秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

遠くて近い


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海外に住んでいる友人から、たまにメールが届く。

今日はイランに来ていますと、テヘランの町並みの写真付きで。

絵葉書でももらった気分で、異国の写真を見て彼女の日常を思う。

でもこの友人、よく考えると生涯に2,3回しかお会いしたことがない。

メールのやり取りだってここ数年の内に5回ほどだ。

でも、僕の心のなかにちゃんと居場所がある。

なぜだろう?

彼女の人との関わり方にとても丁寧な、昔の日本人が他者に持っていたような敬意が感じられるからだろうか。

それとも日本とテヘランと遠く離れていることが、ある深さの心の結びつきにリアリティを与えてくれているのだろうか。

あるいは、お互いの人生に向き合う姿勢や、心の内に持っている静けさの質が似ているのかもしれない。

いずれにせよ、若いころにはできなかったこういう距離での人との関わりがとても清々しくて心地よい。

歳を重ねるにつれて、こんな風に自分の心の中の辺境に住まわせて、時々お互いを気にかけるような大切な人が増えていくのだろうか。

だとしたら、それはとても豊かなこと。

 

折り重なった時間を旅する


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先日、友人の結婚式に京都に来て。

その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、

夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。

少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。

歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。

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風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。

思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。

その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。

その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。

うつしよ=写し世

この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。

京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。

あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、

ここが古都であることの凄さを思い知る。

現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。

そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。

さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。

そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。

それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。

なんという雅な世界だろうか。

不意に遠くで花火が上がる。

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僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。

ここではない何処かへ行くためのツール

最近の執筆活動の中で随分助けられていて、無くてはならない存在になりつつあるのがこの本。

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天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

モーツァルト、フロイト、カフカ、トーマス・マン、ピカソ、サルトル、アシモフ、ナボコフ、イエーツ、フェリーニ、マルクス、サティ、などなど。

歴史に残る小説家や画家、作曲家、映画監督など、161人の創作のための習慣ばかりをピックアップした本。

1人につき2、3ページで紹介されている。

読んでみると分かるけど、朝型の人もいれば夜型の人もいる。

立って書く人も入れば、完全にベッドに横になって器用に書いていた人(カポーティ)もいる。

散歩を習慣にする人が多いが、酒や煙草で健康を蝕みながら書いていた人(J・P・サルトルなど)もいる。

***

最近なぜか朝型人間になっている私は、目が覚めると朝日の入る部屋で机に向かい、バロックミュージックを流して、まずはこの本を手に取るようにしている。(文章にすると、なんだかとてつもなくカッコ付けてる感があるが…(笑))

ペラペラとページをめくりながら何人かの創作習慣を読んでいるうちに、自然に文章を書く気分になってくる。

偉人達の創作現場で繰り広げられたであろう、決して派手ではない日々の時間に想像力を広げていると、自分の日々のルーティンと向き合うことがそれほど嫌ではなくなってくる。

そうやって本を読んだ後に入っていく集中モードがある種独特で、日本的な集合意識からするりと抜け出したような軽さがあって、とても気に入っている。

意識が自由で、言葉が流れやすくなるのだ。

だから、常にデスクの上にこの本を置いて、疲れたらパラパラと読むようにしている。

こうやって自分の状態管理をしているわけだ。

このようにある特定の意識状態にチューニングして、いつでもその想念世界を呼び出すせるようにするには、

いくつかの要素を固定することがポイントになる。

まず1つは場所。

どこで仕事をするかによって、そこで受ける氣の質が固定される。

方角、窓や太陽との位置関係。それらによって微妙に感覚が変わる。

試しにいろんな場所で仕事をしてみると、この仕事はこの場所が合う、というような特徴が分かってくるものだ。

そして固定するべきもう1つの要素が時刻。

午前中には午前中、夜には夜にうってつけの仕事がある。

そして同じ午前中でも細かく感じてみると、微妙に違う。

例えば私にとって掃除は、朝の氣の中でやると宇宙と調和したような正解感があるが、それは早朝ではない。

9時~12時くらいがぴったり来る。

それ以上早い時間は身体を動かすよりも、意識を静かに内向させるような静謐な空気感がある。それは創作のためのものだ。

外側の世界がその時に発している氣の質と、自分の仕事を調和させると、かなり深い(こういう言い方が許されるならば「スピリチュアルな」)充足が得られる。

仕事をすることで体力は消耗するのだが、気持ちは充足する。

そしてもう1つ使えるツールが音楽。

その時に必要な想念世界に意識をチューニングするのに、音楽はお手軽かつパワフルなツールだ。

アーティストによって召喚できる世界の波長が違うので、自分に今必要な波長を持ったアーティストを選んで意識を調整することができる。

更にもう1つが、先に上げたように「本」だ。

『天才たちの日課』を読んで海外の偉人の習慣に触れることで、日本の集合意識から抜けだして、偉人達の創作の世界に意識を結んだように、

本から得られる世界観と氣を借りることができる。

そうすると、独特のリズムを持った言葉が流れてくるし、書くことを通じてその世界の氣質を文章に反映させて、それを読者に届けることができる。

妙なこと言っているように聞こえるかもしれないが、そのような人生の作り方もあるのだ。

場所、時刻、音楽、本、などを使って氣と想念世界をコラージュのように織りなすことで、独自の意識場を作り、その中で仕事をする。

そうすると、その場の感覚がやがて形になって現実生活に立ち現れる。

大切なのはある独特なフィーリングを長期的に保ち続けるための方法とツールを持つこと。

ここではないどこかへと行くためのツールだ。

あなたはどうだろうか。

あなたが内的に静かに研ぎ澄まされて充足するような、特別なフィーリングに入っていくには、

どこで、どんな時間に、どのような音楽が合っていて、そしてどのような本がその世界に招待してくれているのだろうか。

先人達の偉大な作品が、様々な想念世界への門を開いていてくれる。

そしてあなたが望めば、その世界に行ってそこの氣を受けて仕事をすることができる。

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

この本は本当に清々しいほどにクリエイティブな氣を発する本なので、文章を書く人やなにかしらの創作の習慣を作りたいと思う人にはお勧めします。

3つアップしました

ボツにしていた日記を3つアップしました。

東京滞在の際の日記です。

マクド的優しさ

 

マクド的異文化交流

代々木のマクドであった話ばかりですが、マクド三部作とかにならないことを祈ります(笑)

移動するといろんな出来事に遭遇して面白いですよね。

そして

みんな秘境を目指している

あなたにとっての開拓して行きたい秘境とはどこだろう?

というお話です。

 

SPANOVA 〜電子的で有機的な音楽

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学生の頃から、かれこれ20年近く活動を追いかけているミュージシャン、SPANOVA。

2人兄弟で作る音の広がりが好きで、(今は知らないけど、昔は?)神奈川の田舎の普通の平屋をスタジオにして、そこのお風呂やリビングでレコーディングしたり(いわゆる宅録)

その日常的な音の広がりと脱力するような浮遊感のあるコード進行が好きで、

そして、その単なる平屋を『Daily Planet Studio』と名付ける、その言語センスまでも好きで、気付けばかれこれ20年。

寡作な彼らだが丁寧に創作を続けている、その真摯な姿勢まで、大好きだ。

そんなSPANOVAから、年に一度くらいしか届ないメールマガジンが来た。なんと2日連続で来た!(僕のメルマガの発行頻度はSPANOVAには勝ちたいと常々思っている)

久しぶりにニューアルバムをリリースするのだとか。

調べてみると5年ぶりだ。

そして、普通のCDではなく、Bandcampというサイトでダウンロード販売? 800円?

↓ ここで試聴できます。

https://spanova1.bandcamp.com/album/se-da-soda-3

って思ったら、試聴どころか全曲フルで聴けるやん…?

しかも一曲目再生したら、自動的に最後の曲まで連続再生されるんだけど…?

全曲フルで聴いてみて気に入ったら買ってね。800円です。ってことか…。

商売っ気無さ過ぎるやろ!(笑)

ということで、そんな愛すべき彼らです。

良かったら是非聴いてみてくださいね。

https://spanova1.bandcamp.com/album/se-da-soda-3

空間を喚起する力が強い音で、ボケーっと身を任せて想像力を広げていると至福です。

※追記 どうやら一定期間過ぎると聴けなくなるようです。なるほど…、買うか。

民泊が可能にする世界

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airbnbで日本地図とともに宿泊先を見ていると、民泊ってほんと面白い。

https://www.airbnb.jp/

僕は観光地のように、「どう見せるか?(魅せるか?)」みたいな自意識のある風景にはあまり興味が無くて、

むしろただ生活している人たちの日々の営みにどうしても出て来る、人間の無意識のような景色に触れてみたいと思っている。

だからホテルの無い場所、つまり普通であれば素通りする他なかった場所に宿泊できるようになることは、本当にワクワクする。

僕が触れてみたかった生活の無意識に触れられるのではないか?

土地との新しい関わり方が可能になるのではないか?

そう思う。

宿泊先を見ていると、おもてなし精神に溢れた家族が普通の一軒家の一室を貸し出していたりする。

子供が独立して子供部屋が空いてるし、私達も刺激が無くなって淋しいから旅行者でも受け入れてみようかしら…。そんな家族の声が聞こえてきそうだ。

それはつまり、その家に普通に暮らしているホストとの交流なんかも期待できるということ。

その土地に根ざして生きた人たちの感性や人生にも触れられるかもしれない。

これは新しい形で人と人が出会う可能性が出てきたということだ。

そして、それは僕が「旅」というものに求めるもののエッセンスそのものである。

面白い時代が来た。

例えば僕の仕事の場合、地方でのカウンセリングのための拠点や、執筆のためのお気に入りの場所などを見つけて、定期的にそこを訪れて親睦を深めていくと、その土地土地にちょっとした家族のようなつながりが出来ていくかもしれない。

逆に家を持つ側はどうだろうか?

田舎に家を建てる時、あらかじめゲスト用に部屋を作っておくと、そこをアメリカ人や中国人や韓国人や日本人が訪れ、少しの会話と文化的な刺激を残していくだろう。

それは家の中に世界とつながるメディアを持つということ。

部屋がメディアになり多様な文化に触れることができる。

それは教育的にも面白い刺激となり、子どもたちはそれを通じて新しい感性を育てるだろう。

あるいは、そんな旅行者達の中に家族のように大切に思える人が出て来るかもしれない。

なんという広がり。

自由さ。

こういった人間の流動性は「家族」というものに対する感性を変容させていくだろうし、日本人が長年縛られてきた「イエ」という呪縛をゆっくりと解体していくかもしれない。

つながりたかったけどつながりようのなかった人間のある側面を、テクノロジーが簡単につなごうとしている。

いやはや面白い。

僕らの心はますます自由になっていく。

気高さに向かわせる力

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名探偵コナンが遭遇した殺人事件が600件を超えたそうだ。(なんという高校生だ!)

でも毎週毎週、謎は解かれなければならないし、そのためには誰かが死なないといけない、という大人の事情があるのだろう。

そして登場人物の中でおおよそ最も平凡そうな人間こそが真犯人で、

その犯人だって本当は悪い人ではなく、誰か愛する人の無念を晴らすためにやむなく人を殺めるに至ったのだろう。

面白いもので、僕らはそういった物語、復讐劇に一定のリアリティーを持って受け入れている。

騙されて会社を乗っ取られて自殺した父のための復讐とか。

大学の研究成果を教授に奪われて、失意の中で自殺した恋人のための復讐とか。

フィクションの世界では必ずと言っていいほど出てくる、こういった王道な復讐劇だが、考えてみると現実のニュースではまず聞くことが無い。

あるのは痴情のもつれか、金銭のもつれか、動機なき殺人ばかりだ。

心無い若者の無免許運転によって愛する我が子を轢き殺された父親も、いじめによって子供を失った母親も、憤りの先に復讐に手を染めることはまず無い。

なぜだろうか?

愛する我が子を失ったという現実を、痛みを、どのように解釈して、どのような意味を与えてその不条理を自分の運命として飲み下したのだろうか。

その痛みを受け入れるプロセスで人はどこに連れて行かれるのだろうか?

私は心理療法家として、多くの人のその受け入れのプロセスに立ち会う。

クライアント自身が現実に直面し、苦痛と悲しみにあえぎ、涙を流すのをただ横に寄り添いながら、見守っている。

その瞬間の激しい感情の震えと凝縮されたエネルギー場に立ち現れるのは、非常に神聖で気高い感覚だ。

人生のエッセンスに触れているような確かな手応えのようなもの。

不謹慎ではあるが、心が洗われるようにさえ感じることがある。

そんな場面に一緒に立ち会っていて思うのは、不条理な現実に直面すると、人は自然に偉大さに向かって引き上げられるようにできているということ。

出来事を自分事として直視し、痛みや悲しみを味わい、自分の運命として受け入れる中に、神々しいと言って良いほどの癒やしが立ち現われ、

人間はそこで気高さに向かって引き上げられる。

そうなると、もう事件の前と同じ自分ではいられない。

私的な自分から公的な自分となり、社会に何かを与えることで事件に気高い意味を賦与しようとする。

そこには、フィクションとは全く違う力が働いている。

(どうやら人間にはそんな力があるようだよ、コナンくん。)

どれだけ人が亡くなろうと、どんな凄惨な事件が起ころうと、社会はますますきれいになっていく。

それは間違いないようだ。

*******

7つの習慣メルマガにてご案内していた、以下の記事のURLが間違っていました。すみません。

こちらに正しいリンクを貼っておきます。

生きられなかった『柔らかい優しさ』の物語

良質な集中力を持続させるための食事の管理

ん? 最近なんかお腹ゆるいな…、下痢? 特に変なもの食べてないのにな…。と思っていたのだけど、気づいた。

最近お気に入りのこの有機シリアル。

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よく見ると、High Fiberと書いている…。

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食物繊維たっぷり?

よく見ると裏面にちゃんと書いてある。

☆一度に大量を食べ過ぎると、一時的にお腹がゆるくなることがありますのでご注意ください。

「お、おう…。」ってなった(笑)

でも、このシリアルが最近の僕のお気に入りで、僕の今のパフォーマンスを支えている秘密なのです。

ちょっと、文体が変わるけど違った角度から書きますね。

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最近の僕の関心事は、いかにして良質な集中力を長く持続させるか?という点。

それは言い換えると、いかに良質な休息を取るか?ということでもある。

そこで行き着いた1つの方法が、休息やエネルギー管理についての著作を持つトニー・シュワルツの提供する方法。

3時間おきにお腹に何かを入れることで、血糖値を保ち続けるという方法だ。

通常の朝昼晩の3食だと、途中で血糖値が下がり疲労してくる。

そこで食事を摂ると今度は血糖値が上昇しすぎて、それを落とすためにインスリンが分泌されて身体に必要以上の負担を強いることになる。

食事によって余計に疲れる。

そして一日3食だと一度の食事量が多くなるために、どうしても胃に負担がかかり、消化中は副交感神経が優位になり(眠くなり)エネルギーが著しく低下することとなる。

だから、大切なのは理想的な間食を取ること。

そこで朝昼晩の1日3食から5食に増やして一回の食事量を減らすような食事スタイルに変えたいなと前々から思っていたし、実際にそれらしいことをやったこともあった。

そうすると確かに意識が明晰で良い感じがする。

でも、続かない。

なぜか?

面倒くさいのだ。

1日5回も食事の準備をすることは非常に面倒くさい。

そこでコンビニのおにぎりやパンなどを利用するのだが、それらは単なる糖質に過ぎず、身体に良いことしているのか悪いことをしているのか良くわからない。

もっと明らかに身体に良くて栄養があって、手軽な間食はないだろうか?と探し求めて、そして辿り着いたのが先に挙げたシリアルだ。

ナッツやシード(種)やドライフルーツなど天然のものだけでできていて、砂糖などを一切加えていないので、普通のシリアルのようなお菓子感が無い。

ドライフルーツのほのかな甘さで天然のもの特有の深い味わいがあって美味しい。

そして嬉しいのが、適度な歯ごたえがあるために仕事の途中に食べるとムシャムシャ噛むことでストレス解消ができて、食べてる感があることだ。(僕は頭を使うと無性に何か固いものを噛みたくなる)

更に、ちゃんと胃に食べ物が入ってきた手応えもあるので空腹が満たされて腹保ちも良い。

また、種やナッツはGI値が低いので、一気に血糖値を急上昇させずにゆっくりと上げてくれる。

これが身体に優しい。

僕の感覚ではこの血糖値の急上昇を抑えることが、集中力の持続のコツであるように感じている。

そして、「今、自分は身体に良い物を食べてるんだな~」という満足感もある(ここ重要(笑))

更には、便秘の方には便秘の解消にも効果がある。

朝と夕方にこれを食べるようにして以来、そして小腹がすいた時に食べるようにして以来、体調もすこぶる良いし、意識も明晰に保てている。

物事をやり抜こうとする粘りのようなものも出てきたように思う。

今も机の横にこの袋が置いてあって、小腹がすいたらムシャムシャ食べている。

その分、おやつを食べることが無くなったのもありがたい。

僕は食後に何か甘いモノを口に入れたくなるのだけど、食後にこのシリアルを1掴み食べると甘いものの欲求も満たしてくれるようだ。

おかげでお菓子類の一切を止めることができた。

僕のクライアントさんには過酷なオフィスワークで疲労困憊している方が多いが、

頭脳労働されている方で夕方以降に頭の働きが悪くなる方や、疲れが抜けなくなってる方は、

このシリアルを机の側に置いて、小腹が空いたら時折ムシャムシャ食べることを強く(本当に強く)お勧めします。

その分、昼食や夕食の量は抑えましょう。

そして水をこまめに飲みましょう。

それだけでかなり長い時間集中力が続くようになり、頭脳も明晰になるのでお勧めします。


エルサンクジャポン 有機シリアルハイファイバー プレミアム 480g

もう1つ違った種類のもあります。

エルサンクジャポン 有機シリアルビオミューズリープレミアム 480g

こちらは食物繊維推しではないです。

アマゾンのレビューを見ると、高倉健さんがテレビで「80歳になっても活躍できる健康の秘訣は?」と聞かれて、「朝のシリアル」と答えたそうで、その時、食卓にあったのがこのシリアルだったとか。

はい。僕らも80歳まで頑張りましょう。

追記:このシリアル。本当に美味しいし、この記事を書いてから、「買った食べました。本当に美味しいですね!」というような声を何人かから頂きました。

ただ、食べていて残りの2割くらいになると、ドライフルーツが無くなって、味気ないものになります。うさぎの餌みたいです(笑)

ですので、新しいものと上手に混ぜて配分を良くするか。

あるいは、甘さのある他のシリアルと混ぜて食べるようにしてくださいね。

最近の僕は、朝、昼、夕、夜中と全部これにして、夕食だけ普通にご飯を食べるようにしました。

そうすると本当に疲れなくて、夜でもまだ気力が漲っています。

仕事の生産性も著しく上がりました。おすすめです。

追記2:おやつをこれに変えてから、かなり痩せました。ダイエット効果にも良いですね。

おやつを食べたくなったらこれを食べる。甘いモノを取りたくなったらこれを食べる。それだけで我慢すること無く痩せます。

あと、うさぎの餌のようになるのを避けるためには、大きなスプーンでナッツとドライフルーツをバランス良くすくうようにすると、最後までうさぎの餌になることなく美味しいです。

氷室京介 LAST GIGS 後編 忠実であるということ

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以前書いた記事『氷室京介 LAST GIGS 前編 天の采配』の続きです。

氷室京介の引退ライブ『LAST GiGS』に行ってきました。

京セラドーム(旧大阪ドーム)に来るのは何年ぶりでしょうか(たぶん学生の頃にエアロスミスのライブに来て以来20年ぶりくらい)

会場に入り、右往左往しながら自分の座席を見つける。周りは同年代の男性が多い。

開演の時間が近づくに従って徐々に期待が高まって、会場のボルテージが上がっていく感覚がたまらない。

氷室京介を求める数万人がドームの中で巨大な集合意識を形成していて、そのエネルギーに自分を同化させると高揚感がふわっと広がる。気持ちが良い。

なるほどなと思う。

ライブとはこういうことなんだな。

ステージのアーティストが豆粒ほどしか見えなくてもそれは大した問題ではなくて、それよりもそこにいるファンたちの集合意識と溶け合わさり一緒に高揚してアーティストのリズムに合わせて大きな1つになっていくような意識の拡張体験。

それがとても独特なんだな。

そんなことを考えつつ会場で待つ。隣の同年代のお兄さんもそわそわしている。

会場のボルテージが徐々に高まり、皆の手拍子が始まる。

そして高まりきったところで、氷室京介登場。

何事も無いかのように普通に歩いて出てきて、

「おら!行くぞ!大阪ぁー!」とシャウトし、数万人がそれに応え、会場が一気に熱狂し、イントロが成り響く。

こうして20年来のカリスマとようやく場を共有することができたわけだ。

大きなモニターに映し出される彼を見ていると、

どの角度から見ても完璧にカッコ良すぎて、笑いが込み上げてくる。(完璧なものを見ると笑いが出ると言ったのは太宰治か)

なんなのだろう。この人は。

衰えどころか、逆に極まっているのではないか。

数万人をまとめ上げて煽っている姿を見ていると、これは人なのか?という気さえしてくる。

20年以上前の、もはや懐メロと言っても良いはずのBOOWY時代の楽曲が、

『ONLY YOU』や『マリオネット』が、普通に今、現在形でかっこ良い。

なんなのだろう、この人は。

完璧にロックの化身のようになった姿を見て、彼が周りの期待に晒されながらも頑なにBOOWYの再結成を拒んだ(というよりも意にも介さなかった)理由が少し分かったような気がした。

ここまで研ぎ澄ますことが彼の仕事の基準であるならば、それは無理だなと感じた。

自分の心に、過去を懐かしみ友情を尊重するような思いに居場所を与えるならば、

それはもはや「人間の仕事」となり、このような神々しい研ぎ澄まされた存在感は纏えないだろう。

彼が忠誠を誓っているのは、そこでは無かった。

氷室京介というイデア(ロックの表す美学のようなもの)に忠実であろうとするならば、自分と同じ過去を過ごした同郷のギタリストと共にステージに立つことは不可能だ。

その途端に人に戻る。

なるほどなぁと思う。

ある種の意識の在り方を選ぶということは、他の何かを選ばないということでもある。

そして明確に意志を持って選択し、忠誠を誓う者は神に愛される。

そんな忠実な人間にイデアは(神の形象と言っても良いし、アーキタイプと言っても良い)は立ち現われる。

彼はずっと忠実だったのだろう。

「引退する」と言うはずが、思わず「氷室京介を卒業する」と言ってしまったことを彼は、「脳が酸欠でおかしなことを言ってしまった」と言い訳していたが、

それは意外に正確な表現なのではないかと思う。

氷室京介という存在がつながっていたイデアに忠誠を誓ってきたが、もう肉体的限界によってそれを維持できなくなったということなのだろう。

それにしても30年だ。

普通はそんな風には生きられない。

10代後半くらいに、彼と同じイデアに魅せられて忠誠を誓う人はたくさんいる。

生涯それ(ロック的なるもの)を生きてやると、決意の固さを自分に示すように身体に消せないタトゥーを刻んだりする。

でも数年もすれば、そこから脱落してタトゥーを隠して(あるいは消して)生きていく。

社会に迎合せねば食えない現実に直面するし、青年期を過ぎるとまた違ったアーキタイプが自分の中から出現する。

なのに彼は50歳過ぎでも、氷室京介という特別際立ったイデアを生き続けている。

普通はこんな風にはいられない。

50を過ぎると皆「この歳だけどロックをやっています」というエクスキューズが見え隠れする。

ステージングが過去の自分のパロディであるかのような自意識が入り込む。

昔の曲は懐メロとなり、その時代を一緒に経験したオーディエンスとの共感と慰労の温かさが入り込む。(それはそれで素敵だが)

でも、氷室京介は30年前の曲ですら現在形で体現し、そこにノスタルジーの入り込む隙が全く与えない。

まったく、お見事としか言いようが無い。

帰り際、胸の辺りが温かくなっていることに気づいた。

それは不思議な感覚だけど、よく知っている感覚だった。

イデアに忠誠を誓い、それを30年以上体現したカリスマの薫陶を確かに受け取った気がした。

バロック

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様々なジャンルの音楽をジュークボックスのように自動再生してくれるAmazonプライムミュージック。

これを聴くようになって、自分でも意外なほどバロック音楽ばかり聞いている。

バッハとか、教会音楽とか、聖歌とかそんな感じのもの。

では何かお気に入りの曲があるかというと、特に無い…(笑)

CDで買いたいくらい惹かれる曲があるかというと、それも無い。

というか1つ1つの曲は、特に良いとも思わない。

人間的な欲望を駆り立てるような曲は1つもない。

でも、聞くと波長がとても良く合うし、気持ちがいい。

だから欲しくはないし良くもないけど、ずっと聞いている。

これは不思議な感覚だ。

そう。それはちょうど大自然のようなもの。

所有しようなんて気持ちは起こさせない。

でも触れていると心の深い所が落ち着くし喜ぶ。

きっと大自然と同じように、人間的ではない神々の領域に属する創造物なのだろうな。

聴いていると普段の人間的な意識の活動から離れることができて、少し心が自由になる。

隣の芝は青い

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昨日の夜中の2時。

憂鬱映画を見るにうってつけな気分になって(笑)テレビのブラウザ上でAmazonプライムビデオのコンテンツを物色していたら、

『さよなら渓谷』という日本映画が、今の自分にぴったりな気がして、

実際に観てみたら自分の好みドンピシャ。

男女のどうしようもない業の深さと不可解さ…という大好物のテーマで、大満足で眠りについたわけだけど、

それにしても思うのです。

DVDを所有するわけでもレンタルするわけでもなく、家にいながらにして数千のタイトルの中から今の自分の気分にピッタリの映画を選んで、即再生することができる、このAmazonのサービス。

それがプライム会員は無料(つまり月額にすると325円)って、本当にそれで良いのだろうか。

更に最近お気に入りのAmazonMusicというサービス。

こちらも同じくプライム会員は無料で100万曲超の楽曲を再生し放題。

気分に応じたジャンルを選択すると自動的に楽曲が再生され、好みでなかったらスキップすると新しい曲に変わる。

良いと感じた曲はいいねボタンを押すと、その人の好みを学習して再生リストが最適化されていく。

気に入ったタイトルをストックして後で再生することもできる。

(ちなみに今、ボサノバのジャンルで再生していたら、聞き覚えのある日本人ヴォーカルで、誰?と思ってジャケットを見たら初音ミクだった(笑))

Amazon恐ろしいですね。

TSUTAYAやGEOのビジネスモデルを無効にしてしまう力がある。

そういえば先日TSUTAYAに行くと、CD旧作レンタルを10枚1000円のサービスをやっていて、安すぎるやろ!と驚いたのだけど、

店員に聞いてみると、一時的なキャンペーンではなくこれからもずっとこの値段で行くと言う。

TSUTAYAは映画などのDVDの旧作もいつのまにか100円になっているし、GEOは50円だったり。

ここまで来ると、本当にソフトを販売するようなビジネスモデルは終わったのだなと思う。

映画や音楽は人類共有のリソースとなり、月々数100円で一生かけても消費しきれない量の作品にアクセスできる。

えらい時代になりました。

所有するということが、どんどん滑稽な行為のようになっていくのだろうか。

もはや自分のハードディスクにすら所有する必要が無くなってしまった。

そして今、これを書いている部屋の窓から見える景色、僕の心を癒やしてくれる木々の緑も僕の庭のものではなく、他所の家の庭の木々なのだから(笑)

『隣の芝は青い』ということわざの持つ意味はとても20世紀的なもので、

21世紀を生きる僕らは、自分の庭など持たずとも隣の芝の青さを堪能できることを隣人に感謝しつつ、

全ての庭仕事から開放された心の自由を楽しむ、というのが正しい在り方なのかもしれない。

自分で所有するという古い観念からするりと脱皮してみれば、僕らは既にとてつもなく豊かなのだということに気付く。

 

マクド的異文化交流

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また先日のマクド(マクドナルドの大阪表現)にて、

出入り口付近でパソコン仕事をしていたら、押しボタン式の自動ドアの外で、外人さん親子がなにやら奮闘している。

何ごとかと思って見たら、押しボタンで自動ドアを開けて外に出たはよいけど、ドアが閉まらなくて困っている様子。

どうやら律儀に自動ドアを締めるためにボタンを押しているようだ(笑)

子供が押しても押しても閉まらない(そら自動ドアやからな)

今度は、どいてみなさい、って感じでお父さんが強めに押しだした(笑)

でもドアは空いたまま(そらそこに立ってると閉まらない)

僕と目が合うと外人さんは困り果てた顔で、お手上げ的なジェスチャー ┐(‘д’)┌

その一瞬で僕の脳内は熱いくらいにフル回転し、これまで英語勉強に注いだ全ての努力の結晶をここに示すが如く勢いで単語をひねり出し、ネイティブさながらの発音でこう言った。

「Automatic!! … …

……や…から、勝手にうぃ~~んって閉まりますYO!」

「wow!(゚∀゚)」

外人親子は目からうろこ的な表情をして帰って行った。

うん。

なんだろう…。

若干敗北感が…(笑)

両手でうぃ~~んて自動ドアが閉まるジェスチャーした所が一番伝わった気がする(笑)

 

 

マクド的優しさ

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やっちまった…。

東京滞在のマクド(マクドナルドの大阪的表現)にて、

セット食べながらスマホいじってたんだけど、コーヒーを置いた所がトレーの縁のところで、

ばしゃーん!って盛大にこぼしてしまった。

周りの人にはかかってない! セーフ!

でもキャリーケースのジッパーのところにこぼれてしまった、やばい!

中のワイシャツが濡れたらシミになる。それは困る! と一瞬で判断して、

慌ててカウンターに行って雑巾を求めたら、

「いえいえ。こちらで拭きますので、大丈夫ですよ(^^)」っておばさん、

ちゃうねん。

「急ぎで拭くものが欲しいんです。これ使っていいですか?」と、カウンターにおいてあった布巾を握って言うと、

「すみません(^^)ダメなんです。」

ダメなのか!!

「すぐに行きますので(^^)」

いやいやいや。まじかー。

とりあえず紙ナフキンを取ったら、2枚で紙切れ!(笑)

うおー!

仕方がない。

その2枚でひとまずジッパーのとこだけ拭いて、中を確認したら中までは滲みてなさそう。セーフ。

そしておばさん。すぐに来て、

「大丈夫ですか~(^^) 後はやりますんで、席移ってくださって大丈夫ですよ。

これも新しいのご用意しますね。」

って、僕のほぼ食べ終えたトレーを持って行こうとする。

「いやいや。大丈夫ですよ。ほとんど食べ終えてますんで」

「いえいえ。新しいのご用意します。大丈夫です(^^)」って満面の笑み!?

「いや。こっちが大丈夫で…。あぁ…」

持っていかれる(笑)

そもそも別にポテトとか濡れてなかったし、ほぼ完食してたんだけど…。

そして、山盛りのポテトとなみなみと注がれたコーヒーが入ったトレーを用意されて、(ハンバーガーはそのまま)

「はい。どうぞ。ごゆっくり(^^)」

「いや。ほんと、すみません。ありがとうございます(^_^;)」

というわけで今、満腹の僕の目の前には山盛りのポテトとコーヒーがある…。

何故かコーヒーのフレッシュに至っては新しいの2個くれている(笑)

なんなんだろう。このマクド的優しさ…。

重い…(笑)

そして新しく座った席の正面には、80過ぎであろうお婆さんがドストエフスキーみたいな苦悩の表情で頭を抱えて塞ぎこんでいる。

なんなんだ。

なんなんだ東京。

優しいのか厳しいのか。

チューニング難しすぎるわ!