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蚊とインド人とわらしべと

今マクドで仕事してるのだけど、

隣の女の人の手元を蚊が飛んでいて、

いよいよ手にとまりそうなんだけど、その女性は全く気がついてない様子でスマホをいじっていて、めっちゃ気になる…。

例えば、手に止まった瞬間にバシっ!っと女性の手を叩いて僕が見事に蚊を仕留めたとして、

その時、僕は無防備な彼女を救ったヒーローと言えるのだろうか。

蚊から守られたことより、見知らぬオッサンに唐突に手を叩かれたショックのほうが大きくはないだろうか?

更に言うと、もし蚊に逃げられたら?

僕はただおもむろに見知らぬ女性の手を叩いた男ではないか。

「いや…。違うんです。蚊がね…。止まってたんですよ…。ほらあそこ!」って。

でも彼女はでっかいヘッドホンをして音楽聞いてるし、言い訳は届きそうにない。

どちらにせよ、手を叩いた瞬間、彼女が握ってる食べかけのチキンナゲットが勢い良くどっかに飛んで行くことだけは間違いなさそうだ。

そんなことを思ったり書いたりしている間に蚊もどこかに行ってしまった。

僕も書き仕事の集中に戻るとする。

 

******

 

仕事を終えてマクドを出たら外は結構な雨が降っていて、

ホテルも遠いしこれはまずいなと思ったら、店の前でインド人ぽい店員さんが、客が捨てて行ったであろうボロボロの傘の処分に四苦八苦していた。

「あ。それ、もらっていい?」と咄嗟に口をついて言葉が出る。

「あ。いいですよ。どうぞー(^^)」とインド人っぽい店員さんも満面の笑みで応えてくれる。

 

「おおー。ありがとう!助かるよー。」と、お互い笑い合ってお別れする。

今日は良い日だ。気分がいい。

 

そしてボロボロの傘を差して機嫌良くホテルまで歩いてると、向こうから

「にいちゃん。その傘とこの馬と交換してくれんかね?」

みたいな人が現れそうな予感がヒシヒシしてくる。

「でもこの傘はインド人っぽい店員さんと僕との友情のあかしの大切な傘なんです。」って感じで。

一度目はもったいつけて断ってみようと心に決めている…。

ヒヒーン。

意識の旅

束の間の盆休み。

田舎での3日間。

仕事に忙殺され、気力を使い果たした心身に短時間で英気を養うには、精神が望む方向に的確にマインドをトリップさせないと…と、

そのために飛んで行くべき心象世界をできるだけ明確にイメージして、そのために必要な行動やアイテムを選定する。

1つは、ソローのこの本。

 

 

人里を離れ、森の中の湖のほとりで暮らした哲人の思考。

ソローの意識に共鳴すると、良い感じで俗世を離れて自然の中に飛んで行けるので助かる。

 

夏真っ盛りのこの時期のリアルな自然は蒸し暑いし蚊がいるし、いろいろと大変だけど、

エアコンの効いた部屋で自然を横目に読む「森の生活」は、ストレスゼロで意識を大自然の中へと連れて行ってくれる。

意識を的確に望むところにトリップさせること。

そう。

 

僕が田舎に帰ることで期待しているのは、都会では絶対に得られないある種のフィーリングを得ることだ。

そして、今回の帰省でそれが一番成されたと感じたのは、

実家周辺の路地を1人で深夜徘徊することによってだった。

深夜1時。

何も目指さずに、何者にも成ろうとせずに、ただ日々暮らしを営む人達だけが住むこの路地の夜の静けさは独特だ。

 

自分の中に最近足りてなかった何かがたっぷりと満たされていく。

上を見上げると山の稜線と、その上には星空が広がっている。

 

深夜1時の廃墟。

時間が流れることなく堆積していってるような、この感覚がたまらない。

 

しばらく歩くと意識は勝手にスイッチして、普段とは全く違う精神状態になる。

移動距離は問題ではない。

フィーリングを研ぎ澄ませば、時間と意識だけを使って普段では絶対に行けない世界を旅することができる。

 

癒される…。

浮かんできた言葉をスマホにメモする。

『夜を恐れることなく、背景に押しやることもなく、

夜の美質を引き出して一緒に遊べる人間は魅力的だ。』

誰がということではなく、きっとそうなのだろう。

恐れることなく変な人で行きましょう。

どこまでも歩いていけそうな気がした。

 

偉大さに触れる

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東京での仕事を全て終えて、品川駅でお土産を買おうとパウンドケーキを見ていたら、

「オレンジのケーキが人気ですよ」と店員のお姉さんが微笑みかけてきた。

その笑顔が自然な思いやりに溢れていて気持ちが良くて、思わずこちらの表情も緩む。

すると「食べてみられますか?」と奥からラップにくるんだ試食用のケーキを出してきてくれた。

その行動を支える意図の透明なこと。清々しいこと。

手にケーキを乗せてもらって、それを食べながらうんうんと適当な返事していたら、

「今でしたら、なんたら…(忘れた)ティーと一緒に食べて頂いたりしたら良いかと思います。」って。

正直オレンジのケーキの味はあまり好みじゃなかったけど、もうそんなことはどうでもええわ!

俺はお姉さんの勧めるものを、お姉さんの仕事の尊さを称えるために買うよ!

俺はお姉さんの在り方の偉大さをこのパウンドケーキとともに食うよ!

という熱い気持ちになって今、特に好きでもないオレンジのパウンドケーキを持って大阪に帰っている…。

人の「偉大さ」とは何なんだろう…とか考えながら帰っている。

どうやらそれは年齢や職種や収入には全く関係が無いらしく、

ほどけた心から自然に溢れてくるその人の存在のエッセンスのようなもので。

それに触れてしまうともう僕らは抵抗のしようがない。

ただ祝福するだけの存在となる。

光を当てる

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2月3月と続いた断捨離月間を終えて、4月を健康月間にしようと考えたのは3月の健康診断の結果が悪かったから。

血液検査の結果、「肝機能障害」とか「糖質異常」とか「糖代謝異常」とか書かれてる。

うーん。「異常」とか「障害」とか言うの、怖いから止めてほしいですよね…。

で、診断も「要観察」とか「要指導」を飛び越えて「要医療」になってるし…。

そこまで言われるとスルーできないですよね。(去年はスルーした)

ここは一度しっかりと健康に意識向けるタイミングなんだろうなと思って4月を健康月間にしようと思ったわけです。

そう決めてからは大好きな甘いものを控え、大好きな脂っこいものを控え、適度に運動したりしながら過ごしておりました。

で、今日再度病院に行ってきました。

医師からは「病気というわけではないけど生活改善が必要ですね。栄養指導を受けてから数カ月後に採血してみますか?」と言われたのだけど、

「ここ一ヶ月くらい意識して生活していたので、今日採血してどんなものか見てみたいです」と伝えると、「そうしましょう」となって。

血液を取られ、その検査結果を待っている間にお姉さんから栄養指導を受けて、

「そんな感じで食事を意識していただいて、また次回の結果を見ながらやって行きましょう!」と言われて、はい!僕やります!みたいな気持ちになり(笑)

その後、再度医師のところに行き今回の血液検査の結果を見せてもらうと、かなり改善していた。

肝臓系の数値が適正な値に落ちつき、悪玉コレステロールの数値はまだ高いけどだいぶ減っている。

嬉しい。

この感じ好きだな。

何であれ、努力したら分かりやすく数値で結果が出るものって楽しいですよね。

ハマりそうな感覚…。もっと頑張って、毎月でも血液検査受けてみたいくらいだ。

なんなら皆の血液データ持ち寄ってあーだこーだ言う、「血液データから生活を見つめ直す会」を開催したいくらいだ。

とか考えてたら医師からは「その生活されてるようでしたら大丈夫ですね。受診はもう良いですよ。」って、

え?いや…。栄養士のお姉さんと二人三脚で頑張る感じの流れも無くなる…?と、若干うろたえつつ(笑)

そんなこんなで、良くも悪くも病院のお世話にならなくて済むことになりました。

今日お姉さんから言われて決めたことを決意表明として書いておくと。

1)完食の甘いものをやめる。(食べたくなったら有機シリアルに)

2)全体的に野菜を摂る量を増やす。

2)肉や脂っこいものはほどほどに。可能なら魚に変える。

3)歩く量を増やすなど有酸素運動の量を増やす。

うん…。

めっちゃ普通のことドヤ顔で語ってる感がある(笑)

まあ、普通が大事だし難しいんですよね。

無理しても続かないだろうし我慢したら反動が来るだろうから、

甘いものにしろ脂っこいものにしろこれまで惰性で食べていた分を止めて、喜びを感じられる分は今まで通り食べるようにして、あとは運動量を増やして行こうと思います。

ここでも大切なのは「意識を行き届かせる」ということですね。

無意識にまかせていた食事というものに一度意識の光を当てて、本当に欲しくて喜びを感じているのか、惰性で食べているのかを明らかにして、惰性の部分は捨てていく。

そんな感じで、また数ヶ月後に献血でもして血液データを取りに行きたいと思います。

みなさんも良かったら健康見直してみてくださいね。

コレステロールについて語り合いましょう(笑)

春と意識

3月も残すところ数日となり、今日は骨休めに1人で実家の相生市に帰省して、1日山に篭っておりました。

たまに人間の意識世界を離れて、山に1人になってリセットしたくなるんですね。

そんな時に実家が程良い田舎にあって程良い高さの山があるのは本当に助かるなと、最近になってそのありがたさを噛み締めております。

子供の頃から慣れ親しんだお気に入りの山があります。

久しぶりに行ってみると、いつもの登山口に新しく看板が立てられてました…。

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天空のパワースポットって…。この色使い…。パワースポットブームに寄せて来たな~と笑ったけど、確かにここはパワースポットなんです。そこらの裏山とは氣が全く違います。

充電される。

でも一番ありがたいのは、平日に行くと自分以外の人がほとんどいないこと。

都市に住んでいると、周りに誰もいないという感覚がとても貴重に感じます。

山に入って1人で歩きだすと、人間の意識世界を離れて自分が野生に帰っていくような、呼吸がしやすくなるようなホッとする感覚。

心が静まってきます。

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立派に生い茂るシダ。

普段意識しなくとも人は周りの人間とエネルギー的に作用し合いながら生きているんですね。

山に入ってしばらく歩いて半径1キロ以内に人が誰もいないような環境に身を置くと、そのことが体感で分かります。

身体から何かがほどけるような感じがあり、自分でも驚くほど心が静かになります。

自分は普段からこの状態に戻りたいがために瞑想を取り入れてるんですね。

でも都会での瞑想ではここまではなかなか難しいですね。

どんなに頑張っても半径20m以内には誰かいますもんね。

でもここでは誰もいない。人の意識が無く自然の木々や鳥たちしかいない。

その子たちと同調することの心地良さ。

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僕は小学生の頃から、学校から帰ると1人で山に入っていく子供だったのですが(危ない子ですね)今思うとそうやって意識のリセットをしていたんですね。

そしてその必要性は大人になった今でも大いにあるようです。

誰もいない休憩所でゴロンと横になって空をながめつつ、ホトトギスやキツツキの声を聞いている。

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ゴロン…。写真が逆になってますけど空見てるので、こんな感じです。

自分の周り半径1キロ(もしかすると5キロ以上?)の範囲内に人間が1人もいないと、自分がどのような意識状態になるのか、

もしかすると生涯に一度もそれを体験したことの無い人も多いのかもしれませんね。

一説には人間のオーラ場は半径15メートル、魂の身体に至っては150メートルにまで広がっていると言われています(僕が見たわけではありませんが…)

だからそこに人がいると意識はしていなくても、都会に住んでいるだけで無意識に多くの人と混ざり合ってるんですね。

ではその混ざり合いが無くなるとどうなるのか?

半径数キロに人間がおらず自然だけがあるような環境では自分の心に何が起こってくるのか。

自分の心がどれほど静まるものなのか。

自分の内側からどのようなフィーリングが現れてくるのか?

この感覚を普通の暮らしの中で何気なく味わえていたのは、もしかすると田舎育ちの人間の特権なのかもしれません。

そんなことを考えつつ登ること数10分。

途中に小さな洞穴があって、その奥に地蔵様が祀られていてます。いつもそこで瞑想するのですが、今回行くとその入口付近にも新しく看板が立っていました。

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なるほど修験者の修行の場だったんですね…(知らなかった(笑))

詳しい説明もありました。

岩の奥の龍脈の近くで修行できるように、修験道の行者によって人間の手で掘られた洞窟なのだとか。

掘られたのが江戸時代以前で、昭和30年ころまでは修験者が常駐していたのだとか。

馴染みある場所に意外に深い歴史があるのは興味深いですね。

神聖な場所なので洞窟の写真はやめておきました。

それは、あなたがご自分で来た時のお楽しみということで(誘ってるのか…!)

だいぶ高くまで登ってきました。

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この感じ。

ホー…ホケキョ!言うてます。

途中、春を見つけたり。

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そして頂上に近づいてくると、天に登った感がすごいです。

この感じ。

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ものすごく登った感がある景色ですけど、実は20分ほどです(笑)標高わずか300m程度でこの達成感を演出してくれる景色は助かってます。

岩場で景色を眺めつつ1人でしばし瞑想。

神よ…!出でよ…!と念じてみる大人の遊び…。

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ぱかーっと空が割れ。ええ雰囲気出してくれます。

しばらく1人でぼーっとしていると縮こまっていた気持ちも大きくなって、リフレッシュしてきます。

都会生活だとこんなに広い空間にまで意識を広げること無いですもんね。

できれば毎月来たいくらいですが、なかなかね。

頂上にはこんなボックスが。

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登山ノートを開いてみるとこんな強者が。

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毎朝登り続けて今朝で3970回目の登頂だったよう。

本当に行者がいるんだな。10年か…。毎朝か…(ちょっとうらやましい)

こんな意識状態から一日を始められるなんて気持ちが良いだろうな。

でも、こういうのは老後の楽しみに取っておこう。

まだまだ仕事で貢献したいし俗世にまみれたいぞ。

さあ下界へ。

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日も傾き、1人帰路についたのでした。

そこに戻れば自分をチューニングし直せる場所があるというのは、ありがたいものですね。

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

『ドキュメント72時間』が面白い

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NHKでやっている『ドキュメント72時間』が面白い。

最近のテレビ番組で一番好きかもしれない。

特定の場所の72時間(つまり3日間)を取材し、そこを訪れる人にインタビューをしているだけの30分番組で、

その場所は、ゲームセンターだったり、肉屋さんだったり、ショッピングモールのフードコートだったり、無人駅だったりする。

そこに訪れている市井の人々にカメラを向けて話を聞くだけなのだけど、それが異様に面白い。

先日放送の番組のタイトルは『黄昏のゴルフ打ちっぱなし』

東京の足立区にある開業40年の老舗の「打ちっぱなし」が舞台。

24時間営業の打ちっぱなしに訪れる人達にカメラを向ける。

そこには一見すると普通の人達の、様々な物語が垣間見える。

夜中に熱心に一人で打ち続ける女性に声をかけると、子育て中の主婦で、家族が寝静まってから夜中に一人でストレス解消のために打ちに来るのだとか。

朝の4時まで一人で黙々と打って帰っていった。

そして早朝から打ちに来た80歳の福々しいおじいさん。

「いやー。ありがたいね。」と上機嫌。

自分は小学生の頃には母の元を離れて丁稚に出て、夜にお母さんが恋しくて寂しくて毎晩泣いていた。今でもそのことを思い出すと涙が出ると、実際に涙を溢れさせながら語る。

でも、それが今では自分の車でゴルフを打ちに来れるまでになった。豊かになった。ありがたい。ありがたい。

80歳になっても、まだ飛距離が伸びるんだよと語る。

またカメラは違った人にフォーカスする。

夕暮れ時の場内で、打つこともなく椅子に座って遠くを見ている男性がいる。

声をかけると、「高校生の息子が最近ぼくと一緒にいてくれなくて」と寂しそうに笑う。

男性は韓国人だと言う。

日本人の妻と韓国人の自分との間に生まれた息子。

高校生になって、日本と韓国の間で引き裂かれているという。

日韓の仲が悪くなったことで余計になのか、最近自分と一緒にいたがらない。

この打ちっぱなしにはそういう人がいっぱいいるんじゃないかな、と語る。

玉を打ちにくるんじゃなくて、家に居場所が無いからここに来ている人もいっぱいいると思いますよ。

たった30分の番組でさらりと見せてくれる、市井の人々の人生の奥行きと広がりに、思わず唸る。

それ以外にも、離婚した元妻と離れて暮らす娘と、「元家族」としてコースを回るのが夢だという男性。

バブルの頃から1000万は使ってきただろうと言う団塊の世代の男性。

クラブセットをプレゼントしてからゴルフにハマってしまったという50代のカップル。

市井の人が普通に生きている日常の手触り。

でもどこにも普通なんてありはしない。

突出した人のドキュメンタリーも面白いけど、普通に暮らしている人たちの決して普通では収まりきらない日常のリアリティにはまた違った感慨がある。

パラレルに展開している人それぞれの人生と現在。

それにいつも心を打たれる。

意図的な演出や意味付けを排して、素材のままの切り抜こうとしているドキュメンタリー精神も素晴らしい。

みなさんも是非、見てみてください。

物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。

 

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

隣の芝は青い

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昨日の夜中の2時。

憂鬱映画を見るにうってつけな気分になって(笑)テレビのブラウザ上でAmazonプライムビデオのコンテンツを物色していたら、

『さよなら渓谷』という日本映画が、今の自分にぴったりな気がして、

実際に観てみたら自分の好みドンピシャ。

男女のどうしようもない業の深さと不可解さ…という大好物のテーマで、大満足で眠りについたわけだけど、

それにしても思うのです。

DVDを所有するわけでもレンタルするわけでもなく、家にいながらにして数千のタイトルの中から今の自分の気分にピッタリの映画を選んで、即再生することができる、このAmazonのサービス。

それがプライム会員は無料(つまり月額にすると325円)って、本当にそれで良いのだろうか。

更に最近お気に入りのAmazonMusicというサービス。

こちらも同じくプライム会員は無料で100万曲超の楽曲を再生し放題。

気分に応じたジャンルを選択すると自動的に楽曲が再生され、好みでなかったらスキップすると新しい曲に変わる。

良いと感じた曲はいいねボタンを押すと、その人の好みを学習して再生リストが最適化されていく。

気に入ったタイトルをストックして後で再生することもできる。

(ちなみに今、ボサノバのジャンルで再生していたら、聞き覚えのある日本人ヴォーカルで、誰?と思ってジャケットを見たら初音ミクだった(笑))

Amazon恐ろしいですね。

TSUTAYAやGEOのビジネスモデルを無効にしてしまう力がある。

そういえば先日TSUTAYAに行くと、CD旧作レンタルを10枚1000円のサービスをやっていて、安すぎるやろ!と驚いたのだけど、

店員に聞いてみると、一時的なキャンペーンではなくこれからもずっとこの値段で行くと言う。

TSUTAYAは映画などのDVDの旧作もいつのまにか100円になっているし、GEOは50円だったり。

ここまで来ると、本当にソフトを販売するようなビジネスモデルは終わったのだなと思う。

映画や音楽は人類共有のリソースとなり、月々数100円で一生かけても消費しきれない量の作品にアクセスできる。

えらい時代になりました。

所有するということが、どんどん滑稽な行為のようになっていくのだろうか。

もはや自分のハードディスクにすら所有する必要が無くなってしまった。

そして今、これを書いている部屋の窓から見える景色、僕の心を癒やしてくれる木々の緑も僕の庭のものではなく、他所の家の庭の木々なのだから(笑)

『隣の芝は青い』ということわざの持つ意味はとても20世紀的なもので、

21世紀を生きる僕らは、自分の庭など持たずとも隣の芝の青さを堪能できることを隣人に感謝しつつ、

全ての庭仕事から開放された心の自由を楽しむ、というのが正しい在り方なのかもしれない。

自分で所有するという古い観念からするりと脱皮してみれば、僕らは既にとてつもなく豊かなのだということに気付く。

 

見えないものに色を塗る

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毎回3月のこの時期になると、カウンセリングに訪れるクライントさんと、

「今日は暖かいですね~。」とか、

「昨日は暖かかったのに今日は寒いですね。」とか、

「三寒四温ですね。」とか、

「奈良では東大寺のお水取りが終われば(3月14日)暖かくなるって言われてるんですよ。」とか。

「そういえば毎回確定申告をギリギリ(3月15日)に提出してるけど、その帰り道に本格的な春到来を実感してますね。」とか、

毎回毎回、そんな話をしています。

春って愛されていますね。

毎年同じ、この時期の微妙な季節の移り変わりの感覚を話題にしては、春の訪れを待つわけですが、

こうして40年も生きていると、春夏秋冬の季節の変わり目も40回体験しているわけで、

そうなってくるともう分かってくるんですよね。

ああ、これね。これ知ってますよって。

この感じでしょ。3月15日的な空気感。

隅々まで青空が広がっていて、車で移動すると車内の熱気に軽く汗ばんで窓を開けたくなるけど開けると黄砂と花粉が入ってくるやつね。

で、助手席に脱ぎ捨ててあるジャンバーが大げさな鎧みたいでちょっと滑稽に見えるんですよね。そうそう。知ってますよって。

40回も体験するとそれに愛着すら感じられるものです。

今年も来たか…って思うんです。

そして、またそれが過ぎると、

はいはい。3月24日的なあれね。もう桜さくかなー的な浮かれる感じね。

大地や草木から蠢くような生命力を感じつつ、卒業式の帰りの袴着た女子大生を街で見て「ウォッ!」って心の中で変な声出すやつね。あぁ。知ってる知ってるって。

それぞれの感覚が愛おしくて、

ほんの数日ごとに微妙に移り変わっていく景色や匂いや空気感を捉えて味わって愛でるわけですが、

そうしていると、『春夏秋冬』の4つだけでは名前が足りなくなってきて、

それに不満を感じるようになるんですね。

そこで「四季」ではなく「二十四節季(にじゅうしせっき)」の出番です。

暦が24に細かく別れる。

「春」という一つの季節も「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」「清明」「穀雨」の6つに別れる。

それなら今の季節にしっくりと名前をあてがって心に保存することができる。

季節が豊かになる。

そして、もっと歳を取って60歳くらいになったら、「七十二候(しちじゅうにこう)」ですかね。

60回も季節の移り変わりを生きると72に分けても感じ取れるかもしれません。

「あぁ、この感じ、雀始巣(すずめはじめてすくう)やなぁ」とか。

「あぁ。これこれこの皮膚感覚。蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)やなぁ」とか…、

言わないか(笑)

でも、そうやって季節の中に今まで感じられなかった違いが感じられるようになり、

見えなかったものが見えるようになり、それぞれに名前があてがわれていく。

日々の彩りが歳を重ねるごとに豊かになり、その日その日に名前を与え、惜しむように愛でる感じ。

いいですねえ。

若いころには見えなかったものを見て、感じられなかったものを感じる。

歳を取るというのも意外に良いものかもしれません。

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最近はこの本をトイレに置いてて時折ページを開いて、その時の感覚と旬を絵と文字で確かめています。

そうすることで、二十四節季や七十二候という区分が自分の中にできていきます。

すると今度は、その区分を持つことによって外の世界の見え方が変わっていくんですね。

そうやって自分の心象世界を豊かにバージョンアップしています。

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ちなみに今は二十四節季では「春分」  

七十二候では「雀はじめて巣くう」だそうです。

儚げ

Made with Repix (http://repix.it)

東京にて。

新たなるオモシロ空間を求めてカプセルホテルに向かって歩いていると、

新宿駅前で一人でギターを持って弾き語りをしている女の子がいた。

見てみるとギターが僕の持ってるのと同じモデルで、おおって!って思って立ち止まったらちょうど曲が終わって、

勢いで盛大に拍手しながら「うんうん」って頷きながら受け止めたら、女の子の不安そうだった表情がぱぁーっと晴れてとっても嬉しそうな顔をするもんだからこっちも嬉しくなって。

MCをまた「うんうん」頷きながら、娘を見守るお父さんみたいな気持ちで聞いてたら、女の子はその曲を作った不登校時代の愛媛での過去について語りながらついには泣き出してしまって。

そうか。そんな辛いことあって今があるんやな。泣きなはれ…。おっちゃん受け止めたるから、おもいっきり泣きなはれ…。

って気持ちになって(笑)

また「うんうん」受け止めてたら歌いながらも時おり涙で詰まって、なんだかとても伝わってくるものがあった。

25歳の女の子が一度愛媛に引っ込んだけどまた東京に出て来て、孤独なんだけど頑張ってますって話してて、そういう内容の歌を真っ直ぐに歌ってる。

いやもうお金あげる。おっちゃんお金あげるから温かいもの食べなはれって。

恐縮する女の子とガッシリ握手して、僕も兵庫の出身でいろいろあって今ここにいるんだよ。お互い頑張ろうなって言ったら、通じ合うものがあってなんだかこっちも泣きそうになりつつバイバイして、またカプセルホテルに向かった。

東京に来るようになっていろいろ思うところはあるけれど、でもやっぱりこういう所が面白いな東京は。

本気で夢を追ってる人がいる。

危なっかしいくらいに真っ直ぐで、そこに照れが無い。

脆くて儚げで綺麗だなって思ったわ、おっちゃん。