カテゴリー別アーカイブ: 日常

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

『ドキュメント72時間』が面白い

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NHKでやっている『ドキュメント72時間』が面白い。

最近のテレビ番組で一番好きかもしれない。

特定の場所の72時間(つまり3日間)を取材し、そこを訪れる人にインタビューをしているだけの30分番組で、

その場所は、ゲームセンターだったり、肉屋さんだったり、ショッピングモールのフードコートだったり、無人駅だったりする。

そこに訪れている市井の人々にカメラを向けて話を聞くだけなのだけど、それが異様に面白い。

先日放送の番組のタイトルは『黄昏のゴルフ打ちっぱなし』

東京の足立区にある開業40年の老舗の「打ちっぱなし」が舞台。

24時間営業の打ちっぱなしに訪れる人達にカメラを向ける。

そこには一見すると普通の人達の、様々な物語が垣間見える。

夜中に熱心に一人で打ち続ける女性に声をかけると、子育て中の主婦で、家族が寝静まってから夜中に一人でストレス解消のために打ちに来るのだとか。

朝の4時まで一人で黙々と打って帰っていった。

そして早朝から打ちに来た80歳の福々しいおじいさん。

「いやー。ありがたいね。」と上機嫌。

自分は小学生の頃には母の元を離れて丁稚に出て、夜にお母さんが恋しくて寂しくて毎晩泣いていた。今でもそのことを思い出すと涙が出ると、実際に涙を溢れさせながら語る。

でも、それが今では自分の車でゴルフを打ちに来れるまでになった。豊かになった。ありがたい。ありがたい。

80歳になっても、まだ飛距離が伸びるんだよと語る。

またカメラは違った人にフォーカスする。

夕暮れ時の場内で、打つこともなく椅子に座って遠くを見ている男性がいる。

声をかけると、「高校生の息子が最近ぼくと一緒にいてくれなくて」と寂しそうに笑う。

男性は韓国人だと言う。

日本人の妻と韓国人の自分との間に生まれた息子。

高校生になって、日本と韓国の間で引き裂かれているという。

日韓の仲が悪くなったことで余計になのか、最近自分と一緒にいたがらない。

この打ちっぱなしにはそういう人がいっぱいいるんじゃないかな、と語る。

玉を打ちにくるんじゃなくて、家に居場所が無いからここに来ている人もいっぱいいると思いますよ。

たった30分の番組でさらりと見せてくれる、市井の人々の人生の奥行きと広がりに、思わず唸る。

それ以外にも、離婚した元妻と離れて暮らす娘と、「元家族」としてコースを回るのが夢だという男性。

バブルの頃から1000万は使ってきただろうと言う団塊の世代の男性。

クラブセットをプレゼントしてからゴルフにハマってしまったという50代のカップル。

市井の人が普通に生きている日常の手触り。

でもどこにも普通なんてありはしない。

突出した人のドキュメンタリーも面白いけど、普通に暮らしている人たちの決して普通では収まりきらない日常のリアリティにはまた違った感慨がある。

パラレルに展開している人それぞれの人生と現在。

それにいつも心を打たれる。

意図的な演出や意味付けを排して、素材のままの切り抜こうとしているドキュメンタリー精神も素晴らしい。

みなさんも是非、見てみてください。

物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。

 

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

隣の芝は青い

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昨日の夜中の2時。

憂鬱映画を見るにうってつけな気分になって(笑)テレビのブラウザ上でAmazonプライムビデオのコンテンツを物色していたら、

『さよなら渓谷』という日本映画が、今の自分にぴったりな気がして、

実際に観てみたら自分の好みドンピシャ。

男女のどうしようもない業の深さと不可解さ…という大好物のテーマで、大満足で眠りについたわけだけど、

それにしても思うのです。

DVDを所有するわけでもレンタルするわけでもなく、家にいながらにして数千のタイトルの中から今の自分の気分にピッタリの映画を選んで、即再生することができる、このAmazonのサービス。

それがプライム会員は無料(つまり月額にすると325円)って、本当にそれで良いのだろうか。

更に最近お気に入りのAmazonMusicというサービス。

こちらも同じくプライム会員は無料で100万曲超の楽曲を再生し放題。

気分に応じたジャンルを選択すると自動的に楽曲が再生され、好みでなかったらスキップすると新しい曲に変わる。

良いと感じた曲はいいねボタンを押すと、その人の好みを学習して再生リストが最適化されていく。

気に入ったタイトルをストックして後で再生することもできる。

(ちなみに今、ボサノバのジャンルで再生していたら、聞き覚えのある日本人ヴォーカルで、誰?と思ってジャケットを見たら初音ミクだった(笑))

Amazon恐ろしいですね。

TSUTAYAやGEOのビジネスモデルを無効にしてしまう力がある。

そういえば先日TSUTAYAに行くと、CD旧作レンタルを10枚1000円のサービスをやっていて、安すぎるやろ!と驚いたのだけど、

店員に聞いてみると、一時的なキャンペーンではなくこれからもずっとこの値段で行くと言う。

TSUTAYAは映画などのDVDの旧作もいつのまにか100円になっているし、GEOは50円だったり。

ここまで来ると、本当にソフトを販売するようなビジネスモデルは終わったのだなと思う。

映画や音楽は人類共有のリソースとなり、月々数100円で一生かけても消費しきれない量の作品にアクセスできる。

えらい時代になりました。

所有するということが、どんどん滑稽な行為のようになっていくのだろうか。

もはや自分のハードディスクにすら所有する必要が無くなってしまった。

そして今、これを書いている部屋の窓から見える景色、僕の心を癒やしてくれる木々の緑も僕の庭のものではなく、他所の家の庭の木々なのだから(笑)

『隣の芝は青い』ということわざの持つ意味はとても20世紀的なもので、

21世紀を生きる僕らは、自分の庭など持たずとも隣の芝の青さを堪能できることを隣人に感謝しつつ、

全ての庭仕事から開放された心の自由を楽しむ、というのが正しい在り方なのかもしれない。

自分で所有するという古い観念からするりと脱皮してみれば、僕らは既にとてつもなく豊かなのだということに気付く。

 

見えないものに色を塗る

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毎回3月のこの時期になると、カウンセリングに訪れるクライントさんと、

「今日は暖かいですね~。」とか、

「昨日は暖かかったのに今日は寒いですね。」とか、

「三寒四温ですね。」とか、

「奈良では東大寺のお水取りが終われば(3月14日)暖かくなるって言われてるんですよ。」とか。

「そういえば毎回確定申告をギリギリ(3月15日)に提出してるけど、その帰り道に本格的な春到来を実感してますね。」とか、

毎回毎回、そんな話をしています。

春って愛されていますね。

毎年同じ、この時期の微妙な季節の移り変わりの感覚を話題にしては、春の訪れを待つわけですが、

こうして40年も生きていると、春夏秋冬の季節の変わり目も40回体験しているわけで、

そうなってくるともう分かってくるんですよね。

ああ、これね。これ知ってますよって。

この感じでしょ。3月15日的な空気感。

隅々まで青空が広がっていて、車で移動すると車内の熱気に軽く汗ばんで窓を開けたくなるけど開けると黄砂と花粉が入ってくるやつね。

で、助手席に脱ぎ捨ててあるジャンバーが大げさな鎧みたいでちょっと滑稽に見えるんですよね。そうそう。知ってますよって。

40回も体験するとそれに愛着すら感じられるものです。

今年も来たか…って思うんです。

そして、またそれが過ぎると、

はいはい。3月24日的なあれね。もう桜さくかなー的な浮かれる感じね。

大地や草木から蠢くような生命力を感じつつ、卒業式の帰りの袴着た女子大生を街で見て「ウォッ!」って心の中で変な声出すやつね。あぁ。知ってる知ってるって。

それぞれの感覚が愛おしくて、

ほんの数日ごとに微妙に移り変わっていく景色や匂いや空気感を捉えて味わって愛でるわけですが、

そうしていると、『春夏秋冬』の4つだけでは名前が足りなくなってきて、

それに不満を感じるようになるんですね。

そこで「四季」ではなく「二十四節季(にじゅうしせっき)」の出番です。

暦が24に細かく別れる。

「春」という一つの季節も「立春」「雨水」「啓蟄」「春分」「清明」「穀雨」の6つに別れる。

それなら今の季節にしっくりと名前をあてがって心に保存することができる。

季節が豊かになる。

そして、もっと歳を取って60歳くらいになったら、「七十二候(しちじゅうにこう)」ですかね。

60回も季節の移り変わりを生きると72に分けても感じ取れるかもしれません。

「あぁ、この感じ、雀始巣(すずめはじめてすくう)やなぁ」とか。

「あぁ。これこれこの皮膚感覚。蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)やなぁ」とか…、

言わないか(笑)

でも、そうやって季節の中に今まで感じられなかった違いが感じられるようになり、

見えなかったものが見えるようになり、それぞれに名前があてがわれていく。

日々の彩りが歳を重ねるごとに豊かになり、その日その日に名前を与え、惜しむように愛でる感じ。

いいですねえ。

若いころには見えなかったものを見て、感じられなかったものを感じる。

歳を取るというのも意外に良いものかもしれません。

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最近はこの本をトイレに置いてて時折ページを開いて、その時の感覚と旬を絵と文字で確かめています。

そうすることで、二十四節季や七十二候という区分が自分の中にできていきます。

すると今度は、その区分を持つことによって外の世界の見え方が変わっていくんですね。

そうやって自分の心象世界を豊かにバージョンアップしています。

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ちなみに今は二十四節季では「春分」  

七十二候では「雀はじめて巣くう」だそうです。

儚げ

Made with Repix (http://repix.it)

東京にて。

新たなるオモシロ空間を求めてカプセルホテルに向かって歩いていると、

新宿駅前で一人でギターを持って弾き語りをしている女の子がいた。

見てみるとギターが僕の持ってるのと同じモデルで、おおって!って思って立ち止まったらちょうど曲が終わって、

勢いで盛大に拍手しながら「うんうん」って頷きながら受け止めたら、女の子の不安そうだった表情がぱぁーっと晴れてとっても嬉しそうな顔をするもんだからこっちも嬉しくなって。

MCをまた「うんうん」頷きながら、娘を見守るお父さんみたいな気持ちで聞いてたら、女の子はその曲を作った不登校時代の愛媛での過去について語りながらついには泣き出してしまって。

そうか。そんな辛いことあって今があるんやな。泣きなはれ…。おっちゃん受け止めたるから、おもいっきり泣きなはれ…。

って気持ちになって(笑)

また「うんうん」受け止めてたら歌いながらも時おり涙で詰まって、なんだかとても伝わってくるものがあった。

25歳の女の子が一度愛媛に引っ込んだけどまた東京に出て来て、孤独なんだけど頑張ってますって話してて、そういう内容の歌を真っ直ぐに歌ってる。

いやもうお金あげる。おっちゃんお金あげるから温かいもの食べなはれって。

恐縮する女の子とガッシリ握手して、僕も兵庫の出身でいろいろあって今ここにいるんだよ。お互い頑張ろうなって言ったら、通じ合うものがあってなんだかこっちも泣きそうになりつつバイバイして、またカプセルホテルに向かった。

東京に来るようになっていろいろ思うところはあるけれど、でもやっぱりこういう所が面白いな東京は。

本気で夢を追ってる人がいる。

危なっかしいくらいに真っ直ぐで、そこに照れが無い。

脆くて儚げで綺麗だなって思ったわ、おっちゃん。

みんな秘境を目指している

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昨日は21時くらいに子供と添い寝してたらそのまま一緒に寝てしまって、気づけば夜中の2時だった。

こういう時はいつも時間を無駄にしたと凄く後悔するのだけど、

昨日は気づいた。

夜中の2時に目が覚めて家族みな寝静まった中で時間が動き出す感じ。

夜が深くてちょっと憂鬱で、世の中の流れから切り離されてしまったような感覚。

この感じは映画を観るのに最適な意識状態だ。

普段からもう少し映画を観たいなとは思っていたけど、仕事をしつつ家庭を持つ父でもある日常の中では、映画を観る感覚に意識をチューニングすることが難しいと感じていた。

でも、世の中から切り離された深夜なら行ける。

そして有り難いことに今の時代、TSUTAYAに行かなくともAmazonプライムビデオでその時の気分に合わせて映画をチョイスすることができる。

これは新しい感覚だ。

ちょっと憂鬱っぽく人間の業に触れるような感触の映画を観たいなと思って、テレビのホーム画面で「邦画」を選んでタイトルをスクロールさせていく。

園子温監督の「冷たい熱帯魚」 ちょっと暴力的すぎるかな…。

「蛇にピアス」 吉高由里子のヌード見たいだけだな…。

「空海」 興味はあるけど今はそっちじゃないな…。

本当にたくさんの映画が出てくる。(これが年(月ではない)3900円とは、AmazonはいずれTSUTAYAのマーケットも奪ってしまうだろう)

結局、適度に憂鬱そうな田口ランディ原作の「コンセント」を選んだ。

そこそこに面白かった。

奔放な女の性(エロス)精神療法(サイコ)、死、シャーマニズム、そういった記号がまだ神秘的な魅力を放っていた90年代後半だからこそ力を持った作品で、

そういうのを観ていると、今の時代はエロスやサイコ的なものが放つオーラや神秘が剥がされた後の時代なんだなということが良く分かる。

それらの記号をこれ見よがしに提示して来るのだけど、今を生きるこちらとしてはもうそれに大した驚きも反応もできないので、演出が上滑りしていくように感じられる。

でも、それと同時に「あぁ、90年代なら…」と、当時の感覚を思い出して懐かしい気持ちになる。

時代は流れているし人の意識は進化しているんだなと、そんなことを感じさせてくれた。
(あるいは単に僕が歳を取っただけか)

期せずして露わになった市川実和子の華奢な裸体の美しさにも、発作的に男を求める色情にも、畏怖するべき女の性も業も感じられずただの記号になってしまっていた。

あれから随分世の中は情報化したのだ。

かつては神秘をたたえ、空想するしか無かった世界の秘境もGoogleのストリートビューにキャシュされていくこの時代。

いったい僕らが目指すべき神秘や冒険はどこに行ってしまったのか?

秘境はどこに残っているのか?

そう問えば、みんなそれぞれにそれぞれが思う秘境に惹かれてそこを開拓しているんだなということがよくわかる。

僕にとってそれは記号としての『サイコ』なものの中にあるのでもなく、海外を旅することの中にあるのでもなく、女の子のスカートの奥にあるのでもなく、

言語化できていないものを言語化することで内的世界を耕していくことと、創造性を発揮して現実を作り変えるためにリスクを取ることの中にあるんだなって。

そんなことを改めて考えたり。

映画の主題とは全く関係ないことにあれやこれやと心を泳がす。

深夜2時の映画鑑賞はとても贅沢な時間でした。

良くはない…。

ファミマ

東京出張の祭に、ファミリーマートに行ったら扉に「防犯訓練中」って張り紙してて、レジの周りにやたらたくさんの店員がいた。

他の客はいなくて僕だけだし、なんか凄い雰囲気なので近くにいたお姉さんの店員に聞いてみた。

「今買い物して大丈夫ですか?」

「あっ、はい。お気になさらずにどうぞ(^^)」って言うから、

「あっそうですか…」となったわけです。

で、ミネラルウォーター他いろいろ選んでレジに近づいたら、

黒い服を着た男が店員に短刀を突き出してて、

「カネを出せ!!おらっ!金だせ!刺すぞ!」って…。

ほんま良かったんですかね僕…(汗)

「あっ、そっちでレジしてあげて」って偉い人がさっきの女性店員に指示して、凄い緊迫感の中、ピッ…ピッ…ってバーコードを読む音が虚しく響くわけです。

で、「あっ、あとホットコーヒーのSで…。」とか言ってみたり(笑)

そしてコーヒー淹れる所が、短刀を突き出してる黒ずくめの男のすぐ背中のところだし…。

写真撮影もするみたいで、店員に短刀突きつけた状態でパシャパシャ撮られてるすぐ後ろで、

ブゥイーーン……。

じょろじょろ~ってコーヒー淹れる音がして(笑)

「あっ、すみませんね」って短刀持った男が振り向いて愛想笑いして、

「いや、こちこそすみませんね」って愛想笑いを返すという、なんともシュールな絵ができまして、

そして帰り道。

「やっぱ、東京って凄いなぁ(・∀・)」って、頭の中で雑にまとめたのでした(笑)

つながって遊ぶ

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楽しかった連休が終わった。

連休と言っても結局仕事を入れてしまって実質2日ほどだったけど、それでも今年のお盆休みはとても充実していた。

何をしてたかと言うと、

・クワガタ捕った。

・カブトムシ捕った。

・カエル捕った。

・アブラゼミ捕った。

・ザリガニ捕った。

・どじょう捕った。

・野生のヘラブナに餌やった。

・でっかカメ捕った。

・オニヤンマ見た。

そう。自然の生き物達と全力で遊んだ。

捕まえようと真剣勝負に挑んで、捕まえたら「おお~!」言うてその素敵なフォルムを見て触れて祝福して可愛らしさを愛でて、また自然に返す。

この2日間はそんなことばかりしてた気がする。(あと子供たちともわしゃわしゃ遊んだ。)

そして今年は何もかもが上手く行った。毎年こんな風にはいかない。(ここ数年はカブトムシに会えなかったし)

今年は本当に運が良かった。

特に家の前でオニヤンマ(トンボの王様)を見た時は感動した。

道の真ん中を真っ直ぐに飛ぶオニヤンマの存在感。

僕のすぐ目の前をゆっくり通って、そして通り過ぎたらUターンして、また僕の目の前を通ってくれる。

まるで「ここにいますよ!」と言うかのように。

昔よく見たオニヤンマも僕が中学生になる頃には全く見なくなっていた。

原因ははっきりしている。裏山にダムができて、オニヤンマのヤゴが育つ川がコンクリートに覆われたからだ。

でも、それから数十年して、今年、オニヤンマを見た。

兄と一緒に「おお~。久しぶりに見たな!」と言い合った。

そして何度も何度も戻ってきては目の前を通る姿を、その度に「おお~!」と言いながら2人して眺めた。

心の友に30年ぶりくらいに再会した気分。

とにかく嬉しかった。

ありがとうと胸がじんわり熱くなった。

分かった。ありがとう。分かったよ。ありがとう。そんな想いが溢れてきて、そしてしばらくしてオニヤンマはどこかに去っていった。

心のとても深いところが満たされた。

変な話だけど、喪われていた何かが取り戻されていく気さえした。

そして、盆休みが終わり大阪に帰ってきて、目が覚めたら身体が重くて力が入らなくなっていた。

なぜだ?

気分も重い…。

休み中、調子に乗ってはしゃぎすぎたか? 食べ過ぎか? 戦争のドキュメンタリーを見過ぎたか? 雨の低気圧のせい?

はっきりとした異変だったけど、考え付く原因はどれもしっくり来ず。

夕方になって、なんとなく納得感のある答えが出た。

それが、これ↓

「会社に隕石を落とす方法教えて」 連休明けを恐れるサラリーマンの悲鳴がネットに殺到
(キャリコネ – 08月17日 11:40)
https://news.careerconnection.jp/?p=15338

みんなの集合意識が連休明けで憂鬱だったんだな。どうやら僕はそことしっかりとつながっていたようだ。

でも、そのお陰で盆休みは皆の集合意識のウキウキに引っ張られて楽しんだ。

いつもよりはパーッとはじけられた。

昔は世間とは違う日を休みにするような天邪鬼な人間だったけど、今は同じタイミングで休みをとって集合意識のウキウキと一体になって遊ぶのが本当に楽しいなと思う。

それは1人では決して成せない悦びなのだと気付いた。

同じように自然とつながって遊ぶのも楽しい。普段使わないような心が満たされて、優しい気持ちになる。

また今年は戦後70年ということで、戦争のドキュメンタリーをたくさん見て、その当時の日本人の思いに意識を馳せて、その記憶にもつながった。追体験した。これはこれで、「楽しい」とは違う正解感があった。

時代は関係ない。人間か動物か非生物かも関係ない。

意識でつながること、コミュニケートすることが今の僕には最高に楽しい遊びだ。

ワクワクする。

人はどんな対象ともつながることができるし、相思相愛になることができる。

丁寧に庭を手入れすることで、草木と相思相愛になる父。

丁寧に手洗いすることでお気に入りの洋服と相思相愛になる女の子。

捕まえては愛でて、放し、また捕まえて、そうやって遊ぶことで自然の生き物と相思相愛になる40歳男…。

オニヤンマとも、植物とも、人間の集合意識とも、戦争の歴史とも、過去の記憶とも、お気に入りの家具たちとも、人は何とだって相思相愛になれる。

そして、相思相愛のものたちに囲まれたその人の空間はふわっとしていて優しく、「私もそこに住みたい!」と誰かが手を挙げる。

そして気付けば、無邪気な子供たちがたくさんいて、

嬉々としてそこを走り回るようになる。

答えが先で理由は後

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なんとなく、平日に1人で実家に帰るということをしなければならないような気がして、今日、それをしている。

1人で電車に乗って、田舎である相生市に向かっている。

この「なんとなく」という感覚は、人が自分自身の人生を生きる上でとても大切な感覚だと思っている。

なんとなくその時期が来た。とか、なんとなく自分がそれをやるべきな気がする。とか。

その「なんとなく」こそが直感の声だ。

思考で考えたものは直線的な因果律で導き出した答えだが、

直感の声は、潜在意識の中の数十から数百の自分が会議で話し合った結果出た結論だ。

だから、思考で導いた答えより遥かに深い意図と恩恵が隠されており、そして数百の自分の合意なので、それを実際に生きることは外側の現実と自分との深い調和をもたらす。

ただ、その声が何を意味しているのか、数百の自分はどんな意図でその行動を「なんとなくするべきだ」と導いたのか、普通はわからない。

よほどの訓練を積んでいない限り、意識は潜在意識の意図を理解できない。

でも、それはおいおい明かされていく。

意識からすると直感というものは唐突で、まず「なんとなくそれをするべきな気がする…」という結論が先にあって、

それを実際に行動に移しつつ自分の感覚を確かめることで、なぜそれをする必要があったのか、その理由が明かされて行く。

答えが先。

理由は後。

それが直感に従って調和した人生を生きる上での「コツ」のようだ。

人生を上手く生きられている時は、波に乗るように内側の情熱に従って動いているだけで、後々になって、謎が解けていくようにその行動の意味や理由が明かされていく。

まるで上質な冒険小説みたいに。

というわけで、僕はなぜか平日に1人で田舎に帰らないといけない気がしていて、そしてそれが何を意味するのかは徐々に分かってきているのだけど、それが本当にそうなのか、

それとも今自分が思っている以上に大きな何かがあるのか、それとも単なる思い違いなのか。

それを確認するために今、相生市に向かっています。

潜在意識スネる

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最近はなんか見事なくらいに潜在意識がスネていて。

我ながらすごいなーと呆れつつ見守っていたのだけど、今日はじっくりフォーカシングをして身体の話を聞いてみた。

どうしたん? 何を思ってるん?

そして、しばらく感覚を感じているとなんとなく言っていることが伝わってくる。

「ふん!おもんないねん!」

って…、思春期か(笑)

「どうせ仕事やろ、仕事仕事。それが終ってもまた仕事。はいはい、そーですかー。」

なるほど、仕事をしすぎたか…。

それで怒ってるわけだな。なるほど。

「12月頑張ったら1月はゆっくりするって言うてたやんな。」

あっ、確かにそう言い聞かせてた…。

「それで頑張ってきたのに蓋を開けてみたら1月も仕事入れまくってるやん。結局仕事やん。ゆっくりするんちゃうん?」

お…おう。なるほど、それでスネてたか。

自分との約束は大事…。反省。

で? お前はどうしたいんだ?

「え? どうしたい? どうしたいって言われても…。うーん。どうしたい…。うーん。もっとぱーっと景色が変わることしたい。もっとデッカイことしたい。ちまちまするの嫌や。」

ほう。でっかいこと? 例えば?

「え? 例えば…。うーん。わからん!」

わからんのかい! 言葉を使わなくていいから、その求めてる感覚を体感で表してみ。

…。じーん…。

ああ、なるほど、その感じか。

その感覚はひとつの究極だな。なかなか難しいぞ。でも日々の努力の先にその感覚があるといいな。

「うん。そやねん…。」

そやねん…って、ちょっと素直になってるやん(笑)

まあ、一朝一夕にそれは無理だし、期待してても辛いし、せっかくやし面白いからしばらく怒ってるかー。

「ふん!」

あ、そうや。身体を自由に使っていいから、自由に暴れて表現してみ。

「…。」

しばらくして、その怒りに似た感覚は身体を乗っ取るように広がり、身体を使って思いのままに暴れだした。それはどこかの国のダンスのようでもあり、地団駄を踏む子供の動きのようでもあった。

誰の心の奥底にもこれに似た衝動はあって、深い腹の底から現れては獰猛に外に出ることを求める。

暴れさせろ!拡大させろ! そう言って表現を求める。

ロックミュージックのルーツのエネルギーだ。

中二病と言われようと、年甲斐なくと言われようと、39歳の心の奥にもそれが沸き起こるんだから仕方がない。

これが僕の生の真実であり、このエネルギーにフタをすると僕の一部分は死んだままになり硬い心で生きることとなる。

柔らかい心で自分の全体性を生きるには、時折思春期の少年のように暴れなければならない。

あの感覚を手に入れるまでは、おそらくずっと。