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嫌われる勇気

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最近、個人的に茂木さんが面白いんですよ。

あの脳科学者の茂木健一郎さん。もじゃもじゃ頭の。

以前何冊か著書を読んだことがあるしテレビでも見たことがあるんだけど、テレビの茂木さんってテレビ用に大人しくしてるんですね。

YouTubeとかで見ると熱い上に、時には多動かと思うようなスイッチが入る時がある。

もう創造性がとまらない!って感じで、本当に楽しそうに脳を使っている。

社会学者の古市憲寿さんが一緒にパネリストとして出てて最後のコメントで、「僕も落ち着きないですけど、茂木さんがほんと落ち着き無くてびっくりしちゃいました」って(笑)

人が喋ってるのに横で変な運動をしたり。

本人曰く、人の話を聞くだけだと脳の負荷が足りなくて他のことやりたくなっちゃうって、分かるけどやな…(笑)

でも見てると気持ちが自由になるんですよね。

楽しそうだし情熱が凄いし、知の高揚感みたいなものが伝染してくるんです。

で、面白いのが、

古市さんの前で日本の社会学は学問として終わってるって言ったり、

運営元の社長である藤田さんの前でabemaTVをディスったりする人なんだけど。

そして、最近では「日本のお笑いはオワコン」 「国際水準のコメディアンとはかけ離れている」とか言って、炎上して批判を浴びたりしていたわけですけど、

別の所(藤田さんの前でAbamaTVをディスった席)でこういうことを言ってるんです。

「僕、高校の時ニーチェを読んで二十歳の時ミルトン・フリードルマン読んだのがものすごく影響を与えていて、

僕の人生の一貫したミッションはより自由になりたいってことなんですよ。僕はリバータリアンなんです、簡単に言うと。

で、30代、40代、50代と常にその命題との格闘だったと思うんですよ。

意外とこれは難しくて、例えばさっき(藤田さんの前で)abemaTVをディスってましたけど、

「藤田さん、abemaTV素晴らしいですね~!」って言うのも自由じゃないんですよ。でもここで藤田さんと決別してしまうのも自由じゃないんですよ。

僕さっき地上波テレビをディスったけど、付き合ってるんですよね。出演の依頼があれが出るんですよ。

大学もディスってたけど大学で教えたり博士課程の学生の指導をしたりしてるんで。

これは特に日本ようなピア・プレッシャー(仲間からの圧力)の高い社会で生きているみなさんによく考えてもらいたいんだけど、

例えばマーケットに合わせたものを出すって儲かるだろうけど、レッドオーシャンでブルーオーシャンに行けないですよね。

だからと言ってマーケットとあまりに違うものを出しても空振りになって、会社傾きますよね。

そこの微妙な間合いの中に自由ってあると思うんですよ。

僕はずーっとそれを探ってきているような気がします。

最近モハメド・アリさんが無くなって動画が色々出ていて見てたんですけど、1分位こうやって相手の打ってきたパンチを全部かわすみたいな動画がありましたよね。

モハメド・アリさんて結局ヘビーウエイトで物凄いパンチもあったけど、相手のパンチを受けないということで、試合を(コントロールしてきたんですね) そうするとものすごく相手のパンチを見ないといけないわけじゃないですか。

なんか自由ってそういうところに似ていて。

中略

俺はいまだにそこを探ってる気がするですよ、50になりますけど。

こうして不規則発言をしますよね。田中さん(司会者)とかすげー焦ってると思うんですよ。

不規則発言しちゃうんだけど、やっぱりその時の皆さんのリアクションとか世間のいろんなこととかを見ながらパンチを受けないように必死になってかわしているところがあって、そこの間合いの中で…以下略」

なるほどなぁと思うんです。

僕は日本的な礼儀作法とか文法を重んじる中での自由というものを見てるわけだけど、そして確かに礼儀作法が無意識に自動的に扱えるようになると変な攻撃は受けずにストレスなく、気遣いからは自由でいられるわけだけど、

それによって損なわれているものって大きいのかもしれないなと。

変な音を出して他者と不協和音を作る中にある自由は、刺激と創造性が高そうだなと、新しい可能性を感じたのでした。

少なくとも僕が意識したことのない種類の自由だなと。

その後、お笑いをディスった問題でワイドショーにまで取り上げられるようになったわけですが、

茂木さんはその後AbemaTVに出演してウーマンラッシュアワーの村本さんと2時間に渡って、日本と海外のお笑いについて語ってるんですね。

その後、松本人志のワイドナショーにも出演して、パンチを受けたりキャラを使ってかわしたりしている。

批判した対象から逃げずにむしろ近づいていくんですよね。

これが彼の言う間合いであり、その中に現れてくる自由と刺激(ヒヤッとするような緊張感も含めて)の価値は、彼にしか分からない質のものだろうなと思うんです。

だから、今回の茂木さんの言動を見て「やっぱりああいう発言はダメだよね…」というのは違うんですね。

それだと逆なんです。より強いピア・プレッシューの中に自分を絡め取ってしまう。

批判しておいて決別もせず屈託なく近づき対話を深めたり、パンチをよけるつもりがめった打ちに合ったり、謝って反省したりしながらもまた節操もなく自分の意見をツイートし続ける茂木さんの在り方に、自由と希望を見ないといけない気がするんですね。

僕は100万部を超えるベストセラーとなった「嫌われる勇気」にはあまり感銘を受けなかったのだけど、茂木さんの行動の中に立ち現れている嫌われる勇気と自由にはとても励まされるんですよね。

心を開放してくれる感じがするんです。

ここ最近の僕は人生が安定し過ぎて、飽きてしまったような妙な感覚に包まれていたのだけど、

今後進むべき僕の未開の地は相手のパンチの間合いや、パンチを打った時に生じる懐のスペースあたりにあるんじゃないかと考えたら、なんだか元気が湧いてきたんです。

もっと打たれないとね。

ここではない何処かへ行くためのツール

最近の執筆活動の中で随分助けられていて、無くてはならない存在になりつつあるのがこの本。

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天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

モーツァルト、フロイト、カフカ、トーマス・マン、ピカソ、サルトル、アシモフ、ナボコフ、イエーツ、フェリーニ、マルクス、サティ、などなど。

歴史に残る小説家や画家、作曲家、映画監督など、161人の創作のための習慣ばかりをピックアップした本。

1人につき2、3ページで紹介されている。

読んでみると分かるけど、朝型の人もいれば夜型の人もいる。

立って書く人も入れば、完全にベッドに横になって器用に書いていた人(カポーティ)もいる。

散歩を習慣にする人が多いが、酒や煙草で健康を蝕みながら書いていた人(J・P・サルトルなど)もいる。

***

最近なぜか朝型人間になっている私は、目が覚めると朝日の入る部屋で机に向かい、バロックミュージックを流して、まずはこの本を手に取るようにしている。(文章にすると、なんだかとてつもなくカッコ付けてる感があるが…(笑))

ペラペラとページをめくりながら何人かの創作習慣を読んでいるうちに、自然に文章を書く気分になってくる。

偉人達の創作現場で繰り広げられたであろう、決して派手ではない日々の時間に想像力を広げていると、自分の日々のルーティンと向き合うことがそれほど嫌ではなくなってくる。

そうやって本を読んだ後に入っていく集中モードがある種独特で、日本的な集合意識からするりと抜け出したような軽さがあって、とても気に入っている。

意識が自由で、言葉が流れやすくなるのだ。

だから、常にデスクの上にこの本を置いて、疲れたらパラパラと読むようにしている。

こうやって自分の状態管理をしているわけだ。

このようにある特定の意識状態にチューニングして、いつでもその想念世界を呼び出すせるようにするには、

いくつかの要素を固定することがポイントになる。

まず1つは場所。

どこで仕事をするかによって、そこで受ける氣の質が固定される。

方角、窓や太陽との位置関係。それらによって微妙に感覚が変わる。

試しにいろんな場所で仕事をしてみると、この仕事はこの場所が合う、というような特徴が分かってくるものだ。

そして固定するべきもう1つの要素が時刻。

午前中には午前中、夜には夜にうってつけの仕事がある。

そして同じ午前中でも細かく感じてみると、微妙に違う。

例えば私にとって掃除は、朝の氣の中でやると宇宙と調和したような正解感があるが、それは早朝ではない。

9時~12時くらいがぴったり来る。

それ以上早い時間は身体を動かすよりも、意識を静かに内向させるような静謐な空気感がある。それは創作のためのものだ。

外側の世界がその時に発している氣の質と、自分の仕事を調和させると、かなり深い(こういう言い方が許されるならば「スピリチュアルな」)充足が得られる。

仕事をすることで体力は消耗するのだが、気持ちは充足する。

そしてもう1つ使えるツールが音楽。

その時に必要な想念世界に意識をチューニングするのに、音楽はお手軽かつパワフルなツールだ。

アーティストによって召喚できる世界の波長が違うので、自分に今必要な波長を持ったアーティストを選んで意識を調整することができる。

更にもう1つが、先に上げたように「本」だ。

『天才たちの日課』を読んで海外の偉人の習慣に触れることで、日本の集合意識から抜けだして、偉人達の創作の世界に意識を結んだように、

本から得られる世界観と氣を借りることができる。

そうすると、独特のリズムを持った言葉が流れてくるし、書くことを通じてその世界の氣質を文章に反映させて、それを読者に届けることができる。

妙なこと言っているように聞こえるかもしれないが、そのような人生の作り方もあるのだ。

場所、時刻、音楽、本、などを使って氣と想念世界をコラージュのように織りなすことで、独自の意識場を作り、その中で仕事をする。

そうすると、その場の感覚がやがて形になって現実生活に立ち現れる。

大切なのはある独特なフィーリングを長期的に保ち続けるための方法とツールを持つこと。

ここではないどこかへと行くためのツールだ。

あなたはどうだろうか。

あなたが内的に静かに研ぎ澄まされて充足するような、特別なフィーリングに入っていくには、

どこで、どんな時間に、どのような音楽が合っていて、そしてどのような本がその世界に招待してくれているのだろうか。

先人達の偉大な作品が、様々な想念世界への門を開いていてくれる。

そしてあなたが望めば、その世界に行ってそこの氣を受けて仕事をすることができる。

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

この本は本当に清々しいほどにクリエイティブな氣を発する本なので、文章を書く人やなにかしらの創作の習慣を作りたいと思う人にはお勧めします。

隣の芝は青い

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昨日の夜中の2時。

憂鬱映画を見るにうってつけな気分になって(笑)テレビのブラウザ上でAmazonプライムビデオのコンテンツを物色していたら、

『さよなら渓谷』という日本映画が、今の自分にぴったりな気がして、

実際に観てみたら自分の好みドンピシャ。

男女のどうしようもない業の深さと不可解さ…という大好物のテーマで、大満足で眠りについたわけだけど、

それにしても思うのです。

DVDを所有するわけでもレンタルするわけでもなく、家にいながらにして数千のタイトルの中から今の自分の気分にピッタリの映画を選んで、即再生することができる、このAmazonのサービス。

それがプライム会員は無料(つまり月額にすると325円)って、本当にそれで良いのだろうか。

更に最近お気に入りのAmazonMusicというサービス。

こちらも同じくプライム会員は無料で100万曲超の楽曲を再生し放題。

気分に応じたジャンルを選択すると自動的に楽曲が再生され、好みでなかったらスキップすると新しい曲に変わる。

良いと感じた曲はいいねボタンを押すと、その人の好みを学習して再生リストが最適化されていく。

気に入ったタイトルをストックして後で再生することもできる。

(ちなみに今、ボサノバのジャンルで再生していたら、聞き覚えのある日本人ヴォーカルで、誰?と思ってジャケットを見たら初音ミクだった(笑))

Amazon恐ろしいですね。

TSUTAYAやGEOのビジネスモデルを無効にしてしまう力がある。

そういえば先日TSUTAYAに行くと、CD旧作レンタルを10枚1000円のサービスをやっていて、安すぎるやろ!と驚いたのだけど、

店員に聞いてみると、一時的なキャンペーンではなくこれからもずっとこの値段で行くと言う。

TSUTAYAは映画などのDVDの旧作もいつのまにか100円になっているし、GEOは50円だったり。

ここまで来ると、本当にソフトを販売するようなビジネスモデルは終わったのだなと思う。

映画や音楽は人類共有のリソースとなり、月々数100円で一生かけても消費しきれない量の作品にアクセスできる。

えらい時代になりました。

所有するということが、どんどん滑稽な行為のようになっていくのだろうか。

もはや自分のハードディスクにすら所有する必要が無くなってしまった。

そして今、これを書いている部屋の窓から見える景色、僕の心を癒やしてくれる木々の緑も僕の庭のものではなく、他所の家の庭の木々なのだから(笑)

『隣の芝は青い』ということわざの持つ意味はとても20世紀的なもので、

21世紀を生きる僕らは、自分の庭など持たずとも隣の芝の青さを堪能できることを隣人に感謝しつつ、

全ての庭仕事から開放された心の自由を楽しむ、というのが正しい在り方なのかもしれない。

自分で所有するという古い観念からするりと脱皮してみれば、僕らは既にとてつもなく豊かなのだということに気付く。

 

バージョンアップの時期ですね

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そろそろ仕切り直さなあかんなぁ。気持ちも人生も。

なんとなくそんなことを感じています。

まずは部屋やオフィスのいらないものを捨てることかな。

そして手付かずになったままのものに手を加え意識を注ぎ、生き返らせることだな。

淀んだ水が溜まったままの水瓶を綺麗にしてメダカを泳がせるとか。

読み終えた本を売るとか。

使わずに残したままになっている物を処分するとか。

それにしても思うのは、物を買ったり手に入れたりするのは簡単なんですよね。

一時の興奮と共にお金を払えば良い。

でも、その物がちゃんと役割を果たせるように使ってあげることはそんなに簡単じゃない。

買った雑誌が、「ああ。ありがとう。もう全部伝えましたわ。絞り出されましたわ。ほんま雑誌冥利に尽きますわ~。」言うて成仏できるくらいまで使って上げることは簡単じゃない。

で、役割を果たせずに残っているものに囲まれてると、どんどんエネルギーが淀んでいくんですよね。

心が重くなり、人生を流す力が弱まっていく。

身の回りの全部の物たちが過不足なくあるべき場所にあって、それぞれの物が皆、自分の潜在力を100%近くまで発揮して貢献しているような部屋に住むと気持ち良いだろうな。

ホテル住まいは気持ち良いもんな。

もう一回、身の回りの物たちを見直そうと思う。

時代も内面もどんどんバージョンアップして行ってるのに、身の回りの物たちがついて行けてない感じ。

所有するということがどんどん負担になってきている気がする。

まずは限界まで縮小させて、それからまた新しい何かを広げようと思う。

今って、流れ的にたぶんそういう時期なんですよね。

瞑想するとずっとそういう感覚が出て来るもんなぁ。ずっとスルーしてきたけど(笑)

みなさんも、一緒に仕切りなおしませんか?

掃除して断捨離して、身軽になりましょう。

そして2016年バージョンに刷新しましょう。

そうやってGWには身軽になって、「あ~。気持ちええなぁ~。春やなぁ~」って言いましょうね。

みんな秘境を目指している

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昨日は21時くらいに子供と添い寝してたらそのまま一緒に寝てしまって、気づけば夜中の2時だった。

こういう時はいつも時間を無駄にしたと凄く後悔するのだけど、

昨日は気づいた。

夜中の2時に目が覚めて家族みな寝静まった中で時間が動き出す感じ。

夜が深くてちょっと憂鬱で、世の中の流れから切り離されてしまったような感覚。

この感じは映画を観るのに最適な意識状態だ。

普段からもう少し映画を観たいなとは思っていたけど、仕事をしつつ家庭を持つ父でもある日常の中では、映画を観る感覚に意識をチューニングすることが難しいと感じていた。

でも、世の中から切り離された深夜なら行ける。

そして有り難いことに今の時代、TSUTAYAに行かなくともAmazonプライムビデオでその時の気分に合わせて映画をチョイスすることができる。

これは新しい感覚だ。

ちょっと憂鬱っぽく人間の業に触れるような感触の映画を観たいなと思って、テレビのホーム画面で「邦画」を選んでタイトルをスクロールさせていく。

園子温監督の「冷たい熱帯魚」 ちょっと暴力的すぎるかな…。

「蛇にピアス」 吉高由里子のヌード見たいだけだな…。

「空海」 興味はあるけど今はそっちじゃないな…。

本当にたくさんの映画が出てくる。(これが年(月ではない)3900円とは、AmazonはいずれTSUTAYAのマーケットも奪ってしまうだろう)

結局、適度に憂鬱そうな田口ランディ原作の「コンセント」を選んだ。

そこそこに面白かった。

奔放な女の性(エロス)精神療法(サイコ)、死、シャーマニズム、そういった記号がまだ神秘的な魅力を放っていた90年代後半だからこそ力を持った作品で、

そういうのを観ていると、今の時代はエロスやサイコ的なものが放つオーラや神秘が剥がされた後の時代なんだなということが良く分かる。

それらの記号をこれ見よがしに提示して来るのだけど、今を生きるこちらとしてはもうそれに大した驚きも反応もできないので、演出が上滑りしていくように感じられる。

でも、それと同時に「あぁ、90年代なら…」と、当時の感覚を思い出して懐かしい気持ちになる。

時代は流れているし人の意識は進化しているんだなと、そんなことを感じさせてくれた。
(あるいは単に僕が歳を取っただけか)

期せずして露わになった市川実和子の華奢な裸体の美しさにも、発作的に男を求める色情にも、畏怖するべき女の性も業も感じられずただの記号になってしまっていた。

あれから随分世の中は情報化したのだ。

かつては神秘をたたえ、空想するしか無かった世界の秘境もGoogleのストリートビューにキャシュされていくこの時代。

いったい僕らが目指すべき神秘や冒険はどこに行ってしまったのか?

秘境はどこに残っているのか?

そう問えば、みんなそれぞれにそれぞれが思う秘境に惹かれてそこを開拓しているんだなということがよくわかる。

僕にとってそれは記号としての『サイコ』なものの中にあるのでもなく、海外を旅することの中にあるのでもなく、女の子のスカートの奥にあるのでもなく、

言語化できていないものを言語化することで内的世界を耕していくことと、創造性を発揮して現実を作り変えるためにリスクを取ることの中にあるんだなって。

そんなことを改めて考えたり。

映画の主題とは全く関係ないことにあれやこれやと心を泳がす。

深夜2時の映画鑑賞はとても贅沢な時間でした。

真心を発見する

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ベッキーがやらかしちゃいましたね。

初のスキャンダルが不倫だとか。

相手に妻がいることを知っていながらの恋愛。

そしてどこから流出したのか、LINEのやり取りまで明かされている。

その中には「卒論」という表現で「離婚届」を提出するために話し合っている2人のやり取りがありました。

好感度タレントのベッキーのスキャンダルということで大騒ぎになっていますが、みなさんはどう感じていらっしゃいますか?

いろんな声が上がっていますね。

「売れない時代を支えた奥さんを売れた途端に捨てるなんて、奥さんの悲しみははかり知れない。」

「ベッキーも結局はそういう人間だったんだ!」

「離婚届を卒論と言って嘲り笑うなんて、最低!」

などなど、

いろいろありますが、誰もがこの出来事を通じて自分自身の恐れを見ているのですね。

相手の奥さんがどんな人で、二人の間にどんな歴史があってこの決断に至っているのか、それは当人にしかわからないことです。

でもそこに「捨てられる女の物語」を投影する。

それは自分自身の無意識に潜む恐れであって、バンドの男性もその奥さんもベッキーも本当には関係のない話です。

同じように、あのLINEのやり取りを見て、奥さんのことを馬鹿にしていると感じる人がいる。

離婚届を『卒論』と表現していることを蔑みだと感じる人もいる。

でも、逆に『卒論』という表現に、できるだけ誰も傷つけたくないベッキーの優しさを見る人もいる。

LINEのやり取りに、自分の出来る限り奥さんへの配慮や思いやりを持ちながらも、それでも自分の愛に忠実に生きようとする女の強さを見る人もいる。

見え方は人それぞれ。

皆そこに『自分自身の内面』を見ているのですね。

自分の中にあるものを通じてしか、人は外の現象を理解できないということです。

話は変わりますが、私は世界最高峰であるサッカーのスペインリーグを見るのが好きなのですが、

今シーズンからスペインリーグに移籍した日本人に、乾貴士という選手がいるのです。

なかなかチャンスを活かせずに苦戦していたのですが、先日ようやく初ゴールを上げたのです。

それも見事なカーブを描いてゴールポストの右隅に吸い込まれた美しいゴールです。

それを見て「良かったなぁー」って。

「ほんと良かったな~、乾!! 良かった良かった!」って、自分の息子を想う父親のような喜びと祝福が自分の腹の底から沸き起こってくるんですね。

嬉しくて嬉しくて。

その何の混じりっけもない祝福のエネルギーに自分が包まれて、

相手を思う以外に何の打算もなく純粋に喜べる自分の心を体験して初めて、

無意識は知るわけです。

もしかしたら、私の周りの人達も同じように私を打算無く祝福してくれていたのかもしれないと。

もしかしたら人間はそれほど醜い生き物ではないのかもしれないと。

この世の中は本当は自分が思っている以上に愛が溢れているのかもしれないと。

そうやって、自分の中に沸き起こるものを通じて世界観は更新されていくのです。

ベッキーが問題なのではないのですね。あのバンドの男が問題なのでもない。

世の中が汚れているわけでもなく、

人は自分の中に真心を発見するまでは、

そしてそれが何があっても揺るぎないのだと確信できるまでは、

悪意のある世界に恐れとともに居続けるということです。

少年Aの「絶歌」出版について思うこと 〜被害者と加害者の絆について〜

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神戸児童殺傷事件の少年Aが本を出版したことが物議を醸しています。

彼にしか書けないのだから出版には大きな意義があるという意見や、遺族への配慮が成さすぎるという意見や、表現の自由は守られるべき…。少年法の陰に隠れて匿名で印税を稼ぐのは卑怯、などなど。

それらの意見はそれぞれの立場において一定の正しさがあると私は思います。

だから、改めて1つの立場を選んでその議論に参加しようという意図は無いのですが、心理療法家として遺族の癒やしという面から、言っておきたいことがあります。

私が心理療法を学ぶ中で最近最も驚いた法則は、

自分の家族の誰かが殺された場合、その家族を殺した加害者は、自分の家族の一員として迎え入れられることになる…、というものです。

なぜ加害者が被害者家族の一員にならないといけないんだ!?と思うのだけど、どうやらそれが法則のようなのです…。

殺害によって生じた空白は何かが埋めねばならず、それは心理的に加害者を家族の一員に迎え入れることでなされるのです。

殺人によって破壊された家族の痛みは、加害者との絆によってしか本質的には癒されえないのです。

だからこの神戸児童殺傷事件の、2人の被害者の両方の遺族が20年近い歳月をかけて、

共に少年Aの更生を願うようになり、

彼のこれからの人生を、まるで親心のように大切に思えるようになっていったことは、癒しのプロセスが正常に働いている証拠でした。

それだけに、今回のことは残念でなりません。

本の出版に関して、言論の自由がどうとか、それはまた別の話です。

長い歳月をかけて進めてきた癒しのプロセスと絆を、もう一度改めて破壊した「暴力」が問題なのです。

ここはできることならば2,3発ぶん殴ってやるべきところですね。

「馬鹿者が!」って、「この親心が分からんのか! もうどうしたってお前は俺の息子なんだ!」って。

なんならボッコボコに。

変な話ですが、癒やしの方向はそっちなんですね。

今回のことで親心は踏みにじられたのです。

多くの子供が思春期にやるように、親心は裏切られたのです。

でもそこで改めて怒り心頭となり、ぶつかり合うことでこの経験は糧となり、親子の絆はむき出しになり、そして深まるのです。

どうしようもないバカ息子と、その更生を願う親との絆が、深まるのです。

裏切られたと傷つくのではなく、愛ゆえに怒りぶつかって行く。

本当に変な話ですが、癒しの方向はそっちなんですね。

問題は貧困ではない

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生活が困窮して、母が中2の娘を殺害するという痛ましい事件がありました。

http://mainichi.jp/select/news/20150612k0000m040154000c.html

こういう事件があると考えてしまいますね。

愛する娘を殺すほど追い詰められるって、どんな心境だろうと。

でも本当に怖いのは貧困ではないのです。

なぜそういう悲惨で不幸な物語を選ぶのか。自滅の物語へと進ませるのはどんな力が働いているからなのだろうか?

そこにこの事件の真相があるんですね。

なぜ生活保護を一度断られたくらいで大人しく帰ってくるのか。娘の命がかかってるくらいなら食い下がっていけばよいのに。

なぜ立ち退きの人に自分の状況を話さないのか。

副業がダメって言われたらなぜ他の仕事を当たらないのか。っていうか隠して他の仕事すれば良い。

そもそも借金のある男となぜ結婚したのか?

そしてこの貧困の結末をなぜ、想像できるかぎり最も悲惨な娘殺害という形に締めくくったのか。

追い詰められたら火事場の馬鹿力で「母強し」となり、途方も無い力が出るはずなのに、なぜこの人は無力なままだったのか。

そこには根底に大きな力が働いているように感じます。

おそらくその無意識の働きに本人も気付いていないはずです。

セラピーを通じて、こういう行動の無意識の意図を解いていくと、だいたい現れてくるのは次のような思いです。

「ほら、お母さん。私はこんなに不幸だよ。こんなに不幸になったらお母さん愛してくれる? 私は不幸になることでお母さんのそばにいるよ。」

お母さんに自分の不幸というものを捧げることで、心の中で母のぬくもりを感じているのです。

だからこの不幸への誘惑は甘味なのです。

この自分のやっている深層の意図に気付き、衝撃を受けてようやく人は違う選択をできるようになります。

逆にこのことに気付かなければ、本当の解決にはなりません。

どんなアドバイスをしても「でも…。」と否定され、上滑りし、本人は不幸にとどまろうとします。(みなさんも経験ありますよね?)

今回の裁判では、如何に困難で追い詰められていて如何に不幸だったかが被告の言葉で語られたようです。

それは自分の罪を軽くするための供述ではなく、不幸の物語を強化するための供述です。

つまり裁判ですら、この「不幸を捧げる」という物語の内にあるのです。

そして、世論としては「生活保護の窓口はもっと慎重に詳しく聞かないと…」となっていくでしょうし、一方で生活保護を減らせと言われるし、市役所員は混乱します。

本質じゃないものに対策しようとするのと、ちぐはぐになるのです。

でもそもそも無理なのです。

貧困になることを自分で意図している人間は、他者には救えません。

そもそもこの問題の本質は貧困にはありません。

貧困ごときに愛する娘を殺害させるほどの力はありません。

それをさせたのは、もっと大きな愛によってです。

クレイジー・ラブと呼ばれる、子が親と同一化したいと願う狂おしいほどの愛によってそれは成されたのです。

貧困は利用されたのです。

******

さてさて、思うままに書いてきましたが、あまりに救いの無い話になってきましたね…。

明るい締めとしてお伝えしたのは2点です。

1つは、こういう問題にも本質的な解決ができて、痛ましい事件がなくなるように僕らセラピスト業界は頑張っていきますね!ということ。(我がごとか!)

2つ目は、今の時代、貧困なんて全然問題じゃないですよ。ということです。心配いりません。今回の事件は貧困とは違う問題です。だからご心配なさらずに。

愛する我が子を殺害するほどの力が人間にはあるのです。

その力を正しく使えば良いだけです。

貧困を意図しなければ、ましてや豊かさを意図すれば、僕らはまったく違った物語を選ぶことができるのです。

私淑するということ

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私淑する(ししゅくする)という言葉がある。

辞書で調べてみると、孟子の言葉からきているそうだ。

「子は私(ひそ)かにこれを人よりうけて淑(よし)とするなり」

直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。

とある。

私はこの私淑するという在り方に、何か底知れない力があるような気がしている。

フェイスブックやツイッター全盛の昨今、会いたいと思ったら大概の人にはコンタクトを取って直接会いに行き、教えを請うことができる。

でも、1人で遠く離れて私淑する力の無い者に、その教えは言葉以上の深さを持たないだろう。

私淑することの力とは、師の言葉に根源の意図を見出そうと、心の中で自己対話を深めていくことにある。

それによって師の教えや在り方が内面化し、自分の中に師が持つものと同じ種が植え付けられる。

師の中に見える才能のエッセンスを自分の中にも開くことができる。

そのような学びの際には時に、実際の師の性格や個性はむしろ邪魔になることさえある。

師を通じて見えている、師の存在の向こう側にあるイデアこそが重要なのだ。

そして私淑することの良き点は、もう既に亡くなった偉人を師とできるところにある。

でもその力は偉人の技術や方法を学ぶことにはない。その偉人の行動のエネルギーの源泉を自分の中に掘り当てることにある。

それは深い内向の作業だ。

外に出ること、つながること、表現することがことさら強調されている昨今だが、一方で私淑するという内向の作業を怠らないようにしたい。

最近になって何かを伝えるという立場に立ってみてよく分かる。

決して近寄らず何も語らず少し離れた所で私を見ている生徒の寡黙さと眼光にこそ、頼もしい力が見える。

感覚を拡張した先に

夜中の3時に目が覚めて、「あれ?目覚める時空を間違えた?」と思うほど現実感が希薄で、

こういう時はTakagi Masakatsuに限ると思って曲を聴いたり、YouTubeで映像作品を見たり、ネットでインタビュー記事を読んだりしていると、気付けば朝…。(現実が始まろうとしてる…。)

しかし、この人の幅広い才能には本当に驚く。

そしてそれを代表して数曲で伝えるのはとても難しい。

まとめサイトがあった。
http://matome.naver.jp/odai/2136806984830534201

最もメジャーなのがこの曲 『girls』映像作家でもある。

 

これぞエレクトロニカという初期の作品 『Private Drawing』

 

そして最近は日本の原風景的なものが加味されて温かさが増した 『Horo』

 

最近の作品は聞いていると本当に魂が喜ぶ。

そしてこのインタビューに激しく共感した。
http://www.cinra.net/interview/201410-takagimasakatsu

そもそも日本を代表する世界的アーティストが京都の亀岡で育って、今現在は京都と兵庫の県境の超田舎で畑を耕しながら暮らしているという事実が既に面白い。

以下、インタビューから抜粋。

『たとえば、1つの仕事で満足を得ようとすると、いろいろ無理が出てくると思うんです。僕の場合で言うと、CDだけで食べていこうとすると、音の作り方ももっと分かりやすくしないといけなくなるのかもしれません。でも他にもできることがあると思えれば、とことん自分の満足することをやって、どうしても足りない部分は他の仕事もやろう、っていう考えになってくるんです。ちょっと話は変わるんですけど、今、自然農法に興味があって。肥料をやらないから農薬をまく必要がないのはいいのですが、その代わりにそんなに大きく育たないし、量も少ないんです。でも味は最高に美味しい。これを増やすにはどうしたらいいかな? と考えたのですが、もう単純に新たに開墾して、種をたくさん蒔けば収穫が増える。身も蓋もない、ただそれだけのことなんですけど、これはいろんなことにも言えるなと思いました。』

『僕が引っ越した一番の理由が、70、80歳以上の人たちから実際に何かを引き継げる最後のチャンスだなって思ったんです。自分のこれからの20年、30年をそういう風に使いたい。作家の石牟礼道子さんなど、上の世代の人たちの作品や、国内外問わず自然に近いところで昔ながらの生活している人たちが奏でる音楽に魅了されてきましたが、そういう作品に触れて魂が震えるほど感動している部分って、自分で生み出してみたくてもできないんですね。それっぽい真似をすることはできますけれど、同じ強さの表現はできない。やっぱり元になっている体験がないから出てこないんです。山に柴刈りにいったり、火を熾したり、畑をしたり、祭りをしたり。自分の身体で体験して初めて「こういうことだったのか」と分かるものだらけなんです。』

『僕、自分の人生で究極的に何がしたいかといったら、感覚を広げたいだけなんじゃないかと思えてきたんです。解像度を上げたいというか、今まで見えてなかったところまでちゃんと味わいたい。本当だったら100まであるところを30くらいしか味わってなかったらもったいないですよね。ピアノを弾いていても、毎日少しずつ発見があって、今まで何で気付いてなかったんだろうっていう単純な事実に驚かされるんです。「ここまでだと思ってたのに、こんなに味わえるんだ!」って。そういうときが生きていて一番楽しいし、それしか求めてない気がします。本を読んだり、誰かと話したり、何かを経験したりするのも、「まだこんなにあったんや」って感じたいから。なんとはなしの不満や不安、欠乏を感じているのって、それが感じられないときだと思うんです。』
特に、『ピアノを弾いていても、毎日少しずつ発見があって、今まで何で気付いてなかったんだろうっていう単純な事実に驚かされるんです。』というような、

感覚が拡張されるような体験。

これが大切なのだと、最近はつくづく思う。

紙の上でアイデアを広げたり考えたりしていても出てこないけど、集中して文章を書くことで入っていける世界。日々のカウンセリングの集中と繰り返しの中で初めて突入できる心の深さ。

そういったレベルの微差こそが、決定的に他との違いを生み出すもので、ビジネスでもとても大切なもの。ジョブズのApple製品にあったオーラの源。

それは経営セミナーで戦略を学んだりポジショニングとかUSPとかやってても決して入っていけない芸術の領域だ。

ここで勝負できるビジネスは良い。

この領域はなかなか簡単には競合が入ってこれないので、落ち着いて丁寧に仕事ができる。

自分の内側のペースに従って生きることができる。

そのようになるためには多くの情報を集める方向だけではなくて、集中して磨きをかけることで見えなかったものが見えるようになること。

違いが分からなかったところに違いが見い出せるようになること。

そっち方向の努力が必要だ。

外側で溢れてる情報がむしろ、深く研ぎ澄まされていくことを邪魔する力になっていないか、注意しなければならない。

小説の方法、人生の作法

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ちょっと長いですが、これは文学論ではなく、ある生き方に対する提案なので、ちょっと我慢して読み進めてみてください。

****

村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」が非常に面白い。

文学というものの本質がとても良く表れているし、小説以外に多くを語ろうとしなかった村上春樹という人が、

どのように自分の生活を管理し、どのように世界と向き合っているのか、赤裸々な人生論としても読める特異な本となっている。

中でもとりわけ興味深かったのは、氏の小説観。

どういう訳か私達が体験した学校の国語教育では「作者の意図は?」とか「作者は何を伝えたかったのだろう?」といった問いを持って作者のメッセージを読み取ることが読書の中心にあり、それがあたかも正しいことであるかのような暗黙の前提があった。

でも、ある種の作家と向き合う場合において、こういった「読み」の姿勢が全くの間違いであることが、このインタビュー集を読むとよくわかる。

インタビューの中で村上春樹は「スプートニクの恋人」という作品の生い立ちをおおよそ次のように語っている。

・突然タイトルが浮かんで、わりとカッコいいタイトルだから小説を書こうと決めた。

・最初に物語や構成やメッセージがあって設計されたわけではなく、ぱっとタイトルが浮かんで、それに従って書いていると、物語が展開されていった。

・彼自身も毎朝書くことで、展開される物語にドキドキしながら書き進めた。

・そんな風に作者自身も、書き終わるまでは何を書いているのかよく分かっていなかった。

・書き終わって出版した後も、その物語がどういう意味を持つのかという点に関しては読者にゆだねている。

つまり作者の意図や伝えたいメッセージというような意識的な表現手段として小説があるのではなく、作者の無意識が作家としての感性と嗅覚に従って言葉と物語を選択していった結果として作品があり、それに対しては作者もまた一人の読者すぎないという訳だ。

***以下引用***

テキストというのは全ての人に対して平等なんです。例えば僕が「スプートニクの恋人」という小説を書いたとして、そこに対して僕も含めて、あらゆる人が等距離からアクセスできる。それが僕のテキスト観だから、誰が何を考えようと自由で、僕はそれに対して「違いますよ」とか「考えすぎですよ」とケチをつける根拠は実は全くない。

**********

もし文学というものが、作者の意図を伝えるための道具であるならば、文学作品の持つ価値は、作者の知性の限界、思想の限界、人生経験の限界に縛られた限定的なものになってしまうだろう。

村上春樹が何を思い、小説にどんな思いを込めたのか? そんなことに正直言って私はほとんど興味が無い。

彼の思想に別段特別な価値があるとは思えない。

私が興味があるのは、村上春樹が書くことによって立ち現れてくる、彼自身にも理解できていない何かだ。

彼の小説という方法を通じて向こう側から立ち現れてくる、何か良くわからない力。

それは現代という時代的な何かであり、歴史的な何かであり、人類の集合的無意識的な何かであり、つまりは結局のところよくわからないものだ。

その立ち現れようとする「何か」に私は非常に興味がある。

本書の中で村上春樹は「家」をメタファーにしてこう語っている。

***引用開始(改行は引用者による)***

人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。

一階は人がみんなで集まってご飯を食べたり、テレビを見たり、話をしたりするところです。

二階は個室や寝室があって、そこに行って1人になって本読んだり、 1人で音楽を聞いたりする。

そして地下室というのがあって、ここは特別な場所で色んな物が置いてある。

日常的に使うことがないけれど時々入っていって、なんかぼんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。

それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいる。

ただ何かの拍子にふっと中に入ってしまうと、そこに暗がりがあるんです。

~中略~

その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。

~中略~

その暗闇の深さというのは、慣れてくると、ある程度自分で制御できるんですね。慣れない人はすごく危険だと思うけれど。

~中略~

いわゆる近代的自我というのは、下手するとというか、ほとんどが地下一階でやっているんです、僕の考え方からすれば。

だからみんな、なるほどなるほどと、読む方はわかるんです。

あ、そういうことなんだって頭でわかる。

そういう思考体系みたいなものができあがっているから。

でも地下二階に行ってしまうと、これはもう頭だけでは処理できないですよね。

***引用終わり***

つまり国語教育的な「作者のメッセージは?」という読みに対応できるのは、地下一階で作者が意図して書いた小説までであって、

村上春樹がやっているのは、その更に下の危険な場所、それは彼自身にも説明できないもの、頭では処理できない何かを、言葉を通じてすくい上げることなのだ。

その方法として小説があり、メタファーを多用する文体がある。

さてさて、ここまで書いてきましたが、私は何も長々と文学論を語りたかった訳ではなくてですね。

村上春樹の素晴らしさを語りたかった訳でもありません。

では、何が言いたかったのか。

それは、村上春樹が小説に対して持っている姿勢が非常に有用だということです。

つまりこういうことです。

『村上春樹が自分の作品に接するような慎重さや謙虚さを持って「人生」を扱うとすれば、いったい人生とはどのようなものになるのだろうか?』

こういう問いを立てたかったわけです。

村上春樹の言う「小説」を「人生」に置き換える。
私達は自分の人生の作者として道筋を選択し、主人公として実際に行動して生きている。

でもそんな自分自身にすら理解できていない、より大きな何かというものに対して、慎重にそれを感じ取りつつ、尊重してそれを招き入れる。

人生の主人公としての「私」は感性を全開にして流れと未来を感じ取り、ストーリーを選択するが、それでも決して未来は予測しきれるものでも設計しきれるものではなく、

一方で今ここに展開している出来事を、物語の読者のようにワクワクしながら受け取る。

そしてそのように生きた人生の意味も価値も、到底自分には理解しきれるものではないという前提に立つこと。

そのような距離とスペースを空けることで、自分の人生に自分より大きな何かを招き入れることができるのです。

村上春樹の比喩を使うとすれば、地下二階まで降りていくことができるのです。

そして、そうでいながら自分の知性を全開にして、その出来意事を定義し意味を与え物語として編みんでいく。

私はここに人が生きることの面白さと可能性があるように思っています。

もう何でも手に入ってしまって、物質的には満たされて欲しいものなど無くなってきているのに「内需拡大だ!」と無理して疲弊している今の時代。

その物語の限界を超える力を人間が持ちえるとしたら、それは地下二階への冒険心ではないかと思うのです。

刺激に飽きたらより大きな刺激を!より新しい刺激を!より大量の刺激を!とやってきた先に行き着くのは、人間の無関心と無感覚。

そっちはもう行き止まりですね。

目指すべきは危険に満ちた地下二階ではないでしょうか。

その方法とヒントは彼の小説ではなく小説の方法にあるように思います。

村上春樹とエリクソン催眠

村上春樹

村上春樹の短篇集「女のいない男たち」を読了。

前々から思っていたのだけど、村上春樹の文学的手法は催眠療法家エリクソンの魔術的とも言われる言葉使いと同じものだ。

エリクソンが対話の中で比喩を多用して、クライアントの意識が気づかない間に無意識の病を癒してしまう力と、

村上春樹の小説が、「正直よく意味がわからなかったけど、なんか良かった」と、ぼんやりとした印象しか与えないにも関わらず、中毒性があって次作も買わせてしまう力とは全く同じものだ。

時間を行き来したり、脱線したり、比喩を多用したり、無駄に薀蓄を披露したり、言葉で再定義したりと、過剰な言葉に煙に巻かれる体験によって読者はトランスに入る。(場合によっては眠くなる)

そして、ストーリーのもつ感情体験よりも、言葉遣いや比喩そのものに反応して内面に奇妙なイメージ世界が広がり、それに読者の無意識にある記憶や感情が反応する。

これが村上春樹=エリクソンの方法である。

だから、村上春樹の言葉によって響かせられるような内面の傷や記憶や感情を持っている人は、それが揺り動かされ、そこはかとない迫力と癒しを体験することとなる。

一方、そういった傷や記憶を持っていない人にとって村上春樹作品は、たんなる思わせぶりな言葉遣いを多用した退屈で鬱陶しい小説だというような評価になる(この評価はまったくもって正しいし健全だ)

そしてこの方法である以上は当然、読者それぞれが持っている病理や記憶の質によって合う合わないがある。

だから村上春樹の作品のどれが優れているか、どれが代表作であるかを客観的に判断するというのは、風邪薬と胃薬と痛み止めのどれが一番優れた薬かを決めるくらい不毛なことなのかもしれない。

ということで、今回読んだ「女のいない男たち」を退屈に感じたのは、僕がそれに対応する病をもっていなかっただけであって、僕はそれを批判する正当な権利を有していないような気がする。

ただ言えるのは、表題作「女のいない男たち」のロートレアモン伯爵みたいな比喩を多用しまくった独白。

「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会い」的な文章は読んでいて正直つらくて、もう催眠を超えて睡眠に落ちてしまいそうだった。というか実際に2回落ちた。(ある意味で凄い力ということか…)

それにしても、今回は「女のいない男たち」というタイトルの短篇集だから、まさか女性がまったく登場しない男ばかりの物語なのだろうか? そんなこと無いよな? そんな春樹作品不可能やんな? と、にわかに不安になっていたのだけど。

蓋を開けてみたら全編女の話しかしてなかった(笑)

なんか安心した! それでこそ春樹!

名も無い女の慎ましい偉大さについて

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おはようございます。

今日はとにかく寝ました。寒いといくらでも寝られるものですね。

3度寝して10時間くらい寝てました。これは今の世の中的にはとても贅沢なことなのかもしれません。

そして3本立てで夢を見て、そこからそれなりの教訓を得ました(笑)

台湾に留学するときは最低限の中国語は習得してないと大変なことになるよ…とか(これはいらん!)

旅先で一度会っただけの身寄りのない男の死に立ち会って、その男の葬儀を取り仕切ろうとする40代の女性の深い愛情…。というか責任感…? 勇姿…? とか。

これは教訓ということではないけど、3本立ての夢の中で特に目立つわけでもなかった脇役の彼女のことが、目覚めた後になってもずっと心に残っている。

あの在り方をなんと表現したら良いのだろうか。

それが当たり前のことであるかのように、あまり知らない男を弔おうとする女性の姿を見て、自分には無いものだなと思ったけど、それを言葉で表すのはとても難しい。

そこにはその男に対する深い愛情があったのだろうか? あるいは人間に対する愛のようなもの。

そんなウエットなものは何も感じられなかった。

では、あの男の死の衝撃(なぜ死んだかは覚えてない)を自分の心の中で処理するには、葬儀を取り仕切るという自分なりの手続きが必要だったのだろうか?

そんな風でも無かった。

身寄りが無い男があっけなく亡くなって誰にも弔われずに処理されていくという味気ない現実に対する彼女なりの抵抗であろうか。

人間の命とは尊いものなのだという彼女なりの宣言なのだろうか。

そんなはっきりした正義感も信念も感じられなかった。

何の気負いもなく、思いもなく、例えば食事を楽しんだ後にテーブルから食器を片付けるように、長年そうやって身にしみついた癖であるかのように、

彼女は見知らぬ男の葬儀を取り仕切った。

彼女の行動が心を打つのは、その意図の希薄さによってだった。

表現欲求を持たない無名の人間が持つ、静かで慎ましい偉大さ。

目には見えにくいけど、この国には(おそらく他所の国にも)そんな慎ましい偉大さがたくさんあって、世の中を支えているのだろう。

どう伝えるかとかマーケティングとかマネタイズとか効率を最大化することばかり考えて仕事していると、たまにこのような慎ましい偉大さを目の当たりにして、狡猾に洗練してしまった自分を恥じ入る。

今はそれができないけど、晩年はこういった静かで慎ましい偉大さ(慎ましいがゆえに表には出てこない無名の人たちの捉えにくい偉大さ)を記録するために自分の言葉を使いたいな。

決してわかりやすいヒーロー物語を記録するのではなく、静かな人たちのために言葉を使いたい。そう思いました。

真に怖ろしきもの

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某寿司屋のアルバイトが「ハサミ」を天ぷらにした写真をツイッターに投稿して、また炎上したのだとか。

こういう記事を見る度に思うのだけど、

ハサミを天ぷらにして仲間に見せようとした高校生よりも、子供のイタズラがここまで容認されなくなってしまった社会の方がはるかに病的で、ゾッとする。

所詮は高校生のいたずら。

お灸をすえて仕事の責任を叩き込んで、育てて行けば良いではないか。

何より、この子を守る意見が全く出てこないのが気味悪い。

子供の行き過ぎたいたずら1つによって、その子が社会的に抹殺されることを期待するのみで、再教育していくという世論が生まれないとすれば、病んでいるのは社会の方なのだ。

本人に謝罪会見させろ!とか、実名出せ!とか、許されることではない!とか、プラスチックが油に溶けて毒素になっただろ!とか、店はこいつに損害賠償しろ!とか、

正義や被害者を装ってこの子の人生が徹底的に破壊されることを願うその祈りで、自分の中のいったい何を慰めているのか。それを心底見てみた方が良い。

『無名の大衆』という暗がりに身をひそめて、バカな獲物が現れることを目を光らせてじっと待っている。この暗い欲望。

ニーチェの言うところの「ルサンチマン」

内田樹さんが言うところの「呪い」

蓄積された怨念を鎮めるためにこの社会は生贄を求めている。

この子は追い詰められて高校を自主退学したそうだ。

これは1つの供養なのだろう。

日本社会を暗雲のように覆っているこの怨念。呪い。ルサンチマン。

それを鎮めるための供養。

ある時期、私は自分で考えて発想したつもりになっていた夢や目標というものが、この怨念への恐れと気遣いにどれほど色濃く影響されているのかに気づいてゾッとしたことがある。

この力への怖れは私達の無意識の奥底から、私達の感性を支配している。

この力をしっかりと捉えて、それを刺激しないように上手く立ち回らないとこの国で自由に身軽に生きることは難しい。

この力はあまりに大きくて強いので、決して戦わないこと。

刺激せずにそっと静かに離れること。

場合によっては全力で走って逃げること。

そして、

逃げながらも、個人として理想を追求する手は緩めないこと。

時には息を潜めて身を隠しても、爪を研ぎ続けること。

初恋の人という呪い

漂流

漫画『惡の華』が僕の感覚にピッタリきたので、同じ作者の『漂流ネットカフェ』という作品を借りてきて読んだ。

これまたピッタリで、グロいけど素晴らしかった。

中学生の時の初恋の女性の意外な行動。その時、緊張して勇気が出なくてその先に進めなかったことの後悔。

もしその先に進んでいたら…?

これは初恋の女性に、自分のありえたかもしれない理想を投影しているわけだけど、とても良くわかる。

関係を未完了のまま、あこがれのまま残している異性というのは、ある意味で呪いのように人生に作用するものだ。

その憧れの女性が、自分が生きられたかもしれない愛に満ちた理想の時間を映し出して誘惑する。

現実ではなく、ファンタジーに引き込もうとする。

それと戦ってそのファンタジーを切り裂いて人は大人になるものだ。

それができないとファンタジーの中にひきこもり、実際の人生の有り様を「そんなはずではなかった!」と心の中で否定しながら、自分の幻想を支えてくれる作品を取り込み続け、ファンタジーに燃料をくべ続けることになる。(それはそれで豊かではないかとこの時代は言うが)

ではそのファンタジーを超えるには、どのようなイニシエーションを通過する必要があるのだろうか?

投影された理想を超えるような魅力的な現実を作ってそれを生きるか。

現実の異性という生々しい肉体と存在に何度も触れることでファンタジーを追い出すか。

あるいは理想の相手の老いた現実を目の当たりにするか。

漫画のあとがきで作者は、この作品は自分のトラウマを元にして描いたとしている。描き終えることで長い間の思い出の檻から出られたのだと。

作者は描くことで自分の中のファンタジーを殺したのだろう。

同じようなテーマで『秒速5センチメートル』という美しいアニメ映画がある。

でも、『秒速~』はファンタジーを美しく賛美してファンタジーに燃料をくべる作品であるのに対して、『漂流ネットカフェ』はファンタジーを破壊するものだ。

その意味で暴力的で猥褻にも関わらず、後者の方が実は教育的だったりする。

非常にグロいのでとてもお勧めしにくいけど、特に男性にはお勧めします。