物は、外の社会との関わりや緊張や流れが生まれず、停止しているように感じて、そういったものに以前ほど心が喜ばなくなってきた。

家を買った時、子ども部屋より親である私の書斎を優先したのだが、今はその部屋も中学生になった娘が使った方が正解な気がしている。

この家の主役は彼女たちだ。私ではない。

それにしても、まさかこんな風に感じる時が来るとは、過去のひきこもり気味の自分に教えてやりたい。

部屋に自分を同一化させていた時代が終わり、街に自分を同一化させる時代が来て、さらにまたその先もあるのだろう。

自分に執着していた時代から、家族へと自分の範疇を広げた時代があり、やがて同時代の集合意識を自己とする時代へと境界線は広がっていく。

自己同一化と脱同一化を繰り返して、自我は希薄になり身軽になり自由になっていく。

大人になるとは本当に面白いものだ。

ちゃんと今来ている流れを見逃さずに従うならば、驚くほど変な人になっていくんだな。

なんという軽さ。

ベッドメイクが入ったホテルには、昨日の自分の痕跡すら無い。

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