トウキョウシティヒエラルキー

東京に向かう新幹線が品川に着き、山手線に乗り換えて仕事場の代々木に向かう。

電車が動き出すとともに仕事モードに立ち上がっていく自分の内的感覚にも、車窓から見える街の景色にもいつも少し気分が高揚する。

ここは東京。僕らの都だ。

その電車の中でいつも聞きたくなるのがこの曲。

>>トウキョウシティヒエラルキー Bank Band

本当にこの街はヒエラルキーを形成していて、これほど残酷に魅惑的に格差にさらされる場所はそうはないだろう。

頂上にあるものも最底辺も振り幅広く全てここにある。

でもそのヒエラルキーは、どの階層にも等しく居場所が残されているということでもあり、

置き場に困った自分の特異さにも居場所を与えてくれているという意味では、とても優しい街でもあるようだ。

自分がどれだけ変わっていようともどんな感覚を忍ばせていようとも、誰も白い目で見ないし排除もしない。ただ背景の1つであるかのように通り過ぎてくれる。

その感覚が最初とても冷たく独特の孤独を刺激したが、今はそれがとても優しく居心地良く感じる。

1日に驚くほどの人数の人達と空間を共にし、時にはギュウギュウ詰めで肌を合わせながらも、私たちは圧倒的に誰とも出会わない。この素晴らしき無関心。

私が誰であろうとどこから来てどんな姿をしていようと誰も関心払わずに、そっと優しく通り過ぎてくれる。

関心が払われないことで得られる独特の自由がある。

それによって初めて居場所を得るような曖昧な自分がいる。

本当に面白い場所だなと思う。

ある時に気が付いた。

東京には華やかで面白い場所がたくさんあるのに、なぜ自分は畳の安ホテルに泊まり代々木で仕事をして安い富士そばを食べるような、慎ましやかな生活を送っているのか。

どうやら僕は、60~70年代の空気感。野心を持って田舎から上京し、貧乏に耐えながら成功を夢見た無名のアーティストたちの意識をなぞろうとしているようだった。

四畳半に象徴される彼らの見た夢と中心への距離とそこで破れて行った者たちの思いに寄り添おうとしていたのだ。

そんな内的な活動もやがては終わり、今度は漱石の「三四朗」にあるような学問と東京へのあこがれと失望のような少し高尚な意識をなぞるようになり、

それが終わるとまた次に行こうとしている。

階層化して保存されているこの街の密度の高い集合無意識を1枚1枚、

ページをめくるように体験しようとしている。

 

ヒエラルキー。階層性。

それは残酷でもあるが優しく、そして面白いものだなと思う。

ペルソナの外で人と出会うということ

 

東京にてカウンセリングの仕事を終えてホテルへと向かう道のり。

キャリーケースを引きながら1人でとぼとぼと歩いて、

小さな道を赤信号のまま横切った。

疲れた頭の片隅でそれが赤信号なのはなんとなく気付いていたけれど、人通りも車の通りも無い深夜の小さな道。

足は無意識にそのまま進んだ。

そしてふと顔を上げると、目の前に自転車に跨って赤信号を待っている若い警察官がいて、「あ…。」とお互いに目が合った。

ドキッとしたのは僕の方だけではないらしく、警官も不意を突かれたようで、お互いに戸惑い、気まずい緊張が走った。

その若い警官の表情は、しまった…と狼狽えているようだった。

しまった…油断した。警官として注意するには気を緩めすぎていた…、とでも言うように、

その若い警官は青年本来の優しい人柄が溢れ出てしまっていた。


もう一度気持ちを立て直して信号無視を注意するには、柔らかい心を無防備に表しすぎていた。

無理だ。立て直せない。でも注意しないと…。

一瞬の緊迫した空気の中、そんな若い警官の心の動きが見えてしまって、僕は「ははは…」と申し訳なく苦笑した。

すると、若い警官の表情もほぐれ、「はははは…」と苦笑を返した。

青年らしいあどけなさがこぼれた。

「お互い油断してしまいましたね。」と、言葉にせずともそんな気持ちが伝わってきた。

「いやほんと、どうもすみません」と僕は言葉にはせずに頭を下げ、警官も頭を下げて「はははは」と笑った。

そうするとこちらの緊張もほぐれて、なんだか可笑しさが込み上げてきた。

 

「やっちまいましたね。お互い立場は違えど不完全さは一緒ですね。」とでも言うような温かい共感が芽生えてしまって、それが可笑しくて温かくて、嬉しかった。

そして、お互い通り過ぎた後も更に振り返って、名残り惜しそうに「どうも」と頭を下げて気持ちを送り合った。

2人の中に一瞬の友情のようなものが芽生えてしまっていた。

彼が警察官であり僕が一市民であるという役割を離れたところで、人と人が生身で出会ってしまったことの衝撃と、

それを言葉もなく察知し許し共感し合えたことの感動があった。

人はお互いの心の生身の温かさに触れてしまうと、ほんの一瞬だけでも既に名残り惜しいと感じるものなんだな。

凄いな。

深くつながることはパワフルな喜びなんだな。

と、そんなことを思いつつ時折振り返ってはお互いにペコペコと頭を下げながらお別れをした。

僕らの心の深いところが求めて止まない、人生の柔らかい手触り。

本当に思いもよらない瞬間に、ご褒美みたいにそれに出会う。

 

今日も良い日だ。

 

意識の錬金術

東京の仕事を全て終えて、自分へのご褒美にと一番高いお寿司の弁当を買って、

新幹線に乗り込む。

自分の中に新横浜を超えるまでは弁当は開けないぞ!という良くわからないルールがあって、

今回もそれに従って、新横浜を越えてからお弁当を開ける。

贅沢なお寿司。

でも、スマホを見ながら食べていると、気付いたら中トロを食べ終えている。

あれ? 今の美味しかった?

慌てて思い出してみたが、曖昧。

 

これはだめだと反省してスマホを置き、目の前の寿司と正面から向き合う決意をした。

そして、丁寧に寿司ネタを見て愛でて、そして口に放り込み、食レポする芸人のようにリアクションしてみた。

う~~~~ん!!旨いっっっ!!(≧∇≦)と、1人新幹線の中で悶絶してみた。

そしたら本当に驚くほど美味しく感じられる。

 

感覚的には普通に食べるのに比べて、200%くらい美味しい。

これは良いぞと思って、今度はウニを食べる。

うぉ~~~~!んんんんんん~うっまぁ~(゚∀゚)と大げさに反応する。

すると味覚が活性化して、味の奥行きまで感じ取れる。

脳は案外単純で、騙されやすいものなんだな。

今度は一緒に買った焼き鳥を一口。

うっっほ~~~~(ノ´∀`*)たまらん!!

恍惚の表情で1人焼き鳥を噛みしめる42歳(笑)

旨い。

これはすごい。

じゃあ今度は、設定を変えようと思いつく。

一週間ヨーロッパを旅して長らく米にありつけなかったところ、帰国して最初の米がこの寿司だとしよう。

うん。そうしよう。

そこで、ハマチだ。

バクっと行くと。

ふっぅうう~。ふっぅうう~、うんまーーーー!!(TдT)

美味すぎて震える(笑)

じゃあ次は戦後だ。今が戦後間もない時代だとして、闇市で米を買ってきて白い飯が食えるよ‥と。そう。戦後…戦後…闇市…闇市…イメージ。イメージ。

そしてエビ。

うほほ~。うんんんんんんんんま~( ;∀;)

って、だんだん疲れてきた(笑)

これ、すごく良いけど消耗も激しい。

 

でもそういうことなんだな。

人は内的には、差し出した分しか受け取れないということ。

 

1万円支払ったら、一万円分を受け取ろうと感覚が開く。

高価な料理だから食材が良くて手間暇がかかっていて美味しいというのはもちろんだけど、

高価な金額を支払った分のバランスと取ろうと、無意識は味覚を全開にする。冴える。

であれば1万円という金銭的コストではなくても、注目やリアクションや意識のエネルギーや想像力というコストを払っても良いわけで。

それは疲れるけれど、意識で価値を生み出す錬金術なわけだ。

そしてその分、しっかり消耗もするわけだ。

ここでも意識の運用。

僕は外側に高価な何かを用意するよりも、内側の感性によって世界を変えるようなやり方が好きなんだな。

外側は変えずに、意識の運用によって体験を自由に開放する。

そういうやり方が好きなんだな。

何も持たずに増やさずに、身軽であることは何ものにも変え難く気持ちが良いから。

答えに力は無い

みなさん。こんにちは。

お元気にされていますか?

今日は久しぶりに一日休みを取って家でゆっくりしています。

長らく降り続いた雨も上がり、台風も通り過ぎ、良い天気ですね。

温かい部屋でゆっくりしていると自然に心が緩んで、

普段の仕事モードの時よりも深く広いところにまで心が広がります。

「あ、そういえばあの子最近どうしてるかな、元気かな?」とか、

「そうだあれをやりたかったんだった…」とか、


そんなことがポツポツと心に浮かんできます。

普段届かなかったところにまで意識が届いて、心の周辺に隠れていたひかえめなニーズがポツポツと顔を出して、今日はそれに丁寧に応えています。

そうすると良いものですね。

心の内側が息を吹き返したようにフワッと広がって、自分の中に一致感が出てきます。

自分のニーズを無視するために無意識に固くしていた心も、その必要がなくなり緩みます。

ここでもう少しゆっくりして更に緩むともう一層深い心のフタが開いて、

しょーもないこととか、ろくでもない考えが出てきて、深夜にどうしようもないダメな映画を観たりするのでしょうが(笑)

今日はそれは止めておこうと思います。

今日は良い天気だし、あくまで爽やかに行きたい。

静かに瞑想したり、丁寧に部屋を片付けたり、書類を処分したり計画を見直したり、

身の回りを今の自分の内面に合うように整え直したり、

余分なものは捨て、今の自分にとっての真実を表しているものだけを残していく。

過去の自分の思いつきの夢から選んだ本やアイテムを処分して、

誰かの声に刺激されて選んだもの、自分の声ではないものは手放していく。

そうすると更に自分の内と外に一致感が出てきて、自分のエネルギーの源につながり直すことができます。

心に力が取り戻されていきます。

そんな風に過ごしていると、いつからか心に大きな問いが浮かんでいることに気づきます。

『本当のところ、自分は誰に貢献をしたいのだろうか?

  誰に、どんな感性に、奉仕したいのだろうか?』

その問いと向き合い、更に瞑想を深めると明らかになってきます。

自分の中にしっかりと根ざした方向感が生まれて、情熱が流れ出てくるのが分かります。

こういう体験をする度に思います。

答えが正しいかどうかが重要なのではなく、

正しい答えを知っているかどうかが重要なのでもなく、

その問いにどれだけ真っ直ぐに向き合えたか。

そして答えをどの深さから引き出したかが重要なのだな、と。

大人は「これが答えだから、これを選んで進みなさい」と教えてくれます。

でも子供はそれには納得が行かず、受け取らずにしばらく引きこもって自分で考えます。

あるいは思いのままに動いてみては失敗を重ねます。

そうやって、1人で考え抜いた挙句にたどり着いた答えは、

失敗を繰り返した先にたどり着いた答は、

最初から大人が教えてくれていたものと同じものだったりします。

「ほら、だから言ったでしょ。素直に言うことを聞いてれば良かったのに」と大人たちは言います。

でも違うんです。

正しい答えが未来を作るわけではないんです。

その答えに自分はどれだけのコストを払ったのか。

その答えを自分のどの深さから掘り出したのか、

それがその人の未来を創る力なのです。

黙想や行動の末に導きだした答えは、成長への力動を含んでいます。

それは単なる情報ではなく、力なのです。

「問うこと」とは「考えること」ではなく、「自分の力の源泉を探り当てること」なのです。

大量の正しい答えに晒され続けた結果、自分の力の源泉につながることができなくなっているとしたら。

深さから出てくる力を感じられなくなっているとしたら。

それはとても不幸なことですね。

まずは捨てること。

静かに休み、自分とつながり、心に問いを置いておくことですね。決して考える事は無しに。

蚊とインド人とわらしべと

今マクドで仕事してるのだけど、

隣の女の人の手元を蚊が飛んでいて、

いよいよ手にとまりそうなんだけど、その女性は全く気がついてない様子でスマホをいじっていて、めっちゃ気になる…。

例えば、手に止まった瞬間にバシっ!っと女性の手を叩いて僕が見事に蚊を仕留めたとして、

その時、僕は無防備な彼女を救ったヒーローと言えるのだろうか。

蚊から守られたことより、見知らぬオッサンに唐突に手を叩かれたショックのほうが大きくはないだろうか?

更に言うと、もし蚊に逃げられたら?

僕はただおもむろに見知らぬ女性の手を叩いた男ではないか。

「いや…。違うんです。蚊がね…。止まってたんですよ…。ほらあそこ!」って。

でも彼女はでっかいヘッドホンをして音楽聞いてるし、言い訳は届きそうにない。

どちらにせよ、手を叩いた瞬間、彼女が握ってる食べかけのチキンナゲットが勢い良くどっかに飛んで行くことだけは間違いなさそうだ。

そんなことを思ったり書いたりしている間に蚊もどこかに行ってしまった。

僕も書き仕事の集中に戻るとする。

 

******

 

仕事を終えてマクドを出たら外は結構な雨が降っていて、

ホテルも遠いしこれはまずいなと思ったら、店の前でインド人ぽい店員さんが、客が捨てて行ったであろうボロボロの傘の処分に四苦八苦していた。

「あ。それ、もらっていい?」と咄嗟に口をついて言葉が出る。

「あ。いいですよ。どうぞー(^^)」とインド人っぽい店員さんも満面の笑みで応えてくれる。

 

「おおー。ありがとう!助かるよー。」と、お互い笑い合ってお別れする。

今日は良い日だ。気分がいい。

 

そしてボロボロの傘を差して機嫌良くホテルまで歩いてると、向こうから

「にいちゃん。その傘とこの馬と交換してくれんかね?」

みたいな人が現れそうな予感がヒシヒシしてくる。

「でもこの傘はインド人っぽい店員さんと僕との友情のあかしの大切な傘なんです。」って感じで。

一度目はもったいつけて断ってみようと心に決めている…。

ヒヒーン。

意識の旅

束の間の盆休み。

田舎での3日間。

仕事に忙殺され、気力を使い果たした心身に短時間で英気を養うには、精神が望む方向に的確にマインドをトリップさせないと…と、

そのために飛んで行くべき心象世界をできるだけ明確にイメージして、そのために必要な行動やアイテムを選定する。

1つは、ソローのこの本。

 

 

人里を離れ、森の中の湖のほとりで暮らした哲人の思考。

ソローの意識に共鳴すると、良い感じで俗世を離れて自然の中に飛んで行けるので助かる。

 

夏真っ盛りのこの時期のリアルな自然は蒸し暑いし蚊がいるし、いろいろと大変だけど、

エアコンの効いた部屋で自然を横目に読む「森の生活」は、ストレスゼロで意識を大自然の中へと連れて行ってくれる。

意識を的確に望むところにトリップさせること。

そう。

 

僕が田舎に帰ることで期待しているのは、都会では絶対に得られないある種のフィーリングを得ることだ。

そして、今回の帰省でそれが一番成されたと感じたのは、

実家周辺の路地を1人で深夜徘徊することによってだった。

深夜1時。

何も目指さずに、何者にも成ろうとせずに、ただ日々暮らしを営む人達だけが住むこの路地の夜の静けさは独特だ。

 

自分の中に最近足りてなかった何かがたっぷりと満たされていく。

上を見上げると山の稜線と、その上には星空が広がっている。

 

深夜1時の廃墟。

時間が流れることなく堆積していってるような、この感覚がたまらない。

 

しばらく歩くと意識は勝手にスイッチして、普段とは全く違う精神状態になる。

移動距離は問題ではない。

フィーリングを研ぎ澄ませば、時間と意識だけを使って普段では絶対に行けない世界を旅することができる。

 

癒される…。

浮かんできた言葉をスマホにメモする。

『夜を恐れることなく、背景に押しやることもなく、

夜の美質を引き出して一緒に遊べる人間は魅力的だ。』

誰がということではなく、きっとそうなのだろう。

恐れることなく変な人で行きましょう。

どこまでも歩いていけそうな気がした。

 

偉大さに触れる

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東京での仕事を全て終えて、品川駅でお土産を買おうとパウンドケーキを見ていたら、

「オレンジのケーキが人気ですよ」と店員のお姉さんが微笑みかけてきた。

その笑顔が自然な思いやりに溢れていて気持ちが良くて、思わずこちらの表情も緩む。

すると「食べてみられますか?」と奥からラップにくるんだ試食用のケーキを出してきてくれた。

その行動を支える意図の透明なこと。清々しいこと。

手にケーキを乗せてもらって、それを食べながらうんうんと適当な返事していたら、

「今でしたら、なんたら…(忘れた)ティーと一緒に食べて頂いたりしたら良いかと思います。」って。

正直オレンジのケーキの味はあまり好みじゃなかったけど、もうそんなことはどうでもええわ!

俺はお姉さんの勧めるものを、お姉さんの仕事の尊さを称えるために買うよ!

俺はお姉さんの在り方の偉大さをこのパウンドケーキとともに食うよ!

という熱い気持ちになって今、特に好きでもないオレンジのパウンドケーキを持って大阪に帰っている…。

人の「偉大さ」とは何なんだろう…とか考えながら帰っている。

どうやらそれは年齢や職種や収入には全く関係が無いらしく、

ほどけた心から自然に溢れてくるその人の存在のエッセンスのようなもので。

それに触れてしまうともう僕らは抵抗のしようがない。

ただ祝福するだけの存在となる。

光を当てる

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2月3月と続いた断捨離月間を終えて、4月を健康月間にしようと考えたのは3月の健康診断の結果が悪かったから。

血液検査の結果、「肝機能障害」とか「糖質異常」とか「糖代謝異常」とか書かれてる。

うーん。「異常」とか「障害」とか言うの、怖いから止めてほしいですよね…。

で、診断も「要観察」とか「要指導」を飛び越えて「要医療」になってるし…。

そこまで言われるとスルーできないですよね。(去年はスルーした)

ここは一度しっかりと健康に意識向けるタイミングなんだろうなと思って4月を健康月間にしようと思ったわけです。

そう決めてからは大好きな甘いものを控え、大好きな脂っこいものを控え、適度に運動したりしながら過ごしておりました。

で、今日再度病院に行ってきました。

医師からは「病気というわけではないけど生活改善が必要ですね。栄養指導を受けてから数カ月後に採血してみますか?」と言われたのだけど、

「ここ一ヶ月くらい意識して生活していたので、今日採血してどんなものか見てみたいです」と伝えると、「そうしましょう」となって。

血液を取られ、その検査結果を待っている間にお姉さんから栄養指導を受けて、

「そんな感じで食事を意識していただいて、また次回の結果を見ながらやって行きましょう!」と言われて、はい!僕やります!みたいな気持ちになり(笑)

その後、再度医師のところに行き今回の血液検査の結果を見せてもらうと、かなり改善していた。

肝臓系の数値が適正な値に落ちつき、悪玉コレステロールの数値はまだ高いけどだいぶ減っている。

嬉しい。

この感じ好きだな。

何であれ、努力したら分かりやすく数値で結果が出るものって楽しいですよね。

ハマりそうな感覚…。もっと頑張って、毎月でも血液検査受けてみたいくらいだ。

なんなら皆の血液データ持ち寄ってあーだこーだ言う、「血液データから生活を見つめ直す会」を開催したいくらいだ。

とか考えてたら医師からは「その生活されてるようでしたら大丈夫ですね。受診はもう良いですよ。」って、

え?いや…。栄養士のお姉さんと二人三脚で頑張る感じの流れも無くなる…?と、若干うろたえつつ(笑)

そんなこんなで、良くも悪くも病院のお世話にならなくて済むことになりました。

今日お姉さんから言われて決めたことを決意表明として書いておくと。

1)完食の甘いものをやめる。(食べたくなったら有機シリアルに)

2)全体的に野菜を摂る量を増やす。

2)肉や脂っこいものはほどほどに。可能なら魚に変える。

3)歩く量を増やすなど有酸素運動の量を増やす。

うん…。

めっちゃ普通のことドヤ顔で語ってる感がある(笑)

まあ、普通が大事だし難しいんですよね。

無理しても続かないだろうし我慢したら反動が来るだろうから、

甘いものにしろ脂っこいものにしろこれまで惰性で食べていた分を止めて、喜びを感じられる分は今まで通り食べるようにして、あとは運動量を増やして行こうと思います。

ここでも大切なのは「意識を行き届かせる」ということですね。

無意識にまかせていた食事というものに一度意識の光を当てて、本当に欲しくて喜びを感じているのか、惰性で食べているのかを明らかにして、惰性の部分は捨てていく。

そんな感じで、また数ヶ月後に献血でもして血液データを取りに行きたいと思います。

みなさんも良かったら健康見直してみてくださいね。

コレステロールについて語り合いましょう(笑)

春と意識

3月も残すところ数日となり、今日は骨休めに1人で実家の相生市に帰省して、1日山に篭っておりました。

たまに人間の意識世界を離れて、山に1人になってリセットしたくなるんですね。

そんな時に実家が程良い田舎にあって程良い高さの山があるのは本当に助かるなと、最近になってそのありがたさを噛み締めております。

子供の頃から慣れ親しんだお気に入りの山があります。

久しぶりに行ってみると、いつもの登山口に新しく看板が立てられてました…。

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天空のパワースポットって…。この色使い…。パワースポットブームに寄せて来たな~と笑ったけど、確かにここはパワースポットなんです。そこらの裏山とは氣が全く違います。

充電される。

でも一番ありがたいのは、平日に行くと自分以外の人がほとんどいないこと。

都市に住んでいると、周りに誰もいないという感覚がとても貴重に感じます。

山に入って1人で歩きだすと、人間の意識世界を離れて自分が野生に帰っていくような、呼吸がしやすくなるようなホッとする感覚。

心が静まってきます。

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立派に生い茂るシダ。

普段意識しなくとも人は周りの人間とエネルギー的に作用し合いながら生きているんですね。

山に入ってしばらく歩いて半径1キロ以内に人が誰もいないような環境に身を置くと、そのことが体感で分かります。

身体から何かがほどけるような感じがあり、自分でも驚くほど心が静かになります。

自分は普段からこの状態に戻りたいがために瞑想を取り入れてるんですね。

でも都会での瞑想ではここまではなかなか難しいですね。

どんなに頑張っても半径20m以内には誰かいますもんね。

でもここでは誰もいない。人の意識が無く自然の木々や鳥たちしかいない。

その子たちと同調することの心地良さ。

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僕は小学生の頃から、学校から帰ると1人で山に入っていく子供だったのですが(危ない子ですね)今思うとそうやって意識のリセットをしていたんですね。

そしてその必要性は大人になった今でも大いにあるようです。

誰もいない休憩所でゴロンと横になって空をながめつつ、ホトトギスやキツツキの声を聞いている。

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ゴロン…。写真が逆になってますけど空見てるので、こんな感じです。

自分の周り半径1キロ(もしかすると5キロ以上?)の範囲内に人間が1人もいないと、自分がどのような意識状態になるのか、

もしかすると生涯に一度もそれを体験したことの無い人も多いのかもしれませんね。

一説には人間のオーラ場は半径15メートル、魂の身体に至っては150メートルにまで広がっていると言われています(僕が見たわけではありませんが…)

だからそこに人がいると意識はしていなくても、都会に住んでいるだけで無意識に多くの人と混ざり合ってるんですね。

ではその混ざり合いが無くなるとどうなるのか?

半径数キロに人間がおらず自然だけがあるような環境では自分の心に何が起こってくるのか。

自分の心がどれほど静まるものなのか。

自分の内側からどのようなフィーリングが現れてくるのか?

この感覚を普通の暮らしの中で何気なく味わえていたのは、もしかすると田舎育ちの人間の特権なのかもしれません。

そんなことを考えつつ登ること数10分。

途中に小さな洞穴があって、その奥に地蔵様が祀られていてます。いつもそこで瞑想するのですが、今回行くとその入口付近にも新しく看板が立っていました。

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なるほど修験者の修行の場だったんですね…(知らなかった(笑))

詳しい説明もありました。

岩の奥の龍脈の近くで修行できるように、修験道の行者によって人間の手で掘られた洞窟なのだとか。

掘られたのが江戸時代以前で、昭和30年ころまでは修験者が常駐していたのだとか。

馴染みある場所に意外に深い歴史があるのは興味深いですね。

神聖な場所なので洞窟の写真はやめておきました。

それは、あなたがご自分で来た時のお楽しみということで(誘ってるのか…!)

だいぶ高くまで登ってきました。

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この感じ。

ホー…ホケキョ!言うてます。

途中、春を見つけたり。

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そして頂上に近づいてくると、天に登った感がすごいです。

この感じ。

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ものすごく登った感がある景色ですけど、実は20分ほどです(笑)標高わずか300m程度でこの達成感を演出してくれる景色は助かってます。

岩場で景色を眺めつつ1人でしばし瞑想。

神よ…!出でよ…!と念じてみる大人の遊び…。

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ぱかーっと空が割れ。ええ雰囲気出してくれます。

しばらく1人でぼーっとしていると縮こまっていた気持ちも大きくなって、リフレッシュしてきます。

都会生活だとこんなに広い空間にまで意識を広げること無いですもんね。

できれば毎月来たいくらいですが、なかなかね。

頂上にはこんなボックスが。

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登山ノートを開いてみるとこんな強者が。

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毎朝登り続けて今朝で3970回目の登頂だったよう。

本当に行者がいるんだな。10年か…。毎朝か…(ちょっとうらやましい)

こんな意識状態から一日を始められるなんて気持ちが良いだろうな。

でも、こういうのは老後の楽しみに取っておこう。

まだまだ仕事で貢献したいし俗世にまみれたいぞ。

さあ下界へ。

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日も傾き、1人帰路についたのでした。

そこに戻れば自分をチューニングし直せる場所があるというのは、ありがたいものですね。

意識の行き届いた空間に身を置く

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朝の陽だまりのそばでヨガと瞑想から1日をスタートさせるという、自分にとっては理想的な生活をしている。

窓からはスカイツリーが見える。

ただし、振り返るとこの部屋は3畳!(笑)

でもこのミニマルな感じがたまらなく気に入っている。

最小限で無駄な物が何もない。

そして同じホテルを一年も使っていると、勝手が分かり動作が馴染んでくる。

どのタイミングでどう動くと無駄が無いのか。

荷物はどこまで解いて、どこに置いていると邪魔にならないのか。

水はどこに置いておくと手に取りやすいのか。

そういったことが意識すること無く最適化され、それを身体が覚えてくれている。

そして最小限の物たちを1つ1つ手にとって丁寧な意識を注ぎ、あるべき場所へと片付けることができる。

身を整えることができる。

この感覚。

どうやら私にとって「満足」という感覚は、何かを豊かに所有するところから来るものではなく、

自分の意識が隅々まで行き届いているという、内面と外側の「一致感」から来ているようだ。

であればやはりそのコツは、最小であることなのだと思う。

意識が行き届く以上の物は持たないこと。

そんな風に生きている人を見ていると、なんとも言えない「清潔感」を感じませんか。

心が清潔であるという在り方が、もしかすると可能なのかもしれません。

毎日自分の意識を隅々まで行き届かせて、その空間の中で生きる。

行き届かないとすれば多すぎるということなので、捨てる。縮小する。

しばらくはそうして整えて行きたいと思います。

人生の果実

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人生において本当に大切なことって何なんだろう?

忙しくなりすぎると、ふとそんな問いが頭をよぎるんですね。

「何をもってして自分はこの人生を十分に生きたと言えるんだろう?」と、これは自分の中に常に置いている問いでもあります。

仕事をすること。成長すること。お金を稼ぐこと。

そういった実利が伴うことを効率的にやっていくことが、世の中的には良いこととされている。

無駄を省いて生産性を可能な限り高めていく。

そうすると確かにそこそこ上手くいく。

確かにこれは面白いゲームだ。

ここ数ヶ月の僕はお金と投資と真剣に向き合ってみようと取り組んできました。そしてそれはそれでやっぱりやっただけの成果が上がるのです。

誰かが言ったように「お金のために働くのではなく、お金を働かすんだよ」と、そういうことができる。

でも、先日、友人とゆるく運動する集まりに参加して、その後に皆で飲んでいて。お互いをいじったり愛でたりしながら会話をしていたら、なんだかやけに楽しいなと。

心がホクホクと温まって、1人で家に帰りながらも「なんだろうこの幸せ感は?」と考えてしまったのです。

人と心おきなく笑い合っていじり合って、でもその奥にちゃんと信頼と愛情が根ざしている感じ。心がのびのびと交流して喜んでいる感じ。

こういった深い充足感や幸福感を味わってしまうと、お金や効率の世界は味気ないものだなって思ってしまうんですね。

いくら稼いでお金があったところで、この体験を買うことはできないなと。

この体験とは何か?というと、それはとても説明の難しいもの。

それはある種の雰囲気であり、関係性とタイミングによって生じた奇跡のようなものであり、保存して値札を付けて売られているようなものではないんですね。

でも何かの活動をしていると、またいつかそういう瞬間が訪れる。

何かを頑張っていると、時々天が祝福しているかのようなあの時間が流れる。

期待したり設計しても上手く行かないのだけど、でも確率は上げることはできるかもしれない。

あの感じをこの人生であと何回体験できるかはわからないけど、あれに焦点を合わそう。あれこそが人生の果実だから。そう思うんですね。

お金、仕事、所有物、ライフスタイル。

人はそういった目に見えて計測できるものに意識を合せるのは得意なんです。別の言い方をすると、意識は目に見えて計測できるものに引っ張られやすい。

インスタやFacebookに載せられそうなものに意識の旗が立ち、目標としてしまう。

でも、目にも見えず所有もできず計測もできないものの中にこそ僕を惹き付ける果実がある。

それは捉えようがないから意識を定めるのが難しい。目標とはなりにくい。

だから僕は言葉を使うんですね。

今こうして書いているように、名前のないものを言語化していくことで「それ」を定義し名前を付けて意識の旗を立てる。

言葉の定義によって捉えどころのない世界を捉えて、更に言葉を尽くすことで豊かに耕すんです。

そうしていくことでやがては迷わなくなります。

外側から来るコマーシャルや無遠慮な他者からの比較や誘惑に、自分の立てた旗を奪われなくなります。外の世界がうるさくても心は穏やかにくつろいでいられます。

これ。揺らぐことのない幸福感の作り方です。

いくらお金を使って何かを手に入れても、その体験に言葉を尽くさなければ、言語化しにくいものを言語化しようとするような負荷をかけなければ、味わいを深めることはできないのです。

その意味で「言葉」には「お金」と同じかそれ以上に、豊かさを出現させる力があります。

そして僕は誰かの中にある、計測できずフィーリングとしてだけある幸福感や充足感、その人が独自に惹き寄せられているけれど、まだ言語化されていない日常の幸福感に、どうやらとても興味があるようなんです。

それを言語化したいと思うんです。

その人の生活の繰り返しに宿った日常の美しい感覚。幸福感。

いつもその人と共にあり、当の本人は当たり前すぎて気付いていないかもしれない感覚。それを言葉にしてすくい上げる。

定義すればそれは自分の中にも取り入れられるのかもしれない。

でもそんなことはどうだっていいのかもしれない。

そんなことより、誰の中にもこんな風な独特な生活の空気感があり、独特の幸福感が秘められているのだと思うと、たまらなくなるんですね。

ああ、この世は豊かだなって。

40年も生きたのに、まだ飽きないなって。

ただ祝福したいのかもしれない。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

『ドキュメント72時間』が面白い

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NHKでやっている『ドキュメント72時間』が面白い。

最近のテレビ番組で一番好きかもしれない。

特定の場所の72時間(つまり3日間)を取材し、そこを訪れる人にインタビューをしているだけの30分番組で、

その場所は、ゲームセンターだったり、肉屋さんだったり、ショッピングモールのフードコートだったり、無人駅だったりする。

そこに訪れている市井の人々にカメラを向けて話を聞くだけなのだけど、それが異様に面白い。

先日放送の番組のタイトルは『黄昏のゴルフ打ちっぱなし』

東京の足立区にある開業40年の老舗の「打ちっぱなし」が舞台。

24時間営業の打ちっぱなしに訪れる人達にカメラを向ける。

そこには一見すると普通の人達の、様々な物語が垣間見える。

夜中に熱心に一人で打ち続ける女性に声をかけると、子育て中の主婦で、家族が寝静まってから夜中に一人でストレス解消のために打ちに来るのだとか。

朝の4時まで一人で黙々と打って帰っていった。

そして早朝から打ちに来た80歳の福々しいおじいさん。

「いやー。ありがたいね。」と上機嫌。

自分は小学生の頃には母の元を離れて丁稚に出て、夜にお母さんが恋しくて寂しくて毎晩泣いていた。今でもそのことを思い出すと涙が出ると、実際に涙を溢れさせながら語る。

でも、それが今では自分の車でゴルフを打ちに来れるまでになった。豊かになった。ありがたい。ありがたい。

80歳になっても、まだ飛距離が伸びるんだよと語る。

またカメラは違った人にフォーカスする。

夕暮れ時の場内で、打つこともなく椅子に座って遠くを見ている男性がいる。

声をかけると、「高校生の息子が最近ぼくと一緒にいてくれなくて」と寂しそうに笑う。

男性は韓国人だと言う。

日本人の妻と韓国人の自分との間に生まれた息子。

高校生になって、日本と韓国の間で引き裂かれているという。

日韓の仲が悪くなったことで余計になのか、最近自分と一緒にいたがらない。

この打ちっぱなしにはそういう人がいっぱいいるんじゃないかな、と語る。

玉を打ちにくるんじゃなくて、家に居場所が無いからここに来ている人もいっぱいいると思いますよ。

たった30分の番組でさらりと見せてくれる、市井の人々の人生の奥行きと広がりに、思わず唸る。

それ以外にも、離婚した元妻と離れて暮らす娘と、「元家族」としてコースを回るのが夢だという男性。

バブルの頃から1000万は使ってきただろうと言う団塊の世代の男性。

クラブセットをプレゼントしてからゴルフにハマってしまったという50代のカップル。

市井の人が普通に生きている日常の手触り。

でもどこにも普通なんてありはしない。

突出した人のドキュメンタリーも面白いけど、普通に暮らしている人たちの決して普通では収まりきらない日常のリアリティにはまた違った感慨がある。

パラレルに展開している人それぞれの人生と現在。

それにいつも心を打たれる。

意図的な演出や意味付けを排して、素材のままの切り抜こうとしているドキュメンタリー精神も素晴らしい。

みなさんも是非、見てみてください。

物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。