物語を拒む

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ここ数日エネルギーを注いで書いた文章4本が、バックアップミスで消失した…!

そんな失意の中、心理療法家としての最終奥義『ふて寝』というのを使って、ようやく回復した(笑)

夜中に起きてまたゴソゴソと書き直してる。

もう一度、以前と同じ量の愛情とエネルギーを込めて書いている。

修行やな。まるで人生のようだ。

愛情と真心を注いだものがダメになったとしても、恨まず(ふて寝はするけど)被害者の物語も作らず、またもう一度、より一層の愛情と真心を注ぐ。

粛々と進む。

粛々とは、ただあるがままに出来事を見て、そこに意味や物語を与えないこと。

不幸な出来事にも何かしらポジティブな意味を見出して、ポジティブな物語を織り成して力に変えるのが、失意から抜け出すことの王道だろうけど、

僕の感覚だと、物語を拒むとか、意味を付与せず、出来事を素材のまま止める禅的なやり方の方が、仕事は進む気がする。

まあ、偉そうなこと言ってるけど、自分の不精ゆえにMacのメモリーがいっぱいでバックアップが機能しなかっただけやけど…(笑)

バックアップのシステムを見直すという反省と行動を起こしたら、そこに何の意味も付与せず、粛々と行動していく。それが最善な気がする。

ところで、今回は新しいMacBook Proを買って、到着を待っていたタイミングでこのトラブル。

パソコンとか家電って、新しいのに買い変えるタイミングで必ず古いマシンが「もう私のこと捨てるのね!長い間使うだけ使って…。ひどい!」的なリアクションを取る気がするんだけど、これって僕だけ?

あ。今めっちゃいらん意味を付与したな…(笑)

新しいMacが来ても、このMacも捨てずにオフィスに置いて、今後はクラウドを使ってPCは持ち運ばない感じにしてみよっと。

だから機嫌直してよMacBook Airちゃん(いやだからお前の不精ゆえにやな…)

映画『シンゴジラ』 父的なるものの肯定

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※注意 ネタバレ全開!

この夏、話題になった映画『シン・ゴジラ』について書きたいと思いつつ、なかなか筆が進まないでいた。

あの映画を観て、映画館で嗚咽が出るくらいに号泣して、さらに帰りの電車でも涙が止まらず、自分でも驚いた。

まさか、ゴジラを観て41歳の大人が号泣することになるとは。

そしてその涙は一般的な心理療法で扱うような個人的な感情から来る涙ではなく、

ファミリー・コンステレーションなどの個を超えた深い領域を扱うセラピーで体験する種類の涙だった。

自分自身がなぜ泣いているかもわからないまま、身体の奥底から発作のようなエネルギーを伴って外に溢れ出ようとする涙。

それは僕の個人的な感情から来るものではなく、日本人の集合的無意識から流れ出る涙だった。

だから、自分を通じて流れている涙の源にどんな思いがあるのか。その意味を言葉にしなければと、半ば使命感のようなものにかられながらも、ずっと書けずに来た。

そんな折、ローランド・エメリッヒ監督の『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た。

エメリッヒ監督と言えば、宇宙人が地球侵略に来る『インデペンデンス・デイ』やハリウッド版の『ゴジラ』など、パニック映画の巨匠で、僕はそんなバカで大味な彼の作品が好きだった。

でも、異常気象による地球の危機を描いた『デイ・アフター・トゥモロー 』を観た時、もうこういった物語にも演出にも乗れなくなっている自分に気付かざるを得なかった。

どうやら僕(ら)の感性は311以降、不可逆的に変化してしまったようだ。

主人公のヒロイズムや家族愛やロマンスを際立たせるためだけに壊れていく地球や都市を、もう以前のようには観ていられなかった。

それはもう背景ではなかった。

ニューヨークの街が為す術もなく壊れ、無名の人があっけなく亡くなって行く中、主人公とヒロインの恋愛が成就していく描写に、心の底から思った。

「お前の恋愛などどうでも良い!」と。

主人公のヒロイズムを際だたせるための背景として、街や人が壊されていく、そんなハリウッド的な遠近法を、もう全く受け付けられなくなっていた。

そして『シン・ゴジラ』とはまさに、そういったハリウッド的な遠近法を反転させた、いわばアンチ・ハリウッド映画として捉えられるべき作品だった。

その反転によって、戦後、そして311以降の日本人の集合的無意識にあるトラウマを癒やし、励ますだけの力を持った作品だった。

ハリウッド映画が、事態の凄惨さを描写するために脇役をバタバタと死なせ、そのコントラストとしてヒーローの活躍を際立たせるのに対し、

シン・ゴジラはたった2名の脇役の命を守るために、ミッションの遂行を躊躇し、タイミングを逃し、結果、ゴジラを完全体に成長させてしまうことになる。

まさに、ハリウッド映画の真逆のことが行われている。

脇役の命を消費することでヒーローの活躍を際立たせるのではなく、

脇役を重んじることでヒーローの不在というテーマがあぶり出される。

それが「シンゴジラ」の選んだ方法だった。

庵野監督はなぜ200人近い有名人をキャストに使いながら、その多くがファンですらどこに登場しているのか分からないような没個性な使い方をしたのか。

なぜ主人公の家族やバックグランドといった物語の感情移入を助けるはずの要素を排除したのか。

そこには、1人の突出したヒーローの物語としてゴジラと対峙することを拒む、アンチ・ハリウッド的な意思が明確に表れている。

ではヒーロー不在の物語の中で、ゴジラを倒したのはいったい誰だったのか? 何だったのか?

それは日本経済の象徴である新幹線であり、高層ビルであり、山手線であり、企業が決死の覚悟で生産した薬品だった。

新幹線がゴジラに突っ込む時。

高層ビルがゴジラに直撃する時。

僕の体は震えて涙が溢れた。

嬉しかった。

あれは戦後71年。

リーダー不在。アメリカの属国。意思決定が遅い。エコノミックアニマルと揶揄されてきた、日本の「父なるもの」への大いなる肯定だった。

決してカッコ良くはない。突出したヒーローもいない。エコノミックアニマルとして馬鹿にされてきた。

でもそうやって父達がコツコツと71年積み上げてきたものの大きさを見よと。

軍事力ではなく新幹線や高層ビルや生産力で戦う、ヒーロー無き対決に込められた肯定。

やっとそれを父なるもの(大切なものを守るもの)として肯定してもらえたことに、涙が止まらなかった。

戦後、日本人の集合的無意識に植え込まれ、僕らの個人的な心のずっと奥で、長い間維持され続けてきた父的なるものへの失望と軽蔑。

それを日本映画の象徴であるゴジラによって再定義し、癒やし、つながり直すことに成功した。少なくとも僕にはそう思えた。

なぜ「シン・ゴジラ」にあれほど多くの人が足を運んだのか。

彼らは何度も同じ映画を観に行くことで、一体自分の中の何を満たしていたのか。それがよく分かる気がした。

あの涙は、長らく喪失したままになっていた父的なるものと、再接続することの感涙であった。

心はどこまで広がるのだろう

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この土日はとても良い天気でしたね。

久しぶりに雲ひとつ無い秋晴れでした。

私は仕事でしたが、北は北海道、南は福岡、山口などにお住まいのクライアントさんが、大阪までカウンセリングに来られて、想いを吐き出されたり、溜まっていた質問を投げかけられたり、長年の不調の謎が解かれたり、元気になられたりして帰っていかれました。

またそれぞれの日常に戻ってそれぞれの場所で、生活が始まるのですね。

遠く離れた場所に暮らす方とご縁をいただくのは、独特の嬉しさがあるものです。

カウンセリングに来られた方に対してカウンセラーの私ができることの1つは、彼ら、彼女らの居場所を私の心の中に作ることです。

今も私のイメージの中の北海道や福岡や山口には彼ら、彼女らが住んでいて、それぞれの日常を元気に(時に悩みながら)生きています。

そうやって、これまで全く特別な意味も縁も感じなかった土地が、大切な人が住んでいる大切な場所になっていきます。

それは心が広がるような耕されていくような不思議な感覚です。

そして少し思うんです。

人の心にはどれだけの人を住まわせることができるのだろう…って。

限界はあるのかな。

そして沢山の人が住む心と、ほとんど人が住んでいない心では、どのような違いがあるのだろう。

それを確かめてみたいと思うんですね。

少なくとも今の感じだと、人が住めば住むほど色どり豊かに、心は意義の重さを持ちます。

それがなんと言うか、良い感じなんです。

さあ、みなさん。それぞれの場所で今日も素敵な1日を創りましょうね。

 

人生を再定義して統合する

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先週の土曜は友人の結婚式でした。

(僕の周りはなぜか今、結婚ラッシュ)

新郎新婦のそれぞれが、自分がどのような個人的な歴史を生きて、どのような家系の流れを引き継いできたのか、それを改めて見つめ直し、

親との関係を出来る限り肯定的なものと捉え直し、そして、その2つの流れを皆の前でつなごうとしていました。

参加した結婚式の全てがそうでしたが、誰にとっても、決して手放しに肯定できる人生でも無いし、親でもなかったのでしょう。(人生とはそういうものです)

でも列席される皆に貴重な時間を取って集まってもらって、祝福された時間とするには、可能な限りそれを肯定できるものとして見つめ直し、捉え直すことを迫られる。

おそらく結婚式までは苦悩の日々だったのでしょう。

それを乗り越えて、2人が肩を並べて歩くとき、やっぱり感動しますね。

夫婦として立つとき。

覚悟が備わって良い顔になっている。

結婚式というのは、心理療法的な力を持った儀式なんだと、今では良くわかります。

儀式によって家系の流れを新たに意味を付与し祝福し、改めてつながりを強くする。

そして参列者の全員が2つの家系の結びつきを承認し、新しい家族の誕生を祝い、それが存在できる場所を社会の中に認める。

そうやって、個人的な恋愛による個人的な結びつきでしかなかった2人の関係が社会性を帯び、初めて人は社会的な生き物となるのでしょう。

祝福と覚悟に満ちた良い時間でした。どうぞお幸せに。

英雄の旅

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村上龍がTV「カンブリア宮殿」の200回記念だかのインタビューで、

「最も印象に残っている経営者の言葉は?」と聞かれて、

ヤマダ電機の山田社長の言葉で、「小さな街の電気屋をやっていた時が一番幸せでした。」みたいな言葉を挙げていた。

「でも、その頃に戻りたいとは思わないでしょ?」と社長に尋ねると、

「いや。戻りたい」と返ってきたのだそうな。

「今の方が大変だけど戻りたいとは思わない」的な答えを予測して問うたら、「戻りたい」と来た(笑)

びっくりしてしまって、一番印象に残っているのだとか。

その言葉を200回目記念の場で、印象に残った社長の言葉として取り上げる村上龍もどうかと思うが、でもなかなか考えさせられるテーマだな、と思う。

「幸せ」をゴールに人生を設計すると、意外に簡単にそれは手に入るのではないかと思う。

少しの知恵と「足るを知る」ことで、それは可能だ。

でも、チャレンジだったり、自分の力がどこまでの人間なのかを試したいという衝動だったり、人生のゲームとしての側面が、その「幸せ」に退屈し、先に進ませようとする。

そして、それを思う存分戦っている最中も、それによって高みに登ったとしても、ゲームから降りなかったという正解感はあるにせよ、当人が予想していたとおり、その高みにあるのは「幸せ」ではないのだろう。

だから、戻りたいかといえば戻りたい。

正直な言葉だと思う。

人は魂の奥底では、幸せになりたい、などと思っていない。

自分を使い果たしたい、と思っている。

山田社長も、もし過去の小さな電気屋に戻れたとして、しばらくその幸せと安心の上でくつろいだら、また節操もなくチャレンジを始めるのではないかと思う。

あるいは、「ほらやっぱりあの電気屋で十分幸せだった」と、それを言うためだけにでも、ここまで来た意味はあるのではないかと思う。

「あの頃が一番幸せだった」

名誉ある言葉だなと思う。

秋の月

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夏が去って、そこに入れ替わるように秋がやって来て、

朝晩少し肌寒くなってくるこの頃の月は目を見張るほどに明るくて、

あまり熱心に見過ぎると、あっちの世界に行ってしまいそうになりますね。

夏の熱狂が過ぎ去った後の澄み切った空は、月明かりがよく届く。

「お彼岸」とはよく言ったもので、

彼岸=向こう岸

真夏のお盆の時期もあちら側のゲートが開く感じがありますが、お彼岸の時期はそことは違ったゲートが開く感じがありますね。

澄み切った空気と月明かりに照らされて、あちら側に想いをはせるのが、この時期の愉しみ。

彼岸花。

虫の声。

夜の空気。

月明かり。

良いですね。

それが本当に自分に起こったことか、それともどこからか取り込んだイメージなのか分からないけれど、

僕の中には、縁側で月を眺めて祝福していた頃の記憶があって、その時一緒にいたのが誰なのかも分からないけど、

その時の感覚をこの世でも何度も体験したいんですね。

月を見て祝福する時、懐かしいような気持ちになります。

自分の中のどれだけの生が(どれだけの存在が)喜んでいるのか。

それは僕の意識なのかあるいはご先祖の意識なのか、また別の生の記憶なのか。

この季節に月を見るとき、

私たちの中でいくつもの意識が喜び、何かとの絆を感じ、愛おしいような懐かしいような、不思議な気持ちになります。

いったい自分は誰との絆を感じているのだろう。

なぜ懐かしいのだろう。

そうやって問いだけを心に置いておくんです。

無理に答えようとはせずに。

頭を使わず答えを急がず、問いのまま心に置いておくんです。

そうすると人生そのものが、その問いの答えのように展開していきます。

お彼岸が近いですね。

太古の記憶との共振

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ベランダの水瓶で育てている金魚にドジョウに睡蓮。

金魚はご機嫌で泳ぎ(本当に泳ぎを楽しんでいるよう)、そして睡蓮の花が咲いた。

なんだろう。幻惑的と言ってよいほどの美しさ。

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そして最近もトイレに入る度に、そこに置いてあるこの本を読んでいる。

日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―

それによると8月に入ると24節季では「立秋」なのだとか。

そんな馬鹿な…。日本中はうだるような酷暑だよ…と思っていたが、ふとした瞬間に夏的なエネルギーの密度が和らいだような隙間があることに気付く。

そういえば、あんなにうるさかったセミの大合唱が無くなっている。

夜の街を歩いていると過ごしやすさに、風に、秋の気配。

確かに秋が立ち現われようとしているのかもしれない。

それは気圧配置の影響による「暑い」や「涼しい」ではなく、独特の気配をもった「秋」なるものが、その存在を現そうとしているかのよう。

そして生き物たちがそれに呼応し、そのリズムに文句も言わず従っている。

四季、二十四節季、七二候と、季節に対する感性を深めていくに従ってわかるのは、私達の祖先の感性の高さ。

思えば、私達が万葉の時代から祖先より確実に引き継いでいるものの1つとして、

失われること無く変わること無く引き継いでいるものの1つとして『季節』があるのかもしれない。

太古の時代から変わらずあり、祖先たちも見て感じたであろうもの。

空。海。山。月。そして季節。

だからそれらを見て触れて感応することを通じて、私たちは太古の祖先たちとの共有の記憶、共有の知へと入っていける。

自然が私達を癒やすのは、単にそこにマイナスイオンがあるからだけではない。

新しい時代の情報やノイズに晒されて、新しい脳ばかり使っている私たちは、自然に触れることで古い脳を活性化させて全体性を取り戻していける。

それと同時に祖先達と同じ人類としての在り方に心強い共振を得ているのだ。

それは私達を励まし、安心させ、生き返らせる。

最近思うのは、こういった感覚、「祖先たちとの太古の記憶を共有すること」の喜びを無くして、本当の幸せは無いのではないか?ということ。

多くの人は、この時代の豊かさとスピードに疲弊して、こう言う。

「ただ人間らしく生きられればいいんです。」

彼ら、彼女らは「人間らしく」という表現を通じてこの感覚を希求しているのではないだろうか。

そして、更に続けてこう言う。

「でも今の時代、それが一番むずかしいんです。」

確かにそう思える。

でも本当にそうだろうか。

世の中はグローバル化し、競争は激化した。

スピードが加速して、インターネットにより情報化し、計算され尽くしたマーケティング技術により、様々な刺激が私達を欲望させようと駆り立てる。

でも、季節はひとときも私たちから離れたことはない。

私たちに向けて訴え続けている。

そこに心を開けば、いつでも私たちは太古の祖先たちの共感の中に入っていける。

一人ではないとそこは言っている。

遠くて近い


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海外に住んでいる友人から、たまにメールが届く。

今日はイランに来ていますと、テヘランの町並みの写真付きで。

絵葉書でももらった気分で、異国の写真を見て彼女の日常を思う。

でもこの友人、よく考えると生涯に2,3回しかお会いしたことがない。

メールのやり取りだってここ数年の内に5回ほどだ。

でも、僕の心のなかにちゃんと居場所がある。

なぜだろう?

彼女の人との関わり方にとても丁寧な、昔の日本人が他者に持っていたような敬意が感じられるからだろうか。

それとも日本とテヘランと遠く離れていることが、ある深さの心の結びつきにリアリティを与えてくれているのだろうか。

あるいは、お互いの人生に向き合う姿勢や、心の内に持っている静けさの質が似ているのかもしれない。

いずれにせよ、若いころにはできなかったこういう距離での人との関わりがとても清々しくて心地よい。

歳を重ねるにつれて、こんな風に自分の心の中の辺境に住まわせて、時々お互いを気にかけるような大切な人が増えていくのだろうか。

だとしたら、それはとても豊かなこと。

 

折り重なった時間を旅する


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先日、友人の結婚式に京都に来て。

その後、せっかくだから少し京都の街を探索しようかと、久しぶりに再開した友人たちと歩いていると、

夕暮れの鴨川の雰囲気がとても開放的で。

少し下りてみようかとなって、鴨川のほとりを3人で歩いた。

歓楽街のそれとも違った陽気さが満ちていて、川を見てたそがれる人。寝そべる人。川床での宴。

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風情というものを楽しむ文化が、こんなにも自然に現代の町並みと調和しているのかと驚いた。

思えば自分はこういう時間感覚はしばらく離れていたなと。

その後も京都の町をあてもなく探索していると、歩くだけで心が喜び充足されていくのが分かる。

その感覚を味わって、この世が現世(うつしよ)と言われる意味が分かった気がした。

うつしよ=写し世

この現実の世がスクリーンのように映し出されたものであるということは、その大元の目に見えない世界があるということ。

京都はその、あちら側の世界とのつながりがものすごく強い。

あちら側の世界に流れている時間のゆったりとした雅さ、豊かさ。歴史の深さ。それが圧倒的に他の街とは違っていて、

ここが古都であることの凄さを思い知る。

現実の街を歩きながら、僕らは同時にあちら側の神象の世界をも歩いている。

そして、古風な町並みに刺激されて、自分の記憶の中にある祖父母の家の記憶や少年時代の懐かしさ、その個人的な心象世界をも同時に歩いている。

さらには、日本人が原風景として持っている集合無意識的な領域にある記憶にも触れている。

そうやって幾重にも層になった世界に踏み入れながら散策していると、現実感も時間感覚も薄れていく。

それを心は喜び、周りを見渡すと、それは自分だけではないらしく、周りの人たちも何かを祝福しているかのように見える。

なんという雅な世界だろうか。

不意に遠くで花火が上がる。

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僕がこの豊かさをまっすぐに堪能できるのは、ライフステージ的にはもう少し先になりそうだけど、いつかゆっくりと京都につながるあちら側の世界を探索してみたいなと思った。

ここではない何処かへ行くためのツール

最近の執筆活動の中で随分助けられていて、無くてはならない存在になりつつあるのがこの本。

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天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

モーツァルト、フロイト、カフカ、トーマス・マン、ピカソ、サルトル、アシモフ、ナボコフ、イエーツ、フェリーニ、マルクス、サティ、などなど。

歴史に残る小説家や画家、作曲家、映画監督など、161人の創作のための習慣ばかりをピックアップした本。

1人につき2、3ページで紹介されている。

読んでみると分かるけど、朝型の人もいれば夜型の人もいる。

立って書く人も入れば、完全にベッドに横になって器用に書いていた人(カポーティ)もいる。

散歩を習慣にする人が多いが、酒や煙草で健康を蝕みながら書いていた人(J・P・サルトルなど)もいる。

***

最近なぜか朝型人間になっている私は、目が覚めると朝日の入る部屋で机に向かい、バロックミュージックを流して、まずはこの本を手に取るようにしている。(文章にすると、なんだかとてつもなくカッコ付けてる感があるが…(笑))

ペラペラとページをめくりながら何人かの創作習慣を読んでいるうちに、自然に文章を書く気分になってくる。

偉人達の創作現場で繰り広げられたであろう、決して派手ではない日々の時間に想像力を広げていると、自分の日々のルーティンと向き合うことがそれほど嫌ではなくなってくる。

そうやって本を読んだ後に入っていく集中モードがある種独特で、日本的な集合意識からするりと抜け出したような軽さがあって、とても気に入っている。

意識が自由で、言葉が流れやすくなるのだ。

だから、常にデスクの上にこの本を置いて、疲れたらパラパラと読むようにしている。

こうやって自分の状態管理をしているわけだ。

このようにある特定の意識状態にチューニングして、いつでもその想念世界を呼び出すせるようにするには、

いくつかの要素を固定することがポイントになる。

まず1つは場所。

どこで仕事をするかによって、そこで受ける氣の質が固定される。

方角、窓や太陽との位置関係。それらによって微妙に感覚が変わる。

試しにいろんな場所で仕事をしてみると、この仕事はこの場所が合う、というような特徴が分かってくるものだ。

そして固定するべきもう1つの要素が時刻。

午前中には午前中、夜には夜にうってつけの仕事がある。

そして同じ午前中でも細かく感じてみると、微妙に違う。

例えば私にとって掃除は、朝の氣の中でやると宇宙と調和したような正解感があるが、それは早朝ではない。

9時~12時くらいがぴったり来る。

それ以上早い時間は身体を動かすよりも、意識を静かに内向させるような静謐な空気感がある。それは創作のためのものだ。

外側の世界がその時に発している氣の質と、自分の仕事を調和させると、かなり深い(こういう言い方が許されるならば「スピリチュアルな」)充足が得られる。

仕事をすることで体力は消耗するのだが、気持ちは充足する。

そしてもう1つ使えるツールが音楽。

その時に必要な想念世界に意識をチューニングするのに、音楽はお手軽かつパワフルなツールだ。

アーティストによって召喚できる世界の波長が違うので、自分に今必要な波長を持ったアーティストを選んで意識を調整することができる。

更にもう1つが、先に上げたように「本」だ。

『天才たちの日課』を読んで海外の偉人の習慣に触れることで、日本の集合意識から抜けだして、偉人達の創作の世界に意識を結んだように、

本から得られる世界観と氣を借りることができる。

そうすると、独特のリズムを持った言葉が流れてくるし、書くことを通じてその世界の氣質を文章に反映させて、それを読者に届けることができる。

妙なこと言っているように聞こえるかもしれないが、そのような人生の作り方もあるのだ。

場所、時刻、音楽、本、などを使って氣と想念世界をコラージュのように織りなすことで、独自の意識場を作り、その中で仕事をする。

そうすると、その場の感覚がやがて形になって現実生活に立ち現れる。

大切なのはある独特なフィーリングを長期的に保ち続けるための方法とツールを持つこと。

ここではないどこかへと行くためのツールだ。

あなたはどうだろうか。

あなたが内的に静かに研ぎ澄まされて充足するような、特別なフィーリングに入っていくには、

どこで、どんな時間に、どのような音楽が合っていて、そしてどのような本がその世界に招待してくれているのだろうか。

先人達の偉大な作品が、様々な想念世界への門を開いていてくれる。

そしてあなたが望めば、その世界に行ってそこの氣を受けて仕事をすることができる。

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

この本は本当に清々しいほどにクリエイティブな氣を発する本なので、文章を書く人やなにかしらの創作の習慣を作りたいと思う人にはお勧めします。

3つアップしました

ボツにしていた日記を3つアップしました。

東京滞在の際の日記です。

マクド的優しさ

 

マクド的異文化交流

代々木のマクドであった話ばかりですが、マクド三部作とかにならないことを祈ります(笑)

移動するといろんな出来事に遭遇して面白いですよね。

そして

みんな秘境を目指している

あなたにとっての開拓して行きたい秘境とはどこだろう?

というお話です。

 

SPANOVA 〜電子的で有機的な音楽

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学生の頃から、かれこれ20年近く活動を追いかけているミュージシャン、SPANOVA。

2人兄弟で作る音の広がりが好きで、(今は知らないけど、昔は?)神奈川の田舎の普通の平屋をスタジオにして、そこのお風呂やリビングでレコーディングしたり(いわゆる宅録)

その日常的な音の広がりと脱力するような浮遊感のあるコード進行が好きで、

そして、その単なる平屋を『Daily Planet Studio』と名付ける、その言語センスまでも好きで、気付けばかれこれ20年。

寡作な彼らだが丁寧に創作を続けている、その真摯な姿勢まで、大好きだ。

そんなSPANOVAから、年に一度くらいしか届ないメールマガジンが来た。なんと2日連続で来た!(僕のメルマガの発行頻度はSPANOVAには勝ちたいと常々思っている)

久しぶりにニューアルバムをリリースするのだとか。

調べてみると5年ぶりだ。

そして、普通のCDではなく、Bandcampというサイトでダウンロード販売? 800円?

↓ ここで試聴できます。

https://spanova1.bandcamp.com/album/se-da-soda-3

って思ったら、試聴どころか全曲フルで聴けるやん…?

しかも一曲目再生したら、自動的に最後の曲まで連続再生されるんだけど…?

全曲フルで聴いてみて気に入ったら買ってね。800円です。ってことか…。

商売っ気無さ過ぎるやろ!(笑)

ということで、そんな愛すべき彼らです。

良かったら是非聴いてみてくださいね。

https://spanova1.bandcamp.com/album/se-da-soda-3

空間を喚起する力が強い音で、ボケーっと身を任せて想像力を広げていると至福です。

※追記 どうやら一定期間過ぎると聴けなくなるようです。なるほど…、買うか。

民泊が可能にする世界

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airbnbで日本地図とともに宿泊先を見ていると、民泊ってほんと面白い。

https://www.airbnb.jp/

僕は観光地のように、「どう見せるか?(魅せるか?)」みたいな自意識のある風景にはあまり興味が無くて、

むしろただ生活している人たちの日々の営みにどうしても出て来る、人間の無意識のような景色に触れてみたいと思っている。

だからホテルの無い場所、つまり普通であれば素通りする他なかった場所に宿泊できるようになることは、本当にワクワクする。

僕が触れてみたかった生活の無意識に触れられるのではないか?

土地との新しい関わり方が可能になるのではないか?

そう思う。

宿泊先を見ていると、おもてなし精神に溢れた家族が普通の一軒家の一室を貸し出していたりする。

子供が独立して子供部屋が空いてるし、私達も刺激が無くなって淋しいから旅行者でも受け入れてみようかしら…。そんな家族の声が聞こえてきそうだ。

それはつまり、その家に普通に暮らしているホストとの交流なんかも期待できるということ。

その土地に根ざして生きた人たちの感性や人生にも触れられるかもしれない。

これは新しい形で人と人が出会う可能性が出てきたということだ。

そして、それは僕が「旅」というものに求めるもののエッセンスそのものである。

面白い時代が来た。

例えば僕の仕事の場合、地方でのカウンセリングのための拠点や、執筆のためのお気に入りの場所などを見つけて、定期的にそこを訪れて親睦を深めていくと、その土地土地にちょっとした家族のようなつながりが出来ていくかもしれない。

逆に家を持つ側はどうだろうか?

田舎に家を建てる時、あらかじめゲスト用に部屋を作っておくと、そこをアメリカ人や中国人や韓国人や日本人が訪れ、少しの会話と文化的な刺激を残していくだろう。

それは家の中に世界とつながるメディアを持つということ。

部屋がメディアになり多様な文化に触れることができる。

それは教育的にも面白い刺激となり、子どもたちはそれを通じて新しい感性を育てるだろう。

あるいは、そんな旅行者達の中に家族のように大切に思える人が出て来るかもしれない。

なんという広がり。

自由さ。

こういった人間の流動性は「家族」というものに対する感性を変容させていくだろうし、日本人が長年縛られてきた「イエ」という呪縛をゆっくりと解体していくかもしれない。

つながりたかったけどつながりようのなかった人間のある側面を、テクノロジーが簡単につなごうとしている。

いやはや面白い。

僕らの心はますます自由になっていく。

気高さに向かわせる力

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名探偵コナンが遭遇した殺人事件が600件を超えたそうだ。(なんという高校生だ!)

でも毎週毎週、謎は解かれなければならないし、そのためには誰かが死なないといけない、という大人の事情があるのだろう。

そして登場人物の中でおおよそ最も平凡そうな人間こそが真犯人で、

その犯人だって本当は悪い人ではなく、誰か愛する人の無念を晴らすためにやむなく人を殺めるに至ったのだろう。

面白いもので、僕らはそういった物語、復讐劇に一定のリアリティーを持って受け入れている。

騙されて会社を乗っ取られて自殺した父のための復讐とか。

大学の研究成果を教授に奪われて、失意の中で自殺した恋人のための復讐とか。

フィクションの世界では必ずと言っていいほど出てくる、こういった王道な復讐劇だが、考えてみると現実のニュースではまず聞くことが無い。

あるのは痴情のもつれか、金銭のもつれか、動機なき殺人ばかりだ。

心無い若者の無免許運転によって愛する我が子を轢き殺された父親も、いじめによって子供を失った母親も、憤りの先に復讐に手を染めることはまず無い。

なぜだろうか?

愛する我が子を失ったという現実を、痛みを、どのように解釈して、どのような意味を与えてその不条理を自分の運命として飲み下したのだろうか。

その痛みを受け入れるプロセスで人はどこに連れて行かれるのだろうか?

私は心理療法家として、多くの人のその受け入れのプロセスに立ち会う。

クライアント自身が現実に直面し、苦痛と悲しみにあえぎ、涙を流すのをただ横に寄り添いながら、見守っている。

その瞬間の激しい感情の震えと凝縮されたエネルギー場に立ち現れるのは、非常に神聖で気高い感覚だ。

人生のエッセンスに触れているような確かな手応えのようなもの。

不謹慎ではあるが、心が洗われるようにさえ感じることがある。

そんな場面に一緒に立ち会っていて思うのは、不条理な現実に直面すると、人は自然に偉大さに向かって引き上げられるようにできているということ。

出来事を自分事として直視し、痛みや悲しみを味わい、自分の運命として受け入れる中に、神々しいと言って良いほどの癒やしが立ち現われ、

人間はそこで気高さに向かって引き上げられる。

そうなると、もう事件の前と同じ自分ではいられない。

私的な自分から公的な自分となり、社会に何かを与えることで事件に気高い意味を賦与しようとする。

そこには、フィクションとは全く違う力が働いている。

(どうやら人間にはそんな力があるようだよ、コナンくん。)

どれだけ人が亡くなろうと、どんな凄惨な事件が起ころうと、社会はますますきれいになっていく。

それは間違いないようだ。

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7つの習慣メルマガにてご案内していた、以下の記事のURLが間違っていました。すみません。

こちらに正しいリンクを貼っておきます。

生きられなかった『柔らかい優しさ』の物語

良質な集中力を持続させるための食事の管理

ん? 最近なんかお腹ゆるいな…、下痢? 特に変なもの食べてないのにな…。と思っていたのだけど、気づいた。

最近お気に入りのこの有機シリアル。

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よく見ると、High Fiberと書いている…。

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食物繊維たっぷり?

よく見ると裏面にちゃんと書いてある。

☆一度に大量を食べ過ぎると、一時的にお腹がゆるくなることがありますのでご注意ください。

「お、おう…。」ってなった(笑)

でも、このシリアルが最近の僕のお気に入りで、僕の今のパフォーマンスを支えている秘密なのです。

ちょっと、文体が変わるけど違った角度から書きますね。

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最近の僕の関心事は、いかにして良質な集中力を長く持続させるか?という点。

それは言い換えると、いかに良質な休息を取るか?ということでもある。

そこで行き着いた1つの方法が、休息やエネルギー管理についての著作を持つトニー・シュワルツの提供する方法。

3時間おきにお腹に何かを入れることで、血糖値を保ち続けるという方法だ。

通常の朝昼晩の3食だと、途中で血糖値が下がり疲労してくる。

そこで食事を摂ると今度は血糖値が上昇しすぎて、それを落とすためにインスリンが分泌されて身体に必要以上の負担を強いることになる。

食事によって余計に疲れる。

そして一日3食だと一度の食事量が多くなるために、どうしても胃に負担がかかり、消化中は副交感神経が優位になり(眠くなり)エネルギーが著しく低下することとなる。

だから、大切なのは理想的な間食を取ること。

そこで朝昼晩の1日3食から5食に増やして一回の食事量を減らすような食事スタイルに変えたいなと前々から思っていたし、実際にそれらしいことをやったこともあった。

そうすると確かに意識が明晰で良い感じがする。

でも、続かない。

なぜか?

面倒くさいのだ。

1日5回も食事の準備をすることは非常に面倒くさい。

そこでコンビニのおにぎりやパンなどを利用するのだが、それらは単なる糖質に過ぎず、身体に良いことしているのか悪いことをしているのか良くわからない。

もっと明らかに身体に良くて栄養があって、手軽な間食はないだろうか?と探し求めて、そして辿り着いたのが先に挙げたシリアルだ。

ナッツやシード(種)やドライフルーツなど天然のものだけでできていて、砂糖などを一切加えていないので、普通のシリアルのようなお菓子感が無い。

ドライフルーツのほのかな甘さで天然のもの特有の深い味わいがあって美味しい。

そして嬉しいのが、適度な歯ごたえがあるために仕事の途中に食べるとムシャムシャ噛むことでストレス解消ができて、食べてる感があることだ。(僕は頭を使うと無性に何か固いものを噛みたくなる)

更に、ちゃんと胃に食べ物が入ってきた手応えもあるので空腹が満たされて腹保ちも良い。

また、種やナッツはGI値が低いので、一気に血糖値を急上昇させずにゆっくりと上げてくれる。

これが身体に優しい。

僕の感覚ではこの血糖値の急上昇を抑えることが、集中力の持続のコツであるように感じている。

そして、「今、自分は身体に良い物を食べてるんだな~」という満足感もある(ここ重要(笑))

更には、便秘の方には便秘の解消にも効果がある。

朝と夕方にこれを食べるようにして以来、そして小腹がすいた時に食べるようにして以来、体調もすこぶる良いし、意識も明晰に保てている。

物事をやり抜こうとする粘りのようなものも出てきたように思う。

今も机の横にこの袋が置いてあって、小腹がすいたらムシャムシャ食べている。

その分、おやつを食べることが無くなったのもありがたい。

僕は食後に何か甘いモノを口に入れたくなるのだけど、食後にこのシリアルを1掴み食べると甘いものの欲求も満たしてくれるようだ。

おかげでお菓子類の一切を止めることができた。

僕のクライアントさんには過酷なオフィスワークで疲労困憊している方が多いが、

頭脳労働されている方で夕方以降に頭の働きが悪くなる方や、疲れが抜けなくなってる方は、

このシリアルを机の側に置いて、小腹が空いたら時折ムシャムシャ食べることを強く(本当に強く)お勧めします。

その分、昼食や夕食の量は抑えましょう。

そして水をこまめに飲みましょう。

それだけでかなり長い時間集中力が続くようになり、頭脳も明晰になるのでお勧めします。


エルサンクジャポン 有機シリアルハイファイバー プレミアム 480g

もう1つ違った種類のもあります。

エルサンクジャポン 有機シリアルビオミューズリープレミアム 480g

こちらは食物繊維推しではないです。

アマゾンのレビューを見ると、高倉健さんがテレビで「80歳になっても活躍できる健康の秘訣は?」と聞かれて、「朝のシリアル」と答えたそうで、その時、食卓にあったのがこのシリアルだったとか。

はい。僕らも80歳まで頑張りましょう。

追記:このシリアル。本当に美味しいし、この記事を書いてから、「買った食べました。本当に美味しいですね!」というような声を何人かから頂きました。

ただ、食べていて残りの2割くらいになると、ドライフルーツが無くなって、味気ないものになります。うさぎの餌みたいです(笑)

ですので、新しいものと上手に混ぜて配分を良くするか。

あるいは、甘さのある他のシリアルと混ぜて食べるようにしてくださいね。

最近の僕は、朝、昼、夕、夜中と全部これにして、夕食だけ普通にご飯を食べるようにしました。

そうすると本当に疲れなくて、夜でもまだ気力が漲っています。

仕事の生産性も著しく上がりました。おすすめです。

追記2:おやつをこれに変えてから、かなり痩せました。ダイエット効果にも良いですね。

おやつを食べたくなったらこれを食べる。甘いモノを取りたくなったらこれを食べる。それだけで我慢すること無く痩せます。

あと、うさぎの餌のようになるのを避けるためには、大きなスプーンでナッツとドライフルーツをバランス良くすくうようにすると、最後までうさぎの餌になることなく美味しいです。