AIに仕事を奪われた未来

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最近AIが仕事を奪うというテーマだったり、AIが人間の知能を超える『シンギュラリティ』なる言葉が話題ですね。

でも、その人間を超えることの論拠って、人間の頭脳の総体をAIの知能が超えるということだけど、

そもそも、それって人間というものの本質を「知性」や「脳」だと捉えているってことですよね。

だとすればその人間観がそもそも貧しいのではないか、と思うんです。

人間の本質は脳ではない。

人間は、脳や手足を持った「肉体」という道具に宿った「霊魂」です。

その霊と魂から「良心」や「意図」や、「芸術」の「真善美」という感覚であったり「反省」する力が現れてくると言われています。

脳はそれを外に出力する際に使う道具なんですね。

書家の書いた「書」には、その手の動きに宿った「氣の流れ」が保存されています。だからそれを見ると、ピシッと心が整うような迫力と正解感がある。

その形はAIにもコピーできるけど、新しく「氣」を扱って書を書くことはできるだろうか? AIが作り出したアートに、見る者の姿勢を正すような「氣」や迫力は宿るだろうか。

そういうところに人間を人間たらしめる本質があるように思うんですね。

だからAIが人間の道具としての機能を超えたからといって「人間そのもの」を超えたことにはならないし、そもそも機能を超えるということであえれば、それは既に十分に成されていますよね。

人間の走るスピードなんてはるか昔に自動車に負けているし、腕力だって機械に負けてるし、脳の情報処理能力も計算スピードも記憶力もコンピュータにはかなわない。

などと、そんな話を友人としていたら、

「違うよ。私がAIを怖いと言ってるのは、AIを持ったロボットに霊魂が宿るようになるのが怖いってこと。」

と言い出した。

え!? どういうこと?

「例えば神様がいるとして、人間の霊魂を地上に下ろす時に、人間の脳や肉体よりもAIやロボットの方が優れてたら、そっちに下ろすでしょ?」

え? そうなん!? 神様そうなん? その発想斬新やな…(笑)

「だから、怖いんよ~。」

怖いのか…?

人間とは何にでも恐れを見出すものなんだなと、逆に感心したのでした。

***

以前、主催している勉強会でAIが仕事を奪う未来について、皆の未来イメージを語り合うみたいな時間を持ったのだけど、その時気づいたのは、

今現在、他者や社会に対して不安や怖れを持っている人は、AIの活躍する未来にも不安を持つようで、

逆に今が幸せで他者を信頼している人は、AIに対してもポジティブで明るい未来を想像しているということ。

当たり前の話だけど、今の心の不安と安心の配分をAIのある未来に投影しているだけで、

であれば本当の問題はAIが作る未来にあるのではなく、今この瞬間にも自分の心に居座っている「不安」の方なのですね。

AIは関係無い。

解決すべきは、今現在の脳や神経の中をデフォルトモードで走っている「不安」なのです。

****

未来は確かにAIによって今ある多くの知的労働が失われるでしょう。

そしてAIという資本を持っている一部の資本家に富が集中して、一時的に格差が極限まで拡大してバランスを崩すでしょう。

でも、そうやって普通の人の仕事が無くなって食べていけないような社会。大多数が不幸な社会というものは、一部の富める資本家にとっても不幸なものだと気付き、やがては富を再分配する仕組みができていきますよね。

更に言うと、仕事を失うことの怖れとは、実は周りの皆には仕事があるのに自分にだけそれが無いことの、アイデンティティや自尊心の痛みにすぎず、

6割方が失業している社会で失業することは、それほど怖いことではないですよね。

みんな仕事無しで昼間から遊んでるんだったら、私も仕事やめよかな…くらいのものです。

あとは、できれば周りのみんなよりちょっとだけ後に失業したいという、セコい考えがあるくらいです(笑)

でも、それは大した問題じゃない。

そういう意味で、AIに仕事を奪われるという問題があるとして、

その問題の本質は、自尊心を仕事に結びつけていることの問題であったり、集中する富を得た人が、苦労して得た富を再分配する時に感じる喪失の痛みという問題であったり、

他社と競争して勝者がその報酬として富を得るという社会構造の根底にある、「競争心」が癒えていないことの問題であったりするわけです。

つまり、問題は人間の心の癒やしにあるのです。

そこさえ解消できていれば、AIが仕事を肩代わりしてくれる未来を、恐怖ではなく恩恵として受け取ることもできるはずです。

ようやく人類が労働から解放されるわけですからね。人類の長年夢です。

仕事はもはや労働でなく、自己実現の活動の1つであり、クリエイティブな遊びとなるかもしれません。

問題はそれを可能にするテクノロジーの進化に、人間の精神の進化が追いつけるかどうかですね。

人類の歴史とともにあり今も集合的無意識の領域に残っている貧困や侵略や奪い合いの痛み、執着の歴史を浄化して、今ある豊かさを信じられるかどうか。

そういう問題なんですね。(良かった。僕の仕事はちょっとだけ後まで残りそうだ…(笑))

そして、そこに向かう途中で、「AIに仕事を奪われるから備えておかないと大変ですよ!」などと恐怖を煽って、学習教材や投資商品を売る人たちが必ず出てきますからね(笑)そこは上手にスルーしましょう。

恐怖を煽られる時には、それによって何かを売って得する人たちがいるってことを良く知っておいてくださいね。

ということで、早くAI進化して、仕事して欲しいですよね。

労働から開放してくれないかな。僕はいつでもウェルカムなんだけどな。

その時はみなさん、魚釣りでもしながら、和歌を詠むっていう遊びをしましょうね(笑)

あと、皆それぞれが書いたシロウト小説をお互いに読んで感想を言い合うっていう、恥ずかしい遊びもしましょう(笑)

その時はよろしく!

サイバーエージェントの株主総会に参加してきました


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先日、サイバーエージェントから株主総会の案内が届いていて(実は株はもう売却してしまっていたのだけど…)

その日程が奇跡的に東京滞在の1日目で、しかも仕事が始まる前の空き時間だということで、行って参りました。

ちょうど先日、アメブロ(サイバーエージェントが運営)で書いている子育てブログにログインできなくなり、

管理者と何度もやり取りする中で1ユーザーに丁寧に対応してくれる姿勢に感動して、それ以来CA社には気持ち的にかなり肩入れしていました。

総会は渋谷の道玄坂にあるホテルで開催されるとあり、行ってみると、でっかくてすごくお金の匂いのする(笑)ホテルがそびえ立っておりました。

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気分良いですね(笑)

200株しか持ってなかったくせに、(そして下げトレンドに入った瞬間に売却してしまったくせに、)しっかり株主風を吹かせてきましたよ。

受付を済ませ(これが噂に聞くキラキラ女子社員か!とか思いつつ)、おみやげを受け取り、控室ではコーヒーでおもてなしされ、そこで業績の概況の資料に目を通す…よりも、株主ってこんな感じの人達なんだ…という人間観察をしている方が面白かったです。

平日の昼間に開催されるということもあるのだろうけど、お年を召された方が多くて、現役で働いている方や、やり手なトレーダーのような理知的な雰囲気を持つ人はあまりいませんでした。

一言で言って、「農家」という感じ。

なるほど、株主総会に時間を使って、経営陣や業績と対話しながら気長に株の上昇を待つという投資スタンスは確かに農業に似ているのかもしれない。

いわゆるトレーダーとは違う人種なのでしょう。

それにしてもいちいちおしゃれ。


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キャラクターを形どったペットボトル。

そして大きな会場で待つこと数分。

経営陣が現れました。藤田社長も。

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藤田社長は、僕と同世代で見るからに内向型なんですね。そこにすごく親近感を感じていて、応援したくなります。

どっしりと迫力のある経営者というわけでもなく、パワーあふれる感じでもない。

でも『明日会議』などの仕組みを作って社員のアイデアをしっかりと拾い上げる。可能性のある企画には子会社を作って、若い世代を社長に就任させて人材を育成する。

きれいに右肩上がりの業績を作りながら、そこで満足せずに次の柱となるメディア事業にもしっかりと投資していく。

人材への投資、事業への投資、そして緻密にデータを取って修正を加えながら、着々と事業計画を形にしていく。

そのバランス感覚や先見性、堅実さが素晴らしいんですね。

せっかく藤田社長と生で向き合えるチャンスなので、ここは質問しておこうと、僕も手を上げて質問をぶつけてきました。

「abemaTVの使い勝手のスムーズさには驚きましたが、そのスムーズさによってコマーシャツを飛ばすということもやりやすく感じた。

UIの秀逸さが逆に広告枠の価値を毀損する恐れはないか?」

みたいなことを問うと

「私も最初それを懸念しておりしたが…。」という前置きをした上で、

「蓋を開けてみると、abemaTVのCMの視聴完了率は80%と非常に高い。どうやらザッピングで番組を変えるという仕組みは逆に…(省略!)」というような答えが帰ってきました。

こうして一度やり取りをしてしまうとダメですね。

CA社への肩入れ度合いが一気に増し増しで、よし!俺、株買うわ!(・∀・)となります。一旦落ち着こう。

こういった上場企業に対して自分はどのようなスタンスで関わるのか? というのは考えてみる価値のあるテーマだなと思っています。

ドラッカーの言うように、会社とは「社会の公器」であるので、いろんな関わり方が可能です。

いち消費者として会社のサービスの恩恵を受けるというスタンス。

しっかり受験勉強して一流大学を出て就職活動してCA社に入社することで、一緒にビジョンを形にする。つまり人的資本として会社に参加するというスタンス。

あるいは、こういう経営者にあこがれるなぁと、自分も起業して経営者として、参考材料にするというスタンス。

でも僕はどれにもあまり興味がないんですね。

やっぱり経営計画や業績のフィードバックをもらいながら、時に質問や意見をしながら株主として関わるというスタンスがすごくしっくり来る。(農家のように)

人的資本ではなく金融資本として会社に参加するということですね。

誰もが身体は1つしか持っていないので、人的資本には限界がある。私の場合、心理療法家であるという人生以外に無い。

でも金融資本は増やせるので、CA社だけではなくいろんな会社に投資して、自分の分身をその会社の中に生きさせることはできる。

投資をすることで痛みも負うこともある分だけ、喜びもリアルに味わうことができる。

そのように自分の感覚を社会に拡張していく。

そして自分には生きられなかった「大企業に参加して運命を捧げる」という人生を、金融資本として体験する。

それが自分にとっては最もしっくり来る企業との距離感だなと思いました。

どこまでもフリーの個人として活動しながら、「会社」というものには金融資本として参加する。

そんな自分には株主総会は、ご褒美的な楽しいイベントだなと思いました。

またタイミングがあったら参加したいです。

今後もCA社応援しつつ藤田社長のビジョンがどこまで形にできるのか、楽しみに見守って行こうと思います。

氣で答え合わせする

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久しぶりに大阪にて、住吉大社に足を運んだ。

以前は毎月のように充電しに通っていたのだけれど、

今年に入って毎月東京に行くようになってからは明治神宮や神田明神など、東京の神社に参拝するようになって、結果、ホームであるはずの住吉大社からは足が遠のいていた。

そうなるとダメですね。

行ってみると気付きます。

鳥居をくぐった瞬間から、身体の内側が大喜びしている。

「うふぁ~。これこれ。これこれ。これこれ(・∀・)」って、その喜びっぷりに一人苦笑する。

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なるほど、自分は中心感覚から随分離れていたんだなと、氣に触れてみるとよく分かる。

頭で考えて導き出す「正しさ」というものは確かにあるけれど、それを折り重ねてたどり着くのは「天の仕事」ではなく「人の仕事」

同じことを言っていても、同じものを形にしていても、そこに流れている氣が違う。

それはごまかしの効かないもの。

結局のところ定期的に氣で答え合わせしないと、天の創造の中心からは離れていくものなんだな。

一人反省する。

境内でしばらく神氣に触れていると、身体がゆっくりと自動操縦モードになり、歩きだす。自分はそれにただ従う。

どこを歩き、どこに向かい、何を見るのか、流れに委ねる。

そうすると同じ場所を小さくくるくると回転したり、あるスポットでしばらくじっとしていたり、外から見ているとまったくもって怪しい人なのだけど、

そうすることで、1つ1つ氣線のもつれがほどけていくのが体感でわかる。

あるポイントにしばらく立ち、そこの氣がある程度たまると、ある方向に動き、ある形の円を描き、そうやって流れに従うことで、もつれが解けていき、自分の中の気の流れが整っていく。

滞っていたものがほどけて心が整っていく。心が晴れていく。

心とは氣の流れでもある。

最近は日常にあまりタオの流れを感じられなくなっていたのだけれど、その感覚が取り戻されて心に正解感が出てくる。

人生とは、この流れとの共同創造なのだった。

流れを無視して自分だけで頑張ると(我を張ると)消耗する上に、まず上手く行かない。

人生にこの流れを感じ続けること。そして招き入れること。

老子がタオと呼んだもの。それとの関係。

人生創造の極意。

最近は人として生き過ぎていたな…。と妙な反省が心に浮かんだ。

そしてある場所でじっとしていると、ようやく今の自分を広い心で俯瞰できてくることに気づく。

それは、ここ最近ずっと求めていた感覚だった。

住吉大社にある時間意識に触れてようやくその感覚が手に入った気がした。

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やっぱり僕にはここの氣が原点で、定期的にここに戻って調整しないと中心感覚からズレていくのだなと、改めて思った。

その後も勝手に動く身体にまかせていると、鳥居をくぐって住吉大社の外にある大歳社に足が向かう。

その手前の浅沢社には畳の休憩所があり、そこでしばらく目を閉じて瞑想していると、心地よいことこの上なし。

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雑多な日常の意識を離れて、悠久の時間意識の中に入って行ける。

心の中の足りていなかったところが満たされていく。

生き返る。

本当に、現世的な人間をやりすぎてたんだな。

もっと大胆に浮世離れしないと、良い仕事はできないな(笑)

変な話だけど、本当にそう思う。

最後に太鼓橋から堀を覗くと、でっかいカメが甲羅干しをしていて思わず笑った。

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あんたさん。もう12月やからな…。

あんたさんに今必要なのは、冬眠やと思うぞ!

まったく愛おしいやつだ。

さあ、充電完了、心機一転。

流れから離れないように意識しつつ、大阪でも東京でも良い仕事をしようではないか!と、一人静かに決意した。

『ドキュメント72時間』が面白い

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NHKでやっている『ドキュメント72時間』が面白い。

最近のテレビ番組で一番好きかもしれない。

特定の場所の72時間(つまり3日間)を取材し、そこを訪れる人にインタビューをしているだけの30分番組で、

その場所は、ゲームセンターだったり、肉屋さんだったり、ショッピングモールのフードコートだったり、無人駅だったりする。

そこに訪れている市井の人々にカメラを向けて話を聞くだけなのだけど、それが異様に面白い。

先日放送の番組のタイトルは『黄昏のゴルフ打ちっぱなし』

東京の足立区にある開業40年の老舗の「打ちっぱなし」が舞台。

24時間営業の打ちっぱなしに訪れる人達にカメラを向ける。

そこには一見すると普通の人達の、様々な物語が垣間見える。

夜中に熱心に一人で打ち続ける女性に声をかけると、子育て中の主婦で、家族が寝静まってから夜中に一人でストレス解消のために打ちに来るのだとか。

朝の4時まで一人で黙々と打って帰っていった。

そして早朝から打ちに来た80歳の福々しいおじいさん。

「いやー。ありがたいね。」と上機嫌。

自分は小学生の頃には母の元を離れて丁稚に出て、夜にお母さんが恋しくて寂しくて毎晩泣いていた。今でもそのことを思い出すと涙が出ると、実際に涙を溢れさせながら語る。

でも、それが今では自分の車でゴルフを打ちに来れるまでになった。豊かになった。ありがたい。ありがたい。

80歳になっても、まだ飛距離が伸びるんだよと語る。

またカメラは違った人にフォーカスする。

夕暮れ時の場内で、打つこともなく椅子に座って遠くを見ている男性がいる。

声をかけると、「高校生の息子が最近ぼくと一緒にいてくれなくて」と寂しそうに笑う。

男性は韓国人だと言う。

日本人の妻と韓国人の自分との間に生まれた息子。

高校生になって、日本と韓国の間で引き裂かれているという。

日韓の仲が悪くなったことで余計になのか、最近自分と一緒にいたがらない。

この打ちっぱなしにはそういう人がいっぱいいるんじゃないかな、と語る。

玉を打ちにくるんじゃなくて、家に居場所が無いからここに来ている人もいっぱいいると思いますよ。

たった30分の番組でさらりと見せてくれる、市井の人々の人生の奥行きと広がりに、思わず唸る。

それ以外にも、離婚した元妻と離れて暮らす娘と、「元家族」としてコースを回るのが夢だという男性。

バブルの頃から1000万は使ってきただろうと言う団塊の世代の男性。

クラブセットをプレゼントしてからゴルフにハマってしまったという50代のカップル。

市井の人が普通に生きている日常の手触り。

でもどこにも普通なんてありはしない。

突出した人のドキュメンタリーも面白いけど、普通に暮らしている人たちの決して普通では収まりきらない日常のリアリティにはまた違った感慨がある。

パラレルに展開している人それぞれの人生と現在。

それにいつも心を打たれる。

意図的な演出や意味付けを排して、素材のままの切り抜こうとしているドキュメンタリー精神も素晴らしい。

みなさんも是非、見てみてください。

物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

映画『シンゴジラ』 父的なるものの肯定

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※注意 ネタバレ全開!

この夏、話題になった映画『シン・ゴジラ』について書きたいと思いつつ、なかなか筆が進まないでいた。

あの映画を観て、映画館で嗚咽が出るくらいに号泣して、さらに帰りの電車でも涙が止まらず、自分でも驚いた。

まさか、ゴジラを観て41歳の大人が号泣することになるとは。

そしてその涙は一般的な心理療法で扱うような個人的な感情から来る涙ではなく、

ファミリー・コンステレーションなどの個を超えた深い領域を扱うセラピーで体験する種類の涙だった。

自分自身がなぜ泣いているかもわからないまま、身体の奥底から発作のようなエネルギーを伴って外に溢れ出ようとする涙。

それは僕の個人的な感情から来るものではなく、日本人の集合的無意識から流れ出る涙だった。

だから、自分を通じて流れている涙の源にどんな思いがあるのか。その意味を言葉にしなければと、半ば使命感のようなものにかられながらも、ずっと書けずに来た。

そんな折、ローランド・エメリッヒ監督の『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た。

エメリッヒ監督と言えば、宇宙人が地球侵略に来る『インデペンデンス・デイ』やハリウッド版の『ゴジラ』など、パニック映画の巨匠で、僕はそんなバカで大味な彼の作品が好きだった。

でも、異常気象による地球の危機を描いた『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た時、もうこういった物語にも演出にも乗れなくなっている自分に気付かざるを得なかった。

どうやら僕(ら)の感性は311以降、不可逆的に変化してしまったようだ。

主人公のヒロイズムや家族愛やロマンスを際立たせるためだけに壊れていく地球や都市を、もう以前のようには観ていられなかった。

それはもう背景ではなかった。

ニューヨークの街が為す術もなく壊れ、無名の人があっけなく亡くなって行く中、主人公とヒロインの恋愛が成就していく描写に、心の底から思った。

「お前の恋愛などどうでも良い!」と。

主人公のヒロイズムを際だたせるための背景として、街や人が壊されていく、そんなハリウッド的な遠近法を、もう全く受け付けられなくなっていた。

そして『シン・ゴジラ』とはまさに、そういったハリウッド的な遠近法を反転させた、いわばアンチ・ハリウッド映画として捉えられるべき作品だった。

その反転によって、戦後、そして311以降の日本人の集合的無意識にあるトラウマを癒やし、励ますだけの力を持った作品だった。

ハリウッド映画が、事態の凄惨さを描写するために脇役をバタバタと死なせ、そのコントラストとしてヒーローの活躍を際立たせるのに対し、

シン・ゴジラはたった2名の脇役の命を守るために、ミッションの遂行を躊躇し、タイミングを逃し、結果、ゴジラを完全体に成長させてしまうことになる。

まさに、ハリウッド映画の真逆のことが行われている。

脇役の命を消費することでヒーローの活躍を際立たせるのではなく、

脇役を重んじることでヒーローの不在というテーマがあぶり出される。

それが「シンゴジラ」の選んだ方法だった。

庵野監督はなぜ200人近い有名人をキャストに使いながら、その多くがファンですらどこに登場しているのか分からないような没個性な使い方をしたのか。

なぜ主人公の家族やバックグランドといった物語の感情移入を助けるはずの要素を排除したのか。

そこには、1人の突出したヒーローの物語としてゴジラと対峙することを拒む、アンチ・ハリウッド的な意思が明確に表れている。

ではヒーロー不在の物語の中で、ゴジラを倒したのはいったい誰だったのか? 何だったのか?

それは日本経済の象徴である新幹線であり、高層ビルであり、山手線であり、企業が決死の覚悟で生産した薬品だった。

新幹線がゴジラに突っ込む時。

高層ビルがゴジラに直撃する時。

僕の体は震えて涙が溢れた。

嬉しかった。

あれは戦後71年。

リーダー不在。アメリカの属国。意思決定が遅い。エコノミックアニマルと揶揄されてきた、日本の「父なるもの」への大いなる肯定だった。

決してカッコ良くはない。突出したヒーローもいない。エコノミックアニマルとして馬鹿にされてきた。

でもそうやって父達がコツコツと71年積み上げてきたものの大きさを見よと。

軍事力ではなく新幹線や高層ビルや生産力で戦う、ヒーロー無き対決に込められた肯定。

やっとそれを父なるもの(大切なものを守るもの)として肯定してもらえたことに、涙が止まらなかった。

戦後、日本人の集合的無意識に植え込まれ、僕らの個人的な心のずっと奥で、長い間維持され続けてきた父的なるものへの失望と軽蔑。

それを日本映画の象徴であるゴジラによって再定義し、癒やし、つながり直すことに成功した。少なくとも僕にはそう思えた。

なぜ「シン・ゴジラ」にあれほど多くの人が足を運んだのか。

彼らは何度も同じ映画を観に行くことで、一体自分の中の何を満たしていたのか。それがよく分かる気がした。

あの涙は、長らく喪失したままになっていた父的なるものと、再接続することの感涙であった。

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。

 

人生を再定義して統合する

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先週の土曜は友人の結婚式でした。

(僕の周りはなぜか今、結婚ラッシュ)

新郎新婦のそれぞれが、自分がどのような個人的な歴史を生きて、どのような家系の流れを引き継いできたのか、それを改めて見つめ直し、

親との関係を出来る限り肯定的なものと捉え直し、そして、その2つの流れを皆の前でつなごうとしていました。

参加した結婚式の全てがそうでしたが、誰にとっても、決して手放しに肯定できる人生でも無いし、親でもなかったのでしょう。(人生とはそういうものです)

でも列席される皆に貴重な時間を取って集まってもらって、祝福された時間とするには、可能な限りそれを肯定できるものとして見つめ直し、捉え直すことを迫られる。

おそらく結婚式までは苦悩の日々だったのでしょう。

それを乗り越えて、2人が肩を並べて歩くとき、やっぱり感動しますね。

夫婦として立つとき。

覚悟が備わって良い顔になっている。

結婚式というのは、心理療法的な力を持った儀式なんだと、今では良くわかります。

儀式によって家系の流れを新たに意味を付与し祝福し、改めてつながりを強くする。

そして参列者の全員が2つの家系の結びつきを承認し、新しい家族の誕生を祝い、それが存在できる場所を社会の中に認める。

そうやって、個人的な恋愛による個人的な結びつきでしかなかった2人の関係が社会性を帯び、初めて人は社会的な生き物となるのでしょう。

祝福と覚悟に満ちた良い時間でした。どうぞお幸せに。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

遠くて近い


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海外に住んでいる友人から、たまにメールが届く。

今日はイランに来ていますと、テヘランの町並みの写真付きで。

絵葉書でももらった気分で、異国の写真を見て彼女の日常を思う。

でもこの友人、よく考えると生涯に2,3回しかお会いしたことがない。

メールのやり取りだってここ数年の内に5回ほどだ。

でも、僕の心のなかにちゃんと居場所がある。

なぜだろう?

彼女の人との関わり方にとても丁寧な、昔の日本人が他者に持っていたような敬意が感じられるからだろうか。

それとも日本とテヘランと遠く離れていることが、ある深さの心の結びつきにリアリティを与えてくれているのだろうか。

あるいは、お互いの人生に向き合う姿勢や、心の内に持っている静けさの質が似ているのかもしれない。

いずれにせよ、若いころにはできなかったこういう距離での人との関わりがとても清々しくて心地よい。

歳を重ねるにつれて、こんな風に自分の心の中の辺境に住まわせて、時々お互いを気にかけるような大切な人が増えていくのだろうか。

だとしたら、それはとても豊かなこと。

 

折り重なった時間を旅する


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先日、友人の結婚式に京都に来て。

その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、

夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。

少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。

歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。

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風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。

思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。

その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。

その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。

うつしよ=写し世

この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。

京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。

あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、

ここが古都であることの凄さを思い知る。

現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。

そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。

さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。

そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。

それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。

なんという雅な世界だろうか。

不意に遠くで花火が上がる。

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僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。

ここではない何処かへ行くためのツール

最近の執筆活動の中で随分助けられていて、無くてはならない存在になりつつあるのがこの本。

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天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

モーツァルト、フロイト、カフカ、トーマス・マン、ピカソ、サルトル、アシモフ、ナボコフ、イエーツ、フェリーニ、マルクス、サティ、などなど。

歴史に残る小説家や画家、作曲家、映画監督など、161人の創作のための習慣ばかりをピックアップした本。

1人につき2、3ページで紹介されている。

読んでみると分かるけど、朝型の人もいれば夜型の人もいる。

立って書く人も入れば、完全にベッドに横になって器用に書いていた人(カポーティ)もいる。

散歩を習慣にする人が多いが、酒や煙草で健康を蝕みながら書いていた人(J・P・サルトルなど)もいる。

***

最近なぜか朝型人間になっている私は、目が覚めると朝日の入る部屋で机に向かい、バロックミュージックを流して、まずはこの本を手に取るようにしている。(文章にすると、なんだかとてつもなくカッコ付けてる感があるが…(笑))

ペラペラとページをめくりながら何人かの創作習慣を読んでいるうちに、自然に文章を書く気分になってくる。

偉人達の創作現場で繰り広げられたであろう、決して派手ではない日々の時間に想像力を広げていると、自分の日々のルーティンと向き合うことがそれほど嫌ではなくなってくる。

そうやって本を読んだ後に入っていく集中モードがある種独特で、日本的な集合意識からするりと抜け出したような軽さがあって、とても気に入っている。

意識が自由で、言葉が流れやすくなるのだ。

だから、常にデスクの上にこの本を置いて、疲れたらパラパラと読むようにしている。

こうやって自分の状態管理をしているわけだ。

このようにある特定の意識状態にチューニングして、いつでもその想念世界を呼び出すせるようにするには、

いくつかの要素を固定することがポイントになる。

まず1つは場所。

どこで仕事をするかによって、そこで受ける氣の質が固定される。

方角、窓や太陽との位置関係。それらによって微妙に感覚が変わる。

試しにいろんな場所で仕事をしてみると、この仕事はこの場所が合う、というような特徴が分かってくるものだ。

そして固定するべきもう1つの要素が時刻。

午前中には午前中、夜には夜にうってつけの仕事がある。

そして同じ午前中でも細かく感じてみると、微妙に違う。

例えば私にとって掃除は、朝の氣の中でやると宇宙と調和したような正解感があるが、それは早朝ではない。

9時~12時くらいがぴったり来る。

それ以上早い時間は身体を動かすよりも、意識を静かに内向させるような静謐な空気感がある。それは創作のためのものだ。

外側の世界がその時に発している氣の質と、自分の仕事を調和させると、かなり深い(こういう言い方が許されるならば「スピリチュアルな」)充足が得られる。

仕事をすることで体力は消耗するのだが、気持ちは充足する。

そしてもう1つ使えるツールが音楽。

その時に必要な想念世界に意識をチューニングするのに、音楽はお手軽かつパワフルなツールだ。

アーティストによって召喚できる世界の波長が違うので、自分に今必要な波長を持ったアーティストを選んで意識を調整することができる。

更にもう1つが、先に上げたように「本」だ。

『天才たちの日課』を読んで海外の偉人の習慣に触れることで、日本の集合意識から抜けだして、偉人達の創作の世界に意識を結んだように、

本から得られる世界観と氣を借りることができる。

そうすると、独特のリズムを持った言葉が流れてくるし、書くことを通じてその世界の氣質を文章に反映させて、それを読者に届けることができる。

妙なこと言っているように聞こえるかもしれないが、そのような人生の作り方もあるのだ。

場所、時刻、音楽、本、などを使って氣と想念世界をコラージュのように織りなすことで、独自の意識場を作り、その中で仕事をする。

そうすると、その場の感覚がやがて形になって現実生活に立ち現れる。

大切なのはある独特なフィーリングを長期的に保ち続けるための方法とツールを持つこと。

ここではないどこかへと行くためのツールだ。

あなたはどうだろうか。

あなたが内的に静かに研ぎ澄まされて充足するような、特別なフィーリングに入っていくには、

どこで、どんな時間に、どのような音楽が合っていて、そしてどのような本がその世界に招待してくれているのだろうか。

先人達の偉大な作品が、様々な想念世界への門を開いていてくれる。

そしてあなたが望めば、その世界に行ってそこの氣を受けて仕事をすることができる。

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

この本は本当に清々しいほどにクリエイティブな氣を発する本なので、文章を書く人やなにかしらの創作の習慣を作りたいと思う人にはお勧めします。

3つアップしました

ボツにしていた日記を3つアップしました。

東京滞在の際の日記です。

マクド的優しさ

 

マクド的異文化交流

代々木のマクドであった話ばかりですが、マクド三部作とかにならないことを祈ります(笑)

移動するといろんな出来事に遭遇して面白いですよね。

そして

みんな秘境を目指している

あなたにとっての開拓して行きたい秘境とはどこだろう?

というお話です。