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『ベルセルク』とあちら側の世界

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正月休みに漫画『ベルセルク』を読もうと、全36巻をまとめ買いしていたのだが、読み終えてショック。

この漫画、まだ完結してなかった…。というより完結する気配すらない…。

調べてみると、もう20年も連載しているのに、作者自身も自分が生きている間に描き終えられるかどうか分からないと言っているらしい。

漫画家という存在が面白いなと感じるのは、イメージ世界、つまり心象の世界に深く没入して行くことで、当初、作者自身が想定していたのとは違った世界に移行し、思ってもみないストーリーを進めてしまうような変容が起こることだ。

作者が描いているというより、あちらの世界から描かされているような、そんな風にさえ感じる。

そういう次元に移行した漫画家は筆致が変わり、絵の技術が急激に高まったように感じたり、物語になんとも言えない深みや凄みが出てくる。

例えば有名どころでは『幽遊白書』の冨樫義博氏は描いて行く中であっちの世界にブレークスルーして、最初と最後では明らかに違うレベルの漫画家になっている。

これを昔の人達は「神意が宿る」と言った。

最初な人間の知識と経験のレベルでやっていた仕事が、神意が宿った瞬間に技術が格段に高まり、表せる世界も深遠で芸術性を備えたものになる。

幽遊白書が面白かったのは、あちらの世界の深淵で豊穣なイメージ世界を垣間見せたと同時に、そのイメージを筆で表すことの身を削るような困難さも同時に表していたからだ。

冨樫氏は今でも遅筆で、通常ではありえないくらいに休載が多いが、描く世界の緊張感は比類なきものだ。

あっちの世界に行った人の筆はやはり凄い。

『ベルセルク』も途中からその凄みが出てきた。

最初は作者の創造のものだったのが、ある時、あちらの世界のものに変わった。おそらくどうしてこのようにストーリーが展開していくのか、作者自身もわからないような部分があっただろう。

そしてそれがストーリーを進めていくと、どこかで整合して全体像が見えて、それに作者自身が驚いたりする。

そういったあちら側に属した作品。人間の思考と計算の作りものというレベルを超えてしまった作品に僕は触れたいと思う。

それだけ作り手が払う代償も大きいのだけど。

以下は『ベルセルク』の作者のここ20年のあとがきの歴史。

これがなかなか凄まじい。

***以下引用***

40℃の高熱でダウン。考えてみれば今年はまだ2日しか休んでない。(1993年・12号)

7月で27歳、ふり返ればマンガだらけの27年、これでいいのか?(1993年・14号)

な~~んもせんのに5キロやせた。なぜだろう???(1993年・21号)

この2か月で平均睡眠時間が4時間を切った。これでもうすぐ里中さん。(1993年・23号)

毎年の事だけどクリスマスも正月もお仕事。たまにはおせちが食べたい。(1994年・3号)

引越し以来、平均睡眠時間が4時間を下回る。ガ、ガンムになる。(1994年・16号)

ひと月半ぶりに休みがとれて外出したら熱射病にやられた!!(1995年・17号)

7月で30。振りかえれば金太郎飴の様にマンガばかり描いてたな。(1996年・12号)

マンガ家人生初めての大連休は沖縄へ。4日中2日半を熱射病で倒れてました。(1998年・19号)

ふと思う。死ぬまでに今のアタマの中にあるものすべて出せるのか?(1999年・12号)

マンガ家暦13年、初めての一週間強のお休み。久米島にダイビングの免許をとりにいく。友達は忙しいし、彼女もいないので一人で行く。(2001年・10号)

長い間、人に会わないと口がうまくまわらなくなる。(2002年・7号)

2年間着信ゼロ。携帯解約しよ。まずしい人間関係が私を机に向かわせる原動力。(2002年・21号)

今年もマンガが描ける世の中が続きますように。(2003年・2号)

ひとりの時は忙しいし、メンドっちいので、三食シリアル。(2003年・19号)

ダンボールに囲まれて暮らしています。(2004年・13号)

30代もあとわずか。マンガ以外何もないイビツな人生だが、もうとりかえしがつかないのでこのままGO!(2006年・2号)

休載の間もずっと兵隊を描いてました。(2007年・3号)

***引用終わり***

『ベルセルク』という作品によって人生が侵食されていってる様子が窺える。

この感じ、とても良く分かる。

大変だなと思う一方で僕らは、このような偉大な仕事によって、自分の生命を使い果たされてしまうことにどこか憧憬に似た感情を持っている。

自分が生きている間に真に偉大なる仕事に出会って、それによって自分の生命を使い果たされたい。

そのようなレベルで成された作品はやっぱり見ていて違うものだ。人智を超えて神々しいとさえ言える。

工業製品でいうとジョブズの作ったMacやiPhoneにはそれがある。

僕にとってスピリチュアルに生きるというのはこういうことだ。

前世がどうとかオーラが何色とか守護霊が見えるとかそういう話ではなく、スピリチュリティーとは偉大な仕事の中に宿るものだ。

偉大なる創造の意図に、自分の生を捧げた時に出てくる感覚。

全体の一部となることの至福。

漫画でも映画でも文学でも商品でもいい。僕は偉大な仕事に触れたい。そして偉大な仕事によって使い果たされたい。

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